今川了俊奉書
永和四年八月廿八日 / 冊子 117頁
今川了俊が大友式部丞に、島津伊久が本領と主張する豊後国井田郷について、以前の命令が実行されていないのは不当であるとして、速やかに下地を伊久の代官へ引き渡し請取状を提出させるよう命じた奉書。
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永和四年八月廿八日 / 冊子 117頁
今川了俊が大友式部丞に、島津伊久が本領と主張する豊後国井田郷について、以前の命令が実行されていないのは不当であるとして、速やかに下地を伊久の代官へ引き渡し請取状を提出させるよう命じた奉書。
天文十三年閏十一月吉日 / 冊子 820頁
島津貴久が伊地知式部大輔に、世間の雑説にかかわらず疎略にせず、凶事には助け合い、相互の権利を守ることを大小の神祇に誓った起請文。
(寛永八年)四月三日 / 冊子 203~204頁
加治木大隅守と川上式部太夫について、家久の意向に従い旧名・官名を改めるよう求める。国中の飢饉に際して米価の高騰で民衆が苦しまないよう値段を抑え、命令に背いて高値で売る者を処罰する方針も伝えた。
(寛永十二年)八月廿六日 / 冊子 492頁
島津光久が北郷式部太輔へ、先月二十九日付の書状を今月二十四日に受け取ったと知らせ、船中での出来事や近辺の火災、屋敷再建の進捗について触れ、詳しくは野州・兵部少輔から聞くよう伝えた書状。
十一月廿六日 / 冊子 110頁
近衛信尹が喜入式部大輔に宛て、京都の不慮の錯乱で諸士が頼る先を失っているため、匠作への使札に応じて援助するよう依頼した書状。詳細は進藤筑後守に託している。
九月廿五日 / 冊子 344頁
島津忠良が式部大輔へ、見舞いへの礼を述べ、瘡病の平癒状況を案じた返書。何より養生が肝要で、快気した折には訪れて雑談したいと伝え、珍物五斤を賞玩したことにも触れる。
十月十二日 / 冊子 344頁
島津忠良が式部大輔へ、兼続が来着したことを知らせ、相手が快気せず面会できないのを惜しみ、養生を第一とするよう勧めた返書。贈られた辛螺・海老四籠への礼も述べる。
十一月十二日 / 冊子 415頁
喜入季久が真木嶋玄蕃頭・一色式部少輔入道へ、入洛調略について内書を下されたことを頂戴し、冥加至極と謝意を表すとともに、沈香十斤と段金一端を進上して披露を求めた書状。
建徳元年十一月廿一日 / 冊子 54頁
征西将軍宮が、智覧忠泰の申請に基づき、亡父忠元の譲状どおり薩摩国智覧院・河辺郡を忠泰に領掌させるため、敏嶋下野守と共同で現地沙汰するよう命じた令旨。
(天正15年)8月6日 / 冊子 363頁
前日に申し出た件への早急な返答を求め、二人が交わした雑談も決して漏らさないよう厳命する。八幡神に誓って他言・露顕を禁じた、秘密保持を強く求める書状。
(元和四年)五月九日 / 冊子 673頁
島津家久が、島津義弘の見舞い使者と、南都の諸白五樽ほか一種の贈り物に謝意を述べ、義弘の病気以外には特段の問題がないと伝えた書状。
(寛永五年)正月八日 / 冊子 51~52頁
島津家久が、比志島宮内少輔国隆の重大な不行跡をこれまで表面に出さなかったが、今後は国家のためにならないとして処分方針を示す。一度の折檻で改まる人物ではないため、三名の担当者が遠慮なく協議するよう命じ、詳細は国分民部左衛門に伝えさせる。
(寛永五年)二月晦日 / 冊子 54頁
島津家久が、比志島国隆は過ちを改めず再び奉公できる人物ではないとして、寺領から種子島へ人を付けずに厳しく移送するよう命じる。異議や抵抗があれば厳罰に処し、少しも処置を緩めないよう指示する。
(寛永八年)三月廿八日 / 冊子 193~194頁
北郷出雲守忠亮への使者となる両名に、家久の意向を伝えるよう命じた久元・貞昌の連署状。若年の忠亮による家督相続を認めつつ、忠能代の家臣殺害・追放や悪政を戒め、家老・役人の意見を聞き、悪行者を処罰して家を安定させるよう諭す手順を詳述する。
八月六日 / 冊子 22頁
前日に申し出た事情と二人の雑談内容を決して他言・露顕しないよう厳命し、早急な返答を求めた秘密書状。
(慶長五年)九月廿一日 / 冊子 583~584頁
伊勢貞成が大井七右衛門尉・酒匂式部少輔へ、奥様の下向に伴う御番衆として富隈の人数を留め置いたことを伝える。佐方の船手には水主を欠く船が多く世間体にも関わるため、両人に他の人数と同様の手配を頼み、有川助兵衛尉の手元にある二百石の米から百五十石分を渡すよう指示する。
四月十九日 / 冊子 452頁
領内の諸法度執行を新納右衛門佐に任せているため、その命令に少しも背かず、北郷式部太輔配下の江戸詰衆へも申し渡すよう命じる。新納にも遠慮なく指揮するよう伝えよとした島津光久書状。
(寛永十一年)七月六日 / 冊子 433~434頁
島津家久が、北郷跡職の件に対する祝儀の使者と太刀一腰・馬代銀三十枚を喜び、伊東二右衛門尉を使者として樽・肴・帷子を贈り、秋の帰国時の再会を期した書状。
二月四日 / 冊子 453頁
改暦を祝い、黄門をはじめ家中が無事であるので安心するよう伝え、祝儀のしるしとして小袖一重と肴一種一荷を贈った島津光久書状。
年月日未詳 / 冊子 61~62頁
文中元年六月二十三日に渋谷重門が高江峰城で戦死したことと、同じ戦闘で山田式部三郎忠房・宮里三郎太郎・酒勾筑前守らが戦死したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 142頁
『山田氏系図』の記事。友久を起点に、亀三郎丸・式部・孫三郎・掃部助・常陸守の名・称を掲げる簡略な系図。
年月日未詳 / 冊子 256~257頁
久豊到着前、恒吉・宮里・百引・高岳・西村らが上小野から串良へ陣を構えて鹿屋方と戦い、山田孫四郎が戦死した記事。大姶良城の兵が肝付方の退軍を襲って薬丸式部らを討ち、敵敗走後、久豊が高隈・鹿屋・大姶良・下大隅を経て鹿児島へ帰還した。
年月日未詳 / 冊子 282~283頁
応永二十年十二月七日の戦闘で佐多三郎九郎忠豊らが戦死したこと、北原彦次郎太郎・天辰式部二郎・遠矢某らの戦死や、小野村での戦闘に関する諸伝を記す殉死者記事。
年月日未詳 / 冊子 512頁
文明十六年十二月三日、伊作式部大輔方が南郷城へ押し寄せ、城壁を切り崩して攻撃した経過を記す。山田・早崎・堀口諸氏を含む守兵が抵抗し、双方に戦死者が出た。危急を受けた和泉隠岐守が近江守へ急使を送り、援軍を求めた。
年月日未詳 / 冊子 722頁
天文二年十二月、前非を改めた山田式部少輔が旧領復帰を請うた際、処罰を唱える意見に対して日新が漢高祖と丁公の故事を引き、後悔した者を許して領地へ戻したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 723頁
山田氏十代の久親について、初名久義、通称三郎二郎、官途式部少輔を掲げる系図。
年月日未詳 / 冊子 774頁
天文八年三月十三日の紫原合戦で貴久方が敗れた後、平田式部少輔の要請を受けて翌日から本城・神前城を攻めた経過を記す。忠将・松崎丹後守らが加わり、攻城と交渉を重ねて和談を成立させ、新納近江守忠勝らを降参させた。
元亀三年~天正元年七月廿四日 / 冊子 311頁
肝付・禰寝・伊地知三氏の離反と廻城奪取、元亀三年の早崎築陣・小浜攻略を前史として、天正元年七月二十四日の早崎夜襲を記す。守将家久は川南式部左衛門と戦い、田之上清左衛門に救援されつつ全身八か所を負傷した。喜入久績も負傷しながら敵を退け、平田光宗らも力戦して、二十六歳の家久は危機を免れた。
年月日未詳 / 冊子 279頁
『島津義弘譜』の記事。慶長三年、日本から渡海した上使の徳永法印式部卿・宮木長次郎が、在陣諸将へ十一月十五日を期限として一斉に帰帆するよう命じた経緯を記す。ところが順天城の小西行長らは明・朝鮮の大軍に海陸から包囲されて退去できず、和議を結び、人質を行長に渡させたことで、諸将とともに順天を離れて釜山浦へ退いたとする。
(慶長四年)九月廿八日 / 冊子 443~444頁
太田一吉が薩摩少将島津忠恒に、内府が羽柴肥前守を詰問するとの風説と、中村式部少将・堀尾帯刀を使者に立てる動きを伝える。出陣や海上輸送への備えを述べる一方、彦山座主職をめぐる黒田甲斐守・毛利壱岐守の争いが豊前との境で起きているため、上洛を見合わせたと説明する。
年月日未詳 / 冊子 451~452頁
島津忠恒が十月五日に森田へ陣を移し、北郷長千代丸らが志和池城周辺に布陣した後の戦闘経過を記す。高木村方面で高城勢を追撃し、伏兵戦や志和池城からの出撃で双方に戦死者が出たこと、北郷勢の高橋武蔵・白坂式部・財部武蔵らの討取、小杉太郎左衛門尉らの戦死を列挙する。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 96頁
慶長十一年十一月二十六日、二日目の犬追物手組を記した一覧。殿以下、島津式部太輔・島津摂津守・島津河内守・本田弥六らの射手名と割当てを列挙する。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 97頁
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第三番の手組を記した一覧。殿以下、島津河内守・島津式部太輔・島津勘解由次官・平田新三郎らの射手名と割当てを列挙する。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 98頁
慶長十一年十一月二十七日の犬追物手組を記した別一覧。殿以下、島津河内守・島津式部太輔・島津勘解由次官・平田新三郎らの射手名と割当てを列挙する。
(慶長十五年)十二月十一日 / 冊子 304頁
慶長十五年十二月十一日、正源院の某が、滞在中の能・蹴鞠・茶の湯などの催しと、十一月末の到着・十二月五日の出船を報じた書状。武具の試用、鉄砲や刀装の出来、松井子息長岡式部へ贈る腰物などについても詳しく述べる。
正月三日 / 冊子 803頁
島津家久が式部太輔へ、年始の慶賀を述べ、祝儀として贈られた太刀一腰と馬一疋の懇切な贈答に謝意を表し、後日さらに祝意を伝えるとした書状。
(寛永五年)四月三日 / 冊子 57~58頁
島津久元・伊勢貞昌が、加治木大隅守と川上式部大輔の官名変更を提案し、吉日を選んで改めるよう求める。また国中の飢饉で米価が高騰し民衆が困窮しないよう、適正価格を示して違反者を処罰すること、家久の暇が近い見込みであることを伝える。
(寛永六年)十一月廿六日 / 冊子 127~128頁
豊後守・川上式部太輔の到着を受け、国許の様子、帰国・暇の扱い、御屋形への伺いと御使の命、関係者間で相談した処置を報じ、詳しくは大炊頭から言上すると伝えた書状。
(寛永十四年)十二月十七日 / 冊子 713~714頁
上使衆の早打に託された先月二十三日付の御状が今月十一日夜に酒井讃岐守から兵部少へ届いたことを述べる。上使は十二日夜半に到着し、翌朝御奥で対面して雑煮の寄合と七五三の振舞を受け、黄門様の胸や手の様子を見た。北郷式部大輔と孫庵が相伴し、上使は引き留められたが十三日夜に出立した。先行して注進した者は海道で上使に追い越され、船で進んだ黒葛原周右衛門・松田七左衛門は五日前に到着したとし、一連の順調な到着を神仏の加護として祝う。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十七日付。
十二月廿四日 / 冊子 123頁
新納忠元が丸田久右衛門尉に宛てた書状。馬越之前目を加増として拝領したことを伝え、明後日二十六日を吉日として、加増地に関する段取り、槍兵への指示、大隅殿への案内と番衆一人の派遣などを命じている。前段には丸田久右衛門尉について、天正五年以来の合戦歴、十六歳以来三十八人を討ち取ったこと、加藤式部左衛門尉を案内者として雇う案などを記した覚が付されている。
五月五日 / 冊子 149~150頁
入来院重高が宮里治部左衛門尉に、志岐小左衛門尉の身上について、兵部少輔の取り成しにより薩州様・式部様から扶持を与える話がまとまったと知らせた書状。正式な仰せがあるまで重高の知行所に滞在させ、扶持が出るまでは現地で世話をするよう依頼し、追って使者を下すと伝える。
(寛永十三年)十月八日 / 冊子 153頁
家久の病気を案じ、久志本による治療を望んでいると聞いたため式部少輔を派遣したとして、十分に養生するよう勧めた徳川家光の内書。
八月廿七日 / 冊子 212頁
志摩守留守中に一度も書状で見舞わなかったことを詫び、使者を送った。式部少輔の母へ紅染料五斤と琉球酒一壺を届けるよう三名に頼み、各人にも軽少ながら革袴一つを音信のしるしとして贈った書状案。
廿七日 / 冊子 382頁
先に申し付けた木部の下削りについて、すでに宮式部へ命じたかを尋ね、材料の木を念入りに扱うよう求めた島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 388頁
伊作島津久逸の出生と伊作家継承を記す系譜記事。久逸は永享十二年に島津忠国の三男として生まれ、母は新納近江守忠臣の娘。伊作家の大安丸が早世したため、忠国の意向で久逸が迎えられ、大安丸の妹を妻として伊作家を継いだ。
延徳二年九月十八日 / 冊子 554頁
延徳二年九月十八日の犬追物手組について、参河守以下の参加者と各人の疋数を記録した一覧。
延徳三年正月廿一日 / 冊子 556頁
延徳三年正月二十一日の犬追物手組について、参河守以下の参加者と各人の疋数を記録した一覧。
永正十三年三月十六日 / 冊子 610頁
永正十三年三月十六日の犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
年月日未詳 / 冊子 834頁
天文十五年二月十八日・四月二十三日などに、日向飫肥その他の戦場で戦死した島津方の武士を列記する。
(慶長十一年)四月二日 / 冊子 64~65頁
島津義弘が島津忠恒に、在京中の労をねぎらい、琉球・大島渡海の談合と出兵準備について詳しく報告した書状。竜伯への相談、出物・人員の手配、関係役人との談合、振舞や接待の段取りなどを伝える。