島津氏久書下
正平十三年十月廿日 / 冊子 11頁
島津氏久が姫木弥四郎入道に、自方へ参じて忠節を尽くしたため、本領の知行に相違がないことを保証した書下。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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正平十三年十月廿日 / 冊子 11頁
島津氏久が姫木弥四郎入道に、自方へ参じて忠節を尽くしたため、本領の知行に相違がないことを保証した書下。
正平十三年十一月九日 / 冊子 11頁
島津氏久が姫木又次郎に、自方へ参じたことを受け、本領の知行に相違がないことを保証した書下。
「永和三年」十二月十一日 / 冊子 111頁
島津氏久が姫木十郎に、守護代に対する一所懸命の忠節を書き入れたことを伝え、詳細は対面して申し聞かせるとして、その働きを喜んだ書状。
応永十二年十二月十五日 / 冊子 217頁
姫木右馬助大中臣忠通□□が祈祷のため、桑東郷内澤津水口二反を守公神へ永代寄進し、忠通一類が違乱しないこと、毎年の御年貢を未進なく納めること、無沙汰の場合は寄進状に任せて沙汰を受けることを定めた寄進状。本文中の四角枠は原資料自体の空格として保持し、推測補完しない。
正平13年11月9日 / 冊子 185頁/原整理番号 5
姫木又次郎殿に宛てた本領についての判物の短い抜書。参じた側への本領の相違を認めない旨を記し、正平十三年十一月九日付とする。
永和3年12月11日(目録) / 冊子 185頁/原整理番号 6
姫木十郎殿宛の守護代としての忠節と本田氏・姫木家の関係に関する判物抜書。永和三年十二月十一日付の氏久御判を掲げ、続けて御判物の年代や姫木城をめぐる伝承を考証する。
「大永六年」五月四日 / 冊子 659頁
隈江匡久が山田安藝守に、伊東方・北郷方・都城から使者が相次いだこと、清水の番役、姫木・下大隅・曽於郡の動向を知らせ、世情を見聞するよう求めた書状。
目録年月日記載なし / 冊子 185~186頁/原整理番号 7
瀬戸口源兵衛尉秀勝と姫木家の由緒をめぐる考証。瀬戸口氏の家伝、豊州・清水・姫木との関係、居住地の移動、土地の相伝を古文書や口伝と照合する。
正月4日(目録、年次記載なし) / 冊子 187~189頁/原整理番号 9
改年の儀や本田家・姫木家の由緒、所領相伝と旧記の記載を検討する考証。正興寺の什物・御座・御真影をめぐる伝承を関連文書と照らし、異説や筆写の差を挙げる。末尾は九月二十六日付で伊地知小十郎の名を記す。
元禄十四年十一月廿八日 / 冊子 480頁/原整理番号 289
肥後宮の令旨を奉じた島津上総入道らの凶徒が大隅国の隈本城・栗野北里城の間に退いたことを伝え、軍忠を尽くして追討するよう命じる。観応三年七月二十日付。
正嘉元年十一月三日 / 冊子 231頁
大隅国御家人姫木五郎義用が守護所調所職を訴えた件について、訴状の副進内容に相違がなければ沙汰を行い、相違があればその旨を注進するよう島津忠時が命じた書下。
正嘉元年十一月十三日 / 冊子 231頁
姫木五郎義用による守護所調所職の訴えについて、島津忠時の御書下に基づき、事実関係を調査して沙汰し、結果を報告するよう命じた沙弥某の施行状。
正嘉二年二月一日 / 冊子 233~234頁
大隅守護代藤原兼頼が、姫木五郎義用の申す守護所調所職について、前年十一月三日付御下知に従い沙汰するよう命じた下文。義用の訴状・御教書を確認し、異論があれば申告させ、子細がなければ職務を執行させる。
文永八年十二月十九日 / 冊子 273頁
姫木藤七大夫篤季の申立てにより、大隅国守護所具官調所得分と屋舗一箇所の押領を停止し、訴状・具書を子細に調査して先例どおり沙汰するよう命じた守護代施行状。
文永八年十二月十八日 / 冊子 273頁
姫木藤七大夫篤季の申状に基づき、大隅国守護所具官調所得分と屋舗・薗一箇所の押領・違乱を停止し、先例に従って速やかに沙汰するよう命じた守護代施行状。
年月日未詳 / 冊子 824頁
調所敦恒が、足利直冬方の肥後宮懐良親王の命を受けて薩摩へ侵攻した兵を退治し、畠山直顕から書状を受けたこと、姫木氏の祖となったことを記す譜記事。
観応三年七月廿日 / 冊子 825頁
畠山直顕が姫木五郎四郎に、肥後宮の令旨を受け、薩摩国凶徒が籠る大隅国限本城・栗野北里城を追討し軍忠を尽くすよう命じた書下。
観応三年七月廿日 / 冊子 825頁
畠山直顕が姫木十郎に、肥後宮の令旨を受け、薩摩国凶徒が籠る大隅国限本城・栗野北里城を追討し軍忠を尽くすよう命じた書下。
目録年月日記載なし / 冊子 194~196頁/原整理番号 15
本田家の旧記と正興寺の寺社家・什物をめぐる考証。正興寺の二天像、齢岳様御真影、姫木・清水・瀬戸口の家伝を諸書と照合し、焼失・移動・再建の年代や、異本間の記述の食い違いを検討する。
「文安 五年」十二月廿九日 / 冊子 316~317頁/原整理番号 163
忠国が姫木城に籠もった味方の戦況を伝える書状。石原口に残る勢や敵の二手に触れ、切り勝った後の横入り、瀬戸の城での防戦や金語石までの斬り付けを記す。本田重経らの敵勢による戦闘と首級、味方の太刀打ちを報じ、味方の死傷は少数にとどまったとして、始良殿へ援助を求める。
年月日未詳 / 冊子 710~711頁
建武五年三月以降、肝付兼重・野辺盛忠らが姫木城、平山式部少輔城、岩田城、清道城、日当山城などを攻めた経過を記す肝付兼重伝。園築瀬左衛門太郎宅の焼討ち、諸軍勢の救援、城兵の退却、二月末から三月の連戦を編年で記す。
建武三年五月~六月 / 冊子 326~327頁/原整理番号 3の11
建武三年五月、島津貞久が背後からの肝付兼重勢の攻撃を警戒し、忠能を大将として守護代森行重らを王子城へ派遣したことを記す。重久篤兼もこれに従い、六月には島津資忠・本田久兼らと加瀬田城を攻め、肝付兼隆の退城後、その軍功が貞久へ報告された。
年月日未詳 / 冊子 661頁
肝付兼重方の軍勢と足利尊氏方の戦いを記す伝。牛屎彦太郎兼隆が兵を率いて加世田城を攻め、公師兵を入れて肝付勢を隔て、条原孫六・大隅助三郎・冨光九郎らを派遣して加世田城・姫木城等を攻略した経過と、軍勢催促・恩賞を述べる。
年月日未詳 / 冊子 663~664頁
肝付兼重方と尊氏・島津方の建武三年五月以降の戦闘を記す伝。加世田城・姫木城・岩戸原・石城等で、島津貞久、条原孫六国道、莫祢次郎太郎政長、伊集院・平田・祢寝・石河内氏らが攻城・救援・追撃を重ね、被疵・戦死・城郭奪取に至った経過を日付順に述べる。
年月日未詳 / 冊子 108~109頁
土持栄勝が、都城陣での宿直と合戦、姫木城没落時の出陣、飲肥・櫛間への在陣や庄内への随行などの軍忠を列挙し、後日の証拠となる御判を求めた軍忠状。
年月日未詳 / 冊子 109~111頁
島津氏久譜として、税所氏・相良氏との曽於郡争乱における正八幡宮社人の守護方参戦、姫木・清水・木城などの攻防、本田親治・氏親父子らの奮戦・戦死、所領没収と守護方への安堵などを記す長文記事。
年月日未詳 / 冊子 121頁
調所貞恒伝として、康暦三年、島津伊久が本田氏親に命じて姫木城・清水城を攻略し、正八幡宮神官を服属させた後、神領料田を主神司へ寄進して氏親に連付させたことを記す記事。
応永八年十月九日 / 冊子 203頁
島津元久が野口太郎兵衛尉へ、大隅国姫木中城村一所を野口氏重代相伝の居屋敷として宛行い、後日の証拠とした宛行状。
応永廿八年二月廿八日 / 冊子 317頁
沙弥文西が、姫木に住む大中臣角入道文西として、清水楞厳寺へ水田五段を現世・来世のため関係証文とともに寄進した文書。
年月日未詳 / 冊子 411~412頁
文安年間以降の島津氏をめぐる軍事・政治動向を記す。本田重恒が税所氏の援助を得て姫木方面で島津忠国と争った戦闘、忠国方の反撃と敵将の敗走、伊集院照久らの動向、島津家の家督継承、応仁の乱と細川勝元・山名宗全、足利義尚の将軍就任などを年代順に叙述する記事。
(文安五年)十二月廿九日 / 冊子 423頁
島津忠国が、姫木城へ登る途中の石原口で敵軍と交戦して勝利し、今城・税所の両城付近まで攻め込んだ戦況を報告した。本田重経・河俣孫太郎らが敵の首を取り、中間数十人を討ったと記す。
永正十二年二月十五日 / 冊子 607頁
祐富が大隅国清水の楞厳寺へ、姫木森山の下にある田一段を後世まで寄進し、違乱を禁じた寄進状。
年月日未詳 / 冊子 700~701頁
吉松の伊東勢との合戦で遠州三か所へ切り込み、敵百四十五人を射殺して退け、清水・姫木方面の城衆を動員して警戒を続けた戦況報告。
年月日未詳 / 冊子 846頁
天文十六年、伊東義祐方と北郷忠直・源七郎方が日向山東、清水城、姫木城などをめぐって戦った経過を記す。各城への攻撃・救援、北郷方と本田董親らの進退、諸将の討死を追い、城の帰属変化と敗兵の退却までをまとめる。
年月日未詳 / 冊子 852~855頁
天文十七年、大隅国府の本田氏旧臣が起こした乱を島津貴久方が鎮定した経過を記す。本田紀伊守・北原方と伊集院忠朗らが清水城・姫木城を争い、放火で寺社が焼失する中、日新公方の援軍と城攻めによって反乱勢力を退け、地域支配を再建した。
年月日未詳 / 冊子 855~856頁
『樺山玄佐譜』が、天文十七年の大隅争乱で樺山善久(玄佐)が島津貴久方として出陣した経過を記す。本田・北原方に対する清水城・姫木城攻め、伊集院忠朗ら援軍との合流、渡海による戦線移動と退陣判断を追い、各城の支援関係を示す。
八月廿八日 / 冊子 856頁
財部元式が桃山殿に、御札と委細の命令を披見したことを報じ、姫木城の件などについて取り計らいを求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 856~857頁
『樺山玄佐譜』が、姫木城をめぐる北原・本田方との攻防を記す。樺山玄佐が守兵・援兵を率いて城の防備を整え、伊集院忠朗や日新公方と連絡しながら、清水方面の敵情、援軍の到着、城兵の出撃に応じて兵を配置した経過を伝える。
年月日未詳 / 冊子 857~859頁
『貴久公記』が、天文十七年三月に本田紀伊守が姫木城を構えた後の大隅情勢を記す。島津貴久・伊集院忠朗方と北原・本田方が清水周辺で攻防し、戦火で神社・寺院が焼失したこと、諸勢が出兵と退却を重ねて戦線が変化した過程を追う。
年月日未詳 / 冊子 859~861頁
箕輪伊賀が天文十七年の清水城・姫木城争乱を記した覚書。本田紀伊守・北原方と島津貴久・伊集院忠朗方の出陣、城への攻撃と救援、周辺への放火、軍勢の進退を日を追って述べ、大隅の複数城を連動させた戦線の推移を伝える。
年月日未詳 / 冊子 862~863頁
『庄内平治記』が、本田董親が北原氏を介して勢力回復を図ったことから、北郷忠相・伊集院忠朗らとの対立が深まる経過を記す。清水・姫木方面で諸勢が出陣し、城と周辺拠点をめぐる交渉が合戦へ転じた背景と双方の動向をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 863~865頁
樺山玄佐が自ら、島津貴久方への加勢要請を受けて兵を整え、渡海・出陣した経過を記す。北原・本田方に対する姫木城・清水周辺の攻防、伊集院忠朗ら味方諸将との合流、陣所の移動と戦況判断を日次に近い形で詳述する戦闘記録。
年月日未詳 / 冊子 867頁
本田董親が宮内を侵掠して神官らを退去させた後の回復過程を記す。島津忠将・樺山玄佐・伊集院忠朗らが清水・姫木方面へ出陣し、本田方の城を攻めて旧領を奪回した。戦後は神官・調所恒房らを帰還させ、神職と祭祀を復旧した。
年月日未詳 / 冊子 64~65頁/原整理番号 316
土持左近将監栄勝が、都城在陣中の島津越後入道との合戦、姫木城没落時の救援、真幸院への大将出陣への供奉、飫肥・櫛間への在陣と庄内出陣への供奉など、自身の軍忠を列挙し、大将が見知した事実として後代の証拠となる御判を求めた軍忠状。日付欠。
年月日未詳 / 冊子 269頁/原整理番号 47
本田重親の家譜から、氏久が咲隈で税所氏と湯之領を争った後、姫木城石原口を攻める敵に応戦した記事を収める。氏久は四十騎ほどで危急にあったが、重親は子孫十三人と一族を率いて奮戦し、敵の強兵を討ったという。氏久が子の又三郎を安全に逃がそうとすると、重親は氏久への忠節を命じ、父子別離を悲しむ主従がともに泣いたと伝える。
年月日未詳 / 冊子 270頁/原整理番号 49
土持栄勝の軍忠状から、前年九月ごろ姫木城が没落し島津氏が蜂起した際、合力のため真幸院へ出陣した大将に供奉し忠節を尽くしたという申告を抄録する。
現行年紀:八月六日 補記(正文と別層):永和三年 / 冊子 100頁/原整理番号 167/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0167
薩州勢が姫木へ打ち寄せ、宛先側の浮沈に関わるとして同心を求める。 御大将側からの状と高木方への相談に触れ、嶋の事をどう計らったか詳細を知らせるよう求める。
現行年紀:八月廿二日 本文中の参照年紀:今日廿一日 補記(正文と別層):永和三年 / 冊子 102~103頁/原整理番号 174/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0174
先の書状への返事がまだ来ず不審と述べ、二十一日に姫木古城へ陣を取ったと知らせる。 当陣を固めるため一勢を置き、「先救二郷界へ」勢を向ける旨を述べる(地名・語の切り方は未確定)。 急いで計らうよう求める。
文書日付:九月十四日 本文中の参照年紀:今日十四日 / 冊子 283頁/原整理番号 三七三/整理ID TMP-P02-NENE2-D0373
肝付方へ書状を遣わして相談し、承知したと述べる。 志布志辺の大綱と軍勢の状況についての返事を受け、姫木の陣で待つ旨を記す。 対都城では近陣二・三ヶ所を今日十四日に取ったと知らせる。 合戦次第を知らせるので、公共・私事を含め急いで措置し、目出たい展開を期待すると記す。
年月日未詳 / 冊子 843頁
大隅国で足利直冬方・凶徒方に属した武士を一族単位で列記する交名注文。税所介一族、祢寝郡司一族、小川郡司一族、姫木郡司一族、小浜十郎一族、敷根村預所、肝付八郎兼重、蒲生彦太郎一族、羽月孫太郎一族、修理所弥太郎一族、野辺孫七盛忠らを挙げる。