豊臣秀吉朱印状
(文禄元年)正月19日 / 冊子 529頁
豊臣秀吉が島津忠辰へ、陣普請は兵庫頭義弘の一手として務め、薩州一国を義弘の支配に任せた以上はその意向に従うよう命じる。忠辰と義弘が従来疎遠な間柄であっても、互いに心を合わせて協力するよう求め、詳細は二位法印・石田三成から伝えるとした朱印状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
31 件 (全巻)/ 1–31件を表示
ページ 1 / 1
(文禄元年)正月19日 / 冊子 529頁
豊臣秀吉が島津忠辰へ、陣普請は兵庫頭義弘の一手として務め、薩州一国を義弘の支配に任せた以上はその意向に従うよう命じる。忠辰と義弘が従来疎遠な間柄であっても、互いに心を合わせて協力するよう求め、詳細は二位法印・石田三成から伝えるとした朱印状。
永禄十二年三月十三日 / 冊子 213頁
島津勝久の男子忠辰の系譜記事。初名を忠親、通称を又七郎・兵部大輔、号を亀山・如雲融淵とし、永禄十二年三月十三日に日向国で福永氏を母として生まれた。兄二人が僧となったため末子ながら父家を継ぎ、寛永十三年に死去したとする。
天正19年7月晦日 / 冊子 511頁
島津忠辰が町田出羽守へ、前年に安芸法印の使者が下向し、田畠・浦浜の坪付調査を詳しく済ませたと聞いたことを述べる。指出を添えて進上すべきところ、自身の知行分は安芸法印がすでに提出しているため重ねては出せないと説明し、今回の事情は二人の使者から申し上げるとした書状案。検地・指出提出の実務を伝える。
年月日未詳 / 冊子 529頁
島津忠辰が朝鮮国征伐に際して豊臣秀吉から朱印の教書を与えられたことを記す忠辰譜の記事。次号の朱印状を導入し、忠辰が渡海軍へ組み込まれた経緯を示す。
年月日未詳 / 冊子 529~530頁
島津忠辰が秀吉の厳命で朝鮮へ渡海した後、釜山浦で病を得て軍務に就けず、密かに帰帆しようとして暴風で漂流した経緯を記す。帰国を断念して朝鮮へ戻ったものの、病状が悪化し、八月二十七日に異国の島で四十一歳で死去したという忠辰最期の記事。
年月日未詳 / 冊子 530頁
島津義久が、忠辰は天下に不忠を尽くし、西征で一矢の戦功もなく、かえって外城を狙う謀りをしたため罪を容赦できないと断じた記事。絶家後は子・孫にも再興させないと述べ、忠辰家断絶を正当化する島津家側の論理を示す。
年月日未詳 / 冊子 3~4頁
島津貴久勢が北村で北原氏の偽装退却と伏兵に遭い包囲される。指宿右馬允と竹若丸が殿を務めて戦死し、弟子丸らも討死する一方、北原忠辰が追撃勢を攻め、貴久は退却した。翌日、北原勢が加治木・溝辺へ進出すると大隅衆が迎撃し、敵およそ二十人を討ち取る・生け捕るなどしたが、味方の足軽にも戦死者が出た。
永禄十二年三月十三日・元亀二年 / 冊子 242頁
薩州島津家の略系図。忠辰を島津歳久の猶子とし、永禄十二年三月十三日生、天正十五年四月十七日に十九歳で死去したと注記する。元亀二年に出水で生まれた忠清は義久長女を母とし、兄忠辰の罪により母・母堂・弟忠富・忠豊とともに小西行長へ預けられ、長年肥後に在住したとする。
文禄2年10月2日 / 冊子 751頁
島津義久(龍伯)が、急な上洛の苦労をねぎらい、忠辰の進退をめぐって義久が諸事を画策しているという風聞を否定する。今後も隠し立てする事情はなく、京都で会えれば詳しく説明すると伝える。 島津家中の人事をめぐる疑念を解き、相手を安心させようとした私的な説明書状。
年月日未詳 / 冊子 386頁
薩州島津氏の系譜を図示し、忠辰・忠隣・忠清・忠栄らの系統と、久基、久弘、久近らへの分岐を示す。各人の通称・官途として又太郎、三郎次郎、備前守、越前守、民部少輔、弥市郎などを付記する。
年月日未詳 / 冊子 214~215頁
島津忠栄の譜記事。天正二年に忠清の弟として生まれ、豊臣秀吉の西征時に人質となって細川幽斎に預けられ、小倉に滞在した。忠辰改易後は佐土原で島津豊久を頼り、その姉を妻としたが、関ヶ原後の家臣一揆を逃れて国府へ移り、龍伯公から母の領地を与えられた。高原・飯野・牛根などの地頭を務め、寛永十九年九月晦日に牛根で六十九歳で没した。
年月日未詳 / 冊子 906頁
薩州島津氏の系譜として、義虎の子女、志岐藤右衛門尉親重室となった娘、初忠永らの出生と母系を記す。
年月日未詳 / 冊子 70頁
薩州家の島津義虎が天正十三年七月二十五日に没したことと、子女・妻の系統を簡潔に示す譜記事。 法号や妻が母川上上野守忠克の娘であることなどを掲げ、薩州島津家の親族構成と後継関係を確認できる。
年月日未詳 / 冊子 12~13頁
三月二日の帖佐別府川合戦、同八日の加治木・溝辺・日当山・長濱勢の山田出陣などを回想する。島津忠辰らの奮戦、敵味方の討死、帖佐方面への追撃、北郷・根占・肝付勢の来援を記す。
天正13年6月3日 / 冊子 54~56頁
天正十三年六月三日、島津義久・伊集院忠棟ら多数が参加した長篇の「賦何人連歌」。梅雨の雲と川、水辺の月、松、旅人、秋風、紅葉、雪、春の花など、季節と場所を移しながら句を連ね、百韻規模の文芸世界を形づくる。忠長・忠辰・宗運・可丹・賀雲・久茂・正信ら家中の武将や連歌参加者の名が各句に残り、軍事行動の続く時期にも、連歌が身分を越えた交流・教養・結束の場として機能していたことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 373頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0808
島津綱久の子女を略記し、忠辰について万治元年十月十四日誕生、母は家の女房で、喜入家を相続した旨を記す記事(異本注を付す)。
永禄九年正月十六日 / 冊子 142~144頁
「賦何船」を題として、日新・義久・忠元・珠玄らが詠み継いだ連歌一巻。発句以下、春夏秋冬、恋、旅、述懐、仏道などの景物と心情を取り合わせ、多数の参加者による付合を収める。
元応二年正月八日 / 冊子 472頁
島津忠宗が加冠に際し、西俣又七郎へ忠字を与え、忠辰と名乗らせた加冠状。
(寛文七年)七月十六日・十七日 / 冊子 537頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1218
島津図書が豊臣譜の誤記を指摘する覚書二通。島津又七郎忠豊と島津又太郎忠辰を区別し、出水領主忠辰の父系・朱印と、義弘弟家久の子忠豊の佐土原領・朝鮮戦功・関ヶ原戦死・安芸久雄相続を挙げる。又七改易という誤記の訂正を弘文院へ求めるが、南浦文集等に基づき旧板で世間に流布したものは直せないとの事情があり、今後板本を改めるよう求める。朝鮮感状と太閤朱印写など三通を渡す。七月十六日・十七日付。末尾には二通の正本が江戸上屋敷評定所にあるとの注と、九月八日に持ち下された覚書二通の内との付記がある。
元禄十五年八月十二日 / 冊子 375頁/整理ID 1252
綱貴が元禄十年夏の台命で薩摩・大隅・日向三州と中山国(琉球)の絵図を作り、元禄十五年に完成したとする記事。八月十二日、三州絵図六枚・中山国絵図六枚、計十二枚を留守居赤松甚右衛門則茂、絵図役人藤野休左衛門久賢・本城源四郎忠辰が持参し、幕府評定所へ献納した。勘定頭久貝因幡守と大御目付安藤筑後守が列座して受領した。叙述記事の宛先欄は空欄。
元禄10年2月21日 / 冊子 249~250頁/原整理番号 199の3
永春の出自、婚姻、子孫をたどり、有馬家・小西行長・島津忠辰・新納家などとの関係を記す口上覚。永春の女子で喜入忠政の妻となった者とその子孫、種子島における婚姻・出生・死去、葬送に至る系譜的経緯を詳述する。
天正8年3月14日 / 冊子 329頁/原整理番号 126
天正八年三月十四日当時、島津義虎の家老であった市来加賀守家の短い家譜。家の始めを民部太輔とし、忠辰の家老を務めた市来出雲守が薩州宮城で夭折したこと、市来因幡守、浄光明寺門前に住んだ伝右衛門、父と同格を伝えた伝右衛門へ続き、順仙が医術によって士列に加わったことを記す。
慶長11年正月19日ほか / 冊子 343~346頁/原整理番号 130-33
慶長十一年正月十九日付の切紙名寄帳抄。〔日か〕州久津良村の浮免坪付を省略し、合計一石四斗四合を衆中屋敷として返地したと記し、高岡御支配所印を据える。付随系譜の十四代忠辰は天正十三年生まれで、島津光久から三河守の名を賜り、家久の出馬に十八歳で馬廻として供奉し、寛永三年に上京した。光久の御題「春の雪」・菊・清見関の梅に応じた和歌を載せ、江戸で奏者番、日州代官役、与頭役を務め、寛文元年十二月十七日に七十七歳で没したとする。十五代久堅は元和六年生まれで光久の扈従となり、笹右衛門の名を賜って援役・与頭役を務め、元禄二年十一月十九日に七十歳で没し、子女・養子・婚姻・法名を列記する。十六代家寛は慶安三年生まれで、元禄八年に曾祖父忠宅が改めた源姓川上を上野守久尚へ返進して大蔵姓を再び継承し、援役・与頭役を務め、享保十一年正月二十四日に七十七歳で没したと記す。
年月日未詳 / 冊子 211~216頁/原整理番号 76-1
比志島元祖上総介重賢(入道法橋栄尊)の二男盛忠を祖とし、重賢から譲られた薩摩国満家院内西俣名主職を後裔が相伝した源家西俣氏の系図。久盛・義時の筑前笠崎異国番、義定への貞和四年道鑑公御書、義光への応永十八年久豊公御書など、名主職・所領・軍役を証する文書の伝来先も記す。義村に実子がなかったため蒲生彦太郎清冬の二男を猶子とし、その後に蒲生で永秀庵・観音院(泊瀬山長谷寺)を建立した由緒を載せる。天文二十三年、蒲生茂清が加治木城の肝付兼盛を攻めた際、蒲生氏の類族であった武蔵守盛家父子は岩剣城へ加勢し、池島ヶ原で敗れて同年十月二日に自害した。幼少の清房は母に匿われて菱刈へ逃れ、成長後は島津氏に奉公して諸軍役・大坂出陣に従い、島津家久から鎧一領を与えられ、のち家督を清昌へ譲って清敷地頭となった。後代には瀬口重明二男の盛友を清房妹の遺跡へ入れて西俣氏を称させたこと、孫太郎遺跡を姉が八、九年支配する間に家伝の証書・重物が散逸し、孫兵衛が島津光久から跡職を命じられて万治二年に清敷から鹿児島へ移ったため、所領・跡職だけが安堵されたことを記し、盛武以下の子女・婚姻まで続ける。
元弘3年~正徳5年(系中) / 冊子 532~546頁/原整理番号 29-1
惟宗姓市来氏について、政家・家房から近世の政香・政武らへ至る系譜と家伝を収めた長大な記録。冒頭で市来院郡司・郡司職、母方の大蔵氏、国分・河上・橋口・角・河俣など諸流との関係を示す一方、政家の出自や市来院郡司職の伝承は諸家系図・注進文書だけでは確証できないとして異説を検討する。元弘3年には家親が渋谷・相良両家と結んで植松城を拠点に戦い、伊作大隅守勝久らとの市来院争奪では射戦・城攻め・訴訟・所領処分を重ねたとする。至徳2年には氏久が久豊へ追物射を命じた際、市来右京亮が射手を務め、のち筑前博多へ派遣された記事がある。家清は文明7年に大明神社を再興し、家保は天文7年12月29日に加世田城を守って今泉川で戦死、家利も加世田城防衛で大軍と戦い、西原川窪の奮戦で味方を退かせたと記す。文太郎忠辰は文禄元年から朝鮮へ従軍し、家尚は弓馬・飛弾・連歌・書画に通じ、久豊以来の家伝や国老衆の譜牒を調査して著述を残した。近世部分は家幸・家通・家親らの御目付・小姓・地頭職、知行・扶持、江戸・国元奉公、寺院葬送、改名・家督、複数の妻子・養子・分家を詳細に記し、記録館・史館勤務や文書編纂に携わった政香、家督と家名を継いだ政武までを載せる。
天正十九年十二月二日 / 冊子 6~7頁/原整理番号 173
石田三成が島津義弘に示した人質番組。島津歳久の孫、肝付兼演・新納忠元・島津忠辰・種子島久時・入来院重時らの実子または親類年寄の子を三組に編成し、北郷忠虎・伊集院忠棟・新納忠元の質人三名を常詰とする。本田親貞・町田久倍・平田増宗も各組に加え、必要に応じ一人を京都へ召し置くことなどを定める。天正十九年十二月二日付。
年月日未詳 / 冊子 327頁/原整理番号 1
忠元の幼名安萬丸、次郎四郎・刑部大輔・武蔵守への改名と入道拙齋の称号、出生、父母、死去、子女を記した系譜。忠元は周防守久友の娘を母、清水の忠辰を父とし、大口の専念寺に墓があり、寺への月牌料も載せる。長男の安芸守とその死、忠智・忠行などの分族、娘の婚姻、泰久との関係を記し、大慈寺龍雲老が忠行の孫であることにも触れる。
年月日未詳 / 冊子 208~210頁/原整理番号 75
清和天皇―貞純親王―源経基―満仲以下の清和源氏祖系から、頼光・頼信・頼義・義家らを経て西俣氏へ至る系図。祖先が島津忠久に頼まれて薩摩国満家院に住み、三子をもうけた後に信濃へ帰国し、子の重賢(入道栄尊)が母方の私領を知行したとする。重賢の母方は満家院郡司大蔵氏永平の娘菩薩房で、満家院郡司職は関東下文・京都宣旨・薩摩国守護文書によって相伝されたという。忠範は満家院惣郡司・比志島城主として宮崎警固番を勤め、時範は弘安四年の蒙古襲来時に一族を率いて壱岐島へ渡り防戦し、祐範も郡司職と文書を継承した。盛忠以下は西俣郷領主・西俣城主として続き、義範の建武三年宮方合戦討死と子範平への尊氏感状、義定・義光の軍功と島津貞久・久豊からの御書、義村の永享年中の合戦討死と島津貴久からの感状拝領を記す。
年月日不記(天正二年・文禄二年・慶長五年などは各代の記事) / 冊子 649~652頁/原整理番号 119
藤原姓本城氏の系図。源七郎忠仍は世継ぎのない東郷重尚の養子となって東郷氏を称し、朝鮮出兵に従った後、本姓に復したと記す。島津豊久が関ヶ原で戦死すると、家久の命で忠直が後継に定められたが、忠直の病と家の断絶を受け、女子と喜入家の男子との縁組で豊久の家をつなごうとした経緯を載せる。子孫には東郷家と本城家のいずれに属するかをめぐる議論があり、忠頼は祖父忠直の隠居地・父忠清の出生地を由緒として東郷を改め、菱刈本城を称したという。佐土原・菱刈本城などの居住、島津光久への太刀献上、女子の婚姻や家督の継承も記す。
永禄九年正月十六日 / 冊子 352~355頁/原整理番号 56
永禄九年正月十六日の「賦何船連歌」。日新・義久・忠元らが句を連ね、春雨や雪解けから秋の月、旅と別れ、花、寺、恋などへと題を移して詠む。忠元は十一句を担当し、末尾には参加者の句数をまとめる。最後は波と風の句から山の陰を詠む句へ続けて結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 458~460頁/原整理番号 266-4
記録所による家筋の調書。島津備前守忠清から新納家への系譜、養子・家督相続、所領の継承を史料に照らして検討する。