犬追物手組
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 96頁
慶長十一年十一月二十六日、二日目の犬追物手組を記した一覧。殿以下、島津式部太輔・島津摂津守・島津河内守・本田弥六らの射手名と割当てを列挙する。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 96頁
慶長十一年十一月二十六日、二日目の犬追物手組を記した一覧。殿以下、島津式部太輔・島津摂津守・島津河内守・本田弥六らの射手名と割当てを列挙する。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 97頁
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第三番の手組を記した一覧。殿以下、島津河内守・島津式部太輔・島津勘解由次官・平田新三郎らの射手名と割当てを列挙する。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 98頁
慶長十一年十一月二十七日の犬追物手組を記した別一覧。殿以下、島津河内守・島津式部太輔・島津勘解由次官・平田新三郎らの射手名と割当てを列挙する。
永正十三年三月十六日 / 冊子 610頁
永正十三年三月十六日の犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 95頁
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記した一覧。二日目の射手について、殿以下の人名と組合せ・割当てを図示する。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 98頁
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第二番の手組を記した一覧。殿以下の射手名、組合せ、各人の割当てを図示する。
独立年月日不記 / 冊子 570~571頁/原整理番号 742/整理ID 742
白木御文書中にある外包について、「奥州白川滞陣」「御感状四通入」と表示する。続いて御側役衆・島津式部の名を掲げる。この項は外包の見出し・表示であり、感状四通の正文を載せるものではない。
建武三年三月廿日 / 冊子 654頁
島津式部孫五郎入道道慶が京都合戦で供奉した軍忠について、披露を求めた山田道慶軍忠状。
建武三年三月廿四日 / 冊子 654頁
島津式部孫五郎入道道慶の京都合戦での供奉・軍忠に相違がないことを証し、披露を求めた島津道鑑挙状。
建武四年十一月廿九日 / 冊子 703頁
薩摩国での合戦における島津式部三郎の軍忠を賞し、今後も忠節を尽くすよう命じた足利直義御教書。
明和七年五月十一日 / 冊子 253~254~255頁/原整理番号 682/整理ID 682
太守様の再縁願書を松前主馬が御用番板倉佐渡守へ差し出し、滞りなく受け取られた件は三月二十八日の桂織部・嶋津仲の便のとおりとする。今日、佐渡守から主馬が呼ばれ、別紙書付写のとおり命じられて太守様が承知したため、老中と田沼主殿頭へ礼に回る予定だったが、脚痛のため名代の島津式部から伝えた。若年寄へは左中を、側衆へは物頭を使者として礼を伝えたという。内証からは女使をもって公方様・大納言様・御臺様へ礼を申し上げ、民部卿様・日光御門主様・御三家その他、知らせるべき人々へも使者で伝えた。京都諸司代・大坂城代等へは京都・大坂留守居の使者で知らせ、今日の便で使番へ伝え、江戸に当分いる長崎奉行へは使者、在勤の奉行へは付人からの使者を出すよう命じた旨を、同役へ知らせるよう求める。浄岸院様には太守様から側用人を使者として願いのとおり命じられたことを伝え、将来は浄岸院様から甘露寺家へ知らせ、太守様の表向きの報知と同様、京都留守居の使者で伝えるという。礼の献上物の控書は先例に従って添付し、追って知らせるとする。於綾の大坂出立についても佐渡守から命令があり、今日京都へ伝えた。大坂へはまだ知らせが届かず、甘露寺家の取計らいの返答時期は計りがたいが、相手方へ伝達後、その報知を承知して大坂を発つ予定で、京都留守居から先に申し伝えるよう求める。於綾の名と字等は別紙のとおり「御順様」と命じられたので国元にも伝える。役人・諸士は即日祝儀を申し上げ、残る者は明後十三日に行う予定で、国元の祝儀はその後の使便で報告し、御守殿その他への祝儀も先例に従って相談・通達するよう求める。於綾が江戸へ着く日は着到の一通の祝いとし、結納・婚姻は軽い式で行うとの意向で、婚姻日は来月二十一日の吉日とする。その前の精進日間までに到着する予定を御女中様方へ伝え、広め方と隣国への報知も先例に従って整えるよう求め、到着当日と婚姻次第書、祝物の取替えは追って知らせるという。本日の飛脚は大坂まで極急、そこからも急いで送るよう命じた。仰渡書付写一通・通達写三通を添え、五月十一日付、樺山左京・島津左中の二署と喜入主馬殿・小松帯刀殿・川田伊織殿宛を備える。
同年十二月十九日(明和七年の編年) / 冊子 272頁/原整理番号 725/整理ID 725
同年の冬十二月十九日、上使建部荒次郎廣般によって、鷹が捕えた鶴一隻を重豪が賜ったことを記す。重豪には微恙があったため、島津式部久般が代わって恩旨を奉じ、老中の邸へ赴いて拝謝したという。出典は重豪公御譜中。
同年秋七月二十二日(安永三年に対応) / 冊子 440頁/原整理番号 1211/整理ID 1211
同年秋七月二十二日、一色源次郎(実名闕の注)を芝邸へ遣わし、御鷹の雲雀を賜ったと記す。恩旨を奉じたが、軽い病(微恙)があり、島津式部久般が代わったと述べ、続いて老中各邸への拝謝を記す。原の同年は安永三年の文脈に対応する。雲雀の数、使者の実名、現代の時刻や病名は記さない。御鷹の雲雀を賜った記事で、雲雀を奉献したとの方向へ置き換えない。
同年冬十二月二十一日(安永三年の文脈) / 冊子 447頁/原整理番号 1228/整理ID 1228
同年冬十二月二十一日、大家が使番渡邊喜右衛門を遣わし、御鷹の鶴を賜ったと記す。渡邊には実名闕の注がある。重豪は直ちに恩旨を奉じたが、少し後に微恙が起こったため、島津式部久般を老中各邸へ遣わして拝謝させたという。賜与、恩旨を奉ずること、微恙の発生、久般による代理の礼謝という順序を分ける。本文の「同年」は安永三年の文脈にある。鶴の数量や渡邊の実名、微恙の病名は記されない。久般を遣わす前の故は理由を結ぶ語として読み、故人を表す扱いにしない。七月二十二日の雲雀下付とは別の日・別の鳥の贈答記事である。
現地届五月26・18日、転送届はいずれも七月2日 / 冊子 566~567頁/原整理番号 737/整理ID 737
太政官日誌中の薩州藩届写二件を収める。五月二十六日の届は、昨二十五日に二番・四番半隊と大垣・長州各二十人を大田川宿へ探索に出し、仙台側約百人を撃退して再屯集を防ぐため焼き払い、夕七時に白川へ引き取ったと報じる。二番隊東郷助之丞の戦死、四番隊堅山荘八の深手を記し、七月二日に新納嘉藤二が現地からの別紙を転送する。もう一件は五月十八日、島津式部の届で、昨十七日三字頃から大谷地村方面で二番・四番・足軽隊と大垣・土州が攻め、五字過ぎに相手が退き六字過ぎに引き揚げたとする。白川の要所を焼き払い、大谷地村の戦で十五六人位の死骸、ほかの山中の戦で四斤半大砲一挺と弾薬を分捕り、敵千人ほどがいたとの報を記す。浅手の西吉左衛門・美坂彦八、深手の松崎寛次を掲げ、これも七月二日に新納が届ける。戦況・死傷・概数は各届の報告として示す。
年月日未詳 / 冊子 207~208頁/原整理番号 537
肝付で催された大追物の手組を記した名簿。島津式部大輔、肝付周防守、平田又七郎、伊地知左衛門尉、肝付又八郎、鹿屋三郎二郎らの組分けに加え、検見・喚次などの役を記す。末尾に『御屋形様忠昌御代』とあり、島津忠昌代の催事であることを示す。
十二月三日 / 冊子 703頁
島原・天草の切支丹一揆に対して薩摩勢を派遣する幕命が出たと伝え、速やかな出兵を促す。中納言家久が病中のため、島津式部少輔が軍勢を率いると見込み、指揮を慎重に行うよう求めた。
(寛永十四年)十二月四日 / 冊子 703~704頁
薩摩が出水領の獅子島へ山田民部少輔と兵を配置したことを妥当とし、その旨を江戸へ報告するよう勧める。家久には療養を優先するよう述べ、幕命以前に敵地へ兵を入れることは禁制なので、近隣配置にとどめ、八代の留守居から情報を得るよう助言した。
元弘三年六月八日 / 冊子 612頁
武蔵修理亮北条英時誅伐時の軍忠を記した申状を受理し、その内容に従って沙汰すると島津式部孫五郎入道道慶へ伝えた大友具簡の書下。
建武三年三月日 / 冊子 654頁
島津式部孫五郎入道道慶が、正月廿七日の鴨河原合戦で軍忠を尽くしたことを述べ、以後も軍忠に励むとして、披露・御評判と恩賞を求めた軍忠状。
観応二年六月十三日 / 冊子 808頁
足利直冬が島津式部孫三郎友久へ、薩摩国谷山郡山田・上別府両村地頭職を、関東・鎮西の下知と父道慶・兄忠経の譲状に任せて領掌させた下文。
安永五年七月二十二日賜品への礼、二十七日婚姻許可・賜名への献上 / 冊子 508頁/原整理番号 1410/整理ID 1410
同年秋七月二十二日、大家が使番建部荒次郎廣般を芝邸へ遣わして鷹の雲雀を賜り、恩命を受けた。その後、重豪は島津式部久般を代わりに老中各邸へ遣わし御礼した。続く記事は、大家が徳川民部卿治済の子豊千代と重豪の女茂姫の婚姻を許したと記し、茂姫には初於篤の小字を添える。同月二十七日、当番頭兼用人比志島要人範章を登城させ、家治へ二種一荷を献じた。番頭兼側用人島津登久連は西城へ登り、家基へ一種一荷を献じた。茂姫も納頭役人市田喜内真英を遣わして家治へ二種一荷を献じ、納頭役長野筑右衛門祐精を西城へ遣わして家基へ二種一荷を献じたと記す。また女使を遣わし、種姫君と儲后生母へ肴各一折を献じ、茂姫の献上も同様とし、皆婚姻の命を拝した礼とする。さらに大家が一橋邸に名を賜り茂姫と改称したため、同日に大家・儲后へ肴各一折を献じ、茂姫の献上も同様で、賜名の恩への礼であると結ぶ。二十二日の拝領と代礼、二十七日の父と娘それぞれの献上、婚姻許可と賜名への礼を分ける。父の家基への一種一荷と娘の二種一荷という原記載を一律に揃えず、肴を別の食品名へ取り替えない。許可を実婚の記録へ変えない。
天明八年申三月二十日(朱の日帳抜) / 冊子 985頁/原整理番号 2662の8/整理ID 2662-8
勘解由からの用件で篠原善兵衛が出頭したところ、かねて照会していた子女の母附書付三通を受け取り、ここに留めたと記す。雄五郎は天明二年五月十九日卯上刻出生、公辺へは天明七年に八歳として届出。亀五郎は天明四年二月二十八日夜子上刻、感之介は天明五年八月十七日朝辰上刻出生とする。三人の実母はいずれも島津式部少輔殿密子と記される。これは系図記載を検討する際に受けた説明であり、後続の朱返答では養女・女という記載方法が問題となる。
五月十三日(本文、年次不記) / 冊子 1043・1044頁/原整理番号 2822の1/整理ID 2822-1
雄五郎・亀五郎・感之介三人の実母を島津式部少輔の「密子」とする件で、大炊から於房の出自を尋ねられたため、先の指示に基づいて答えた経緯を伝える。江戸では密子という事情を承知しておらず、系図へそのまま母付を記すと後に疑義が生じるおそれがあると指摘した。留守居の照会にもまだ返答がなく、養女等の関係かもしれないので、国元でも調べ、改めて勘解由へ問い合わせ、大炊とも相談して後便で知らせるよう求める。五月十三日、本田休兵衛。
六月二十三日(本文、年次不記) / 冊子 1045頁/原整理番号 2822の4/整理ID 2822-4
於房を島津式部少輔の女として扱う件や、御子の誕生年月・母付の不明点について勘解由へ照会した経緯を知らせる。三人の実母を密子とする先の書付に誤りはないが、密子の件はかなり以前のことで、今から式部少輔の養女として公儀へ願い出ることは難しく、養女という事情は内輪で承知する扱いとされたという。ただし、そのままでは系図への養女表記も難しいため再び書付で尋ね、明姫・富之進の御事も一緒に確認するよう家老へ申し入れたので、決まり次第知らせるとする。六月二十三日、本田休兵衛。
寛政元年酉七月二十三日(年次は目録、本文に酉) / 冊子 1045・1046頁/原整理番号 2822の5/整理ID 2822-5
於房を島津式部少輔の女として扱うよう内々に承知した際、子女の実母についても問い合わせ、河口転の伝えた先の指示どおりと確認したと知らせる。口達と書面で意味が違うように見えた点も付札のとおり承知するという。明姫・富之進の実母に関する件は一切書面に記さず、奥向担当の家老とも相談して扱うよう求める。また、明姫の出生前に兵庫の子として下すと指示した旧件については、最初からその指示はなかった扱いとして帳面から消除するよう御記録所へ命じてほしいと述べる。これは史料に記された当時の記録処置の依頼である。
文明四年二月五日 / 冊子 126頁/原整理番号 23
文明四年二月五日の犬追物手組。島津式部太輔・犬五郎丸、蒲生十郎三郎、島津又次郎らの射手と犬数を列記し、検見を島津左京亮とする。
延徳二年四月六日 / 冊子 132頁/原整理番号 46
延徳二年四月六日、志布志で行った犬追物手組。前件を受ける「同上」の記載に続き、殿十二疋、島津左衛門尉六疋、島津安藝守八疋などの配当を列記する。検見は島津十郎左衛門尉(義久)、喚次は島津式部少輔。
慶長十一年八月吉日 / 冊子 148頁/原整理番号 88
慶長十一年八月吉日の犬追物手組。「二日二番」と題し、家久様、吉田治部左衛門尉、仁礼舎人佐、山田民部少輔、島津式部少輔らの射手と各人の犬数を列記し、検見・喚次の役を付す。
元徳元年十二月廿五日 / 冊子 573頁
伊集院内の田園をめぐる大隅式部又三郎入道と島津入道慶の相論について、前月九日の和与状に従い、双方の所領分を打ち渡して知行させるよう命じた鎮西下知状。
元徳二年三月十四日 / 冊子 575~576頁
伊集院内の所務・田地本証文をめぐる島津入道慶方との相論について、提示された証文と前年十二月の御教書を確認し、御下知に従って所領を処理すると伊集院助久が答えた請文。
文明六年二月十一日 / 冊子 126頁/原整理番号 29
文明六年二月十一日の犬追物手組。又三郎殿、島津又次郎・塩太郎・大次郎・都之亀丸・式部大輔ら射手別の犬数を列記し、検見を島津因幡守とする。
年月日未詳 / 冊子 149頁/原整理番号 92
日付を記さない「二日二番手組」。家久様、島津近江守、島津伊藤次郎、伊勢平左衛門尉らの射手を挙げる。検見・喚次はいずれも「ナシ」と明記される。
(貞享三年)七月廿二日 / 冊子 761~763頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1999
島津光久が島津久寿へ、佐土原騒動に関する家老・家臣の証言、松木三郎五郎・村上三太夫らの嫌疑、黒貫寺隠居の風説を精査し、関係者を召喚・留置して偏りなく吟味し、家中を安定させるよう条々に命じた達書。
元禄二年十月十六日 / 冊子 844~845頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2241
島津綱貴が島津久寿へ、又次郎の成人に伴う家督相続を進め、家中騒動を止め、公儀に不忠となる事態を避けるため、家臣の処置と家中統制を速やかに行うよう命じた条書。使者として島津新八を派遣した。
建武三年三月五日 / 冊子 651頁
島津式部三郎忠能が御方へ馳参し軍忠を尽くすため着到したことを届け、披露を求めた山田忠能着到状。
元弘三年七月十日 / 冊子 615頁
島津式部孫五郎入道道慶が、乱事鎮定のため自薩摩州を出て参陣したことを届け、軍忠の披露を求めた着到状。
元弘三年八月五日 / 冊子 616~617頁
島津式部諸三郎忠能と亀三郎丸らが北条英時誅伐合戦で分取・生虜などの軍功を挙げたことを確認し、道慶方の注進どおりその功を披露するよう命じた後醍醐天皇の綸旨。
元弘三年八月廿日 / 冊子 617頁
島津式部孫五郎入道道慶が、世上騒乱の鎮定に加わるため自薩摩州を出て参陣したことを届け、軍忠の披露を求めた着到状。
(建武四年)三月日 / 冊子 659頁
島津式部三郎忠能が、筑前国多々良浜などで軍忠を尽くしたとして忠賞を求めた申状。上洛・合戦への参加と働きを述べ、太宰少弐の承了・証判を得て披露を願う。
(貞享三年)二月十八日 / 冊子 748~749頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1971
島津光久が松平大隅守へ、佐土原の島津式部少輔家で代々家老を務めた松木左門が主家と不和になって退いた事情を述べ、左門を領内へ召し寄せて事情を聞くことを申し入れた書状。
(貞享三年)二月十八日 / 冊子 749頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1973
島津久元が、松木左門を召喚して帰参を命じた後も、島津式部少輔家から相反する指示が出て行跡が整わなかった事情を述べ、左門を薩摩へ召し寄せて事情を問い、光久の意向に沿って処置するよう求めた覚書。
貞享三年閏三月十三日 / 冊子 752頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1979
相良長清が伊集院宮内へ、佐土原への使者として派遣され、島津式部少輔家の者と会談し、宿所・借地・家中の救済をめぐる難題を聞いた経緯を報告し、関係者と相談して処置するよう求めた書状。
貞享三年閏三月十三日 / 冊子 752~753頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1980
相良長清が、島津式部少輔家の所帯が逼迫し、銀借用や家中知行の半分借上げをめぐって難儀している事情、江戸での申立てと救済協議、家中への納得が必要であることを条々に述べた口上覚。
年月日未詳 / 冊子 756頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1983
島津光久が、島津式部少輔久寿の財政窮乏により家臣の采地半分を減じる案が出たため、家臣の食田を減らさずに済むよう白銀二百貫目を五年間に分けて与えることとし、家老らへ伝達して謝意を受けた記事。
(貞享三年)八月十七日 / 冊子 779頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2028
宮城監物が島津図書・中務・大学・新納又左衛門へ、去る六日に家来方へ届いた使札を拝見したと返答する。佐土原の島津式部少輔家来を討ち果たした際の手負・死人の人数書付を送り、一見し、市来治左具に伝えて念を入れたという旨を承知したと述べる。
(貞享三年)八月廿四日 / 冊子 780頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2034
大久保忠朝が松平大隅守へ、島津式部少輔家来の者に不届きがあり討ち取った旨の報告を承知し、差し越された使者から示された書面を関係者一同が一覧したと答えた書状。
(貞享四年)七月廿六日 / 冊子 792~793頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2084
老中書状に添えた口上覚で、松平大隅守が持病で不快ならば、島津式部少輔久寿を名代として差し出してよいと伝えた副状。
(貞享四年)七月廿六日 / 冊子 793~794頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2088
松平大隅守が持病で不快ならば、島津式部少輔久寿を名代として差し出してよいと伝える老中書状副状の別収録。
元禄三年五月廿二日 / 冊子 857頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2290
島津式部少輔久寿が老中三名へ、先年、同姓飛弾守の願いどおり自分へ跡式相続を命じられた厚意に謝する。又次郎が当年十五歳になったため、その家督相続を願い、自分もまだ若いので登城を許されたいと求める。