天正十五年覚書
年月日未詳 / 冊子 269頁
天正十五年丁亥の主要事件として、「大友敗北」と「大閤着陣」の二事だけを掲げた短い標目。豊後戦役の進行と豊臣秀吉の九州着陣を、その年を画する出来事として対置している。
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年月日未詳 / 冊子 269頁
天正十五年丁亥の主要事件として、「大友敗北」と「大閤着陣」の二事だけを掲げた短い標目。豊後戦役の進行と豊臣秀吉の九州着陣を、その年を画する出来事として対置している。
年月日未詳 / 冊子 315頁
天正十五年、太閤豊臣秀吉の薩摩出陣、薩摩・大隅・日向三州についての朱印拝領、貫明公(島津義久)の上洛という三項目を簡潔に記す。九州征伐後、島津家が所領認定を受けて豊臣政権下へ組み込まれた政治的転換点を示す覚書である。
5月7日(天正15年の目録推定) / 冊子 579~580頁/原整理番号 88
義珍が本田下野守へ、関白への差出をめぐる急な交渉を『一大事』と捉え、福智三河守・石田らを介した調整と十分な祈願を促す。忠棟が日州から船出したとの知らせを受け、その後の所在を尋ねる。入来院は重要な場所として典厩を籠めて固め、真幸は日州・菱刈をつなぐ通路で京衆が通るため強く応対し、祁答院には伊集院肥前守を入れて守備を相談するよう求める。飯野は城が弱く、敵が埋草などで取り寄せれば直ちに対応する必要があるため、諸方面の談合を急がせる。日州安堵が実現すれば宮崎を霧島へ寄進し、高原についても同様に祈願することを勧め、追書では高原の吉田若狭守退去の風聞と庄内への使者派遣に触れ、味方関係を確かめ油断しないよう戒める。5月7日付で、天正15年は目録上の推定年次。
天正十五年十一月廿二日~ / 冊子 476~477頁/原整理番号 74
天正十五年十一月二十二日以後の豊州在陣を記す覚書。鷲ヶ臺の城攻めを起点に、諸将・家臣の配置、交戦、討取、退却の経過を記し、佐渡・玄番の署名で結ぶ。鹿児島士瀬戸口浅右衞門所蔵文書に伝わる。
天正十五年六月十五日 / 冊子 557~560頁/原整理番号 95
天正十五年の上洛中の見聞を記した日記。新納右衛門佐と京都へ向かい、聚楽の小路の高札、北野大茶湯、寺社・町中の見物、関白豊臣秀吉への出仕や御殿での饗応、細川氏の宿所への帰着などを日次で記す。
[天正十五年]五月七日 / 冊子 292~293頁/原整理番号 69
天正十五年五月七日、島津義弘が豊臣秀吉の九州侵攻下で各地の守備や上洛・和睦への対応を述べ、石田治部少輔らとの交渉にも触れる書状。季安は忠棟らの動きを知る資料として引く。
年月日未詳 / 冊子 266頁
島津義久譜の記事。天正十五年三月十五日、前年十二月四日付で足利義昭から出された御教書が、この日に義久のもとへ到着したことを記す。本来は十五年の記事だが、前年の箇所に載せたとの注記があり、書状の発給から受領まで約三か月を要した伝達事情が分かる。
年月日未詳 / 冊子 250~251頁/原整理番号 86
公方の御成や歩行・騎馬時に島津義久が従える供の人数、配置、装束、武具を定めた行列覚。公方御成時の走衆を六人とし、小者・中間・雑色らの配置、太刀・小太刀・長刀・弓・傘袋・替馬などの担当、袴・肩衣の着用、徒歩と騎馬、近所と遠路による構成の違いを記す。騎馬時は狭い道で左方を先行させ、小太刀持ちの中間を馬前に置き、替馬は遠路の場合に用意し、洛中では引添えを付けないとする。義久の花押があり、別紙注は天正四年から二十年の間の写しとし、天正十五年の太閤入後、義久が上洛時の供行列を聞き合わせて記した可能性を示す。
天正8年10月16日・11月23日、天正15年4月 / 冊子 257頁/原整理番号 102
『上原氏系譜抄』に収めた上原氏三名の軍功・戦死記事。上原兵部少輔は天正十五年四月の新納院高城援兵に加わり、上原勘解由兵衛尉尚弘は天正八年十一月二十三日の肥後合志城攻めで戦功を立て、上原内蔵介は同年十月十六日の肥後網田城攻めで戦死した。各人一条ずつを簡潔に列記し、系線や親子関係は示さない。
元亀3年、天正元年3月18日、天正4年、天正6年11月、天正8年10月・11月、天正12年3月24日、天正14年6月、天正15年4月6日 / 冊子 280~281頁/原整理番号 111
元亀三年から天正十五年まで、上原長門守ら上原氏諸人の外交・地頭職・合戦での働きを年代順に列挙した軍功書上。元亀三年には禰寝方との和談使者を上原長門守・忠元・久治の三人が務め、同年三月中旬の伊地知方との合戦、天正元年三月十八日の肝付方との合戦では長門守が軍功を立て、天正四年には高原地頭を与えられた。天正六年十一月の耳川合戦では長門守と太郎五郎が軍功を挙げ、天正八年十月の矢崎城合戦で勘解由左衛門・内蔵助が戦死し、同年十一月の肥後合志方との合戦、天正十二年三月二十四日の島原合戦にも長門守・右衛門尉・勘解由兵衛尉らが参加し、彦五郎の分捕を記す。さらに天正十四年六月の筑紫出陣、天正十五年四月六日に京勢が日州高城へ着陣した際の防御人数に上原長門守を挙げる。
天正15年(1587)ほか / 冊子 420~421頁/原整理番号 8
秩父氏二十四代又太郎重豊の四男・淡路守入道心岳を祖とし、出羽守・淡路守重宗以下へ分かれる伊地知氏庶流の系図。重政は門川地頭として島津義久に仕え、天正十五年に豊後で戦死し、重張は朝鮮で戦死したと記すほか、種子島氏からの養子が義久・義弘・家久の三代に仕えたこと、各支流の官途・婚姻・養子・戦死を載せる。後半は手串良・牛根・栗野・曽木・飯野・倉岡・国分などへの移住、根城攻めでの戦功と前田給付、前田家との由緒から前田または伊地知を称した重悦・重通の系統、重氏・重行・元重・重慶・季定らの系線を示す。
2月20日(年未詳、同文参照)~万治元年(1658)の記事 / 冊子 431~437頁/原整理番号 13-5
冒頭は『諸家系図文書』10の7号文書と同一のため島津忠国書状を省略する。参照先は忠国が牛屎へ、菱刈方から詳細を聞いて早く来訪・決断するよう催し、対面を望んだ二月二十日付書状である。久元(牛屎越後守・法名光久)は永享十年の福昌寺仏殿造営勧進で、羽月元忠・山野頼元・北原久兼ら八十七人とともに馬一疋分の代銭を奉加した。歓元(同越後守・法名光秀)は文正二年梅雨吉日に牛屎家系図一巻を作り、薩摩守陳元から元親までの系譜を収め、文正元年から文明九年までの島津家系図・覚書も伝えた。応仁元年、牛屎院の兵乱で一門が日向真幸院へ移り、北原家との親族関係を頼ったこと、元親が大隅守・法名梅岳源春を称したこと、重元が永正六年に六十余歳で鷹書一冊二十五枚を書いたことを記す。天文十二年三月二十七日、実元は牛屎家先祖を覚書や本朝の大家系図と照合して記し、宗実兄弟が源頼政嫡子・仲綱の娘を母とし、建久七年に頼朝の恩免を受けて遠流先の薩摩へ下向し、羽月・山野・平泉を与えられ、子孫が牛屎・淵辺を称したとの家伝を載せる。元継の女子は兄弟不和のなか系図・文書を保持し、国分御前様に仕えた後に加藤金右衛門へ嫁いだため古文書が加藤家へ伝わり、頼朝御教書は公用のため提出されたとする。淵辺主計元継は慶長・元和の上地や宮越との田地争論で知行を減らし、寛永頃には約十石となった。弥兵衛は家に凶事が多く繁昌しないため母方の淵辺へ名字を改め、肥後の聖山伏を氏神として正宮・荒神宮に祀ったとし、元亀三年五月四日の真幸院における義弘と伊東家の合戦で五十四歳で戦死した。元秋は栗野に生まれ、父の戦死後に飯野・栗野を移り、伊東・大友との戦いを経て天正十五年豊後で戦死した。重綱は井手石氏の養子となり川上忠智に仕え、肥前深江・筑州岩屋城・朝鮮で戦い、朝鮮で左手を負傷して退き、加治木・鹿児島へ移って八十四歳で没した。元貞は父元秋の戦死後、十三歳で義弘に召し出され、吉松鶴丸村二十五石と栗野木場村三十石、計五十五石を与えられた。十五歳で義弘に従って朝鮮へ渡り、忠恒に近習・小姓として仕え、良右衛門の名、包清の脇指や衣裳を拝領し、のち帖佐・平松・加治木・鹿児島へ移住して、万治元年に百二十三石を持って隠居した。
元禄十四年七月二十五日 / 冊子 246~247頁/原整理番号 22
猿渡信安が、宇都宮次郎左衛門が羽月へ移された由緒について鮫島仲兵衛の照会に答えた覚書。六代前の猿渡越中が加世田地頭から羽月地頭へ移った経緯と、天正十五年の肥後国合志城主一行に対する島津方の処置、猿渡越中・白坂式部らの役割を述べ、家伝の範囲で回答する。
年月日未詳 / 冊子 350~351頁/原整理番号 3-1
島津義久の娘亀寿が上洛した際の経過を記す日帳。天正十五年の九州平定後の質人提出を背景に、出立から道中の行程、供奉・同行者を列記する。
本文年月日未詳 / 冊子 294~296頁/原整理番号 71
『持明様御上洛日記』から天正十五年の秀吉九州侵攻時、島津方が抗戦の後に降伏した経過を引く。季安は伊集院忠棟らと一向宗門徒の関係を推測し、藩の禁制の背景として考える。
(天正十五年)五月二十四日 / 冊子 293~294頁/原整理番号 70
新納忠元が豊臣軍の進入と島津方の降伏交渉、主君たちの出頭方針を伝える。五月二十四日付で滝聞越後守・土持大膳亮・二階堂阿波守に宛てる。
天正八年~十五年 / 冊子 671~672頁
天正八年から同十五年まで、島津家がたびたび軍事評議のため召し寄せた外城の武辺・功者五十四人を、日向・高山・蒲生・小林・志布志・大口・川内など所属地別に列挙する旧記。蒲生衆湯田鶴右衛門の旧記から写したとする。
文化6年6月廿九日(朱年注)。来正月廿一日遠忌予定 / 冊子 326~327頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1023
重豪公御譜中・扣正文在家老座。来正月二十一日の貫明(島津義久)二百年回忌について、百五十回忌には寺役を勤めた先例があり、今回の取扱いを妙谷寺が申し出た。寺社奉行を通じ記録奉行に調査させると、寛政5年に、五廟に当たる先祖の遠忌には供物・法事を行い、六代以前の格別な功徳のある先祖については供物または寺役をその都度吟味するよう定めていた。貫明は軍労を重ね、天正15年の秀吉来攻で国家が危急存亡にあった際、敵勢を察して早く和睦に及び、堅城・要害を守って抵抗する諸将に下知して下城を命じた。自身も薙髪して水引泰平寺の陣所で関白に謁見し、腰物大小を与えられた。領内が無事となり、庶民が水火の苦を免れて末代まで太平に浴したことを貫明の知勇・功徳として挙げ、六代以前の先祖ながら法事を営むのが相当とする。名代・代参・香奠その他も先例による。恩赦については、明和7年寅年の大中(島津貴久)二百年回忌に奉伺したところ、遠忌の恩赦はかえって御仕置の障りになる旨の仰出があった。その後の天明7年未年、慈眼院(島津家久)百五十年回忌にも恩赦の記録が見当たらず、今回もその扱いとする。殉死者の子孫に関する件も先例どおり法事の際に相談するよう申し談じ、別紙を添えて両殿に相談し意向を返すよう求める。百回以上の法事は終了後に御能を命じる先例も記す。六月二十九日、朱年注は文化6年。朱記の差出人は島津登、宛先は島津安房・鎌田典膳・川上右近。
年月日不記(天正十五年・慶長四年などは系図内記事) / 冊子 628~630頁/原整理番号 113
種子島氏支族・河東尾張守時定の八代に当たる因幡守時儀の子から続く善左衛門家系図で、時近・時適以下の系線、養子、婚姻を記す。時近の女子は島津義久の室となった種子島時堯の娘に局として仕え、天正十五年の秀吉西征時に人質として上京する亀寿に随従し、十八年の再上京にも従った。義久はその勤労に感状と三百石を与えたという。この局は義久の許可を得て最上長門守の二男・時弘を養子として跡を立て、時弘は肝付郡百引の地頭職を賜った。時弘は阿多掃部介の二男・時常を養子とし、後の時豊は一時阿多甚左衛門家を継いだが、兄時次が子を残さず死んだため同家を辞して本家を継いだと記す。
天正十五年五月七日 / 冊子 398~399頁/原整理番号 154
島津義珎の書状。日向の高原・宮崎方面の諸勢力や国衆との交渉、城の明け渡しや人質などの処置を指示し、上洛と家中への伝達にも触れる。天正十五年五月七日付。
天正十五年四月六日 / 冊子 287頁/原整理番号 60
『古戦場記』が天正十五年の豊臣軍九州侵攻と島津家久・羽柴秀長の会見を記し、家久は毒殺されたとする記事を引く。季安は伊集院幸侃の関与を推測する。
永禄十二年三月十三日・元亀二年 / 冊子 242頁
薩州島津家の略系図。忠辰を島津歳久の猶子とし、永禄十二年三月十三日生、天正十五年四月十七日に十九歳で死去したと注記する。元亀二年に出水で生まれた忠清は義久長女を母とし、兄忠辰の罪により母・母堂・弟忠富・忠豊とともに小西行長へ預けられ、長年肥後に在住したとする。
天正十二年春~三月二十四日 / 冊子 867頁
天正十二年春、島津・有馬勢三千余騎が安徳へ入り、三月二十四日に島原で龍造寺隆信の二万五千騎を破ったとの覚書。川上忠堅が隆信を討ち、川西紀伊が龍造寺方の旗頭守一軒を討った功により湯浦の内しちゃ門を与えられたが、天正十五年の豊臣秀吉入国で上地となったことを子孫のため記す。
年月日未詳 / 冊子 269頁
島津家久が府内に留まり豊後半国を掌握したものの、諸将の抵抗と兵糧不足で進退に窮したため、樺山忠助を三重の松尾城へ退かせた記事。天正十五年正月十八日、忠助が府内から三重へ到着し、新納縫殿助・平田狩野介らと守備に当たった経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 277頁
天正十五年正月二十六日、島津義弘が球珠郡野上城へ陣を移し、周辺諸城の多くを降伏させた記事。なお抵抗する城に川上久信・町田久倍・新納忠元らを向け、外郭と二の丸を破り、五日後に本丸を陥落させた。続いて北里・小国方面も降伏したが、二月には羽柴秀吉の大軍接近が記され、豊後・肥後戦線が攻勢から対豊臣防衛へ転じる局面を示す。
年月日未詳 / 冊子 288~289頁
天正十五年三月、肥後から日向口へ退く島津軍について、義久・義弘の本隊、各備、供衆、戦死者などを所属別に列挙した交名。退陣時の部隊構成と家臣団配置を具体的に復元でき、個々の従軍者・被害者を追跡する基礎史料である。
年月日未詳 / 冊子 290~291頁
天正十五年三月十八日、岡城主の軍勢が密かに襲来し、小牧と鍋田両城を陥れたことから始まる記事。島津方は多数の戦死者を出し、残兵が松尾城へ退いて防備を整えた。岡城勢の奇襲によって日向への退路が脅かされる局面を、戦死者と移動経路を交えて記す。
年月日未詳 / 冊子 296~297頁
天正十五年四月二十五日、豊臣秀吉が川内の太平寺へ着陣し、西国諸将の大軍と舟橋で人馬を渡した。平佐城へ降伏を迫ると、城方は「賢人は二君に仕えず」と旧主への忠義を理由に拒絶。二十八日には城門・藤崎小路で激戦となり、高木帯刀・谷山紀伊守らが奮戦して京衆・在地衆を感嘆させた。
年月日未詳 / 冊子 311~313頁
天正十五年、阿蘇玄与が豊後・日向方面から島津勢が後退するなか、薩州へ帰陣するまでの軍勢配置と籠城戦を回顧した書出。豊臣方の大軍が迫るなか、少勢で城を守り、鉄砲・放火・夜討ち・援軍到着を交えた攻防と死傷を詳述する。やがて関白方の諸将に包囲・追撃され、城兵の命を守るため城明渡しを約して撤退した。戦線崩壊を現地指揮官の判断から伝える実戦記録である。
年月日未詳 / 冊子 313~314頁
天正十五年三月十五日、新納忠元は豊後府内に着き、岡城の志賀氏らが坂梨に陣して退路を遮ったと聞く。以後、坂梨・深水・球磨川・大口城などを経て帰還するまでを日付順に記し、途中の戦闘、城の守備・移動、討死者、伊集院忠棟・平田増宗らの動向までを列挙する。豊後から薩摩方面へ退く島津軍の経路と混乱を凝縮した譜記事である。
年月日未詳 / 冊子 326~327頁
島津家久の長女で根占右近大夫重張の妻となった女性について、天正十五年四月、父家久が羽柴秀長に降伏した際に人質となり、秀長の帰洛に従って上方へ送られたことを記す。上方に長く滞在し、のちに命を受けて豊臣秀吉へ拝謁した際、伊集院幸侃らわずかな随員だけが付き従ったという。九州征伐後に島津家の女性が政治的人質として扱われた事実を示す短い女性譜。
年月日未詳 / 冊子 327頁
町田久倍の長男・町田忠綱が、天正十五年五月八日に島津義久の太平寺での豊臣秀吉への降参に供奉したことを記す短い譜記事。父久倍・弟久幸とともに義久の服属儀礼を支えた町田氏一族の役割を示す。
年月日未詳 / 冊子 333頁
天正十五年五月十八日、義久が太平寺から平佐城へ移った後、新納忠元は島津家が秀吉へ降参したことを「何より口惜しい」と強く反発した。義久は、家久の降参や伊集院右衛門大夫を介した和平がすでに進み、従わなければ島津家滅亡の原因になると説得する。忠元はやむなく降参し、秀吉から長刀一振、さらに道中で道服と扇を直接与えられた。敗将の抵抗感と秀吉による厚遇を伝える逸話的な覚書。
(天正15年)正月16日以降 / 冊子 369~375頁
天正十五年正月の野神城出陣から、肥後国人一揆とその後の各地の軍事行動まで、新納忠元の戦功を年代順に集成する。先陣・城攻め・籠城救援、敵兵の討取りや負傷、兵粮・人質・城番の処置に加え、島津・伊集院勢の動員、豊臣方との折衝、戦後の褒賞までを詳述する。忠元個人の勇猛さだけでなく、九州仕置後の島津軍の実務と家臣評価を伝える長大な勲功記。
年月日未詳 / 冊子 504頁
島津歳久一流系図の常久の項。幼名を襲装菊丸といい、又吉・常陸守・下総守を称したこと、天正十五年正月十八日に祁答院宮城で生まれ、母が歳久の嫡女であったことを記す。歳久流の血縁と出生を確認できる基礎史料。
五月廿二日 / 冊子 45頁
原田市兵衛が、天正十五年の平佐城攻めにおける祖父原田帯刀の軍功を申し立てた文書。籠城戦で寄手の大将九鬼八郎を弓で射たこと、直後に和談となり、矢をめぐって小出大隅守方の家老らが確認した経緯を述べる。
天文六年八月七日~慶長十七年四月二十六日(系譜中主要記事) / 冊子 483~487頁/原整理番号 20
桓武天皇―葛原親王―高望王から貞盛・維衡・正度・忠盛・清盛を経て、小松内大臣重盛の後裔を平田氏諸流へつなぐ庶流系図。平田安房助悦山を加世田龍徳院に葬ったこと、谷山吉幸城主・平田民部少輔宗秀が隅州平松の岩剣合戦で戦死したことを記し、宗貞・宗祐・宗位・宗如らの官途・没年・法名へ続く。宗清は天文六年八月七日に阿多宮崎本地河原で戦死し、宗張は天正十五年三月十五日に豊後坂梨で戦死、平田新七光宗は実父を宗秀とし、慶長十年十二月二十六日に七十七歳で没した。さらに妙谷寺・福昌寺住持となった宗徳、増宗まで続く家老役、宗次の野尻での被討、行宗の筑前航海中の船破損に際する切腹、宗親・宗朋・宗房らの没年と葬地を載せる。村田雅楽頭経宣の三男・宗敏は子のない宗房の猶子となり、九歳で義久の近習、十三歳で家久の幕下に奉仕し、十四歳の慶長四年には伊集院源次郎の庄内一揆に従軍したところまで記す。
天正十三年十月十七日ほか / 冊子 273~274頁/原整理番号 24の27
『上井覚兼日記』天正十三年十月十七日条から、白浜次郎左衛門を介した静謐の祝言と談合、筑後表での辛労に対する言上を抄出する。あわせて猿渡氏の由緒と、天正十五年十二月十五日に高野木食興山上人が来訪した伝承、羽月大聖寺への信仰と肥後からの参詣を考証する。
年月日未詳 / 冊子 401~402頁/原整理番号 162
島津義久の北郷入道宛て書状。戦いの成否、頓川内へ差し出した者、隅州での対応を伝え、春日八幡への参詣に触れる。天正十五年五月十六日付。
〔寛永四年〕九月十六日 / 冊子 352~355頁/原整理番号 4
北条土佐守が、天正十五年以降の島津家の女性の上洛と質人の手配を回顧し、誰を差し出し誰を代わりに残すか、在京者の扶持や住居をどう扱ったかを詳述する。寛永四年九月十六日付の書状。
年月日未詳 / 冊子 337~338頁/原整理番号 28
忠元が二十七歳の歳旦に七言の詩を作ったことを記す。家の記録にはないが世間で賞美されてきたという。「さまくに」の歌もその年の作として伝えられるが、真筆短冊は為舟の名で、為舟は天正十五年以後の老号なので、二十七歳の作とは区別される。後年の和歌を若年の詩と取り合わせる伝聞の誤りを指摘し、その年の歳旦詩を抄録する。
巻三/冊子 38~41頁
伊東氏を保護した大友氏が秀吉へ島津征伐を求めたことに対し、義久が先に豊後へ攻め入った経過と、秀吉の九州国分け・征伐命令を記す。入田宗和・志賀道益ら大友方内部の離反を受け、新納忠元が密使を送り、天正十四年十月、義弘を大将とする三万七百余騎が肥後側から豊後へ進む。義弘勢は野尻・高城・津賀牟礼・松尾・鳥嶽などを攻略し、家久勢も日向側から三重方面へ進んだ。秀吉は島津・伊東・大友らの所領を配分する調停案を示して戦争停止を求めるが、島津方は従わず、十二月の戸次川方面の戦いで大友義鎮・仙石秀久・長宗我部信親・十河存保らの軍を破り、信親・存保を討つ。翌天正十五年、秀吉はこれを命令違反として九州征伐軍を進める。島津勢は府内・野上・玖珠方面から撤退を決め、義弘・家久は日向路、歳久・征久・忠元・伊集院久春らは肥後路へ分かれる。清田・三重・梅の隘・坂無・谷山・八代で追撃を受けながら防戦し、忠元らは国人の離反と豊臣方の海陸大軍の接近を見て、人吉を経て薩摩へ帰る。豊後侵攻の進展、戸次川での勝利、秀吉の国分け命令違反、豊臣軍来襲による撤退を一連の転換として描く。
(天正十五年)七月十日 / 冊子 7頁
領内百姓から刀・脇指を取り集めて多数を差し出したことを賞し、尽力を評価するとともに、詳細は石田治部少輔に申し含めた直書。