島津彰久譜
年月日未詳 / 冊子 869頁
島津彰久が義弘に従って昌原浦辺の大山で虎狩りに参加し、家臣の安田某が剣で虎を討ち、忠恒から宝刀を与えられたことを記す。 彰久は同年七月五日に朝鮮国巨済の陣中で二十九歳で病没した。死後は家老の川上忠実が軍勢を率いて在陣を続け、義弘の命で旧館岩を守ったという。
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年月日未詳 / 冊子 869頁
島津彰久が義弘に従って昌原浦辺の大山で虎狩りに参加し、家臣の安田某が剣で虎を討ち、忠恒から宝刀を与えられたことを記す。 彰久は同年七月五日に朝鮮国巨済の陣中で二十九歳で病没した。死後は家老の川上忠実が軍勢を率いて在陣を続け、義弘の命で旧館岩を守ったという。
年月日未詳 / 冊子 339頁
豊臣秀吉の九州征伐後、島津一門の諸将に人質提出が命じられたため、島津彰久が父・久敏に代わって人質として京都に置かれ、数年を過ごしたことを記す。島津一族が服属の保証として若年者を在京させられた実例である。
年月日未詳 / 冊子 533頁
文禄元年春、島津彰久が兵庫頭島津義弘の配下として朝鮮へ渡り、義弘の供奉・軍務に従ったことを簡潔に記す。彰久が島津軍の一員として渡海した事実を確認できる人物履歴。
年月日未詳 / 冊子 707頁
秀吉の朝鮮渡海命令を受けながら病床にあった島津彰久が、文禄二年五月十一日に渡海し、六月十一日に釜山へ入津、十四日に「コチャハン」、七月三日に「キンムイ」へ在陣した経路を記す。 町田伝右衛門が供奉しており、彰久の病後の出陣時期と朝鮮での移動を日付入りで確認できる家譜記事。
文禄2年閏9月28日 / 冊子 747頁
島津彰久が、朝鮮で二十一歳の生涯を閉じた島津久保の霊前に捧げた祭文。異国の戦場で示した武勇と将来性を称えながら、若くして亡くなったことを漢文と韻文で深く嘆く。 久保が島津家の後継者として寄せられていた期待と、その死を家中が大きな損失として受け止めたことを示す。
文禄2年10月29日 / 冊子 751頁
島津彰久が、隅州清水にある一町一畝二分半の土地を、神への供物を賄う御供田として正八幡宮へ寄進した坪付。 寄進地の所在地と面積を明記し、神社祭祀を支える土地の規模を確定した文書。
年月日未詳 / 冊子 899頁
島津彰久が文禄四年七月五日に朝鮮で病死し、享年二十九、法号を天宗慈雲大禅定門としたことを記す。 家臣の安田次郎兵衛が主君の死を追って殉死した逸話も載せ、朝鮮在陣の人的損失と主従関係を伝える。
年月日未詳 / 冊子 905頁
島津彰久が文禄四年七月五日、朝鮮巨済島の陣中で病没し、殉死者を伴って葬られた経緯を記す。 法号「天宗慈雲大禅定門」と、同年八月十日に義久が追悼文を贈ったことを掲げ、朝鮮在陣中の死と島津家の服喪を結びつける譜記事。
天正十二年三月二十四日 / 冊子 870頁
有馬鎮貴が龍造寺隆信に圧迫されて義久へ救援を求めたため、彰久は家久を大将とする豊久・忠直ら三千の軍に加わった。島原で龍造寺勢と戦い、軍功を挙げた。
年月日未詳 / 冊子 707頁
六月十一日に釜山へ無事入津し、十四日に「ちゃはん」へ着いたこと、当初の軍務が順調であることを家族らへ知らせる。 戦地では手火矢の音が聞こえる状況や、石田三成らへの対応、自身の健康・今後の滞陣にも触れており、若い彰久の朝鮮到着直後の実感を伝える仮名書状。
年月日未詳 / 冊子 123~124頁
永禄六年六月十六日に生まれた島津義久の女子について、島津義虎および島津彰久の室となったこと、母は種子島氏の女子であることを記す。寛永十八年八月十五日に新城で七十九歳で死去し、法名も載せる系図記事。
年月日未詳 / 冊子 869~870頁
豊臣秀吉へ薬用の虎肉・内臓や毛皮を献上するため、朝鮮在陣中の島津勢が虎を追った経過を家久譜から詳述する。島津彰久の臣・安田次郎兵衛や長野助七郎らが接近戦を挑んだ。 虎の逆襲で死傷者を出しながら二頭を仕留め、小西行長へ成果を報告したという。狩猟の危険、家臣の戦い方、献上品調達が一体となった臨場感ある記事。
永禄十年 / 冊子 161頁
島津忠将一流の系譜として、島津以久の子彰久が永禄十年に生まれ、母は北郷左衛門尉時久の長女であったことを記す。彰久の通称を又四郎、官途を右衛門尉とする。
天正十二年春~三月二十四日 / 冊子 846~847頁
天正十二年春、島津家久を大将、豊久・彰久・忠長を副将として三千余騎が高来へ渡り、有馬氏とともに島原へ布陣した記事。三月二十四日に龍造寺隆信の数万騎を破り、川上忠堅が隆信を討ち取って高来・島原を有馬領とし、島津軍は帰陣した。
天正十二年春~三月二十四日 / 冊子 866頁
天正十二年春、島津家久を大将、豊久・彰久・忠長を副将として三千余騎が有馬氏と島原に長陣し、三月二十四日に龍造寺隆信の数万騎を破った記事。川上忠堅が隆信を討ち、三十余の首を得て高来・島原を有馬領とし帰陣した。
天正十二年三月九日~二十四日 / 冊子 868~870頁
島津義久が薩摩・大隅・日向の軍勢を率いて三月九日に出陣し、十六日に佐敷へ着陣した。義弘・歳久や相良氏と会合後、家久を大将として豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を有馬勢千五百と合流させ、深江・安徳を経て島原へ進軍させた。三月二十四日、龍造寺隆信の大軍を迎え、家久の決死の督励のもと川上忠堅らが隆信を討ち取り、敵首三千余を得た。義久は佐敷で戦勝報告を待った。
年月日未詳 / 冊子 415頁
天正十六年、以久が大隅国清水の所領を嫡子・彰久へ譲り、自身は上井城へ移ったことを記す。 この年に秀吉から判物を受けたことも添え、豊臣政権下での島津一族の家督・所領再編を伝える譜記事。
文禄2年11月吉日 / 冊子 751~752頁
沢永温が、検地で漏れていた大隅国清水の土地を、彰久が正八幡宮の御供米用として新たに寄進した経緯を説明する。毎年正月三日の供米に充て、武運長久と領内安泰を祈るよう定める。 No.1226の坪付に寄進目的と祭祀上の用途を加えた温訓状。
文禄4年8月10日 / 冊子 905~906頁
義久が「天宗慈雲」の法号を持つ彰久を悼み、朝鮮から魂が帰るよう仏に願う追悼文と和歌。 「露の玉」「葛の葉」など無常を表す語を重ね、若くして異国で没した一族への深い哀惜を示す、島津家の心情史料として貴重である。
年月日未詳 / 冊子 913-914頁
島津忠輿譜は、祖父島津忠興の家系と佐土原領有の由緒を記す。島津以久が慶長六年に佐土原城番を命じられ、同八年に徳川家康から佐土原三万石を拝領したのち、嫡子彰久の没後に忠興へ家督を譲った経緯を述べる。
年月日未詳 / 冊子 744~745頁
島津忠勝一流の系図。右馬頭以久の子彰久・久信・久敏以下、島津家久の娘を母とする忠清、島津光久の諸子忠顕・久侶・久雄・久治らが北郷家などへ養子相続した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 161頁
島津彰久室の譜記事。島津義久の二女で新城君と称し、永禄六年六月十六日に種子島左近大夫時堯の娘を母として生まれた。寛永十八年八月十五日に新城で死去し、享年七十九、法号を珠月浄珊庵主としたことを記す。
天正十年~天正十二年三月二十四日 / 冊子 763~764頁
天正十年の田尻救援から翌十一年の有馬救援、さらに天正十二年三月二十四日の島原合戦までを叙述する長編軍記。深江攻撃で新納忠嘉が戦死した後、家久を大将とする約千五百騎が有馬勢と合流し、寡兵で龍造寺の大軍を破った。川上忠堅らが隆信を討ち、家久・豊久以下が奮戦して敵首三千余を得、有馬氏へ旧領の半ばを返し、日上・島原の守備を定めた。
天正十一年~天正十二年春 / 冊子 863~866頁
有馬氏の島津への救援要請、新納忠嘉の戦死、家久父子らの高来渡海から島原合戦の勝利までを描く長編自記。家久らが龍造寺隆信の大軍を迎撃し、川上忠堅が隆信を討ち、深江・島原・高田など六城を開かせて有馬氏へ与えた。諸軍は佐敷で義久に謁見し、代賢和尚以下二千余僧が島原で高卒塔婆を立て敵味方を供養した。
天正十二年三月二十四日~二十七日 / 冊子 870~871頁
龍造寺隆信に三年にわたり圧迫された有馬氏を救うため、家久は豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を率い、有馬勢と合わせ三千で深江・安徳を経て島原へ進んだ。三月二十四日、数万の龍造寺軍を前に家久が決死の覚悟を説いて奮戦し、隆信を討ち取って敵首三千余を得た。豊久も強敵を討ち、家久は江里口正右衛門を討った。隆信の首は二十七日に佐敷で義久の実検を受けた。
天正十二年三月~九月八日 / 冊子 926頁
前年から有馬氏救援のため高来へ渡り、天正十二年三月二十四日の島原合戦では家久・彰久らと龍造寺隆信の大軍を破って首三千余を得た。四月には伊集院忠棟・上井覚兼と神代・井福・森山を調略して降伏させ、その軍功により三会・島原を与えられた。九月の肥後在陣時には老臣連署高札に加判した。
年月日未詳 / 冊子 328頁
木食興山上人に上京を急かされた島津義久(龍伯)が、祇園会後の六月十五日に鹿児島を発ち、高良山・岩屋を経て博多へ向かった旅程を記す。博多では細川幽斎・石田治部少輔の訪問を受け、秀吉の旅殿へ出仕して饗応され、翌日には秀吉自ら点てた茶を賜った。下関では京都へ人質として送られる久保・彰久・忠長ら城将の子女一行と合流しており、降伏後の上京と人質移送の実態が分かる。
(元禄七年)十月五日 / 冊子 155~156頁/原整理番号 496
肝付豹右衛門家の口上覚。豹右衛門兼弘の死去時に系図が失われたため、伝承で知り得る範囲を書き上げる。兼弘と親族の系譜、島津右馬頭以久・島津彰久への奉公、朝鮮出陣、川上六郎兵衛負傷時の軍代などを述べ、後段では伴家の幡、大堂宮・梅北大宮司との関係、都城と梅北の間にあった屋形の伝承に及ぶ。元禄七年十月五日付。
年月日未詳 / 冊子 161頁
『殉国名藪』の記事。寛永十八年八月十五日、富山助兵衛が島津右衛門尉彰久室の死に後を追って殉死したことを記す。彰久室は島津義久の二女で、新城君と称したとの傍注がある。
元和二年~正保二年十二月十一日 / 冊子 31頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0050
忠将一流系図から島津久章の父母・兄弟、元和二年の出生、祖母の遺跡相続を記し、正保二年十二月十一日の遠流命と谷山清泉寺での刃傷・誅戮に至る経緯を載せる系譜抄。
年月日未詳 / 冊子 253頁
『島津彰久譜』が、晋州城周辺から新寨へ守備兵を撤収させた際の殿戦と負傷を記す記事。九月廿七日未明、旧館の守兵が密かに城を出ると敵が追撃し、忠実が殿を務めて苦戦しながら新寨へ退いた。味方の戦死者約百五十人の中、忠実の甲冑には矢三十六本が立ち、医師が鏃を抜いて吸血した。義弘は自ら傷を撫で、妙薬と宝刀を与えてその労を慰めたとする。
巻三/冊子 33~35頁
肥後の田尻氏と肥前の有馬氏を救援し、龍造寺隆信を討った経過を記す。隆信に攻められた田尻氏の要請で島津軍が肥後へ進出するが、遠征軍は兵糧・装備が不足して一度撤退した。続いて有馬氏の救援要請を受け、新納忠堯・川上忠堅らを安徳へ送るが、深江攻撃で忠堯が戦死する。翌天正十二年、家久を大将に忠豊・彰久・忠長・忠元ら約千五百騎が島原へ渡り、有馬軍と合流した。数万とされる隆信軍に対し、家久は退却を許さず死戦を命じ、沖田畷で敵を狭隘な地形へ引き込んで撃破する。川上忠堅らが隆信の所在を突き止め、最終的にその首を得た。島津方も多数の戦死者を出したが、敵首三千余を得たとし、守山・神代などの城が落ちた。有馬氏には旧領の一部を返し、島原方面へ島津の守将を置いた。寡兵による大軍撃破と家久の指揮を強調する記事である。
巻四/冊子 46~47頁
秀吉が博多滞在中に九州諸国を諸大名へ配分した内容と、義久の上洛を記す。筑前・筑後・豊前・日向・肥後などが小早川・立花・黒田・伊東・秋月・相良らへ割り当てられ、島津氏は六州制覇の望みを失ったものの、薩摩・大隅・日向の家領が安定したことを慰めとする。木食応其の督促を受けた義久は鹿児島を発ち、牛屎院・佐敷・八代・高良山・岩屋を経て博多で秀吉に謁見する。その後、海路で下関・厳島・堺を通って京都へ向かい、聚楽第で再び秀吉に会って鞍・馬・長刀などを賜った。細川幽斎からも招待と饗応を受け、在京費用として米五千石を給付する朱印状が示される。豊臣政権による九州再編と、義久が上洛・参勤して新秩序へ組み込まれる過程を具体的な旅程と贈答で伝える。
巻五/冊子 63~73頁
朝鮮在陣中の義弘・久保父子の軍功、久保の死と忠恒の家督継承、豊臣軍の人数・配置を記す。まず秀吉の軍法を掲げ、放火・人取り・百姓への非分な課役を禁じ、兵粮管理、飢民救済、城郭普請など占領地統治の規則を示す。久保は忠清道で敵を単騎追撃して首級を得たとされる一方、秀吉の朱印状には木曾城・釜山浦・金海・加徳島などを攻守する各大名の人数と配置が詳細に列記される。久保は金海で虎狩りを行った逸話の後、文禄二年九月に巨済で病没し、二十八歳で世を去った。翌年、弟の忠恒(のち家久)が家統を継ぎ、義弘とともに巨済・加徳島へ在陣する。秀吉の求めに応じた虎狩りでは、義弘・忠恒の家臣が危険を冒して虎を仕留め、その肉を献上して褒賞を受ける。さらに文禄四年および慶長二年の軍勢帳・陣立書を大量に収め、小西・加藤・鍋島・島津・黒田・毛利・宇喜多・小早川・船手衆などの人数、釜山浦から各城までの在番、先陣の順序、軍議・注進・築城・野陣の規則を示す。末尾は南原攻略へ向かう陣立に続く。個々の武功や家督継承だけでなく、朝鮮役における全国大名軍の編成・兵数・占領統治を具体的に伝える軍事記録である。