島津光久譜
年月日未詳 / 冊子 663頁
島津光久譜に、光久・忠朗・久直・岩松丸・又十郎・式部大輔の名を掲げ、元和三年十一月二十六日の出生、北郷忠亮の養子となったこと、寛永十八年十一月六日に二十五歳で死去したことを記す記事。
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年月日未詳 / 冊子 663頁
島津光久譜に、光久・忠朗・久直・岩松丸・又十郎・式部大輔の名を掲げ、元和三年十一月二十六日の出生、北郷忠亮の養子となったこと、寛永十八年十一月六日に二十五歳で死去したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 677頁
島津光久の家族関係として忠朗・久直・女子を掲げ、女子は元和四年九月十三日に忠朗と同腹の母から生まれ、寛永十四年三月二十四日に二十歳で早世したと記す譜記事。
(寛永十五年)二月廿三日 / 冊子 758頁
尚豊書状に付された張紙・宛書部分として、島津光久への進上名と二月二十三日付、琉球国司尚豊の署名を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 793頁
徳川家光が島津家久の訃報を聞き、能勢小十郎を通じて香奠の白銀五百枚と奉書を島津光久へ贈ったこと、光久がすでに江戸を出発していたため、小十郎がこれを薩摩まで携行したことを記す譜記事。
六月九日 / 冊子 438頁
松平下総守の死去を知った島津光久が、将軍の機嫌を案じて使者を派遣したことについて、念の入った対応であると上聞に達した旨を伝えた松平信網・阿部忠秋連署奉書。
七月廿日 / 冊子 438~439頁
大炊頭土井利勝の死去に際し、島津光久が誓願寺へ参詣して香奠を持参したことへ謝意を示す。各方面からの進物は辞退しているため返送するが、病中から死去時までの厚意を感謝し、忌明け後に参上するとした土井利隆書状。
六月廿四日 / 冊子 439頁
阿部忠秋が島津光久に、島津領の牧から、毛色を『鹿毛』『黒』と傍記した馬二疋を献上し、披露したところ将軍が喜んだ旨の上意を伝えた奉書。
八月廿日 / 冊子 440頁
将軍の容体を案じて使者を派遣した島津光久に対し、将軍は機嫌よく安心するよう伝える。また琉球縮布・魚・泡盛の献上が披露され、念の入った進物だと満足されたことを報じた連署書状。
七月十六日 / 冊子 441頁
島津光久が無事に暇を与えられ、海陸を経て領国へ帰着したことを喜び、その報告を上聞に達したところ念の入った対応だと将軍が喜んだ旨を伝えた三名連署書状。
七月廿五日 / 冊子 441頁
島津光久が暇を得て無事帰国したのち、使者と端子二十巻・琉球酒二樽・魚を献上したことを上聞に達し、念の入った対応だと将軍が喜んだ旨を伝えた三名連署書状。
九月六日 / 冊子 441~442頁
松平河内守頼重が島津光久に、薩摩での船舶建造をめぐり酒井讃岐守忠勝の内意を伝える。法度に反する船は早々に取り崩し、規定内の船はそのまま置くこと、現在までに完成した船以外は新造を控え、翌春の参勤時に老中へ内談した後、必要なら再開するよう求めた。この話は公儀の正式な沙汰ではないため隠密に扱うよう命じる。追而書では、今回命じられた船のうち五百石以上の船は早々に受け取るよう伝えており、大船を一律に取り崩させたのではなく、法度適合性と既発注分を区別して処置したことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 443頁
院御所の疱瘡を案じて島津光久が使者を派遣したことを喜び、すでに平癒して機嫌よく本復したので安心するよう伝えた権大納言書状。
九月十二日 / 冊子 444頁
本丸で能が催され登城を命じられたが、島津光久は病後であるため宿で養生するのがよいとの土井利隆の内意を伝え、登城は不要で事情を上聞に達するので安心して療養するよう勧めた酒井忠勝書状。
年月日未詳 / 冊子 448頁
徳川家綱・綱吉から島津光久へ下された端午・重陽・歳暮の祝儀に対する御内書について、日付・宛名・通数を整理し、同文同印のものは省略した目録。
二月廿三日 / 冊子 461~462頁
改年の祝意と将軍方の健康を喜ぶ島津光久の書状を受け、いずれも平安であると伝え、使者を介した祝儀を上聴に達して満悦された旨を通知した連署書状。
三月二日 / 冊子 462頁
大納言の病気が早く回復したことを喜び、使者を派遣した島津光久の入念な見舞いを上聴に達したところ、将軍が喜んだ旨を伝えた三名連署書状。
三月二日 / 冊子 462~463頁
大納言が病気から早く本復したことを喜んで使者を派遣した島津光久に対し、その後も機嫌よく安心するよう伝え、見舞いの厚意を言上したとする連署書状。
三月五日 / 冊子 463頁
九条摂政に関する出来事を受け、将軍の様子を案じて島津光久が使者を派遣したことについて、入念な対応を将軍へ伝えるとした三名連署書状。
三月六日 / 冊子 463頁
亀松の病状を案じた島津光久に対し、すでに本復したので安心するよう伝え、入念な見舞いを上聴に達したとする三名連署書状。
三月六日 / 冊子 464頁
大納言の軽い病気を案じて使者を派遣した島津光久に対し、すでに本復したので安心するよう伝え、厚意を言上したとする連署書状。
三月六日 / 冊子 464頁
亀松が病気から早く本復したことを喜び、使者を派遣した島津光久の入念な対応を上聞に達した旨を伝えた三名連署書状。
三月七日 / 冊子 465頁
大納言の病状を案じて使者を派遣した島津光久に対し、すでに本復したので安心するよう伝え、入念な見舞いを上聴に達したとする三名連署書状。
三月八日 / 冊子 466頁
大納言の病気が早く本復したことを喜んで使者を派遣した島津光久について、その厚意を上聴に達し、将軍が喜んだ旨を伝えた三名連署書状。
三月八日 / 冊子 466~467頁
将軍が頭痛のため正月二十四日の御堂参詣を延期したと聞き、病状を案じて使者を派遣した島津光久に対し、すでに快復して前月二日に増上寺へ参詣したので安心するよう伝えた三名連署書状。
三月十一日 / 冊子 467頁
大納言が軽く患って年頭の礼を延期したと聞き、様子を案じて使者を派遣した島津光久に対し、すでに快復しているので安心するよう伝え、厚意を上聴に達するとした連署書状。
三月十三日 / 冊子 467頁
井上筑後守・馬場三郎左衛門が派遣され、五日に大坂へ着き、同夜に天候次第で出船すると報じる。島津光久が東目筋を下る予定を承知し、当地に異変はないので安心するよう伝えた山崎正信書状。
六月八日 / 冊子 471頁
将軍が機嫌よく過ごしていることを伝え、島津光久が道中無事に到着したかを尋ねる。出立時の言葉どおり使者と泡盛一甕・赤貝漬一壺を贈られた心遣いへ謝意を示した向井忠綱書状。
七月廿日 / 冊子 473頁
将軍方の健康を案じて使者と目録記載の品々を献上した島津光久に対し、いずれも機嫌よく、進物を披露したところ入念な対応を喜ばれた旨を伝えた三名連署書状。
八月十四日 / 冊子 473~474頁
長崎から帰還後、渡海用の船が予州方面で破損したため対応に追われ、島津光久からの使者への返答が遅れたことを詫び、後日伺候するとした新見正信書状。
八月五日 / 冊子 474頁
将軍が眼病から早く快復したことを喜び、使者を派遣した島津光久に対し、その入念な見舞いを将軍へ申し上げると伝えた三名連署書状。
九月廿四日 / 冊子 476頁
崇源院の遠忌法要が増上寺で営まれるため、島津光久が使者を立てて香奠を献上し、御影前に供えられたことを上聞に達したところ、将軍が喜んだ旨を伝えた連署書状。
九月廿九日 / 冊子 476~477頁
将軍が八月朔日に表へ出御し諸大名の礼を受けたことを喜んで使者を派遣した島津光久に対し、将軍方は機嫌よく安心するよう伝える。また大納言へ薩摩産の魚一種を献上し、披露されたことを通知した松平乗寿書状。
十月朔日 / 冊子 477頁
将軍方の健康を案じて使者を派遣した島津光久に対し、いずれも機嫌よく安心するよう伝え、薩摩産の二種の進物を披露したところ丁重な対応を喜ばれた旨を通知した三名連署書状。
十月廿四日 / 冊子 478頁
将軍が九月二十七日に鷹野へ出たことを喜び、健康を案じて使者を派遣した島津光久に対し、将軍はますます機嫌よく頻繁に鷹狩へ出ているので安心するよう伝えた連署書状。
十月廿五日 / 冊子 478頁
将軍が八月二十七日にその秋初めて王子へ出御したことを喜んで使者を派遣した島津光久に対し、将軍は機嫌よく各地へ鷹狩に出ていると伝え、薩摩産の魚二種の献上も披露された旨を通知した連署書状。
十月廿七日 / 冊子 479頁
将軍が王子へ鷹野に出たことを喜び、使者を派遣した島津光久の入念な対応を言上すると伝え、将軍方はいずれも機嫌よく安心するよう述べた連署書状。
十月十六日 / 冊子 479頁
将軍が病気から快復し、九月十七日に内宮へ参詣したことを喜び、使者を派遣した島津光久の入念な見舞いを上聴に達したところ、将軍が喜んだ旨を伝えた三名連署書状。
十二月十二日 / 冊子 480頁
島津光久から薩摩産の蜜柑を贈られ、披露のうえ受納されたことを伝えて謝意を示した阿部忠秋・阿部重次連署書状。
十二月十六日 / 冊子 480頁
将軍が機嫌よく過ごしていることを伝え、島津光久から献上された薩摩産蜜柑二箱を披露した旨を通知した三名連署書状。
十二月十六日 / 冊子 480~481頁
将軍と大納言がともに機嫌よく過ごしていると伝え、大納言へ島津光久の園で採れた蜜柑を献上し、披露された旨を通知した松平乗寿書状。
十二月廿日 / 冊子 481頁
寒中の将軍方の様子を尋ねて使者を派遣した島津光久に対し、いずれも機嫌よく過ごしていると返答し、領地で捕らえた鶴二羽の献上を披露した旨を伝えた書状。
十二月廿一日 / 冊子 481頁
将軍方の健康を案じて使者を派遣した島津光久に対し、機嫌よく過ごしていると返答し、捕らえた鶴一羽の献上を披露したところ喜ばれた旨を伝えた連署書状。
十二月廿二日 / 冊子 482頁
島津光久から使者を通じて鴨四羽を贈られたことに謝意を示し、登城していたため返答が遅れたと詫びた時川某の書状。
十二月廿七日 / 冊子 482頁
島津光久から使者を通じて国元の蜜柑一箱を贈られたことに謝意を示し、登城中で返答できなかったと詫びた喜多見重勝書状。
十二月晦日 / 冊子 483頁
前日の島津光久の来訪と、奥でゆっくり懇談できたことを喜び、次の対面を期した徳川義直書状。
正月十五日 / 冊子 483頁
年頭の礼として使者を派遣し、太刀一腰と馬代黄金十両を献上した島津光久に対し、披露のうえ将軍が喜んだ旨を伝えた三名連署書状。
正月晦日 / 冊子 483頁
宝樹院逝去の報に驚き使者を派遣した島津光久に対し、その入念な対応を上聴に達した旨を伝えた三名連署書状。
二月九日 / 冊子 484頁
陽春を祝し、将軍が健康で年始の諸儀式を例年どおり無事に済ませたと伝える。島津光久が使者を派遣して樽肴を献上したことを披露し、将軍が喜んだ旨を通知した四名連署書状。
二月六日 / 冊子 484頁
先月二日に大坂城天守が落雷によって焼失したとの報に島津光久が驚いたことを受け、御殿や櫓には異状がないと伝え、その入念な見舞いを披露すると返答した阿部忠秋書状。
二月十四日 / 冊子 485頁
先月十五日の禁裏院中炎上を聞いて驚き、使者を派遣した島津光久に対し、その入念な見舞いを上聞に達すると伝えた四名連署書状。