伊集院忠真書状
(慶長四年)六月十八日 / 冊子 390~391頁
伊集院忠真が川上忠智に、石田三成の使者櫻木平右衛門尉が通路封鎖のため当地に滞留していたので、供を一人添えて上洛させ、中央への取次を求める。長束正家を通じて武庫様(島津義弘)の直書を受け、以前の請文に相違がない旨を申し上げたものの、幸侃成敗後は境目の放火や往来停止に及び、自身まで幸侃と同科に処されるとの風聞があるため、義弘を通じて身上を決着し、一途に和解を整えるよう頼む。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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(慶長四年)六月十八日 / 冊子 390~391頁
伊集院忠真が川上忠智に、石田三成の使者櫻木平右衛門尉が通路封鎖のため当地に滞留していたので、供を一人添えて上洛させ、中央への取次を求める。長束正家を通じて武庫様(島津義弘)の直書を受け、以前の請文に相違がない旨を申し上げたものの、幸侃成敗後は境目の放火や往来停止に及び、自身まで幸侃と同科に処されるとの風聞があるため、義弘を通じて身上を決着し、一途に和解を整えるよう頼む。
永禄十一年二月吉日 / 冊子 191~192頁
川上忠智・有川貞則が、日向国真幸院内の大河平所について皆越六郎左衛門尉に示した連署の知行目録。
閏9月25日 / 冊子 749頁
川上忠智が、又八からの書状を喜び、久四は無事なので心配不要と伝える一方、武庫の身の回りには引き続き油断なく配慮するよう求める。 又一郎久保の不慮の死について、義弘の心中を察して自分も言葉を失うほど困惑していると述べ、その弔意を披露するよう頼む書状。
文禄五年二月廿三日 / 冊子 9~10頁
川上肱枕忠智・新納旅庵長住・伊勢貞昌が井尻豊前房へ、大隅国帖佐の餅田村内にある上前薗・住吉村内浮免・實幸院野宮村内などの田畠を列記し、合計九十九石四斗九升を無親疎に配分するよう命じた領知目録。違乱する者があれば申し出るよう伝える。
(慶長二年)七月十一日 / 冊子 116~117頁
川上肱枕(忠智)が枇山権左衛門尉へ、五月二十三日付書状を七月四日に伏見で拝見したことと、相手が無事に高麗へ着陣したことを喜んだ。宰相の大坂到着後に当地の態勢が整ったこと、石田三成・安宅秀安らとの応接、島津家関係者や在京衆への礼儀・見舞い、家中で不届きがあれば処罰する覚悟などを詳しく報告し、義弘・龍伯らへの披露を求めた書状。
(慶長三年)二月廿二日 / 冊子 196頁
川上三河入道肱枕忠智が伊勢弥九郎へ、島津忠恒の前年十一月三日付書状を正月二十五日に受け取り、朝鮮の陣所が無事で、奥地での軍労と勝利が名誉であると喜んだ書状。龍伯や宰相殿以下の供衆も無事であると報告する。石治少が関東へ赴いたため、島津義弘の書状を伊集院久左衛門尉に持たせ、同人の帰還後に竹内兵部少輔が事情を聞いて渡海する予定だと伝える。
(慶長三年)九月九日 / 冊子 235頁
川上忠智(肱枕)が、前年夏以来の島津義弘の病気と、島津忠恒が医師を招いて療治・祈願に尽くしていることを報告した書状。急使の上洛後、島津義久(竜伯)が伊勢大神宮・多賀大社・愛宕山へ代参や奉納を行い、照門や中性院にも祈祷を依頼した経緯、山田弥九郎の帰還で病状を詳しく把握したこと、護摩祈祷が始まったことを述べ、早期平癒と無事帰朝を願う。
九月廿四日 / 冊子 22頁
川上忠智が、長く借りていた抄物二冊を、詳しく披見したため返却が遅れたことを詫びた書状。源介の便に託して返し、他の書物は自ら持参すると伝える。来春には書写のため再び借りたいので了承を求める。
三月十八日 / 冊子 69頁
川上忠智と新納長任が、長野織部佑に翌日高原へ赴いて京衆を取り持つよう求めた連署書状。隈内で問題が起きないよう随時出向き、馬・人夫を飯野公領から手配し、小林への通路にも配慮するよう指示する。
八月十二日 / 冊子 122頁
川上忠智が神力坊に、相良家との干戈によって交通が不自由な状況を述べ、二度派遣された使僧への謝意を伝えた書状。仲陽以前に清坊中平から申し上げた件は上聴に達したが、国内が戦闘の最中で海陸とも不自由なため実現困難としている。
年月日未詳 / 冊子 733頁
島津光久の八男忠顕(のち北郷忠智)について、明暦三年生まれ、初め島津又助家の後嗣となったが、忠長に嗣子がないため寛文十一年に後継となり都城へ入ったことを記す譜。
文禄4年11月8日 / 冊子 922頁
川上胘枕は、義弘が法華経四千部を読誦した宝積坊へ、飯田内の大日寺前田・後田一段を居住地として与えたと確認する。 後任者を含め永く安堵すべきであり、土地を押領しないよう内山村談合衆へ命じた寺領保護の書状。
七月十一日 / 冊子 98~99頁
島津義弘の無事な高麗着陣と島津家久の大坂到着を祝い、伏見で公儀の調整が済んだこと、石田三成・安宅秀安や京の関係者への礼と見舞いを怠らず、供衆の忠節も監督していると報告した長文書状。
年月日未詳 / 冊子 70頁
平山忠智の子・右馬頭久武について、永禄二年四月十六日に肝付勢が居城松山を陥れ、兄弟とも戦死したこと、家の重器が奪われ、後に松山で軍神摩利支天として祀られたことを記す。
元亀三年五月四日 / 冊子 274頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦に従軍した島津方の将兵を列記する。大口住人の久富伴五左衛門をはじめ、遠矢下総守・日高掃部左衛門・竹下又左衛門・瀬戸口八郎左衛門・五代右京亮友喜・川上三河守忠智・二階堂四郎左衛門入道秀綱・有川雅楽助貞員・鎌田刑部左衛門らを掲げ、個々の戦功注記を添える。
年月日未詳 / 冊子 695頁
島津義久が相良義陽を攻めるため肥後へ大軍を進めた際、島津征久が従軍して葦北郡へ入り、鏡亀尾の陣を川上忠智・新納忠元と守った記事。諸陣が日夜攻撃すると義陽は領地と人質を差し出して和を請い、義久が囲みを解かせた。
年月日未詳 / 冊子 716頁
川上忠興の子忠智を祖とする支流系図。忠智が栗野・馬越・蒲生地頭と家老を務め島津義弘に従軍したこと、忠堅が島原で龍造寺隆信を討つ軍功後に鷹取城で戦死したこと、忠兄が朝鮮役で功を立て父に代わり家老となったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 750~751頁
豊州家庶子の平山氏系図。島津季久流から忠廉・忠康・忠朝へ続く家系、松山居住と官途、加治木家への養子、忠智が肝付兼続討伐に向かう途中で肝付兵に斬られたことなどを記す。
年月日未詳 / 冊子 70頁
永禄二年の松山城・飫肥方面などの戦闘で討死した者を、日付・戦場・所属とともに列挙する。平山父子・兄弟、春成久正らの戦死状況を収める。
天正二年閏十一月廿二日 / 冊子 348頁
飯野剣大明神の十一面阿弥陀・薬師尊像を新造した際の裏書で、大檀那藤原朝臣忠平(島津義弘)夫妻の息災延命、子孫繁昌、院内安全、諸人快楽を祈る。本文年紀は天正二年閏十一月二十二日と読める。
文禄4年12月12日 / 冊子 926頁
大隅国帖佐舟津村内の大園門・蒲生久徳村浮免などについて、米・大豆合わせ三十石を本田助丞へ給与する。 田畠の配分は現地で相談し、法に反する者がいれば申し出るよう定めた、川上胘枕・新納旅庵らの領知目録。
二月十日 / 冊子 113頁/原整理番号 176-2
喜入忠政が基太村越中守忠智へ、薩州様が近日当地へ着陣することを祝い、自身も追って赴くと伝える。滞留の有無にかかわらず御陣屋近くの場所を望むので、小屋掛けの場所を一人遣わして見分し、申し渡してほしいと頼む。
慶長4年6月18日 / 冊子 567~568頁/原整理番号 69
伊集院源次郎忠真が肱枕老(川上忠智)へ、三月に石田治部少輔からの使者として下った桜木平右衛門尉が当地に滞留し、海路・陸路とも往来できず上洛が延びていたが、今回一人を添えて上洛させるので当地の様子を取り成してほしいと伝える。忠真は、武庫様の直書を拝見し自身の進退にも懇意を示された一方、幸侃が成敗された後に義弘様へ自分の処遇を尋ねても納得を得られず、諸口の往来を止められ、幸侃と同罪にされるように見え、境目の者による放火もあると訴える。義弘様の指示がなければ身上の決着はつかず、今は召し籠められたような状態だとして、武庫様への取り成しと早急な解決を川上に依頼する。慶長4年6月18日付。欄外には『旧記雑録後編三』762号と同一文書かとの推定注記がある。
天正八年十一月十三日 / 冊子 656頁
天正八年十一月二十三日、佐多久政を将として、新納忠元・忠尭、川上忠智、肝付兼寛、上原尚近、比志島国貞らが大軍を率い、肥後合志城を攻めたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 662~663頁
鎌田政年の報告を受けて島津家中が肥後支援を評議し、佐多久政を大将として川上忠智・上原尚近・宮原景晴らを熊本へ派遣した。城親政父子と家臣、周辺勢力の帰趨を探り、阿蘇方の甲斐宗運、矢崎・青田・合志・大津山勢と対立する中、秋月・高橋・草野・星野勢の内応も得て、新納忠元・伊集院久治・鎌田政年らが矢崎城攻撃を決めた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 687頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1765
島津忠智が延宝六年八月十六日、将軍家の子誕生を賀する使者として江戸へ赴き、与力伊集院久明と家老川上久隆が従い、翌七年八月五日に帰国したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 886頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2395
島津綱貴が、北郷家は大身で三州の他領境を守る家であることから、忠智の病中は忠置を名代として独礼を許し、忠置が家督を継いだ後にもこれを認めたことを記す記事。
八月十二日 / 冊子 387頁/原整理番号 109
忠智が神力坊に、相良方との長い対陣の時期に専ら働くことを謝し、使僧から伝えられた祝いを承知したと述べる。清坊が伝えた忠平の意向を踏まえ、兵糧を手配するための返事を依頼する。海陸とも不自由なので詳細は使僧の口上に委ね、諸事の進行を止めないよう求める。
天正三年八月十一日 / 冊子 437頁
島津忠平義弘夫妻子女を大檀那として飯野一之宮大明神社頭一宇を再興した棟札。地頭・先地頭、大工、小工、導師、遷宮、祝など造営関係者を列挙し、天正三年八月十一日の年紀を記す。
天正八年五月十三日~十一月 / 冊子 656~657頁
天正八年の肥後進出に際し、事前偵察、宝川内城攻め、熊本番手、矢崎城攻め、合志方面出陣に参加して軍功を挙げた者を日付・戦場別に列挙する交名。鎌田政年ら足軽三百余の派遣、新納忠秀らの偵察、忠元・忠尭らの攻略、佐多久政・伊集院久治らの合志戦を記す。
年月日未詳 / 冊子 661~662頁
熊本の城親賢父子が商人を介して島津義久への帰属を申し入れたため、鎌田政年が支援を進言し、島津義虎を通じて志岐・栖本・上津浦・大矢野・天草を味方につけた。鎌田ら足軽三百余を熊本へ派遣し、さらに佐多久政ら番手を送った。阿蘇方の甲斐宗運や矢崎・青田・合志勢と対立する中、新納忠元・伊集院久治らを加えて矢崎城攻めを決定するまでを記す。
年月日未詳 / 冊子 677頁
矢崎城主中村一太夫と網田城主中村二太夫が阿蘇惟前と結び、宇土・熊本および薩摩への往来を遮断したため、新納忠元・鎌田政年・伊集院久治らが数万の兵を率いて出陣した。天正八年十月十五日に矢崎城を急攻し、中村一太夫は自害、島津方にも市来備前守ら多数の戦死者が出た。翌日網田城を攻めると二太夫が降伏し、二十九日に全軍が熊本へ入った。
天正八年十一月十三日 / 冊子 679頁
十一月二十三日、島津軍が二手に分かれて合志表へ出て久保田千町を焼き、退却時に大津山越前守率いる約四千騎の追撃を受けた。伊集院久治が太刀始めをして負傷しながら敵を討ち、諸将が反撃して大津山越前守以下百三十余人を討ち取った後、熊本へ引き上げた。
年月日未詳 / 冊子 681~682頁
天正八年十一月二十三日の合志合戦を記す。島津軍が久保田千町を焼くと、大津山源左衛門ら約四千騎が追撃した。伊集院久治が太刀始めで源左衛門を討ち、顔に傷を負いながら諸将の支援で戦い続け、佐多久政らの総攻撃により合志勢百三十余人を討った。鎌田政年が凱歌を挙げ、十二月十三日に全軍が熊本から薩摩へ帰った。
天正八年十一月十三日 / 冊子 682頁
十一月二十三日、島津軍が合志表の久保田千町を焼いて退く際、大津山越前守率いる約四千騎と交戦した。伊集院久治が太刀始めで敵を討ち、顔に傷を負って危急となるが諸将が援護し、比志島国貞・新納忠元・忠尭・佐多久政らの反撃で大津山越前守以下百三十余人を討ち取った。熊本へ戻り町口で勝鬨を挙げた。
天正十一年九月~天正十二年 / 冊子 752~753頁
天正十一年九月の肥後佐敷在陣、十月七日の堅志田攻略、十二月の八代在陣、有馬への番兵派遣、翌十二年の高来出兵と龍造寺勢との合戦に参加した将士を列記した交名。島津家久を大将とし、豊久・川上氏・平田氏・新納氏ら多数の侍大将・軍士について、戦死・分捕・高名などの注記も付す。
天正十二年三月九日~二十四日 / 冊子 868~870頁
島津義久が薩摩・大隅・日向の軍勢を率いて三月九日に出陣し、十六日に佐敷へ着陣した。義弘・歳久や相良氏と会合後、家久を大将として豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を有馬勢千五百と合流させ、深江・安徳を経て島原へ進軍させた。三月二十四日、龍造寺隆信の大軍を迎え、家久の決死の督励のもと川上忠堅らが隆信を討ち取り、敵首三千余を得た。義久は佐敷で戦勝報告を待った。
天正十二年四月一日~晦日 / 冊子 875~884頁
天正十二年四月一日から晦日までの有馬方面従軍日記。覚兼らが海路で三江・島原へ入り、神代・井福・森山の降伏と質人提出を取りまとめ、諸将会議で温泉山再興・神領、諫早攻略、諸城の警固を協議した。五ヶ浦・竹崎への水軍攻撃と放火、島原・三会への薩摩番衆配置、各地の質人を八代へ送る準備、諸勢帰帆の調整などを詳記する。
天正十二年五月一日~二十一日 / 冊子 885~890頁
天正十二年五月一日から二十一日までの日記。覚兼は荒廃した温泉山を巡拝し、大村・長崎・南蛮僧側からの使者や質人問題に対応した。島原・三会の番衆配置、有馬方諸城の警固、神代氏の質人を八代へ送ることを調整し、五月十七日に有馬を出帆、佐敷・大口・飯野を経て宮崎へ帰着した。帰国後は馬追・参詣・饗応を記す。確定版標題は『土井覚兼日記』だが、本文標柱は『上井日記』である。
天正十二年四月三日以後 / 冊子 890~892頁
四月三日以降の有馬方面平定を編年で記す。島津方は神代・井福・森山の降伏と質人提出を受け、諸城を接収して番衆を置き、温泉山再興・神領設定と諫早調略を協議した。十日には水軍百余艘で五ヶ浦・竹崎を焼き、十四日には僧二千人による大施餓鬼と家久嫡子の元服を行った。中旬、宇都顕孝が下野城を明け渡し八代へ出頭した。確定版標題は『島津義久諸』だが、本文は義久公御譜中。
年月日未詳 / 冊子 811頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2134
北郷資茂が貞享五年五月、島津忠智の命で綱貴の三男虎安丸誕生を祝う使者として江戸へ向かい、六月十六日に駿州江尻で綱貴へ拝謁し、白銀一枚を賜ったことを記す記事。
元禄十三年三月一日~七月十八日 / 冊子 204頁/整理ID 693
北郷家の筑後忠智が元禄十三年三月一日、病気を理由に家督を伊豆忠置へ譲りたいと島津綱貴へ願い出た記事。願いは綱貴に達し、同年七月十八日に忠置の家督相続が許可された。
年月日未詳 / 冊子 541頁/原整理番号 550
正月二日、島津下野守久元、その子図書頭久通、喜多村越中守忠智らが鹿児島を出馬し、島原へ赴いたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 113頁/原整理番号 176-1
伊地知季安の記事。上津浦に駐屯する喜入摂津守忠政が、島原の薩摩陣営にいる基太村越中守忠智へ、薩州世子が近日到着すると聞いたため参謁に便利なよう、御陣営の隣に立営地を選んでほしいと申し入れた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 899頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2437
北郷資名の系譜記事として、島津吉貴の婚姻に際する使者役、江戸への往来、芝御館で島津綱貴・吉貴に拝謁して白銀を拝領したことなどを記す。
九月十七日 / 冊子 479頁/原整理番号 82
島津義弘が川上三河入道へ送った書状。川上の大坂下向時の取り成しに謝意を示し、久四郎が近く帰国することを喜ぶ。自身も面会を望むが病気でかなわないため、詳しくは枕斎から伝えるとする。九月十七日付。
2月20日(年未詳、同文参照)~万治元年(1658)の記事 / 冊子 431~437頁/原整理番号 13-5
冒頭は『諸家系図文書』10の7号文書と同一のため島津忠国書状を省略する。参照先は忠国が牛屎へ、菱刈方から詳細を聞いて早く来訪・決断するよう催し、対面を望んだ二月二十日付書状である。久元(牛屎越後守・法名光久)は永享十年の福昌寺仏殿造営勧進で、羽月元忠・山野頼元・北原久兼ら八十七人とともに馬一疋分の代銭を奉加した。歓元(同越後守・法名光秀)は文正二年梅雨吉日に牛屎家系図一巻を作り、薩摩守陳元から元親までの系譜を収め、文正元年から文明九年までの島津家系図・覚書も伝えた。応仁元年、牛屎院の兵乱で一門が日向真幸院へ移り、北原家との親族関係を頼ったこと、元親が大隅守・法名梅岳源春を称したこと、重元が永正六年に六十余歳で鷹書一冊二十五枚を書いたことを記す。天文十二年三月二十七日、実元は牛屎家先祖を覚書や本朝の大家系図と照合して記し、宗実兄弟が源頼政嫡子・仲綱の娘を母とし、建久七年に頼朝の恩免を受けて遠流先の薩摩へ下向し、羽月・山野・平泉を与えられ、子孫が牛屎・淵辺を称したとの家伝を載せる。元継の女子は兄弟不和のなか系図・文書を保持し、国分御前様に仕えた後に加藤金右衛門へ嫁いだため古文書が加藤家へ伝わり、頼朝御教書は公用のため提出されたとする。淵辺主計元継は慶長・元和の上地や宮越との田地争論で知行を減らし、寛永頃には約十石となった。弥兵衛は家に凶事が多く繁昌しないため母方の淵辺へ名字を改め、肥後の聖山伏を氏神として正宮・荒神宮に祀ったとし、元亀三年五月四日の真幸院における義弘と伊東家の合戦で五十四歳で戦死した。元秋は栗野に生まれ、父の戦死後に飯野・栗野を移り、伊東・大友との戦いを経て天正十五年豊後で戦死した。重綱は井手石氏の養子となり川上忠智に仕え、肥前深江・筑州岩屋城・朝鮮で戦い、朝鮮で左手を負傷して退き、加治木・鹿児島へ移って八十四歳で没した。元貞は父元秋の戦死後、十三歳で義弘に召し出され、吉松鶴丸村二十五石と栗野木場村三十石、計五十五石を与えられた。十五歳で義弘に従って朝鮮へ渡り、忠恒に近習・小姓として仕え、良右衛門の名、包清の脇指や衣裳を拝領し、のち帖佐・平松・加治木・鹿児島へ移住して、万治元年に百二十三石を持って隠居した。
年月日未詳 / 冊子 327頁/原整理番号 1
忠元の幼名安萬丸、次郎四郎・刑部大輔・武蔵守への改名と入道拙齋の称号、出生、父母、死去、子女を記した系譜。忠元は周防守久友の娘を母、清水の忠辰を父とし、大口の専念寺に墓があり、寺への月牌料も載せる。長男の安芸守とその死、忠智・忠行などの分族、娘の婚姻、泰久との関係を記し、大慈寺龍雲老が忠行の孫であることにも触れる。
年月日未詳 / 冊子 414~416頁/原整理番号 158
義久への奉公を申し出た隈本の城親賢父子と道観の交渉を述べる。諸島の協力者を結び、出水の兵船と三百余騎を用いて高橋へ上陸した。筑前諸氏の働きも報告し、十月十五日、矢崎を陸海から攻めて火矢・放火・討取りにより落城させた。城主らの敗走と死を記し、翌日青田へ進み、三日間宇都に留まって負傷者を養生させ、戦死者を弔った。十月十九日の諸軍の陣替えと、上原・黒木・貴島・宮原らの戦死にも及ぶ。
(天正廿年)五月五日 / 冊子 296~297頁/原整理番号 72
島津義弘が高麗渡海直後に川上忠智へ送った書状の抜書を掲げ、伊集院幸侃への警戒を読み取る。季安はその後の本願寺との接触や家中の事情を引き、一向宗禁制の理由を考える。