天正六年記事
年月日未詳 / 冊子 550頁
天正六年正月六日、天草方が日向平定の祝使を立て、書状と鎧一領を進上し、相良方も新納忠元へ戦勝祝賀の使僧を送った。七日には天草方が、今後島津方へ申し入れるため官途・受領を申請し、自身の参上は遠路で困難なので使節を立てると伝えた。島津義久の直書に代わり、繁忙のため奉行衆が返書した。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
135 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 3
年月日未詳 / 冊子 550頁
天正六年正月六日、天草方が日向平定の祝使を立て、書状と鎧一領を進上し、相良方も新納忠元へ戦勝祝賀の使僧を送った。七日には天草方が、今後島津方へ申し入れるため官途・受領を申請し、自身の参上は遠路で困難なので使節を立てると伝えた。島津義久の直書に代わり、繁忙のため奉行衆が返書した。
年月日未詳 / 冊子 155~157頁/原整理番号 43-1
御関狩・御馬追に関する諸調書の書抜。天正四年の近衛前久滞在時に春山の御関狩が行われた記録を挙げ、関狩が出陣、馬追が帰陣の儀式だという古老の伝承を検討する。膳・三献などの作法と照らして単純には認められないとし、吉野の御牧と馬追の開始年代も旧記の記載を比較して確定を避ける。
天正六年 / 冊子 532~534頁
天正六年の島津氏の動向を編年で記す。年初の日向諸氏からの服属・進物、石城をめぐる攻防と土持氏の滅亡、琉球との進物往来を載せる。十月以降は伊東氏復帰を掲げた大友軍の高城攻め、耳川合戦での島津方の大勝と大友軍の多数の戦死・溺死、日向再平定を詳述し、年末には足利義昭・毛利氏による大友攻撃構想への返書を収める。
天正六年 / 冊子 535~536頁
天正六年に島津方として戦死した者を月日・戦場別に列挙する名簿。三月の石城方面、十月二十三日の三原衆反乱、十一月十二日の高城・耳川合戦などの死者を中心に、福永丹後守・鎌田大炊助・伊地知式部少輔・本田親治・北郷久盛ら多数を記し、日付不詳の者も追記する。
天正六年二月朔日 / 冊子 537~538頁
島津尚久一流の系図として、図書頭忠長の子・忠倍を記す。忠倍は天正六年二月朔日に鹿児島で生まれ、母は島津右馬頭忠勝の娘、童名を菊寿丸、又五郎、のち河内守と称した。
天正六年八月吉日 / 冊子 548頁
島津義虎が専修寺へ、近衛前久が天正三年十二月の下向時と翌年七月の帰洛時に同寺へ滞在し、接待に感謝して勅願所とする書状を与えた経緯を述べる。天正六年八月二十二日に綸旨が下されたことを前代未聞の大慶として祝った。
天正六年 / 冊子 549~550頁
田方所領高に応じた軍役賦。一町衆は主従二人、二町は三人と一町増すごとに一人を加え、十町では主従十一人とする。十町から百町・千町までも一町につき具足一領を負担させる。編者は天正四年の出陣賦と並ぶ原本から、天正六年の日向耳川方面出陣時の賦ではないかと推定する。
天正六年九月廿九日 / 冊子 550~551頁
天正六年九月二十九日、大口の新納忠元から届いた書状を記す。相良方の情報として、大友宗麟が日向へ出陣を企て、肥後衆の援助を重ねて求め、八代へ真光寺の使僧を送ったと報告した。相良方は秘密が他所から漏れれば島津側の心証を害すると懸念し、事情を伝えたという。
天正六年十一月四日 / 冊子 554頁
島津義久が、高城口での戦いが勝利となったなら、法華経一万部を手配して必ず執行すると誓った願書。本文年紀は天正六年十一月四日と読める。
天正六年十一月十三日 / 冊子 558頁
島津義久が島津義弘へ、先年の大隅岩剣合戦以来、昼夜にわたる軍忠が比類なく、今回の高城境での大友軍着陣にも連日才智を尽くし名誉の奮戦をしたと賞した感状。本文年紀は天正六年十一月十三日と読める。
天正六年十一月十三日 / 冊子 558~559頁
島津義久が島津家久へ、大友軍が高城へ着陣した難局で昼夜軍労を尽くし、本懐を遂げた高名は比類ないと賞した。その忠節に対して領地を宛行い、今後も戦功を尽くすよう命じた感状。本文年紀は天正六年十一月十三日と読める。
天正六年十一月十三日 / 冊子 559頁
天正六年十一月十三日、島津義久が北郷忠虎へ誓状を与えたことを記し、次号の起請文を掲げる。
天正六年正月~三月十九日 / 冊子 576~581頁
天正六年正月から三月十九日までの日記。年始儀礼、土持・天草・相良らの祝使、伊東旧臣の移配と所領処分、日向諸城・寺社への対応、豊後側の侵攻情報と番衆配置を記す。二月以降は門川への豊後船到来、三城・三納方面の動揺、海江田衆の反乱鎮圧、穂北での伏兵準備など国境警備を強化し、義久が都於郡から鹿児島へ帰陣するまでを載せる。
天正六年十一月十二日 / 冊子 628頁
天正六年の高城・耳川合戦で島津方として戦死した者を列挙する名簿。本田親治、北郷久盛、村田経重、山中宗左衛門、鎌田大膳亮、海江田主殿、曲田伯耆守、市来軍介ら、根白坂・河原・追撃戦などで討死した諸士を記す。
天正六年頃 / 冊子 514~515頁/原整理番号 88の4
天正六年頃の島津義久代における老中・御使衆等を書き上げた記録。川上久明、伊集院忠棟、平田盛宗、村田経定、本田三清、喜入季久らをはじめ、役職ごとに家臣名を列記する。
天正六年九月十一日 / 冊子 236~237頁/原整理番号 20-1
天正六年九月の出陣記事から、御旗・御太刀を持つ人員と出立の手順を引く。三原右京亮・本田らの役目を日々記の記録によって確認する。
天正六年十月廿五日 / 冊子 237頁/原整理番号 20-2
天正六年十月、山東高城への出陣で、船を用い、御旗・御太刀などを役人が分担して運んだ記事を引く。大友勢との対陣に伴う旗役の実務を示す。
年月日未詳 / 冊子 167~169頁/原整理番号 47
那須五左衛門家の系図。那須氏祖を頼賢(為義四男)とし、為信を備中守行家の一男、宗高を八島で扇の的を射た与市とする。宗治は文治二年に島津忠久の薩州下向に先陣して日向国臼杵郡に住したといい、義祐は楠正成に従って北条高時・大仏貞直方と戦い、河内国千剣破城で戦死した。元祐は応永四年、筑後国上妻で菊池武政方として大内義弘と戦い、大津主水祐を討つ。高久・祐英らを日州椎葉山小崎城主とし、高治が島津義久の旗下となったこと、慶長十八年の椎葉山一揆後に祐実が安藤対馬守へ預けられ上州高崎で没したことを記す。曽我祐巻は日州宮崎城主曽我祐郷の子で島津義弘に属し、貫祐の養子となる。末尾は祐為が慶長二年に江戸で島津光久へ御目見した記事と、天正六年に高治が近国境警備を命じられ義久旗下に属したとする伝を載せる。
応安6年、天正6年 / 冊子 172頁/原整理番号 52
肥後庄右衛門家の系図。清盛の二男基盛の末孫とする六郎左衛門信等を掲げ、信家には『肥後守信基三男』とする異伝注を付し、正信へ続ける。六郎左衛門信盛―中務少輔正盛―大和守盛久の系線では、応安六年に日州で戦死したことを記す。ほかに時盛、氏盛―盛家―長盛、盛寿―盛次―盛昌の系線を掲げ、盛昌は天正六年の大友合戦で功があったとする。後半は盛満―早世した盛次、六郎左衛門盛等―勘解由・左衛門盛広―播磨守盛明、又右衛門盛利―内膳正盛政―市左衛門盛張の諸系線を示す。
元亀3年、天正元年3月18日、天正4年、天正6年11月、天正8年10月・11月、天正12年3月24日、天正14年6月、天正15年4月6日 / 冊子 280~281頁/原整理番号 111
元亀三年から天正十五年まで、上原長門守ら上原氏諸人の外交・地頭職・合戦での働きを年代順に列挙した軍功書上。元亀三年には禰寝方との和談使者を上原長門守・忠元・久治の三人が務め、同年三月中旬の伊地知方との合戦、天正元年三月十八日の肝付方との合戦では長門守が軍功を立て、天正四年には高原地頭を与えられた。天正六年十一月の耳川合戦では長門守と太郎五郎が軍功を挙げ、天正八年十月の矢崎城合戦で勘解由左衛門・内蔵助が戦死し、同年十一月の肥後合志方との合戦、天正十二年三月二十四日の島原合戦にも長門守・右衛門尉・勘解由兵衛尉らが参加し、彦五郎の分捕を記す。さらに天正十四年六月の筑紫出陣、天正十五年四月六日に京勢が日州高城へ着陣した際の防御人数に上原長門守を挙げる。
永禄12年、天正6年11月11日、寛文5年 / 冊子 325頁/原整理番号 123
市来家氏流の家守以下を一頁に示す系図。新納忠元の妹を母とする家満は天正六年十一月十一日に新納院高城で戦死し、その子家繁は永禄十二年生まれで、頴娃・庄内・高城・伊作・蒲生などの地頭を歴任して多くの忠功を立て、宗友は蒲生地頭、家良は兵具奉行、家実は光久へ太刀・青銅を進上して御納戸奉行・穆佐地頭・御側御目付・鹿屋地頭を務めたとする。後代では、家張が高奉行、家的が三十六歳で大坂に死去し、家年が嫡宗家親の養子となったこと、家貞が兄二人の死後に家督を継いで江戸で死去したこと、家重が寛文五年に生まれ、兄二人の死により家督を継いだことなど、戦死・役職・養子・相続を記す。
天文12年3月27日 / 冊子 674~678頁/原整理番号 157-7
天文十二年三月二十七日、牛屎平次郎実元が『大平家覚書系図一通』として家の由緒を記した覚書を起点とする最終の系図記事。永禄五年に貞幸院司北原兼隆が早世した後、当家一族が忠平公へ奉公し、栗野へ移ったことを記す。後続の元秋・重綱らの条には、天正六年の日州高城での大友軍との合戦、肥前・筑州などへの出陣、義弘公の供奉、栗野・飯野・帖佐・加治木等への居住地の移動が記される。さらに元貞ら子孫の軍役や恩賞、嫁入り・養子・改名、子女の出生・没年を正徳年間まで書き継ぎ、末尾には系図の人名上の丸印と罫線が朱書であると注記する。天文十二年の実元覚書と後代の追記を一つの同時成立文書とみなさず、系図の記述として扱う。
年月日未詳 / 冊子 395~396頁/原整理番号 121
祥雲寺に安置する脇立観音の木座像・蓮花座・後光の寸法を記し、後光裏の尊像彫刻銘と奉寄進の銘を掲げる。天正三年十一月吉日の銘と天正六年八月の蓮花座裏銘があり、後者は華岩意雲の再興を伝える。願主忠元・忠恒と家門の繁昌、安泰を祈り、天正三年十一月二日付の華岩意雲の文と、細工重藤が切組の内に記されているという注を添える。
年月日未詳 / 冊子 405~406頁/原整理番号 137
天正六年正月の祝儀・土持と伊東の処遇・天草交渉を記す。土持は人質に関する条件を申し入れ、相撲や刀を進上し、伊東方の退治に従う意向を示した。山毛の廻文や大友父子の書状には日州の混乱と伊東の亡命について記される。天草から日州取得と勝利を祝う使僧・贈物が届き、佐土原などの城から来た百人ほどの家臣へ覚悟を求めた。末尾には九月二十九日付の大口忠元の書状の記事があり、相良・大友・肥州、八代真光寺との関係を報告する。
年月日未詳 / 冊子 406~407頁/原整理番号 138
川上久辰の耳川合戦日記。天正六年九月十一日の山東への出陣に本田紀伊守・三原右京亮らが旗役を務め、鹿児島などから供衆を集めた。忠元の使僧や諸所の使者を通じ、高城・野尻・紙屋などの番衆交代、雑務の分担、参陣と御陣の人数を調整する。大軍が押し寄せる高城へ軍勢を差し籠め、石之城を得た際の祝言や太刀などの進献も記す。終盤には猿渡らの使僧、山下造酒の中国鉄山からの帰帆報告と進献を載せる。
(天正六年)正月二日 / 冊子 536頁
宇久純幸が伊集院忠棟へ、島津方が伊東氏に勝利したと聞いて祝意を伝え、この旨を島津義久へ披露するよう依頼した書状。
天正六年十月十七日 / 冊子 551頁
足利義昭が明讃西堂に、先例に従って橋興寺の住持職を執務するよう命じた公帖。
天正六年十月廿六日 / 冊子 553頁
島津義久が霧島山へ、今回の日向防戦を守護し勝利へ導いたなら、真読大般若経六部を必ず勤行すると誓った願文案。
(天正六年)九月十一日 / 冊子 224頁
足利義昭が毛利輝元の申し出を受け、帰洛のため諸国の軍勢に忠功を求めた御内書。豊後から防長への進出を防ぐため、防長両国の軍勢を豊前・筑前方面へ派遣し、島津方にも格別の奔走を求める。
(天正六年)九月十一日 / 冊子 224頁
一色昭秀と真木島昭光が足利義昭の帰洛計画と毛利輝元の協力、東西諸勢力の動員、豊後方面への軍勢派遣を伝え、島津家中にも忠勤・再興への協力を求めた連署副状。
(天正六年)十二月十日 / 冊子 366頁
島津義久が毛利右馬頭に、上洛に際する使書を謝し、東北の士卒による忠勤や来春の豊後・筑前方面での戦い、日向表の敵への対処を述べ、今後も親交を求めた書状。
天正六年正月七日 / 冊子 235~236頁/原整理番号 18
日向出陣の日々記から正月七日の記事を引き、御旗に雨が降った際に紙屋で御旗を掛けたことを記す。続く旗役の具体的な扱いを示す。
天正四年(六年か)七月九日 / 冊子 545頁
上井覚兼・伊集院忠棟が宮原筑前守へ、石城口でその子が奮戦したことを認め、子を早く帰らせる代わりに本人が急ぎ出陣するよう命じた。伊集院肥州・頴娃氏・吉田若狭守が負傷して帰ったため陣が手薄であり、時を移さないことが肝要と念を押す。本文の年次注記は天正四年を六年と訂する。
(天正七年) / 冊子 631頁
島津義久が、長年の滞在と度々の出陣、ことに前年冬の日向での大友勢との戦いにおける御炊才八の名誉ある働きを賞した感状案。
天正六年正月廿四日 / 冊子 537頁
伊集院忠棟・平田光宗・喜入季久が土持親成へ、旧来の幕下筋として本領回復を望んだことを受け、まず日向国の石塚と三か名百町余を与え、時機を見て門川の城・所領と振り替えて必ず宛行うと約した連署状。本文年紀は天正六年正月二十四日と読める。
天正六年四月 / 冊子 540頁
天正六年四月、琉球国の使船が到着し、国王から島津方へ紅糸二斤・上布などの織物が贈られた。使僧の妙厳寺は織物・扇・線香二把を持参した。
天正六年春~七月六日 / 冊子 541~542頁
天正六年春、伊東旧臣の長倉勘解由左衛門が残党数百人を率いて日向の石城に籠もった。七月六日、島津忠長・伊集院忠棟が数千騎で攻め、大河を徒歩で渡って城門へ迫り敵数十人を討ったが、忠長が矢傷を負い、堅城を無理に攻めず全軍を佐土原へ退かせた。
天正六年九月上旬 / 冊子 542頁
天正六年九月上旬、島津征久を大将、伊集院忠棟・平田光宗・上井覚兼を副将として石城を再攻撃した。忠棟が大木を川底へ沈め浮橋を作って軍勢を渡し、三方から昼夜鉄砲・矢を浴びせた。城中が食糧・水に窮して長倉が和を請うと包囲を解き、酒食と糧を与えて豊後へ送った。
天正六年七月六日 / 冊子 542~543頁
鹿籠から大隅国肝付郡串良へ移った島津忠長の譜。伊東義祐の豊後退去後、旧臣長倉勘解由左衛門が石城に籠もったため、天正六年七月六日に忠長と伊集院忠棟が数千の軍で攻撃した。大河を徒歩で渡り城門へ迫ったが忠長も矢傷を負い、堅城を無理攻めせず佐土原へ退いた。
天正六年 / 冊子 543頁
天正六年の石城攻めで、川上久辰が大手の城戸へ向かい、敵の矢石が雨のように降る中で戦ったことを記す。鑓持が間に合わなかったため野呂与助が敗走する味方から鑓を取り上げて久辰へ渡し、久辰は頴娃左馬助・梅北宮内左衛門と並んで接戦した。
天正六年 / 冊子 545頁
天正六年、大友宗麟・義統父子が豊後・肥後・筑前・筑後などの大軍を催して日向へ侵入するとの報があり、北郷時久が島津義久へ誓状を提出した。義久からも盟約の返書を与えられたことを記す。
天正六年八月三日 / 冊子 546頁
天正六年、大友氏が日向へ侵入しようとした際、北郷忠虎が島津義久へ誓紙を提出し、同年八月三日に義久から盟約の返書を与えられたことを記す。
天正六年八月吉日 / 冊子 547~548頁
佐多大和守・寄田内記允・市来加賀守が専修寺へ、天正三年に近衛前久が出水へ下向した際の接待を賞して勅願所とする旨が示され、天正六年に綸旨を頂戴したことを祝う。前代未聞の栄誉で永代の亀鑑になると述べ、島津義虎も大いに喜んでいると伝えた連署状。
天正六年十月十四日以後 / 冊子 551~552頁
天正六年十月二十日、大友宗麟・義統の大軍が日向高城を包囲し村落を焼いたが、山田有信・島津家久らが籠城した。城内は水不足となったものの古橋陰から泉が湧いたとする。大友方は伊東残党と三納村の蜂起も図ったが島津方が鎮圧し、家久の作戦報告を受けた義久は二十五日に大軍を率いて日向へ進発し、夢中の句を勝利の兆しとした。
天正六年十一月朔日 / 冊子 554頁
天正六年十一月朔日、島津義久が佐土原へ到着した。城郭・村舎に数千戸があっても数十万とする従軍兵を収容できず、軍勢の大半は荒野に宿営した。大友軍を攻める日を選ぼうとしたが、連日の風雨のため晴天を待った。
天正六年十一月十二日 / 冊子 558頁
天正六年十一月十二日、島津義久が大友宗麟・義統父子と新納院高城で戦った際、大友軍の進撃が急になると、北郷相久が島津征久とともに敵の横手を攻め、大友軍を大破して敗走させた。
天正六年十月二十日~十一月十一日 / 冊子 558頁
大友宗麟・義統が六か国の兵を率い、天正六年十月二十日に日向高城を包囲して四か所に陣を構えた。十一月十一日、島津方が財部から進み大友方の松山陣を破って包囲の一面を解くと、樺山規久は高城へ入った。同年、穆佐の地頭職を与えられた。
天正六年十一月十三日 / 冊子 559頁
島津義久が北郷忠虎へ、永代にわたり無二の奉公をし、風説があれば即座に互いに知らせ、親類の長年のよしみがあっても逆党には同心しないとの誓紙を神妙と認める。今後も疎遠なく一味すると誓い、新田八幡・諏訪・稲荷・天満天神などの神罰を掲げた起請文。本文年紀は天正六年十一月十三日と読める。
天正六年秋~十一月二十八日 / 冊子 560頁
天正六年秋、大友宗麟・義統が伊東氏を日向へ復帰させようと六か国の兵を率い、高城を包囲した。城代山田有信が五百余人で守る中、島津義久が三万の兵で大友軍を破り、父子を豊後へ敗走させた。義久は十一月二十八日に鹿児島へ帰ったとする略記事。
天正六年十一月 / 冊子 562~564頁
天正六年十一月の高城・耳川合戦に島津義久・義弘に従軍した一族・国衆・地頭・家臣を多数列挙する交名。歳久・以久・忠長・家久、北郷時久、樺山範久、山田有信、伊集院忠棟、上井覚兼らを掲げ、防戦功・戦死・負傷などの注記を付す。