西藩野史
年月日未詳 / 冊子 315~317頁
島津久豊と伊集院頼久の長期抗争を中心に、薩摩・日向各地の城郭攻防と佐多親久・平田重宗らの働きを記す。伊東祐安との和約に至った一方、久豊は上京を果たせず、応永三十二年正月二日に薨去した。軍歴と晩年を一連の伝記としてまとめる。
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年月日未詳 / 冊子 315~317頁
島津久豊と伊集院頼久の長期抗争を中心に、薩摩・日向各地の城郭攻防と佐多親久・平田重宗らの働きを記す。伊東祐安との和約に至った一方、久豊は上京を果たせず、応永三十二年正月二日に薨去した。軍歴と晩年を一連の伝記としてまとめる。
年月日未詳 / 冊子 318頁
山門院にいた島津守久を貴久が攻めた際、従軍中の勝久の居城を叔父遠江守十忠らが攻め、久豊の許しを得て勝久を追放したため、勝久が妻子を残して他国へ出奔した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 319頁
薩摩平定後、島津貴久が未婚であったため、島津久豊が新納忠臣の娘を麑島へ迎えて貴久の妻とするよう、北郷知久を介して婚姻を進めたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 321~322頁
応永二十九年、島津貴久を大将として山門方面へ派遣し、伊集院頼久方の城を包囲した戦役を記す。和泉・阿久根方面を含む進軍路、城方の籠城、攻撃軍の兵站、周辺住民の避難・協力を追い、伊作城など山門地域の拠点を孤立させた経過を示す。
応永廿九年八月四日 / 冊子 322頁
島津貴久が、山門退治への出陣と軍忠を賞し、今後も戦功に励むよう西俣出羽守へ命じた感状。
年月日未詳 / 冊子 322~323頁
山門院での反乱と軍勢召集を受け、島津久豊が貴久を大将として派遣した経過を記す。平田重宗・伊地知久安・山田氏ら諸将が部隊を率いて城の攻撃・守備に当たり、伊集院頼久方の動向を警戒しながら反乱鎮圧と山門院の支配回復を進めた。
年月日未詳 / 冊子 323~324頁
祝翁死後の守護職をめぐり薩摩・大隅・日向で反乱が続くなか、島津久豊が兵を整えて対処した経過を記す。貴久・安鶴丸らの一族関係を整理し、伊集院頼久方への軍事・政治対応を進めた。守護家の継承問題が三州の動揺と結び付いたことを示す島津義天譜記事。
年月日未詳 / 冊子 324~325頁
応永三十年春、幕府の伊東氏征討命令を受けた島津久豊・貴久方の戦役を記す。平田重宗・伊地知久安らが加江田城・油津方面へ進軍し、陸海から攻城したが、兵站と輸送に苦しんで撤退し、軍勢を再編して再進軍を試みた経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 326~327頁
『島津義天譜』が、応永三十一年に島津久豊が薩摩・大隅山西の騎兵・歩兵を動員した経過を記す。島津貴久・伊集院頼久ら諸将を編成し、伊東方への備えとして油津方面へ進発し、日向南部の戦線へ軍勢を集結させた。
応永卅二年八月廿八日 / 冊子 335頁
足利義持が、島津陸奥守貴久を日向・大隅・薩摩三か国の守護職に補任し、先例に従って沙汰するよう命じた下文。
「応永卅二年」九月二日 / 冊子 335頁
足利義持が、島津貴久からの太刀・金襴・義眼の献上を受領して神妙と賞し、返礼として太刀と鎧を遣わした御内書。
年月日未詳 / 冊子 336頁
島津国史巻十一として、島津貴久が忠国へ改名し、大隅守に任じられたことや、応永三十三年の動向を記す。
七月一日 / 冊子 349頁
島津貴久が比志島氏へ、境目の様子、川口からの帰還、春山の件、世上の情勢や伊集院方の混乱を伝え、近日中に自ら訪ねて諸事を申し述べるとした書状。
永享四年二月三日 / 冊子 354頁
島津貴久が本田殿に本田の名字を認め、領地内で諸事が起きた際の地頭検断を代々免除し、今後相違があってはならないと定めた書下。
永享四年五月十三日 / 冊子 355頁
島津貴久が廻氏へ、世上が変転しても一心に協力し、今回の厚意を忘れず、不穏な風説があれば直ちに知らせると誓い、違背時の神罰を記した起請文。
永享四年五月十五日 / 冊子 355頁
島津貴久が比志島氏へ、世上が変転しても二心なく信頼し、忠節を生涯忘れず、和議を害する動きがあれば直ちに知らせると誓った起請文。本文年紀は『永享三年五月十五日』。
永享七年六月九日 / 冊子 370頁
島津貴久が伊地知縫入道へ、大隅国下大隅の伊地知方を由緒により宛行い、そのほかの所領は闕所が生じ次第領掌できると定めた文書。
永享七年六月十二日 / 冊子 370~371頁
島津貴久が樺山殿へ、天下が変転しても一味同心して忠節を尽くし、安房のことを心に掛け、和譲・凶害があれば直ちに報告することを神仏に誓った契状。
永享七年十月十四日 / 冊子 371~372頁
島津貴久が一同に対し、談合の際は偏りなく率直に意見を聞き、自らの考えを示したうえで多数の意見に従い、合議事項を繰り返し検討することを神仏に誓った文書。目録は永享七年十月十四日とするが、本文年紀は同年十一月十二日。
永享八年五月廿日 / 冊子 374頁
本文では島津忠国が澤殿へ、島津御庄大隅方栗野院内の正宮御神領として、四季の大般若田四町・仁王経田二町四段・仏聖田六段、計七町を安堵した文書。目録標題は『島津貴久安堵状』。
永享八年五月廿日 / 冊子 374頁
本文では島津忠国が澤殿へ、島津御庄大隅方栗野院内の正宮御神領として、八月彼岸田五段・同二日田五段・十一月正御祭田一町、計二町を安堵した文書。目録標題は『島津貴久安堵状』。
永享八年十二月十三日 / 冊子 377頁
島津忠国が、島津次郎三郎(後の貴久)の加冠役として藤原満久を定めた文書。樺山氏五代満久の譜中に収載され、正文は樺山源三郎久清所蔵と注記される。
永享十年五月七日 / 冊子 380頁
本田氏親が鹿児島諏訪大明神祭礼の作法を子孫へ書き残した置文。島津貴久代に始まった頭殿・居頭の由来と役割、天下・国・三か国の祈念に御幣を奉る順序を説明し、島津家に奉仕する者が末代まで心得るよう求める。
永享十一年二月十八日 / 冊子 385~386頁
慧燈院に伝わる複数の寄進状・寺領関係文書について、鹿児島郡花棚村琵琶田・西田村・住吉・谷山福本などの所領と寄進者・証判を列挙し、島津持久(用久)が袖判を据えて証明した文書。前惣持中翁老衲が記録した。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 402頁
右京大夫持之が将軍家の命を奉じ、島津持久らの治罰のため島津忠国へ合力し、とりわけ島津貴久への二心ない忠節を賞して、今後も戦功を励むよう吉田若狭守へ命じた御教書。
年月日未詳 / 冊子 603頁
島津貴久の系譜記事として、貴久公御譜中および日新斎の子女に関する記載を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 623~624頁
『島津国史』が、島津忠将の家系・官途を起点に、永正十七年以後の合戦と軍功を記す。忠朝・貴久・勝久との一族関係、伊集院尾張守忠武ら家臣との従軍、恩賞・所領支配の推移を掲げ、忠将家の成立と島津家中での役割を整理する。
年月日未詳 / 冊子 624頁
島津忠将一流の系図で、忠将の初名・通称・官途、永正十七年の誕生、母が貴久と同母であることを記す。
年月日未詳 / 冊子 626頁
島津忠将一流の系図で、忠将が国主の次弟で、永正十七年十一月十二日に薩州伊作で生まれ、貴久と父母を同じくしたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 635~639頁
新納忠武らの挙兵を契機に、島津忠兼と忠良・貴久方が争った経過を記す。伊作・伊集院・鹿児島方面の城攻めと軍勢移動、伊集院忠朗・伊地知・北郷諸氏の帰属、交渉による和睦と再対立を追い、守護家の主導権が変化した過程をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 659頁
島津忠良が出家して日新斎と号し、生別府で十四歳の千代鍋を元服させ、太郎(樺山玄佐)と称させた記事。太郎を島津貴久の弟の列に加え、樺山氏の後継として位置付ける。あわせて忠良の次女が伊作浦から市来湊を経て生別府へ移った経路を記し、一族の身分編成と移動を示す。
年月日未詳 / 冊子 666~667頁
大永六年十一月十二日、島津忠兼が使者を通じ、忠良の長男虎寿丸を猶子として家督を譲る意向を伝えた経過を記す。忠良は村田越前守・土持伊豆守・梶原備前守らの仲介にも再三辞退したが、最終的に受諾し、虎寿丸が貴久として継承する。
年月日未詳 / 冊子 668頁
大永六年初秋、島津勝久と実久の不和が深まる中、勝久が忠良へ奉公と支援を求めた経過を記す。伊集院・阿多加賀守・本田紀伊守らが仲介し、忠良の子貴久・虎寿丸を勝久の後継に据える政治調整を進め、家中対立を収拾しようとした。
年月日未詳 / 冊子 668~669頁
大永六年、島津忠良が桑波田氏の奉公に報いて南郷を与えたことから、勝久が忠良の勢力拡大に驚き伊集院へ赴いた経過を記す。両者の協議で貴久・虎寿丸を勝久の養子とする約束が進み、所領給与を契機に守護家の後継問題が動いた。
年月日未詳 / 冊子 674頁
大永七年二月十八日、伊集院・谷山での動きにより少数で移動した勝久らが福昌寺大廣東堂へ入り、虎寿丸や忠良側との関係が展開したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 682~683頁
大永七年六月二十一日、島津実久の軍勢が日新領の伊集院・日置両城を攻め落とした経過を記す。忠良方の将兵は園田氏宅などへ潜伏して抵抗・連絡を続けたが、城を維持できず退避した。落城後の部隊分散と貴久方の再起準備を伝える。
年月日未詳 / 冊子 683~684頁
島津勝久が虎寿丸(貴久)へ国を譲った後の政変を、樺山信久の立場から記す。島津忠兼・肝付越前守らの動向、加治木・伊作・鹿児島方面の戦闘、村田越前守らとの関係を追い、信久一族が対立する勢力間で帰属を選び奉公を継続した経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 685頁
大永七年、清水城に籠る敵を攻めるため八幡宮の衆徒らを動員し、仏敵退治と神威を掲げて本田・新納方へ進攻したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 697頁
伊地知重辰が新城方として敵陣を切り通し戦死したこと、父子の戦死で一族が離散し、系図も失われた経緯を記す。
(享禄二年)五月二日 / 冊子 700頁
島津貴久が攝津介に、加世田へ移る意向、市来野から来た栗毛馬の扱い、串木野方面で敵十人ほどを討ち取った戦況を伝えた書状。
(享禄二年)六月 / 冊子 702~704頁
享禄二年六月十一日以降の島津忠良・貴久方の軍事・外交を日次で記す。隈江匡久、本田紀伊守、山田安藝守らの使者派遣、指宿・市来・串木野・清水方面の軍勢と物資の移動を追い、祢寝・肝付・豊州方との贈答・交渉内容を具体的に記録する。
享禄四年八月廿三日 / 冊子 711~712頁
島津忠良・貴久・忠朝、伊集院忠朗らが父子・一族間の合意を守ると誓った連署起請文。互いの知行・所領を侵さず、重要事項を協議し、軍事・家政で相互に協力することを定め、違反時には梵天帝釈・八幡大菩薩など諸神仏の罰を受けると誓約する。
「天文元年」三月廿四日 / 冊子 712頁
島津貴久が遠江守に、前日の勝利を受けて出陣を求め、先日の談合内容に従って速やかに来るよう促した書状。
年月日未詳 / 冊子 712~713頁
天文元年、世情が不穏となるなか、島津忠良・貴久方と伊東・北原方が高城をめぐって対立した経過を記す。樺山信久・北郷忠相・島津忠朝らが城郭と交通路を確保し、敵方の進出を防ぎながら攻防を進めた。高城支配が諸勢力の同盟関係を左右したことを示す。
年月日未詳 / 冊子 715頁
島津義久の通称・官位と、天文二年二月九日の出生、母が入来院弾正忠重聡の娘であることを記す。
年月日未詳 / 冊子 715頁
天文二年二月十日、知覧・川辺に現れた桑波田孫六を先約どおり鹿児島へ迎え、翌十九日に羽狩のため山へ登る留守を機に南郷城を平定したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 720~721頁
鹿児島方面の合戦で新納勢が敗北し、敵方諸将が処刑・戦死した経過を箕輪伊賀が記す。相州家の危急を訴え、梅岳君・勝久らの動向を述べる一方、討伐された者の子が後年に召し出され、父祖の奉公を考慮して恩賞を受けた戦後処遇までを伝える。
年月日未詳 / 冊子 721頁
天文二年八月十四日、忠将が南郷城を守るなか、桑畑孫六・末弘伯耆守ら三百余騎が来攻したため、忠良方と討ち合って敵兵を退散させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 724頁
天文三年八月十四日、鹿児島方の多勢来襲を蘭田五藤兵衛が知らせ、貴久・忠良方が応戦した経緯を記す。新納勢を退け、多数を討ち取り、忠良自身も敵を斬ったとする。
年月日未詳 / 冊子 724~725頁
貴久との約束から二年後、貴久の妹君を川上上州へ密かに移送した経緯を樺山玄佐が記す。妹君・乳母・従者らは伊作浜から舟で市来湊へ渡り、入来院領内では人目を避けて夜間に山路を越えた。途中の宿所、案内・警固に当たった者、身分を隠して川上方へ引き渡すまでの手順を具体的に伝える。