島津光久関係記事
年月日未詳 / 冊子 118頁
寛陽公が霊仏であることを聞き、住僧全有法印に命じて府城の看経所へ安置させたとし、現在の本尊はその際に賜ったものだと伝える記事。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』10冊と関連史料(外伝)『島津世禄記』の16,820件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
592 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 12
年月日未詳 / 冊子 118頁
寛陽公が霊仏であることを聞き、住僧全有法印に命じて府城の看経所へ安置させたとし、現在の本尊はその際に賜ったものだと伝える記事。
承応二年七月 / 冊子 395頁
島津光久を大檀主として大興寺の客殿一宇を再興した棟札写。草堂以来の建物が風雨で傷んだため、郡民の負担を軽くする構造で再建し、天下泰平・国土安穏・檀門繁栄・寺家長久・仏法紹隆を祈願する。
年月日未詳 / 冊子 247~248頁
島津忠清譜の記事。関ヶ原後に肥後熊本へ移った忠清が島津義久の招きで慶長十四年十二月三日に子女を伴って阿久根へ帰国し、娘が島津家久の室となって光久を生み、忠清が厚遇されたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 628頁
元和二年六月二日に鹿児島で島津光久が誕生し、母が島津忠清の娘であったこと、幼名・官位などを記す島津光久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 634頁
「光久公御譜中」に、島津忠朗(初名忠平、忠明、又八郎、兵庫)が元和二年十一月七日に誕生し、母は家臣鎌田政重の娘、延宝四年二月十六日に没したことなどを記す。島津光久本人の出生記事ではない。
年月日未詳 / 冊子 641頁
島津家久の男子光久の誕生を知った琉球中山王が、海路遠隔のため遅れながらも祝書と祝物を送ったことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 641頁
佐敷王子・与那城王子が加治木へ来訪し、年頭礼・孫光久の誕生祝・質人赦免の謝礼として芭蕉布・焼酎・金銀器・白銀などを義弘へ贈ったことを記す島津義弘譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 663頁
島津光久譜に、光久・忠朗・久直・岩松丸・又十郎・式部大輔の名を掲げ、元和三年十一月二十六日の出生、北郷忠亮の養子となったこと、寛永十八年十一月六日に二十五歳で死去したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 677頁
島津光久の家族関係として忠朗・久直・女子を掲げ、女子は元和四年九月十三日に忠朗と同腹の母から生まれ、寛永十四年三月二十四日に二十歳で早世したと記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 718頁
「光久公御譜中」の系譜に、光久・忠朗・久直と並ぶ女子について、元和五年十月二十日に誕生し、母は家臣鎌田政重の娘、寛永十一年八月十八日に十六歳で早世したと記す。島津光久本人の出生記事ではない。
年月日未詳 / 冊子 725頁
島津備前守忠清が家臣であると同時に一族で、光久の母・慶安大姉の父でもあったため、家久がその死を深く哀しみ和歌を詠んだことを記す系譜記事。続く追悼和歌は譜中で全文を欠くと注記する。
年月日未詳 / 冊子 733頁
島津光久譜中、元和六年六月十八日に生まれた光久と同母の家久女が、家臣島津大和久章の室となり、正保二年五月十日に二十六歳で早世し、桃岳英仙と号したことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 738頁
島津光久譜中、忠広が元和六年十二月十八日に生まれ、光久の同母弟で、初め忠弘と称し、東市正を経て入道後に萬山と号したことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 738頁
島津忠広が義弘の長女御屋地の所領を受け、朝久の二男でありながら延宝五年に光久の命で豊州家を離れ忠朗の次男に準じられ、元禄十六年に没して萬山孤峯大居士と号したこと、および子孫を示す一流系図。
年月日未詳 / 冊子 764頁
島津光久譜中、光久の男子で初め忠共・梅千代丸と称した忠尚が元和七年二月二日に江戸で生まれ、宮原吉兵衛の長女を母とし、町田久幸の養子となり、延宝四年九月三日に没したことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 774頁
島津家では嫡子が六、七歳になると犬追物を催し騎射を始めさせる祖先以来の佳例があり、六歳となった虎寿丸(後の島津光久)のため、家久が自ら検見して初騎射の手組を定めたことを記す系譜記事。
元和七年十二月四日 / 冊子 774~775頁
元和七年十二月四日に行われた犬追物について、各番の騎射手と馬数を配した手組。島津家久を検見とし、喜入島津大炊助らが喚次を務める編成を記す。
元和七年十二月五日 / 冊子 775頁
元和七年十二月五日の犬追物について、矢懸次第と各番の騎射手・馬数を定め、島津家久が検見し、嶋津大炊助らが喚次を務める手組を記す。
元和七年十二月七日 / 冊子 775頁
元和七年十二月七日の犬追物について、矢懸次第と各番の騎射手・馬数を定め、川上嶋津十郎左衛門尉らが検見・喚次を務める手組を記す。
年月日未詳 / 冊子 777~778頁
島津光久の子女について、万千代丸と称した忠紀、重永、久雄らの出生、官位・拝領、母、養子縁組、没年月日と法号を列記した系譜記事。忠紀は家光らから刀剣を賜り島津久敏の家を継ぎ、重永・久雄もそれぞれ家臣家の養子となった。
年月日未詳 / 冊子 782~783頁
島津忠清の一流について、忠清・久近らの系統を図示し、元和八年六月十一日に生まれた久近の父を島津久元、母を島津義弘の第七女とすること、寛永十三年に十五歳で没したこと、後に島津光久の命で忠清の後嗣とされたことなどを記す系図。
年月日未詳 / 冊子 819頁
寛永元年九月十四日に島津光久が誕生し、母が鎌田政重の娘であったことを記す島津光久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 819~820頁
島津家久の子が寛永元年十月十四日に鹿児島城で元服して又三郎忠元と名乗り、父家久が加冠、島津久元が理髪を務めたことを記す。忠元は正保元年七月十九日に二十一歳で早世し、法名を月桂貞秋とした島津光久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 822~823頁
島津家久が徳川家康の厚恩に報いるため、妻子を伴って江戸へ奉公することを企て、伊勢貞昌から親交のある土井利勝を通じて幕府へ申し出たところ、徳川秀忠が太平の基として喜んだことを記す。同年十一月に家久が夫人・息子らを伴って出発し、十二月十日に出水瀬ノ浦から出船した経緯を述べる島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 823頁
寛永元年十一月十三日、島津光久が父家久に従って鹿児島を出発し江戸へ向かったことを記す。十二月十日に出水瀬ノ浦を出船し、翌年二月二日に大坂着船、三月十八日に伏見を発ち、四月十二日に江戸へ到着した島津光久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 823頁
寛永元年十一月十四日、島津家久が世子光久と慶安夫人らを伴って鹿児島城を出発して江戸へ向かった際、児玉利昌が納殿役として供奉したことを記す。翌年二月二日に大坂へ着船し、四月十三日に江戸へ到着した児玉利昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 824頁
島津光久らが出水瀬ノ浦を出船し、大坂・伏見を経て寛永二年四月十二日に江戸へ到着した経路を記す。翌十三日、光久が家久とともに徳川秀忠・家光へ拝謁し、弟忠平も同席して、その進退を諸士から賞賛された島津光久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 828頁
島津光久に男女十一人の子があったことを系図形式で示し、個々の記載は省略した島津光久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 828~829頁
島津家久の正室を中心に、その出生・母方、家久との間に生まれた島津光久・北郷久直・島津忠記・女子らを示し、さらに家臣家へ嫁した女子や子孫の出生、死亡、法名、養子関係を系図形式で記録した薩州家譜。
年月日未詳 / 冊子 15頁
島津光久の子女十四人について、生母・生年月日・没年月日・法名などを列記した譜記事。嫡子光久の出生と母系を起点に、忠良ほか男子・女子の系譜情報を記録する。
(寛永三年)十月三日 / 冊子 21頁
島津忠元が、見舞いのため遠路から二人を遣わされたことに感謝し、自身が回復したので安心するよう伝える。島津家久の中納言任官を祝うとともに、光久と又十郎へ銀子二枚ずつを贈る。
(寛永三年)十月廿四日 / 冊子 24頁
島津忠興が長らく音信を欠いたことを詫び、島津家久が中納言として無事帰国し、自分の所にも立ち寄ったことを喜ぶ。近日上京するため、詳しい礼や相談は来年に譲るとし、書信のしるしに鴨五羽を贈る。
(寛永四年)四月廿四日 / 冊子 34頁
喜入忠続・伊勢貞昌が、薩摩殿父子の御目見は又三郎の腹痛で延期されたが四月二十三日に実現し、両御所が一同の参上を大いに喜び、兄弟も御前で褒美を受けたと早打で報じる。
年月日未詳 / 冊子 36~37頁
島津光久の系譜記事。寛永四年五月二十五日の誕生、母が川村伊豆秀政の娘であること、家久の子としての兄弟名や幼名・別名などを記す。
正月廿八日 / 冊子 54頁
島津光久が、年頭の使者と太刀一腰・馬一匹の贈物が遠方から届いたことを喜び、謝意を述べる。詳しくは新納右衛門佐と鎌田源左衛門尉が伝えるとする書状。
年月日未詳 / 冊子 88頁
島津家久が北郷又次郎を使者とし、嫡子又三郎忠元に脇差一柄・肩衣・袴二具などを与えた。忠元が自筆書状を差し出して拝領の謝意を表したことを記す譜記事。
(寛永六年)閏二月六日 / 冊子 88頁
又三郎忠元が、年頭使として北郷又次郎が遣わされたことを喜び、脇差・肩衣・袴二具・扇一箱を拝領した礼を父島津家久へ述べ、詳細は又次郎に申し含めたとする書状。
(寛永六年)三月十八日 / 冊子 91頁
島津家久が、又三郎忠元の縁組を祝う使札が遠路から届いたことを喜び、懇切な配慮に謝意を表す。詳しくは下野守から伝えると喜入摂津守へ知らせた書状。
年月日未詳 / 冊子 95頁
島津光久の男子のうち貞昭と久尚について、生母・養家・出生年月日・没年・法号などを系譜形式で記す。貞昭は伊勢貞昌の養嗣となり寛文三年に江戸で没し、久尚は正保三年に十八歳で早世したとする譜記事。
年月日未詳 / 冊子 131頁
寛永六年十二月十六日、島津光久が家臣伊勢貞豊の娘を江戸の邸館に迎えて配偶としたことを記す譜記事。
(寛永六年)十二月十九日 / 冊子 131頁
又三郎(島津光久)の十二月十六日の祝儀が滞りなく行われ、黄門や兵部少輔夫妻から祝物が届けられたことを、島津久賀・川上久国が報じた連署書状。
(寛永七年)三月十八日 / 冊子 135頁
島津家久が、又三郎(島津光久)の縁組祝儀として遠路から使札を受けたことを喜び、詳細は下野守が伝えると返答した書状。
年月日未詳 / 冊子 137~138頁
寛永七年四月十八日、将軍徳川家光が島津家久の江戸桜田邸へ御成した際の次第を記す。出迎え、座次、進物、能・音楽、饗応、退出時の拝領物、翌日の御礼までを詳述する。
年月日未詳 / 冊子 139頁
寛永七年四月十八日、徳川家光が家久の桜田邸へ御成した際、光久が信国の太刀・馬・袷二十・白銀二百葉を拝領し、忠元らも進献・拝領したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 139頁
忠亮が都城から江戸へ赴き、寛永七年四月十八日の家光による家久桜田邸御成で拝謁し、太刀・袷を献上して白銀を拝領したこと、六月に暇を得て帰国したことを記す。
寛永七年五月廿三日 / 冊子 140~164頁
寛永五年頃から進めた家久桜田邸の御成門・主殿・寝殿・数寄屋・舞台などの作事と、寛永七年四月十八日の家光御成、同月二十一日の秀忠御成の次第を詳記する。建物寸法、障壁画・調度、茶席、能・饗応、役人配置、進物・拝領品までを網羅した伊勢貞昌の覚書。
(寛永七年)五月廿日 / 冊子 167~168頁
江戸での逗留を終えて無事帰国することを喜び、出立時に秘蔵の馬を残し置いたことへの礼を述べ、次回参府の折に面談すると伝えた島津忠元・光久の書状。
寛永七年十二月廿三日 / 冊子 184~185頁
源光久を従五位下に叙した位記。叙位の制書本文に続き、公家・官人を多数列記し、右中弁藤原共綱らが奉行したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 187頁
島津光久の女子が寛永八年正月六日に生まれ、ほどなく死亡したことを記す光久譜の記事。
(寛永八年)三月廿八日 / 冊子 196~197頁
相手の体調がまだ十分でないことを案じ、検校に祈念を頼み、薬と併せて回復を祈る。又三郎・又十郎・越後守の任官が決まったこと、まもなく暇を得て帰国する見込みも伝えた島津家久の仮名書状案。