北郷時久日記(自元亀三年正月至天正元年十二月)
元亀三年正月~天正元年十二月 / 冊子 322~323頁
元亀三年正月から天正元年十二月までの軍事日程を記す。浜市小島の肝付兵船捕獲、廻・三山・木崎原・早崎・住吉原・西俣の諸戦、禰寝重長の帰順と下大隅渡海、平松陣の役人・作法、恒吉宮ノ原の損害、平床への着陣などを日付順に列挙する。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
51 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 2
元亀三年正月~天正元年十二月 / 冊子 322~323頁
元亀三年正月から天正元年十二月までの軍事日程を記す。浜市小島の肝付兵船捕獲、廻・三山・木崎原・早崎・住吉原・西俣の諸戦、禰寝重長の帰順と下大隅渡海、平松陣の役人・作法、恒吉宮ノ原の損害、平床への着陣などを日付順に列挙する。
天正元年 / 冊子 295~296頁
天正元年の主要記事を編年で記す。正月の住吉原合戦で北郷時久父子が肝付勢を破り、宝持院・八木昌信らの密使によって禰寝重長を肝付方から離反させ、二月に盟書を交わした。三月には禰寝氏と共同で肝付領へ出兵し、高洲・西俣で戦い、七月には肝付勢の早崎襲撃を島津家久らが撃退した。北郷氏の平松在陣、牛根城包囲、改元、琉球王尚永の即位なども記し、人物・系譜・典拠の考証を添える。
天正元年正月六日~十一月 / 冊子 296~297頁
天正元年の島津方戦死者を日付別に列記する。正月六日の住吉原合戦で河野主税良次・田原大蔵信秀ら、三月十八日の西俣合戦で禰寝重長臣野間武藤守以下約三百人、早崎関係では肥後平次郎・桑波田孫太郎・河野玄蕃允らを掲げるほか、七月・十一月などの戦死・殉死者を多数収録する。
天正元年正月六日 / 冊子 296~297頁
越前島津庶流知覧氏の系図記事。梅北地頭知覧大和守久親が天正元年正月六日の末吉住吉原合戦で北郷時久に従い、梅北八十町の兵を率いて橋野から肝付勢を攻撃し、稲井原から進んだ時久軍と呼応して勝利したことを記す。
天正元年正月六日 / 冊子 297~298頁
天正元年正月六日、肝付氏の大軍が末吉へ侵入すると、北郷時久は二子相久・忠虎と兵を率いて住吉原で迎撃した。三将が自ら指揮して肝付軍を崩し、肝付修理亮・左兵衛尉、伊集院三河入道竹友、安楽因幡入道以下多数を討ち取った。敵の切捨人数は不明で、北郷方も川崎主税・田原大蔵信秀を失った。
天正元年正月六日 / 冊子 297~299頁
天正元年正月六日の住吉原合戦を詳述する。北郷時久は相久・忠虎と手勢を率いて不意に肝付軍を攻め、知覧久親ら各地の援軍とともに松山城戸口まで追撃し、伊集院竹友以下百五十一の首級を得た。味方も河野主税・田原信秀らを失った。この日が北郷家の僧礼日に当たり、急報のため簡略な酒礼を行ったことが龍峯寺門徒の正月六日の先例になったと伝える。
天正元年二月~三月 / 冊子 299頁
肝付兼続と禰寝重長が長年島津氏に敵対するなか、島津義久が宝持院に八木昌信を添えて密かに禰寝へ送り、重長に肝付方から離れるよう説かせた。続いて天正元年二月、新納忠元・伊集院久治・上原尚常も渡海して説得し、二十一日に三使が、二十六日に義久と家老衆が誓紙を渡した。重長は三月に降参し、島津軍とともに肝付氏を攻めた。
天正元年二月廿一日~廿六日 / 冊子 299頁
天正元年、島津義久が宝持院・八木昌信を密使として禰寝重長を説得し、二月には新納忠元・伊集院久治・上原尚常を重ねて派遣した。忠元らは肝付方を離れて島津氏へ降ることが後栄になると説き、重長は応じて二十一日に三使と、二十六日に義久と盟約し、領地を挙げて降参した。
天正元年 / 冊子 299頁
島津久保の系譜記事。久保丸(又一郎)が天正元年に誕生し、母は康瀬氏の娘で宝国田清左衛門尉の娘でもあると記す。姉妹の一人が島津豊後守朝久の室となったことも掲げる。
天正元年三月十日~十八日 / 冊子 302頁
天正元年三月十日、薩隅軍が禰寝城へ入り、義久は指宿に進んで肝付兼続討伐を指揮した。十四日は大雨で戦えず高洲浦の船を奪って帰り、十八日に西俣で肝付勢と交戦した。歳久・忠長らが奮戦して敵を破り、禰寝重長も参戦して凱歌をあげた。重長はのち指宿で義久に謁し、鹿児島で数日饗応を受け、横尾合戦では敵五十余人を討ったとする。
天正元年三月十八日 / 冊子 302~303頁
天正元年三月、島津軍が肝付兼続方を攻めた際に以久も従軍した。十八日の西俣合戦では先頭に立ち、兼続が亡父の仇であり今日の戦いこそ望むところだと士卒を励まし、疾風迅雷の勢いで諸将とともに敵軍を撃破して首級を得たとする。
天正元年三月十日~十八日 / 冊子 303頁
禰寝重長が島津方へ属したため、天正元年三月十日に薩隅軍が禰寝城へ入り、義久は指宿へ進んだ。十八日の西俣合戦では歳久が隅州軍、忠長が薩摩南方軍を率いて肝付勢を大破し、多数を斬獲した。重長も参戦し、戦後は海を渡って指宿で義久に謁し、鹿児島まで随行した。
天正元年三月八日~天正二年十二月 / 冊子 303頁
天正元年三月八日、島津義久が大軍を率いて肝付氏攻撃へ向かうと、北郷時久も平松に陣を構えた。時久は翌天正二年十二月まで同地に在陣したと記す。
天正元年三月十一日~十八日 / 冊子 303~304頁
禰寝重長が島津方へ忠節を尽くす意向を固めたため、天正元年三月十一日に島津軍が禰寝へ渡海し、義久も指宿まで出陣した。十四日に肝付領高洲浦の船を奪い、十八日に大姶良で肝付勢と交戦して歳久・忠長らが多数を討ち取った。重長も勝鬨をあげ、のち指宿・鹿児島へ参上した。
天正元年三月~天正二年十二月 / 冊子 304頁
天正元年三月、島津義久が肝付氏攻撃へ向かうと北郷時久も平松に陣を構えた。陣営造成の鍬初・地破・鎮定・地神供・幣・幕・武具などの役割を北郷家臣へ割り当て、天長寺・西生寺が愛染明王・青面金剛の秘法で勝利を祈った。最終的に義久と肝付氏が和睦したと記す。
天正元年三月下旬~四月 / 冊子 304頁
天正元年、禰寝方が肝付氏から離反し、高洲を破って日向の警固船などを奪ったことを記す。三月下旬には野頸の米良美濃守・肥田木三郎兵衛・中山主計が野心を企て、召喚に応じると偽って途中から薩摩へ逃亡した。四月には野頸城を廃して城ヶ尾へ移し、関係者と足軽約四十人が飯野へ逃れた。
天正元年 / 冊子 307頁
天正元年の政治・軍事記事を列記する。七月二十八日の改元、足利義昭が織田信長に京都を追われ宇治槙島も落ちたこと、九月に島津軍が早崎へ着陣して義久の指揮下で小浜城を落としたことを記す。禰寝重武は横尾で敵五十余人を討ち、十二月には平小場で伊東・肝付方と戦って百余人を討ったとする。
天正元年九月 / 冊子 307頁
天正元年九月、島津軍が下大隅の咲花平に着陣した際、十三歳の川上源三郎久辰が初めて出陣し、殿軍の任務を務めたことを記す。
天正元年七月廿三日~廿四日 / 冊子 311頁
天正元年七月二十三日夜半から二十四日黎明、敵軍が山背の樵夫道を案内者によって密かに進み、早崎陣を包囲して火矢・鉄砲で攻撃した。守兵に多数の死傷者が出るなか、島津家久が従者二、三人と敵中へ斬り込み八か所を負傷した。喜入久績も二か所を負傷しながら敵を斬って家久を救い、平田光宗らも奮戦した。
天正元年七月廿四日~十二月十四日 / 冊子 311~312頁
長雨のなか早崎両陣の普請が続いた後、天正元年七月二十四日夜に敵が後山から忍び寄り、翌朝西口を攻めて陣屋へ放火した。島津家久は敵数百人へ斬り込み、深手八か所を含む多数の傷を負ったが、喜入久績が駆けつけ、二人とも負傷しながら敵を退けた。その後も牛根進攻が評議され、十二月十四日には歳久を大将として平常に数千騎が布陣した。
天正元年九月廿七日~十一月中旬 / 冊子 317頁
天正元年九月二十七日の早崎・咲花平着陣と小浜城攻略を詳述する。島津方は激戦の末に城柵を破り、伊地知美作守を退去させたが、伊集院久春が重傷、肥後平三郎らが戦死した。牛根城包囲中の野戦では白胴服の武者が単騎で敵首を挙げ、周囲を叱咤した逸話を載せる。肝付領の通路を遮断するため、十一月中旬に歳久・以久を大将として平床へ陣を進めた。
天正元年 / 冊子 318~319頁
天正元年九月二十七日の小浜城攻略から牛根城包囲、早崎陣夜襲までを記す。小浜では敵百余人を討ち伊地知美作守を退けたが島津方にも戦死者が出た。諏訪神事で主力が帰還した隙に肝付勢が山道から陣へ侵入すると、留守将島津家久は少数を励まし、島津忠良の教訓歌を唱えて敵中へ斬り込み、河南安房守らを討って敵を牛根へ退けた。
天正元年十一月十三日 / 冊子 321頁
吉利氏の下総守忠澄の子孫を掲げ、三郎九郎長住・顧金らの名と花押を記す。長住は天正元年十一月十三日生まれで、母は上井武蔵守為秋の娘とし、忠紹は天正十六年生まれとする。
元亀3年、天正元年3月18日、天正4年、天正6年11月、天正8年10月・11月、天正12年3月24日、天正14年6月、天正15年4月6日 / 冊子 280~281頁/原整理番号 111
元亀三年から天正十五年まで、上原長門守ら上原氏諸人の外交・地頭職・合戦での働きを年代順に列挙した軍功書上。元亀三年には禰寝方との和談使者を上原長門守・忠元・久治の三人が務め、同年三月中旬の伊地知方との合戦、天正元年三月十八日の肝付方との合戦では長門守が軍功を立て、天正四年には高原地頭を与えられた。天正六年十一月の耳川合戦では長門守と太郎五郎が軍功を挙げ、天正八年十月の矢崎城合戦で勘解由左衛門・内蔵助が戦死し、同年十一月の肥後合志方との合戦、天正十二年三月二十四日の島原合戦にも長門守・右衛門尉・勘解由兵衛尉らが参加し、彦五郎の分捕を記す。さらに天正十四年六月の筑紫出陣、天正十五年四月六日に京勢が日州高城へ着陣した際の防御人数に上原長門守を挙げる。
記事成立日:未確認 記事内参照年紀:天正元年癸酉之春 / 冊子 197頁/整理ID TMP-P02-CONT-A69
冒頭の「子」が伊東大脇大夫義祐・肝付河内守兼續入道省釣・伊地知周防介重興等に與同し、大守に背くとの叙述を置く。「子」の実名帰属は未確定。 天正元年春、島津義久が昌信を祢寢へ遣わし、重長に離一揆・島津旗下への帰属を伝えたとする。 留滞中の密談を記し、さらに新納忠元・伊集院久治・上原尚近の再遣、和諧と誓約に言及する。密談句の主体・意味は留保する。 肝付氏の党を離れ島津旗下に属する旨の誓約と、密事に関する八人使衆の誓紙を「記左」と導入する。
記事成立日:未確認 記事内参照年紀:天正元年三月十日 記事内参照年紀:同月十四日 記事内参照年紀:同月十八日 / 冊子 198頁/整理ID TMP-P02-CONT-A71
天正元年三月十日、太守が薩隅二州の軍衆を祢寢城に入れ、肝付氏の徒党を討とうとしたことを記す。 同月十四日、肝付の封疆へ兵を進めたが春雨で戦い難く、鷹栖浦に至った経過を述べる。舟船に関する句の動作主体は留保する。 同月十八日、西俣で対陣し、島津右馬頭征久が肝付氏を亡父の敵と述べたとする。 諸将の力戦・勝利、重長の軍功、凱歌後の帰陣を記す。
(天正元年)八月廿三日 / 冊子 294頁
島津義久が歳久の大隅出兵での辛労と勝利を祝し、千勝万歳と称える。肝付家中の内紛により肝付弾正が十九日に殺害されたとの逃亡者の報告も伝え、諸事を相談すべき時機なので翌日早々に来訪するよう求める。本文日付は葉月二十三日と読め、インデックスの二月二十三日と異なる。
(天正元年)八月廿三日 / 冊子 299頁
本文はNo.643と同文のため省略される島津義久書状。歳久の大隅出兵での辛労と勝利を祝い、肝付家中の内紛と肝付弾正殺害の情報を伝え、協議のため早々の来訪を求める。No.643本文の日付は葉月二十三日と読め、確定版年月日との相違が残る。
天正元年二月 / 冊子 299~300頁
下大隅が未平定のなか、島津義久が宝持院と八木昌信を禰寝へ密派遣した和睦工作を詳述する。昌信は舟底に隠れて上陸し、夜間に東禅寺から禰寝重長と密会して、子息の婚姻も示唆しつつ島津方への帰順を説いた。帰陣後、義久は新納忠元・伊集院久治・上原尚近らを再派遣し、家老・使者が秘密保持のため無署名を含む誓紙を重長へ与えて和議を確定した。
(天正元年)八月廿五日 / 冊子 312~313頁
大友氏老臣四名が島津氏老臣へ、南郷へ渡した船が島津領内に繋留中、暴風で少し損傷した件について照会する。使節を送ったのに返答がなく不安であり、両家は代々親交を得てきたので小事から隔心を生じるのは望ましくないとし、宗麟の派遣船として廉直に扱い、速やかに判断するよう求める。
(天正元年)九月十一日 / 冊子 313頁
相良頼房が島津義久へ、肝付方面への長期在陣と軍事行動を察していると述べる。遠方のため無音になっているが疎意はなく、現在の戦況を詳しく知りたいとして、定泉坊から委細を伝えさせ、改めて意向を聞きたいとする。
(天正元年九月) / 冊子 315頁
伊集院忠金が臼杵鑑速へ、南郷へ渡った船が島津領内の港で不慮に破損した件について、両家の旧盟と鑑速から受けた懇切を踏まえて誠意を尽くし、おおむね法意に従って処理したと報告する。贈られた船・銀子・鹿皮・南蛮進物・鎧一領に謝し、返礼として馬一疋を贈る。
(天正元年九月) / 冊子 315頁
島津義久が琉球国王即位の礼使として徳雲軒と源松都文を派遣するので便宜を求める。大明国と日本の関係が不穏ななか、明から琉球経由で日本へ勅書が渡るとの情報や、渡唐船の取扱いを島津家が永代管掌するとの琉球王宣旨について述べる。天王寺を通じた伝達や葉大人の帰国などの詳細は源松都文に託す。
(天正元年)十月廿八日 / 冊子 316頁
伊集院忠金・平田昌宗・川上意釣が志岐麟泉入道へ、詳しい書状を受け取ったと返答する。従来から両地域の相談関係に変わりはなく、今後さらに親密にしたいと述べ、前年春に承諾した天草方面の調略について感応寺と直書が到着したので、進展を期待し、難航時には重ねて協力すると伝える。
万暦元(天正元)年七月十一日 / 冊子 312頁
琉球国三司官の那呉道林が伊集院忠棟へ、初めて書状を送り、懇切な音問への謝意を述べる。先代伊集院忠朗以来の交誼が変わらず続くことを喜び、琉球と島津領国が隣国として旧約を保ち、隔意なく往来することを望む。心香・唐五明・織物を祝儀として贈る。
元亀三年九月廿七日~天正元年三月十八日 / 冊子 294頁
元亀三年九月二十七日の垂水早崎陣と、その後の禰寝・肝付方面の軍事・交渉に関与した将兵を列記する。大将島津歳久、肝付兼寛・鎌田外記・伊集院久春・上原尚近らのほか、禰寝重長との密議・和議を担った宝持院・八木越後守、新納忠元ら、天正元年三月十八日の西俣合戦で働いた島津忠長・樺山規久らを掲げる。
元亀三年~天正元年七月廿四日 / 冊子 311頁
肝付・禰寝・伊地知三氏の離反と廻城奪取、元亀三年の早崎築陣・小浜攻略を前史として、天正元年七月二十四日の早崎夜襲を記す。守将家久は川南式部左衛門と戦い、田之上清左衛門に救援されつつ全身八か所を負傷した。喜入久績も負傷しながら敵を退け、平田光宗らも力戦して、二十六歳の家久は危機を免れた。
天正元年十一月中旬 / 冊子 320頁
十一月中旬、島津軍が肝付領内の通路を遮断する要地平床に陣所を設け、歳久・以久を大将とした。牛根城より奥の難所である平床を後巻するため伊地知・肝付勢が来援し、茶園尾へ陣を取ろうとしたと記す。記事年次は元亀三年・天正元年の双方に重出し、編者は前後関係から天正元年に置く。
天正二年正月三日 / 冊子 328~329頁
天正元年十二月以来の平床対陣を承け、天正二年正月三日に肝付軍が高隈山を越えて牛根城前の茶園尾へ陣取ろうとした際、島津忠長と川上久信が軍を励まして撃退した。島津方は茶園尾を占領して牛根城に迫り、城方へ安楽備前守の名を詠み込んだ狂歌を矢で射送った。
天正三年九月廿八日 / 冊子 439~440頁
大口泉徳寺本尊の勝軍地蔵木像・光背・蓮台の寸法を記し、大檀那新納忠元・忠恒の武運長久と家門繁栄を願って華厳意曇が造立した旨を刻む。確定版年月日は天正元年だが、本文銘文は天正三年乙亥菊月二十八日と読める。
年月日未詳 / 冊子 899頁
北郷三久の幼名・通称・官途と、天正元年三月十日の出生、母が北郷左馬助忠孝の娘であることを記す。 北郷家の系譜上の位置と、後続する家督補佐・相続関係を理解するための基礎となる譜記事。
年月日未詳 / 冊子 582頁
島津重時は初名を忠重、又六といい、天正元年に北郷時久の長女を母として生まれ、入来院弾正重豊の養子となって同家を継いだとする。慶長五年九月十五日に島津義弘(惟新)に従って関ヶ原に出陣し、敗戦後の帰国途中に敵と遭遇して同月二十三日に戦死、享年三十、法諱を雲庵定暁居士と記す。
弘治2年10月5日 / 冊子 98~104頁/原整理番号 20-1
冒頭に弘治二年十月五日付の後奈良天皇口宣案を掲げ、権大僧都省釣(肝付兼続)を法印へ転任させる。上卿は中山大納言、奉者は蔵人頭左大弁頼房で、『家わけ二』肝付文書一七号と同文である。続いて前文書からつながる平岡氏系譜を収める。平岡義理は天正元年に日向国住吉原で北郷時久・相久・忠虎らとの合戦に討死し、義光は豊臣秀吉・徳川家康に仕えて子孫が旗本となった。義秀は島津義久に奉公し、天正六年の高城防衛と文禄元年の朝鮮出兵に従い、大崎横瀬村を賜る。義辰は慶長四年の恒吉城攻めに従軍し、のち串良杉尾口へ移された。以後、義長・義元・義彦・義遇・義敬・義業・義臣・義言・義堯・義源・義寄ら諸流について、寺院建立、知行・高山預、家督、養子・婚姻、医師・僧位、出生・没年・法名を詳記し、末尾は宝暦四年九月二十七日生の女子の記事で終わる。
元亀二年十一月廿日~天正元年 / 冊子 305~307頁
肝付・伊地知方の大船団が桜島を経て鹿児島湾へ侵入した海戦と、その後の下大隅征討を長文で記す。伊集院善左衛門が海戦で戦死した後、瀧水では平田新三郎ら約五十人が上陸を阻み、島津家久が瀬戸村で追撃して敵船を軽石へ退けた。続いて早崎・小浜城を攻め、伊地知美作守が退去した城へ家久が入り、牛根城も攻撃したが諏訪神事のため一時帰陣したとする。海戦年次には本文内注記との相違がある。
(天正元年九月廿七日頃) / 冊子 318頁
友野元真が早崎陣詰めの際、枝元神左衛門を討ち取り、女性一人を捕虜とした戦功を記す。その女性は中江主水佐の継母であり、合戦の証人として伊集院久治・箕輪舎人佐・木藤日向守・上原長門守・伊地知伯耆守を挙げる。
(天正元年九月廿七日) / 冊子 319頁
伊地知重興・肝付省釣方との戦いで、島津軍が早崎野から敵兵を城へ追い込み、城地頭伊地知美作守が逃亡したため城を攻め取ったことを記す。大将は島津家久であったとする。
(天正元年十一月中旬) / 冊子 320頁
牛根平床の合戦で敵六人を討ち、そのうち一人の首を取った奉公を記す。証人として小口郷右衛門・徳永源五左衛門を挙げる。
(天正元年)十一月五日 / 冊子 320~321頁
島津義久が在陣中の伊集院忠棟・平田昌宗・村田鑑定に宛て、軍労をねぎらい、勝利が肝要であると述べる。遠境の動静が不明なため飯野へ赴いて相談したことを知らせ、安心するよう伝える。
(天正元年)十一月廿六日 / 冊子 321頁
近衛信輔が島津以久に初めて書状を送り、京都の不慮の錯乱で諸事に頼る先がないため、使者を通じて依頼した匠作への支援を求める。詳しい事情は進藤筑後守が説明するとする。本文の日付は十一月二十六日と読め、確定版年月日と一月の差がある。
(天正元年)十一月廿六日 / 冊子 321頁
近衛信輔が肝付兼盛に初めて書状を送り、京都の不慮の錯乱により諸事に頼る先がないため、匠作への支援を求める。五明五本を贈り、詳細は進藤筑後守が説明するとする。