島津元久書下
応永七年三月卅日 / 冊子 194頁
島津元久が二階堂山城三郎へ、薩摩国河邊郡内の神殿村を料所として宛行い、相違なく知行するよう命じた書下。
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応永七年三月卅日 / 冊子 194頁
島津元久が二階堂山城三郎へ、薩摩国河邊郡内の神殿村を料所として宛行い、相違なく知行するよう命じた書下。
応永十三年九月廿六日 / 冊子 223頁
島津元久が二階堂山城守へ、薩摩国阿多郡内観音寺と阿多内十町を祈所として宛行い、先例に任せて領掌するよう命じた宛行状。十町の坪付は別紙とする。
応永十五年十月十九日 / 冊子 230頁
島津玄仲が祁答院山城守へ、天下が変転しても一味同心し、大事の際に見捨てず、讒言や凶害による疑いは直接問いただすと神々に誓った契状。
応永十八年十一月十八日 / 冊子 260頁
島津久豊が称寝山城守に、大隅国寄郡内西俣の肝付老共跡と兵部少輔知行分三十町を給分所として宛行い、残地が闕所となった時は代替地を与えるとした宛行状。
五月十一日 / 冊子 911頁
戸次紹花が本田山城守に、書状を拝受した礼を述べ、馬一匹を贈られたことへの謝意と今後の奉頼を伝えた書状。
五月十一日 / 冊子 911~912頁
戸次紹花が本田山城守に、息孫次郎からの伝言、馬や織香などの贈答について礼を述べた書状。
六月十四日 / 冊子 14頁
敵方が数十艘の兵船を率いて指宿方面へ来襲した際、頴娃山城守が寄持衆と自ら戦い、多数の敵を討ち取った武勇と軍忠を賞した書状。
永禄二年十月四日 / 冊子 74~75頁
伊地知方の件を知らなかったこと、不忠者に同心しないこと、頴娃方に対して隔心なく従来どおりの関係を保つことを貴久・義久が誓い、違背時の神罰を掲げた起請文。
六月八日 / 冊子 15頁
島津義虎が、以前借りた六巻書について、弓箭が続いて写し取れなかったため、なお借用して静かに書写したいと頼んだ書状。必要な時にはすぐ返すとし、書札の書や残存する巻についても確認を求め、あわせて近況と贈物を伝える。
十二月廿七日 / 冊子 17頁
島津義虎が、若手火矢の狙いに関する秘伝を贈られたことと、書物を多数借りたことへ謝意を述べた書状。書札の巻物は書写して返し、六巻書も静かに読み終えて来春早々に返すと約束し、年賀のしるしとして一品を贈る。
六月三日 / 冊子 274頁
島津勝久が、石州からの丁重な申し入れを喜び、石州と船者の知行不足や七島内の所領配分について報告し、今後の進展を両名へ伝えた書状。
正月十二日 / 冊子 190頁
島津家から禁中へ唐矢三十箱・唐製の鉄砲一箱・麝香二斤を進上し、女房奉書を受けて納めたことを報告した。関白宣下の祝儀として太刀一腰と馬代銀子十枚を贈ったことも披露され、喜ばれたと伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 771頁
天文八年三月十三日の谷山紫原合戦と、その後の神前城・本城・山城攻めに参加した味方の交名注文。島津忠良・貴久のもと、平田宗秀、伊集院山城守、大野駿河守、勝部兵庫允らを部隊・日付ごとに列記し、連続する攻略戦への動員状況を示す。
年月日未詳 / 冊子 48頁
弘治三年六月十六日、伊東勢が新山城へ攻め寄せ、味方の宮田・樗木らが戦死したことを記す。数年に及ぶ戦いで豊州方の軍勢が疲弊し、勢力が衰えた状況を述べる。
(永禄六年)十月廿一日 / 冊子 126頁
戸次山城守から具足一領が進上され、当地でも特別に心を添えているため、重ねて書状を送り、その厚意を祝着として披露するよう求めた佐々木宗綱書状の追而書。
永禄十一年三月廿三日 / 冊子 196~197頁
永禄十一年三月二十三日、相良・菱刈・入来院・東郷・祁答院勢が曽木城を攻めた際、宮原景種・越中守と佐多山城守らが防戦したことを記す。敵は攻めあぐねて市山城へ転じたが、手傷を負っていた新納忠元が白坂口へ出て迎撃し、永福寺口でも本田掃部兵衛・河野玄蕃允らが戦ったため退いた。
天正17年2月12日 / 冊子 440頁
豊臣秀吉が、島津義久から鉄砲で仕留めた雁二十羽と鴨五十羽が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。 詳しい返答は石田治部少輔(三成)と山中山城守から申し伝えるとしており、島津方による獲物贈答の具体的な数量が分かる。
(天正17年)9月16日 / 冊子 452~453頁
豊臣秀吉が羽柴薩摩侍従へ、薩摩・大隅両国内の鶴・白鳥・雁・鴨などを、前年同様に鉄砲衆や猟師へ命じて捕らえ、進上するよう求めた朱印状。 御鷹場では他者に鳥を捕らせず、確実に集めることを命じ、詳細は島津中山城守から申し伝えるとしている。
(文禄2年)3月16日 / 冊子 678頁
公儀の使者である山城小才次・美濃部四郎三郎が釜山浦まで来ており、東方の各所を確認してから義弘方へ向かう予定だと知らせる。現地衆が番替で帰朝するため、使者はまず脇坂の陣所へ来て指示を伝えるという。 向かい風のため到着が遅れ、夜船か翌日になる見込みを報告した、使者の移動予定と海上交通事情が分かる書状。
年月日未詳 / 冊子 695頁
美濃部四郎三郎・山城小才次の帰朝報告を受け、島津義弘の在番・普請の働きをねぎらう。家中で番替を行い、知行支配と兵粮確保に注意し、現地の蔵米には勝手に手を付けないよう命じる。 古米は傷まないよう新米と入れ替え、員数を正確に保つことまで指示した、城番交代と兵粮管理の朱印状。
文禄3年正月28日 / 冊子 762頁
豊臣秀吉が見廻役として美濃部四郎三郎・山城小才次を派遣し、義弘の長期在番と堅固な普請・警備を評価する。兵数と兵粮を改めて報告し、春には船を揃えて兵粮を順次渡海させるよう命じる。 小袖一重を贈って在番を慰労しつつ、朝鮮拠点の兵員・補給状況を点検した朱印状。
文禄4年3月18日 / 冊子 870~871頁
城の兵糧として米二千石を博多で渡し、山中山城守・石川紀伊守が受け取って蔵へ納めるよう命じる。船頭の飯米は百石につき四石と定める。 釜山浦の貯蔵兵糧も各城へ配分し、寺沢志摩守の指示で蔵へ保管すること、非常時以外の流用を禁じる。朝鮮在陣軍の兵站管理を数量と担当者まで示す重要命令。
文禄4年8月28日 / 冊子 909頁
秀吉は鳴津又八郎が当番衆として残り、引き続き辛労していることをねぎらう。 詳しい事情は岡田勝五郎に申し含めたとし、静謐が進んでいるので心配は不要と伝え、増田長盛・石田三成・山中山城守からも説明させる朱印状。
十一月六日 / 冊子 35~36頁
町田久倍が、山城入道の居所と城屋敷の配当について蒲地伊賀入道・大野将右衛門尉へ伝えた書状。山城入道が城屋敷へ移ったかを尋ね、麓に人がいないため城屋敷へ移す方針を述べる一方、配当については当面差し控え、あらためて相談するよう求める。
三月廿四日 / 冊子 85頁
差出人不詳者が、薩摩国関係の安堵状案文を急ぎ作成し、南蛮船着岸時に上乗を添えて送ることを求めた書状。馬・太刀の進上、京都への使節と板倉殿の指南、伊集院山城守・別府殿への書状、案内役石塚殿の必要性などを指示する。
(記事) / 冊子 151頁
入来院八代重長を起点とする一流の系図。重長の法名に関する注記を付し、出羽守・越前守・山城守・左馬助・宮内少輔などへ続く子孫・一族関係を系線で示す。入来院氏の支流と家臣層の系譜を伝える記事である。
五月廿三日 / 冊子 185頁
守政が左馬助に、下村殿へ伝えるべき件として、柏原方の使僧帰参時に入道方の書状を送ったこと、十八日夜以前に山城・櫻崎城の二か所が落ちたとの報を喜ぶこと、周辺の対治が近いとの見通しを知らせた書状。入道方からの書状に加え、自身も一通を認めて送り、鷹を給わりたい旨も申し入れる。
年月日未詳 / 冊子 200~201頁
島津斉宣の遺物として伝えられた刀剣・金工品等の注文。手縫、対鎚、長刀、刀、馬具などについて、薩州住藤原正清・平安代・山城守國重らの作者名、寸法、金具・漆塗・唐草毛彫などの意匠、数量を列記する。
十月十一日 / 冊子 260~261頁
島津久豊が、使者の到来を受け、鹿児島・伊集院・上伊敷・高木殿らに関わる情勢と交渉の経過を述べ、南郷半分の判紙、山城殿らとの相談、船や在所の扱いを含む諸事への助力と返事を樺山殿へ求めた書状。
十月廿一日 / 冊子 404頁
佐々木宗綱が本田弾正忠へ、月次山城守から具足一領が進上されたことを伝え、現地で格別に配慮してくれたため重ねて書状があり、祝着の旨が伝達されたとして、互いに披露するよう求めた書状。
十二月廿八日 / 冊子 308頁
龍雲が島津家久に、久しく音信がないが朝夕慕っていると述べる。自らは七十一歳となって老衰し、もはや若輩ではないので察してほしいとする。先年、家久が竹腰山城邸を訪れた際、数寄屋で伊勢兵部と相伴して茶を喫し、国元の茶入を賜る約束を固く交わしたことを回想。家久は多忙で失念したのだろうと理解を示しつつ、約束の茶入を老後の慰めとし、家中での面目にもしたいとして贈与を願い、伊勢兵部からも取り成すよう求めた書状。
永正十三年九月一日 / 冊子 613頁
永正十三年九月一日の犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
年月日未詳 / 冊子 772頁
天文八年三月十三日の紫原合戦で敵軍を討ち取った後、平田宗秀の城からの申請を受けて本城へ進み、伊集院方の城を攻略した戦闘経過を記す。
(文禄2年)5月19日 / 冊子 695頁
帰朝使者から在陣地の様子を聞いた秀吉が、島津豊久に家中の番替、知行支配、兵粮の継続確保を命じる。 御蔵米を勝手に消費せず、古米は入れ替えながら帳簿上の員数を守るよう求めた、No.1122と同趣旨の宛先違いの朱印状。
十一月廿五日 / 冊子 726頁
地頭不在の時期にも一味同心して忠実に奉公した曾於郡衆の懇志を喜び、特に川上十郎左衛門ら諸士の入魂を頼もしく評価する。番所の用心を堅固にして油断しないよう命じ、雪花の件には急ぎ合力すると約した島津忠兼書状。
(元禄二年)八月廿三日 / 冊子 841頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2231
島津綱貴が戸田山城守へ、御内書を頂戴し、家来の者が時服三つを拝領したことへの礼を述べた書状。
元禄二年十二月十四日 / 冊子 845頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2245
島津綱貴が戸田山城守へ、又三郎忠竹の元服にあたり、翌十五日五時に同人を連れて登城するよう命じられた旨を承知した請書。
元禄二年十二月十八日 / 冊子 846頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2248
島津綱貴が戸田山城守へ、領内の桜島蜜柑二箱と肴一種を献上し、滞りなく披露されたことへの礼を述べた書状。
正徳四年十一月廿七日 / 冊子 172頁/整理ID 422
翌二十八日五時に登城し、参勤の御礼を申し上げるよう、戸田山城守ら五名に伝える通知。
正徳四年十一月廿八日 / 冊子 172頁/整理ID 424
御用があるため、翌二十九日四時に登城するよう、戸田山城守ら五名に伝える通知。
正徳四年十二月十四日 / 冊子 176頁/整理ID 436
翌十五日五時に登城し、加階の御礼を申し上げるよう、戸田山城守ら五名に伝える通知。
正月廿九日(包紙に年なし) / 冊子 51頁/原整理番号 161/整理ID 161
大田播磨守の役替えにより、跡の御目付御用を松平庄九郎に依頼したところ、引き受ける旨の返答が来たので、此面に伝えるよう山城が指示した。また、大田三郎兵衛が播磨守へ改名したことを知らせる。仁礼仲右衛門が、右のとおり申し渡されたので通達すると正月廿九日付で記す。仁礼には勘定奉行・仲古の注、大田には正房、松平庄九郎には忠郷の人物注がある。包紙は年記なしで、山城から仁礼仲右衛門へ取次を通じて渡された書付一通と記す。白木御文書五番箱中の写。
宝暦十三年十二月十五日 / 冊子 997~998頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2856
高橋此面・鎌田藏人・川田伊織・菱刈藤馬・島津左中・島津杢が十二月十五日、島津山城・主鈴へ、重豪の寒濕の持病により、春に先行参府し琉球人を秋に家臣の警固で後発させる願いについて書き送る。慶安・承應の先例や享保三年の井上河内守の照会を挙げつつ、御代替時の任官など今回の事情も考慮し、先格通り召し連れることを理由に願書提出を遅らせず、至急相談して進めるよう求める。願書案文一通を添え、日限を定めて早く提出し、許可まで重豪を留め、急飛脚で結果を知らせるよう指示する。許可後の出発に必要な金の手当を京・大坂の留守居へ早く命じることも求める。
寛正2年11月24日 / 冊子 336頁/原整理番号 130-19
寛正二年十一月二十四日、島津立久が河上山城守へ出した安堵状。河上又八郎忠塞方の大寺彦左衛門幸朝を通じて河上側の意向を詳しく承知したと述べ、所領等について今後相違の扱いをしないことを保証する。立久には島津氏十代当主との傍注がある。
寛正3年卯月15日 / 冊子 337頁/原整理番号 130-21
寛正三年卯月十五日、市来院内十五町三段の坪付について、個々の坪付本文を「末略」として総面積だけを掲げた抄録。平田右馬助兼宗・石井丹波守義忠・本田三郎五郎宗親・大寺彦左衛門尉幸朝が連署判を据えて河上山城守守家へ渡したもので、真本は家蔵と注記し、この年十一月に建竜雲寺が建立されたかとの傍注も付す。
12月27日(年未詳); 天文3年9月14日(傍注) / 冊子 338頁/原整理番号 130-23
十二月二十七日、薩摩国市来院伊作田名一町七反の坪付について、個々の坪付本文を「末略」として総面積だけを掲げ、池袋越後守宗政・村田越前守経定・平田右馬助清宗が連署して河上山城守へ渡した抄録。傍注は、天文三年九月十四日に大将として南郷を攻め、勝てずに討死した人物を家林かと推定する。付随系譜は平左衛門尉と二人の女子を掲げ、一人を河上越前守妻、もう一人を町田伊賀守妻とする。
永正18年3月吉日; 大永6年12月27日 / 冊子 340頁/原整理番号 130-25
坪付本文をいずれも「末略」とした二件の抄録。第一は永正十八年三月吉日付で、大隅国重久名十七町四反の総面積を掲げ、忠基(末弘伯耆守かとの傍注)と桑波田讃岐守景元を記す。第二は大永六年十二月二十七日付で、薩摩国市来院伊作田名一町七反の総面積を掲げ、伊地知縫殿助重周・肝付越前守兼演・本田因幡守兼親が署判し、河上山城守・河上平次郎へ渡したもの。
12月27日(年未詳) / 冊子 341頁/原整理番号 130-29
十二月二十七日、薩摩国市来院伊作田名の平田之門について、坪付本文を省略して都合一町七反という総面積を示した抄録。池袋宗政・村田経定・平田清宗が署判して河上山城守へ渡したもので、本家蔵の文書と注記する。本文書は十一代河上年家の頭注として掲げられている。
寛永八年八月七日 / 冊子 225~226頁
北郷源左衛門忠俊の罪状を列挙する。讃州の殺害・成敗への関与、鹿児島や外城との往来遮断、殿役の不履行、公儀への祝儀使者の遅延、家老を無視した専断、家中の言論統制、財部宗三の成敗、出雲守の鹿児島屋敷普請の妨害、山城殿への根拠のない毒害嫌疑などを挙げ、北郷家を危うくしたとして成敗を命じた覚書。
享保六年十二月二十七日 / 冊子 499頁/整理ID 1340
水野和泉守・戸田山城守が松平大隅守へ、翌二十八日五つ時に登城し、任官の御礼を申し上げるよう伝える。