某論旨副状
(永禄三年)九月十一日 / 冊子 78~79頁
大隅国桑原郡の正八幡宮三所大菩薩の神体九躰を造立して叡覧に備えたことを賞し、檀那島津貴久の尽力を神妙・懇志大切と伝えた論旨副状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
654 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 14
(永禄三年)九月十一日 / 冊子 78~79頁
大隅国桑原郡の正八幡宮三所大菩薩の神体九躰を造立して叡覧に備えたことを賞し、檀那島津貴久の尽力を神妙・懇志大切と伝えた論旨副状。
永禄九年十月廿八日 / 冊子 151頁
細川藤孝が畿内の政変を先代未聞の事態とし、一乗院が甲賀和田へ退いたこと、近国への出勢命令を受けて入洛を急ぐことを伝えた書状。島津貴久・義久に忠功を求める御内書が出され、使者として上野大蔵入道を下向させたと述べる。
元亀二年七月廿四日 / 冊子 248~249頁
肝付良兼が島津貴久の死を知り、七月二十四日に僧衆を集めて霊前へ供膳を備え、捧げた祭文。貴久を文武に秀でて三州を中興し、適材を用い、百戦百勝の名を広めた君主とたたえる。良兼の先人と貴久との盟約・厚誼を回想し、敵対関係にあっても死を悼む情は貴賤を超えるとして、五十八年の生涯と群臣・庶民の悲嘆を詠嘆する。
永禄七年三月十四日 / 冊子 131頁
上卿中山大納言のもと、蔵人頭右大弁藤原淳光が奉じ、修理大夫藤原貴久を陸奥守に任じることを伝えた口宣案。
元亀二年六月廿九日 / 冊子 247~248頁
貴久没後二十九日の荼毘に際し、三男島津歳久が日新寺で捧げた祭文。貴久を三州中興の大賢として、孔孟の学、軍略、民の撫育、父子への忠孝、寺院建立・僧侶済度などをたたえる。歳久自身も軍旅で愛憐を受けたことを回想し、突然の死と父との永別を嘆く。
元亀二年六月廿九日 / 冊子 248頁
島津征久が父貴久の死を悼んで日新寺で捧げた祭文。貴久の軍略、民を慈しみ天を敬う治世、和歌・学問・武威、幼くして父を失った征久への教導をたたえる。加世田で突然没したことを嘆き、九天・黄梁の夢・散る桐葉などの比喩で五十八年の生涯と永別の悲しみを表す。
二月廿日 / 冊子 342~343頁
島津忠良が貴久と家中へ、内乱を避け、自身への戒めと用心を怠らず、内から生じる『国魔』を理法によって抑えるよう説いた訓戒状。一時の義を装う私心を退け、国家・家のために善政を行うことを求める。
応永廿九年八月四日 / 冊子 322頁
島津貴久が、山門退治への出陣と軍忠を賞し、今後も戦功に励むよう西俣出羽守へ命じた感状。
七月一日 / 冊子 349頁
島津貴久が比志島氏へ、境目の様子、川口からの帰還、春山の件、世上の情勢や伊集院方の混乱を伝え、近日中に自ら訪ねて諸事を申し述べるとした書状。
永享四年二月三日 / 冊子 354頁
島津貴久が本田殿に本田の名字を認め、領地内で諸事が起きた際の地頭検断を代々免除し、今後相違があってはならないと定めた書下。
永享四年五月十三日 / 冊子 355頁
島津貴久が廻氏へ、世上が変転しても一心に協力し、今回の厚意を忘れず、不穏な風説があれば直ちに知らせると誓い、違背時の神罰を記した起請文。
永享四年五月十五日 / 冊子 355頁
島津貴久が比志島氏へ、世上が変転しても二心なく信頼し、忠節を生涯忘れず、和議を害する動きがあれば直ちに知らせると誓った起請文。本文年紀は『永享三年五月十五日』。
永享七年六月九日 / 冊子 370頁
島津貴久が伊地知縫入道へ、大隅国下大隅の伊地知方を由緒により宛行い、そのほかの所領は闕所が生じ次第領掌できると定めた文書。
永享七年六月十二日 / 冊子 370~371頁
島津貴久が樺山殿へ、天下が変転しても一味同心して忠節を尽くし、安房のことを心に掛け、和譲・凶害があれば直ちに報告することを神仏に誓った契状。
永享七年十月十四日 / 冊子 371~372頁
島津貴久が一同に対し、談合の際は偏りなく率直に意見を聞き、自らの考えを示したうえで多数の意見に従い、合議事項を繰り返し検討することを神仏に誓った文書。目録は永享七年十月十四日とするが、本文年紀は同年十一月十二日。
年月日未詳 / 冊子 603頁
島津貴久の系譜記事として、貴久公御譜中および日新斎の子女に関する記載を掲げる。
(享禄二年)五月二日 / 冊子 700頁
島津貴久が攝津介に、加世田へ移る意向、市来野から来た栗毛馬の扱い、串木野方面で敵十人ほどを討ち取った戦況を伝えた書状。
「天文元年」三月廿四日 / 冊子 712頁
島津貴久が遠江守に、前日の勝利を受けて出陣を求め、先日の談合内容に従って速やかに来るよう促した書状。
十一月廿五日 / 冊子 750頁
島津貴久・忠兼が肝付方に、雪花の瑞相や当時の情勢に触れ、誠意を尽くして公務に励むよう求めた書状。
二月十日 / 冊子 752頁
島津貴久が新納四郎忠茂に、年頭の祝意と遠路の来訪への感謝を伝え、今春の満悦と今後の交誼を述べた書状。
天文八年六月廿三日 / 冊子 778頁
島津貴久が摂津介に、出陣と奔走への労をねぎらい、途中での戦闘・負傷を承知したこと、今後の働きを頼む旨を伝えた書状。
天文八年閏六月十五日 / 冊子 778頁
島津貴久が本田紀伊守に、孫らの消息と近況を尋ね、音信を寄せるよう求めた書状。本文は本田作左衛門尉宣親所蔵の正文。
年月日未詳 / 冊子 778~779頁
天文八年閏六月十七日、島津貴久が軍勢を率いて平良城方面へ進み、伊集院方と激戦を交えた経過を記す。樺山玄佐・鎌田氏らが敵城を攻撃したが味方にも損害が生じ、いったん退却して部隊を再編し、後続の攻略に備えた戦況を詳述する。
天文九年三月 / 冊子 788頁
島津貴久が、元久創建の福昌寺再興に関し、宇宿の旧地と寺領を寄せて伽藍を復興させる旨を示した文書。本文には御譜未収録との注記がある。
天文九年三月 / 冊子 789頁
島津貴久の花押を据えた再興命令と、福昌寺再住忍岳の申状を併載する。元久創建後に荒廃した福昌寺へ旧地・寺領を寄せ、伽藍再興と大檀越としての功績を記した。
天文九年十一月廿六日 / 冊子 791頁
島津貴久が梵天・帝釈・四大天王以下の諸神仏に誓い、偽りがあれば神罰を受けると述べた起請文。川上武蔵守受久の譜に収められる。
年月日未詳 / 冊子 801~802頁
種子島時堯父子の不和をめぐり、島津貴久が伊勢守を将として派遣し、軍船で種子島へ渡らせた経過を記す。交渉によって父子を和解させ、軍勢を帰還させた。
天文十一年十一月十三日 / 冊子 807頁
島津貴久が本田紀伊守らに、互いに隔心なく相談し、他者の讒言を受け入れず、諸家の出頭時にも忘却せず、無二の奉公を求めることなどを神々に誓った起請文。
天文十一年十二月六日 / 冊子 808頁
島津貴久が奉公の賞として、大隅国小濱名六町、城村怒久見田、西郷、小田名、加治木郷日木山名など、合計四十四町を宛行い、領知するよう命じた。
(天文十二年)十月十三日 / 冊子 814頁
島津貴久が本田紀伊守らに、珠玄・与風の来訪への謝意を述べ、今後も隔意なく連絡し、時宜に応じて人を送るよう求めた書状。
(天文十三年)四月廿一日 / 冊子 817頁
島津貴久が音書への謝意を述べ、替わりのない交誼を喜び、日谷山への移動と参会の都合を知らせた書状。
(天文十三年)五月十三日 / 冊子 818頁
島津貴久が本田紀伊守に、珠玄の来訪が延引していることを案じ、今月中の来訪を頼むとともに、相手方の情勢や来月の対面予定を尋ねた書状。
年月日未詳 / 冊子 818頁
天文十三年夏、山田加賀守忠廣の所領処置と肝付忠功との関係を発端に、入来院重聡ら周辺勢力が介入した経過を記す。所領をめぐる交渉が諸氏の離合集散を招き、各地への出陣と戦闘へ発展して、島津貴久方の領国統制問題となったことを示す。
(天文十三年)十月十三日 / 冊子 819~820頁
島津貴久が本田紀伊守らに、珠玄・与風の来訪への謝意を述べ、今後も隔意なく連絡し、時宜に応じて人を送るよう求めた書状。本文はNo.2461と同文のため省略される。
天文十三年閏十一月吉日 / 冊子 820頁
島津貴久が伊地知式部大輔に、世間の雑説にかかわらず疎略にせず、凶事には助け合い、相互の権利を守ることを大小の神祇に誓った起請文。
十一月吉日 / 冊子 820頁
島津貴久が内山九郎左衛門尉からの請文を受け、こちらも疎略にしないことを約し、梵天・帝釈から当国の鎮守諸神までの神罰を掲げて誓った起請文。
年月日未詳 / 冊子 820頁
島津貴久が幼名虎寿丸の時に島津勝久の嗣子となった後、勝久が前約を変えたため家中が混乱した経緯を記す。島津忠良・実久ら一族の関与、貴久の家督継承を支持・反対する諸勢の対立を追い、太守の地位と国政主導権をめぐる争いの発端を示す。
年月日未詳 / 冊子 824頁
天文十四年三月十八日、島津忠廣・北郷忠相らが島津貴久を太守に立てて国政を託した経緯を記す。島津宗室の継承秩序と近衛家との関係を根拠に貴久の正統性を示し、一族・国衆が共同して家督と領国支配を安定させようとした。
天文十四年四月十八日 / 冊子 825頁
島津貴久が本田紀伊守に、大隅国の牛称三町・城村辺田三町・二川三町・堺三町、計十二町を宛行い、奉公と忠節を求めた宛行状。
天文十四年四月十八日 / 冊子 825~826頁
島津貴久が本田紀伊守に、大隅国東郷六町と日當山城用富名六町、計十二町を宛行い、奉公と忠節を求めた宛行状。
五月三日 / 冊子 826頁
島津貴久が種子島氏に、徳永次郎三郎が遺した儀について先例に従って処置し、祝着に存ずると伝えた書状。
天文十四年十一月十六日 / 冊子 827~828頁
島津貴久が疱瘡平癒を祈り、熊野山三社・高野山・新田宮・天満宮・正八幡宮などへの代参と神物奉納を誓った立願文。
天文十七年三月朔日 / 冊子 851頁
島津貴久が薩摩国市来院法城山龍雲寺へ、市来迎寺三町・山野・畠地などを寄進し、永代の寺領とした寄進状。
年月日未詳 / 冊子 852~855頁
天文十七年、大隅国府の本田氏旧臣が起こした乱を島津貴久方が鎮定した経過を記す。本田紀伊守・北原方と伊集院忠朗らが清水城・姫木城を争い、放火で寺社が焼失する中、日新公方の援軍と城攻めによって反乱勢力を退け、地域支配を再建した。
天文十七年六月十一日 / 冊子 865頁
島津貴久が神仏に誓い、相互の信頼と約束を違えないことを述べた起請文。
(天文十八年)二月六日 / 冊子 875~876頁
島津貴久が、義久の帰宅を祝い、相手方の人衆の到着と今後の弓箭について述べた書状。左衛門督歳久譜中に収める。
年月日未詳 / 冊子 876~877頁
島津貴久が清水に滞在して戦後処理を進めた記事。伊集院忠朗・北郷氏ら軍功者を賞し、離反していた諸地域の帰順を受け入れて秩序回復を図る一方、日向山東を領する伊東義祐の軍事動向を警戒し、国境方面の守備と今後の対応を整えた。
年月日未詳 / 冊子 882~883頁
天文十八年、島津貴久方が加治木城主肝付兼盛と蒲生・渋谷方を攻めた戦役を記す。伊集院忠朗らが城と周辺陣地を攻略し、敵勢を退散させて加治木城を落とした後、使者・人質を介して和議を結び、兼盛らを赦免して帰順させた。
六月五日 / 冊子 884頁
島津貴久が月初の報告と祈念の状況について述べ、相手方の知らせを喜び、引き続き祈祷するよう求めた書状。左衛門督歳久譜中に収める。
天文十九年四月吉日 / 冊子 887頁
島津貴久が加治木に関係する六町分の所領を肝付兼盛へ宛行い、安堵した宛行状。