島津忠昌譜
年月日未詳 / 冊子 565頁
明応三年九月二十九日、福島方と志布志方の対立が激化して合戦に至ったことを記す島津忠昌譜の記事。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 565頁
明応三年九月二十九日、福島方と志布志方の対立が激化して合戦に至ったことを記す島津忠昌譜の記事。
(大永四年)九月十三日 / 冊子 647頁
島津忠朝が新納忠勝に、串良院の処置と安千代殿の進退、志布志衆への対応を伝え、協力を求めた書状。
三月廿九日 / 冊子 778頁
可水が本田殿に、新納忠重との戦いの経過を伝え、志布志の状況を踏まえて援軍と行動を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 787~788頁
伊東氏と長倉上総介・能登守兄弟の争いに際し、島津忠広方が福島・志布志などの諸勢を集めて出陣した経過を記す覚書。清嶽・鬼山周辺での兵配置、城攻め、戦死者、援軍到着、撤収までを追い、伊東方支援に動員された大隅・日向国境軍の実態を示す。
(永禄十一年)四月七日 / 冊子 197頁
島津貴久が飫肥へ遣わした使者の帰着を伝え、志布志を放棄すべきではないと述べた書状。北郷氏へ末吉を渡すなら志布志の番も北郷氏から受け取り、飫肥・酒谷の番は島津方が受け取るよう談合したとする。現地人衆は反対しており、大事であるため相談すべく一、二日中の来訪を待つ。
四月十日 / 冊子 291~292頁
島津忠国が、松山滞在や財部・志布志方面の事情を伝え、十二日に出立する予定、内々の音信を絶やさず警戒すること、別符の合戦で大勝したことなどを内山千熊へ知らせた書状。
年月日未詳 / 冊子 839~840頁
天文十六年正月、郷原をめぐって北郷方と都城方が戦い、忠親の長男忠豊らが兵を率いて攻防した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 877頁
天文十八年三月廿二日、伊集院忠朗・豊州島津忠広らが飫肥方面へ進み、諸将を率いて攻城・防戦したことを記す。
元弘元年十月日 / 冊子 595頁
源資清が志布志宝満寺八幡宮の御供田として、堀内のうち根野屋敷・久内二郎屋敷・針取屋敷・田地などを寄進した仮名書きの寄進状。田地ごとの面積・代米を列挙し、寺の供僧が知行することを定める。
六月廿三日 / 冊子 595~596頁
救仁院志布志内宝満寺地主八幡宮の御供祈所・屋敷について、前領主源太資清の寄進内容を承認し、寺家の所領として執行するよう命じた常円・快賀・範郷の連署状。
元禄8年3月5日(目録) / 冊子 543頁/原整理番号 87
氏久公について、先の書付と同断である旨を記し、志布志大慈寺の座印を付す。
年月日未詳 / 冊子 51頁/原整理番号 71
志布志東下町太兵衛の名字付願書に見える記事。平田藤右衛門宗則が島原へ出陣した際、大垣太郎右衛門も十八歳で旧例により供をしたが、島原落城の報を受けて一行が中途から引き返したため、ともに帰ったという。
年月日未詳 / 冊子 813~814頁
伊東方の鵜戸烏帽子形城攻撃をめぐり、豊州忠広への援軍要請、油津からの出船と東海への着岸、修理大夫義鑑との対面、帰津までの経過を記す。
目録年月日記載なし / 冊子 461~462頁/原整理番号 108
寛正七年二月晦日の犬追物で、島津薩摩守をはじめ参加者の殿・役名と手組を列挙する。末尾には立久が櫛間で伊東六郎方に参会した際の手組で、飫肥で行ったとの注記が付く。
寛永廿一年二月廿二日 / 冊子 325~326頁
僧太極が新納刑部太輔へ、志布志大慈寺の寺派・住持継承をめぐる由緒と争論を説明した覚書。大慈寺が東福寺派に属した経緯、西院・妙心寺派との関係、京都での認可、寺領・住持の扱いを述べ、従来どおりの処置となるよう披露を求めている。
年月日未詳 / 冊子 330~331頁/原整理番号 91
『無名抄』から、島津庄一円領や志布志の海辺、古い島戸の所在についての叙述を引く。海岸の変化、寺の建立、浪や砂のため失われた土地・旧跡を語り、地域の地名と伝承を考える材料とする。
文書日付:六月十四日 参照事件年紀:今月林鐘の初 / 冊子 267~268頁/原整理番号 三四二/整理ID TMP-P02-NENE2-D0342
志布志殿三ヶ国の大将子息を此方の大将とし、多方面の軍勢の参集と志布志城の見通しを述べる。 治部少輔殿が大将として、高来・天草や四国海賊・吉弘勢代を伴い来向すると記す。 相手方には敵がなく、御手洗薬師付近の海賊衆と大将に関わる状況を伝える。 相手方に懸念があるなら御手洗薬師方へ書状を送り、使僧を派遣するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 650頁
建武三年初頭、足利尊氏・新田義貞の対立を背景に、肝付兼重・伊東氏・島津方が日向国胡麻崎城・志布志城などで戦った経過を記す重久篤兼譜。正月廿八日の胡麻崎城攻め、城郭の奪取、追撃、戦死者、家人重久大和房向経の働きなどを述べる。
建武三年二月日 / 冊子 651頁
重久篤兼が、建武三年正月廿八日の国富二郷胡麻崎城合戦、二月廿八日の志布志城攻め等で、親類・次郎祐任らと軍忠を尽くしたことを報告した軍忠状。敵を追落し、種牟田相家らを討死させた戦果を記し、証判を求める。
年月日未詳 / 冊子 783頁
貞和四年六月、樺井四郎頼仲が志布志城に拠ると島津貞久が攻撃し、畠山修理亮直顕も兵を向け、十月十八日に大隅国への発向を命じた経過を記す重久篤兼譜の記事。
貞和四年六月日 / 冊子 783頁
島津貞久が重久一族へ、樺井四郎頼仲が志布志城に拠り島津修理亮が向かったとの報を伝え、道鑑が大隅国へ発向する十八日より前に守護所へ馳せ参じるよう命じた書下。
年月日未詳 / 冊子 331~332頁
菊池氏の使節を迎えた島津方の饗応記録。舟遊び、漁・狩猟、酒宴、騎射を催し、帰途の志布志では追物射を披露して一行をもてなした。存忠や伊東氏僧侶との対面・仲介にも触れ、遊興・武芸と政治交渉を組み合わせた使節接遇の全行程を伝える。
天正十二年閏二月十五日 / 冊子 870頁
義弘のため小野出羽守相模坊が志布志の飛龍権現へ参詣して祈願したところ、天狗から一巻を直接授けられたと伝える。日付は天正十二年閏二月十五日。
万治二年正月十七日 / 冊子 84~85頁/原整理番号 10-2
島津久茂が、愛甲平左衛門(喜春)を江戸へ召し連れる旨の命令を志布志側へ伝え、儒書の読解・講釈に用いる予定を知らせる。
万治三年七月十一日 / 冊子 85~86頁/原整理番号 10-4
島津久茂が愛甲平左衛門の赦免後の処遇と屋敷・所領に関する調整を志布志側へ伝える。後半に島津久年らの系譜・履歴を補記する。
目録年月日記載なし / 冊子 130頁/原整理番号 4-6
「志布志士人鹿屋権兵衛蔵書」から、大隅・薩摩・日向に関わる伴氏の系譜と兼貞の子らの伝承を抜書する。太郎肝付、二郎荻原、四郎和泉、五郎梅北らの名を挙げ、家伝にみえる御旗や金銅仏の由緒を記す。
正和三年十一月廿七日 / 冊子 445頁
薩摩国伊作庄地頭下野彦三郎左衛門尉忠長代行長と申小類らの船壹艘相論を裁した鎮西下知状。借用した船が海路で破損したとする主張に対し、志布志入道・伊作家久らの証文、船代引渡しの経緯、同浄證らの証言を検討し、召進・糺明を命じた。
正和五年十一月三日 / 冊子 448頁
日向方嶋津御庄志布志津大澤水寶満寺敷地の四至を、東は深小路大道、南は経峯、西は河、北は天神山後堀と定め、寶満寺へ打ち渡した沙弥蓮正の打渡状。
年月日未詳 / 冊子 800-804頁
南朝正平六年・北朝観応二年を中心に、尊氏・直義・直冬の対立が九州へ波及した情勢を月日順に詳記する。島津貞久・氏久・師久、肝付兼重、祢寝清種・清増らが大姶良城・樺山・福山・志布志城などで戦った経過、幕府・征西方の教書、軍忠・恩賞、討死・負傷、諸氏の離合集散を多数の文書と系譜記事から集成した島津国史。
年月日未詳 / 冊子 1~3頁
当山国長・楡井頼仲・肝付兼重が薩摩・日向で争った経緯を背景に、島津氏久方の山田弥九郎らの戦闘、横山城・志布志松尾城の攻防、兼重と頼仲の最期を記す。末尾に、頼仲が自害前に書き残した位牌表・辞世の偈頌と和歌を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 7頁
正平十二年、島山直顕が志布志城を取り、楡井頼仲が胡麻崎城へ逃れたのち、祢寝清種らが同城を包囲・攻略し、さらに松尾城を攻めて頼仲を自害に追い込んだ経緯を記す。続いて田代次郎・比志島太郎への所領宛行や、伴兼里による大慈寺塔頭龍護庵への寄進を掲げる。
正平十四年正月十一日 / 冊子 12頁
伴基栄が、天長地久・国土安穏・万民快楽を祈って、日向国救仁院志布志条内の夏井・益倉村を大慈禅寺へ寄進した文書。
年月日未詳 / 冊子 75~77頁
島津氏久譜中から、新納実久の元服、修理亮任官、所領賜与を記し、その後の志布志周辺での合戦を詳述する。畠山治部大輔方に対し北郷彦七郎・本田重親・石井肥後兄弟ら一族・被官が奮戦し、多数の戦死者を出した長期戦の経過を伝える。
年月日未詳 / 冊子 101頁
永和二年冬、相良氏が伊東氏らと結んで守護領へ侵入し、守護命に背いた六十三人を旗下に集め、本原城を本営として都城へ迫った記事。北郷義久は平田新左衛門重親入道玄心・工藤蔵人ら勇士七十余騎と都城に籠城して防御し、島津氏久は救援のため自ら志布志の天ヶ峯へ出陣した。
年月日未詳 / 冊子 101~102頁
北郷祐山兄弟が本領を確保して庄内南郷の都城を取った頃からの攻防を叙述する『山田聖栄自記』の記事。相良・伊東方が都城へ迫り、島津氏久が志布志から天ヶ峯に陣取って救援した経過を記す。二月十九日頃の合戦に際し、平田重親は甥の氏親に、自身は討死するので生きて又三郎殿に仕えるよう諭した。重親は討死し、氏親は七か所を負傷しながら生還したという。
年月日未詳 / 冊子 104~105頁
三か国の御家人と相良氏らが一揆して都城を圧迫したため、北郷義久が新納・本田・樺山・平田諸将と籠城した経過を記す。島津氏久は志布志から救援し、天ヶ峯・平長谷方面へ軍を進めて一揆軍と交戦し、都城の包囲を解こうとした。
「永和三年」十二月二日 / 冊子 111頁
今川満範が土持左近将監に、春から十二月二日まで飲肥・志布志・都城以下の諸方を同心させた忠節を賞し、その詳細を上申すると伝え、今後も忠節を尽くすよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 125頁
『島津国史』の至徳元年(南朝元中元年)の記事。二月二十七日の改元を記し、今川了俊が宮内大輔三雄を肥後二見へ派遣し、秋にも諸将が二見へ向かったこと、久哲公が前年に子守久を派遣していたことを述べる。続いて今川了俊の執事人である六郎左衛門尉や、至徳元年十二月九日付の薩摩・大隅・日向地頭御家人宛文書を検討し、相国寺領三俣院の守護・忠節命令と発給者を斯波義将に比定する。末尾では、父氏久以来の居所である志布志から鹿児島へ移るため、清水に川・谷を利用した城郭を築き、妻子を移住させた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 125頁
島津元久譜として、父氏久以来の居所である志布志から鹿児島へ移るにあたり、東福寺城・城脇などを検討した後、清水を新たな宅地に選んで城郭を築き、妻子とともに移住したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 125頁
近世略系図として、至徳年間に島津元久が志布志を去って鹿児島本城へ移ったことを記す記事。本城は大興寺後山、また清水城ともいうとの注記がある。
年月日未詳 / 冊子 132頁
島津国史の記事として、島津氏久(齢岳公)が鹿児島で六十歳で没し、大姶良の龍翔寺に葬られ、男子二人の長男を島津元久(恕翁公)、次男を島津久豊(義天公)としたことを記す。元久は貞治二年に大姶良で生まれ、母は伊集院長門守忠國入道道忍の娘で、嘉慶元年に二十五歳で襲封した。氏久は鹿児島から大姶良・志布志を経て鹿児島へ戻り、狭い東福寺城の拡張を望んだが死去し、元久が鹿児島へ移った際に別城を築いて鹿児島本城(清水城)と称した経緯と、移居時期に関する諸史料の異同を考証する。さらに嘉慶改元・事始と、今川宮内大輔に属して凶徒討伐に忠節を尽くすよう命じた軍事書状を収める。
年月日未詳 / 冊子 133頁
志布志大慈寺所蔵正文により、日州龍興山大慈禅寺第二世剛中柔禅師が玉山和尚に師事し、宋へ渡って蔵経を求め、帰国後に寺院を整え、普門寺・東福寺などに住した生涯と、即宗庵に関する考証を記す。
年月日未詳 / 冊子 164頁
恕翁公譜の記事として、今川播磨守が山東曽井に陣を構え、新納実久が島津方の軍勢を率いて対陣したが、上使の仲介で合戦を停止し、志布志で元久と対面して和議が成立し、双方が陣を解いたことを記す。
応永九年十二月六日 / 冊子 206~207頁
なへくら久頼と長の入道玄林が連署し、志布志で預かった唐物その他の品について、求められた際には両人が誓文に基づき福昌寺へ残らず引き渡し、両人に万一のことがあれば後を継ぐ子にも履行させると請け負った請文。両名が花押を据える。
年月日未詳 / 冊子 215頁
島津元久譜の記事として、足利義満が薩摩・大隅・日向三州の闘乱停止を鎮西探題へ命じ、朝山師綱・重綱らを派遣し、大友親世も吉弘土佐入道を同行させ、島津元久と志布志で対面して奉書を渡した経過を記す。
文明二年九月四日 / 冊子 471頁
島津立久が志布志大慈寺の造営のため、関所の駄口米を先例どおり充て、違乱があれば処罰する旨を命じた書下。
文明二年九月四日 / 冊子 471頁
村田経安・丹波守義忠が、志布志大慈寺修造のため関所駄口米を充てる島津立久の命を施行し、先例どおり沙汰するよう伝えた連署施行状。
年月日未詳 / 冊子 537頁
文明十八年、忠昌が新納忠続を飫肥から志布志へ戻し、末吉・財部・救仁郷を与え、忠廉を櫛間・飫肥の領主とした。病後の身を案じられても、忠昌が公務と家の武威のため自ら出陣する意志を示したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 541頁
文明十八年、忠昌が伯父忠続に末吉・財部・救仁郷を与えて飫肥と替え、久逸を伊作へ戻し、忠廉に豊州二郷を与えた。忠続が志布志へ移る際、友義が従ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 541頁
新納忠続が救仁院(志布志)のほか飫肥を与えられて二十九年間居住し、文明十八年に飫肥と末吉・財部・救仁郷を交換して、これらの所領を合わせ四十一年間知行したことを記す。