穆佐天正寺の由緒と悟性寺関係書付
元禄10年閏2月13日(目録) / 冊子 457頁/原整理番号 102-2
元禄十年閏二月十三日付で、穆佐祈願所天正寺が寺社の由緒と書付の経緯を報告する。元禄四年に由緒書の提出を命じられたが、昔の由緒書と留帳が焼失したことを述べ、古い書付と伝承を照合して寺社奉行所へ差し出す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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元禄10年閏2月13日(目録) / 冊子 457頁/原整理番号 102-2
元禄十年閏二月十三日付で、穆佐祈願所天正寺が寺社の由緒と書付の経緯を報告する。元禄四年に由緒書の提出を命じられたが、昔の由緒書と留帳が焼失したことを述べ、古い書付と伝承を照合して寺社奉行所へ差し出す。
元亀三年正月~天正元年十二月 / 冊子 322~323頁
元亀三年正月から天正元年十二月までの軍事日程を記す。浜市小島の肝付兵船捕獲、廻・三山・木崎原・早崎・住吉原・西俣の諸戦、禰寝重長の帰順と下大隅渡海、平松陣の役人・作法、恒吉宮ノ原の損害、平床への着陣などを日付順に列挙する。
天正二年正月~十二月 / 冊子 327~328頁
天正二年の軍事日程を記し、正月三日の茶園尾着陣、十九日の伊東・肝付勢による禰寝攻撃、二十日の牛根城開城、廻・市成両城の接収、伊地知氏の帰順、八月の宝繁寺を介した肝付氏との矢留め、十二月の平松陣撤収と役人交名を載せる。
天正八年 / 冊子 655~656頁
天正八年の水俣方面出陣に参加した諸地頭と配下を編成別に列挙する陣賦。大口の新納忠元、伊集院久治をはじめ、羽月・曽木・平泉・湯之尾など各地の将と軍勢を記す。
天正九年八月 / 冊子 676頁
天正九年八月の肥後水俣城攻めについて、城郭・島津軍の陣地・攻撃方向などを示した攻城図。『新編島津氏世録正統系図義久信』に基づく図と注記する。
天正九年九月十六日 / 冊子 694頁
天正九年八月の水俣城攻囲における島津軍の陣配置を示す図。本文ではNo.1171と同図であるため省略すると注記されている。
天正13年 / 冊子 1頁
天正13年の出来事として、花山陣、撃隈庄の凶徒討伐と甲佐・堅志田などの攻略、阿蘇氏の降参を三項目で掲げる短い記事。肥後中央部で軍事拠点の制圧と阿蘇勢力の服属が進んだ局面を、年次記事の冒頭で簡潔にまとめている。
天正16年4月26日~10月5日 / 冊子 376頁
四月二十六日に島津義久が京都へ向けて出発し、義弘が伏見に在ったこと、義久が九月三日に京都を発って十月五日に細島へ着いたことを記す。天正十六年の島津兄弟の上洛・帰国日程を簡潔に示す覚書。
天正20年5月8日~6月24日 / 冊子 574~577頁
天正二十年五月八日、島津義弘一行が鹿児島を発ち、伊集院・串木野を経て朝鮮渡海へ向かうまでを日次で記す。御座船の造作と乗組、兵糧・酒・武具・馬の積載、祈祷や送別の寄合、各地の地頭・代官・僧侶・使者との応接が細かく記録される。平戸・壱岐方面の航海では風待ち、暴風、停泊、船の破損が相次ぎ、石田三成・長束大蔵らの書状や贈物、船団の進退も逐一記す。海外派兵を支えた船舶運用・物資調達・通信・儀礼と、海上移動の危険を同時に追える詳細な行程日記である。
天正17年1月30日 / 冊子 251~252頁/原整理番号 87-2
天正十七年正月三十日、島津義弘が新納武蔵入道へ、右馬頭の下向について自分はまったく納得していないが、安宅三郎兵衛尉の奔走によって暇の件が決着し、右馬頭が直接御朱印を頂戴した以上は公儀に従うほかないと述べた書状案。附記は天正十七年から十九年の間に作成された草案の可能性を示し、本文が朱書で前文書の行間に記されていたとする。
5月7日(天正15年の目録推定) / 冊子 579~580頁/原整理番号 88
義珍が本田下野守へ、関白への差出をめぐる急な交渉を『一大事』と捉え、福智三河守・石田らを介した調整と十分な祈願を促す。忠棟が日州から船出したとの知らせを受け、その後の所在を尋ねる。入来院は重要な場所として典厩を籠めて固め、真幸は日州・菱刈をつなぐ通路で京衆が通るため強く応対し、祁答院には伊集院肥前守を入れて守備を相談するよう求める。飯野は城が弱く、敵が埋草などで取り寄せれば直ちに対応する必要があるため、諸方面の談合を急がせる。日州安堵が実現すれば宮崎を霧島へ寄進し、高原についても同様に祈願することを勧め、追書では高原の吉田若狭守退去の風聞と庄内への使者派遣に触れ、味方関係を確かめ油断しないよう戒める。5月7日付で、天正15年は目録上の推定年次。
天正8年10月5日 / 冊子 582頁/原整理番号 92-2
島津義久が種子島三郎次郎(久時)へ、島津家の『字』を使いたいとの願いは古今の例からみても容易に許せないとしつつ、先祖以来、海を越えて従事し戦いにも功が深いことに感じ、特に許可する。天正8年10月5日付で義久の判があり、前項92の1が所領の変遷を記すのに対し、本件は家名・字の使用を認めた証状である。
天正二年十月十七日条ほか / 冊子 265~266頁/原整理番号 24の14
『上井覚兼日記』天正二年十月十七日条から、高江・川辺間の地頭移動案と有田氏の所領事情を抄出する。猿渡越中の出生・父猿渡藤三郎の戦死、加世田の村給付と地頭就任を関連記録で照合し、越中が加世田に居住した由緒を考証する。
天正三年十一月二十八日条 / 冊子 266~267頁/原整理番号 24の15
『上井覚兼日記』天正三年十一月二十八日条から、上井覚兼が永吉へ赴き、野間座主猿渡掃部兵衛の用件を扱った記事を抄出する。永吉の盗難捜査、鹿島藤七の召置き、宇都宮次郎左衛門の子孫伝承を記し、当時の猿渡越中が掃部兵衛を名乗ったことを考証する。
天正十年十二月十七日 / 冊子 267頁/原整理番号 24の17
『上井覚兼日記』天正十年十二月十七日条から、野久美口で猿渡越中守が一番に攻め上がり、山田新助らと戦った記事を抄出する。敵数百人を討ち留め、家来も多数石打ちに遭いながら一番乗りを果たしたことを、日記に記された参加者と照合して考証する。
天正十二年三月 / 冊子 267~268頁/原整理番号 24の18
『九州記』巻十二から天正十二年三月の島原合戦を抄出し、山手の将鍋島加賀守直茂と薩軍猿渡越中守の交戦、龍造寺隆信戦死後の動向を記す。家伝・系図と照合して越中の子猿渡与次郎の戦死を検討し、与次郎を討った鍋島平五郎の子孫が鍋島主水を称したとの伝承を考証する。
天正十二年四月十四日 / 冊子 268~269頁/原整理番号 24の19
『上井覚兼日記』天正十二年四月十四日条から、平田新四郎と猿渡越中守が船中を訪れて閑談した記事を抄出する。これにより越中が四月まで島原に在陣したことを確認し、島津家久以下の島原渡海人数を日記の記載と照合して、越中の参陣を考証する。
天正十二年八月二十六日条ほか / 冊子 269~270頁/原整理番号 24の20
『上井覚兼日記』天正十二年八月二十六日条以下から、鹿児島より帰来した飛脚が親貞・忠棟の書状をもたらし、出陣や秋月方との交渉を相談した記事を抄出する。軍談や諸所番賦に猿渡越中守がたびたび加わり、主要用人衆に次ぐ四人の一人として扱われたことを考証する。
天正十二年十月八日 / 冊子 270頁/原整理番号 24の21
『上井覚兼日記』天正十二年十月八日条から、方角見償のため新納武蔵・伊野・山田新助・猿渡越中守が三池へ派遣された記事を抄出する。ほかの見償役の記事と比較し、見償が一方の主取を任された者の勤めで、通常の地頭持には命じられない役であったことを考証する。
天正十三年九月六日 / 冊子 270~271頁/原整理番号 24の22
『上井覚兼日記』天正十三年九月六日条から、三池境へ軍衆を差し上せ、伊集院肥前守・山田越前守・猿渡越中守をはじめ諸所の衆を派遣した記事を抄出する。三人が筑後攻めの主取として並記される関連記事を比較し、越中の家格が通常の地頭持と異なったことを考証する。
天正十三年九月十三日 / 冊子 271頁/原整理番号 24の23
『上井覚兼日記』天正十三年九月十三日条から、筑後表の伊集院肥前守・山田越前守・猿渡越中守が、前日に堀切城を切り崩して敵三百余人を討ち取ったと注進した記事を抄出する。日記に見える落城記事を比較し、三人が主取として挙げた戦功を考証する。
天正十三年九月十八日・十九日 / 冊子 272頁/原整理番号 24の24
『上井覚兼日記』天正十三年九月十八日・十九日条から、筑後表より堀切柵攻略の報告があり、江之浦方が身上を助ければ城を明け渡すと申し出たこと、両城の守備や人質を協議したことを抄出する。肥前守・越前守・越中が筑後攻めの総主取で、鍋島飛騨守への伝達にも関わったことを考証する。
天正十三年九月二十六日・二十七日 / 冊子 272~273頁/原整理番号 24の25
『上井覚兼日記』天正十三年九月二十六日・二十七日条から、筑後表の勝利を内空閑殿・城殿・伯耆殿へ伝えて加勢を求め、続いて筑後表へ指示を送った記事を抄出する。肥前守・越前守・越中が堀切城を攻略した後も大敵に備えて三家へ援軍を求め、最終的に三人の軍功で筑後一国を攻め落としたとの考証を記す。
天正十三年九月二十九日・十月朔日 / 冊子 273頁/原整理番号 24の26
『上井覚兼日記』天正十三年九月二十九日条から、堀切より新納右衛門佐の書状が到来し、宝満・橘・筑紫方を切り取り、筑後表の戦況を報告した記事を抄出する。十月朔日条も引き、戦功に対する御礼が筑紫殿へ使僧を通じて伝えられたことを考証する。
天正十三年十月十七日ほか / 冊子 273~274頁/原整理番号 24の27
『上井覚兼日記』天正十三年十月十七日条から、白浜次郎左衛門を介した静謐の祝言と談合、筑後表での辛労に対する言上を抄出する。あわせて猿渡氏の由緒と、天正十五年十二月十五日に高野木食興山上人が来訪した伝承、羽月大聖寺への信仰と肥後からの参詣を考証する。
天正六年頃 / 冊子 514~515頁/原整理番号 88の4
天正六年頃の島津義久代における老中・御使衆等を書き上げた記録。川上久明、伊集院忠棟、平田盛宗、村田経定、本田三清、喜入季久らをはじめ、役職ごとに家臣名を列記する。
年月日未詳 / 冊子 550頁
天正六年正月六日、天草方が日向平定の祝使を立て、書状と鎧一領を進上し、相良方も新納忠元へ戦勝祝賀の使僧を送った。七日には天草方が、今後島津方へ申し入れるため官途・受領を申請し、自身の参上は遠路で困難なので使節を立てると伝えた。島津義久の直書に代わり、繁忙のため奉行衆が返書した。
年月日未詳 / 冊子 255~264頁
天正十四年末、島津軍が複数路から豊後へ侵攻した経過を、各隊の進路・城攻め・戦死者まで日を追って記す長編軍記。鶴賀城攻防を経て、戸次川では島津家久軍が仙石秀久・長宗我部元親ら四国勢を破り、長宗我部信親・十河存保らを討ち取った。その後、府内へ進み、大友宗麟が籠もる丹生島城をはじめ諸城を攻めるが、鉄砲・夜襲・火攻めを交えた激戦でも堅城の抵抗は続く。島津方の勝利だけでなく、損害・兵站・攻城の難航まで描き、豊後戦役全体を追える中核史料である。
年月日未詳 / 冊子 269頁
天正十五年丁亥の主要事件として、「大友敗北」と「大閤着陣」の二事だけを掲げた短い標目。豊後戦役の進行と豊臣秀吉の九州着陣を、その年を画する出来事として対置している。
年月日未詳 / 冊子 315頁
天正十五年、太閤豊臣秀吉の薩摩出陣、薩摩・大隅・日向三州についての朱印拝領、貫明公(島津義久)の上洛という三項目を簡潔に記す。九州征伐後、島津家が所領認定を受けて豊臣政権下へ組み込まれた政治的転換点を示す覚書である。
年月日未詳 / 冊子 348頁
天正15年6月27日、島津義久が辰刻に高田を出発し、小川路を経て申刻に到着した行程を記す。同夜、新納武蔵守が義久を迎えて饗応し、金銀を進上した。上洛途上の日程と家臣による接待を簡潔に伝える日記記事。
年月日未詳 / 冊子 427頁
天正十七年の十七か条誓紙連判、八月の実明公上洛、同年秋の松齢公下向、天正十八年の久保公関東出陣を列記した覚書。 二年間の島津家中の主要行事を見出し形式でまとめたもので、誓約・上洛・帰国・軍事動員の時系列を簡潔に確認できる。
年月日未詳 / 冊子 457頁
天正十八年の小田原陣に続き、天正十九年正月の貴明公の下向、同年九月の松齢公の伏見からの帰国と人質番組を列挙する。 さらに同年冬の高麗渡海命令、十二月に貞明公が名護屋へ加わったことを記し、豊臣政権下で島津家が相次いで軍事動員を受けた経過を簡潔にまとめた覚書である。
年月日未詳 / 冊子 460頁
豊臣秀吉の小田原征伐に際し、島津久保が天正十八年正月二十七日に栗野を出発し、日向油津から海路を取った記事。 海上不順のため航海が遅れ、二月二十二日に大坂へ着船したと記し、久保初陣の具体的な旅程と遠征初動を伝える。
年月日未詳 / 冊子 403~404頁/原整理番号 135
大口郷に残る天正五年六月の請用日記。地頭と家中の請用を分け、米・酒米・味噌・もち米や、干物・鮑・海老・塩・鯛・飛魚・鰹、宿賃などの数量と銭を列記する。濱之市での干物代も含む。地頭参会時の祭事入用は行数を省略し、久仰が別に写し置いたとしている。
年月日未詳 / 冊子 155~157頁/原整理番号 43-1
御関狩・御馬追に関する諸調書の書抜。天正四年の近衛前久滞在時に春山の御関狩が行われた記録を挙げ、関狩が出陣、馬追が帰陣の儀式だという古老の伝承を検討する。膳・三献などの作法と照らして単純には認められないとし、吉野の御牧と馬追の開始年代も旧記の記載を比較して確定を避ける。
天正15年6月15日~7月10日 / 冊子 365~369頁
六月十五日に島津義久が鹿児島を出発して上京へ向かった約一か月の旅程を、日付順に詳記する。帖佐・高田・高瀬・川尻などを経て陸路と海路を乗り継ぎ、風雨や逆風による停船、宿泊先、寺社参詣、茶湯・連歌・贈答、石田三成らとの面会を記録する。九州仕置直後の大名移動、宿駅・船便、接待・信仰を一体的に知ることができる上京日記。
年月日未詳 / 冊子 409~413頁
龍伯らが上方から帰国するまでを日付順に記す長編日記。京都・大坂での茶会、参詣、面会、祈祷、衣類・銀子・酒・茶・馬などの贈答と、石田三成ら諸家との往来を詳細に記録する。 出帆後は風雨や潮待ちでたびたび停泊し、上関・細島などへの寄港、船の手配、宿所での接待、随行者と使者の動向まで続く。戦国大名の帰国旅行、瀬戸内海航路、贈答儀礼を日々の出来事から具体的に追える重要史料。
天和元年九月四日 / 冊子 195~198頁/原整理番号 120
『横山慶左衛門日記』延宝八年正月の記事。十二日の春山初御狩には近在の衆中が前日から参集し、日記はこれを『御関狩』と記す。同日鹿児島で大火が起こり、筆者の家も焼失し祖母が亡くなった。後続の記事は被害・死者の報告や救済の米支給を記す。季安は行間注で『御関狩』の呼称の古例を列挙し、この年の狩りと火災を結び付けて考証する。
天正四年八月~十月 / 冊子 507~508頁
天正四年八月から十月の軍事行動を記す。北郷時久が江平で敵五人を討ち、高原城南口を破って三山・須木・奈佐木の放棄に至った経過と出陣役を列記する。十月には肝付勢の南郷敗戦と二百余人の戦死、福島守備、志布志以下十三か所の島津方領有を記す。
日々記冒頭の日付。本文に二月各日、天正十一年三月三日、五月十一日・六月十八日等を含む。:天正十二年正月一日 / 冊子 520~524頁/原整理番号 八二六/整理ID TMP-P03-TORIHAMA-D0826
天正十二年正月一日の年越し番衆への扇子給付に始まり、参社の百文・御酒・酒食・座敷を記す日々記。 各日には寺への礼銭・斎・参入、御家中の寄合、鹿児島へ参上した御供衆などの行為を記す。 太刀・青銅・樽・酒食等の進上と給付について、恒例ニアラス當時ノ義也とするものや今年より持参するものを記す。 二月の記事の後に天正十一年三月三日、五月十一日、六月十八日等も記し、足軽衆中間衆の別行日記にも言及する。
年月日未詳 / 冊子 487~493頁
天正十八年の島津義久・義弘らの上方滞在を、日ごとの行動で追う長大な日記。京都・大坂・大和などの往来、寺社参詣、茶湯・連歌・舞・酒宴、近衛前久・細川幽斎・石田三成らとの会見、贈答、病気・天候・宿所までを細かく記す。東国の蜂起に伴う豊臣方の出陣や、帰国に向けた暇乞い・船旅も含み、豊臣政権下で島津家が中央の政治・文化・儀礼へ組み込まれる過程と日常を同時に知る第一級の史料である。
永禄七年八月天正日 / 冊子 135頁
陸奥守島津貴久が又五郎へ「忠長」の名を与え、「忠」「長」両字の読みを反切で示した加官状。永禄七年甲子八月天正日の年紀を載せ、忠長譜中の記事にいう俊安和尚が書したものとみられる。
天正元年 / 冊子 295~296頁
天正元年の主要記事を編年で記す。正月の住吉原合戦で北郷時久父子が肝付勢を破り、宝持院・八木昌信らの密使によって禰寝重長を肝付方から離反させ、二月に盟書を交わした。三月には禰寝氏と共同で肝付領へ出兵し、高洲・西俣で戦い、七月には肝付勢の早崎襲撃を島津家久らが撃退した。北郷氏の平松在陣、牛根城包囲、改元、琉球王尚永の即位なども記し、人物・系譜・典拠の考証を添える。
天正元年正月六日~十一月 / 冊子 296~297頁
天正元年の島津方戦死者を日付別に列記する。正月六日の住吉原合戦で河野主税良次・田原大蔵信秀ら、三月十八日の西俣合戦で禰寝重長臣野間武藤守以下約三百人、早崎関係では肥後平次郎・桑波田孫太郎・河野玄蕃允らを掲げるほか、七月・十一月などの戦死・殉死者を多数収録する。
天正元年正月六日 / 冊子 296~297頁
越前島津庶流知覧氏の系図記事。梅北地頭知覧大和守久親が天正元年正月六日の末吉住吉原合戦で北郷時久に従い、梅北八十町の兵を率いて橋野から肝付勢を攻撃し、稲井原から進んだ時久軍と呼応して勝利したことを記す。
天正元年正月六日 / 冊子 297~298頁
天正元年正月六日、肝付氏の大軍が末吉へ侵入すると、北郷時久は二子相久・忠虎と兵を率いて住吉原で迎撃した。三将が自ら指揮して肝付軍を崩し、肝付修理亮・左兵衛尉、伊集院三河入道竹友、安楽因幡入道以下多数を討ち取った。敵の切捨人数は不明で、北郷方も川崎主税・田原大蔵信秀を失った。
天正元年正月六日 / 冊子 297~299頁
天正元年正月六日の住吉原合戦を詳述する。北郷時久は相久・忠虎と手勢を率いて不意に肝付軍を攻め、知覧久親ら各地の援軍とともに松山城戸口まで追撃し、伊集院竹友以下百五十一の首級を得た。味方も河野主税・田原信秀らを失った。この日が北郷家の僧礼日に当たり、急報のため簡略な酒礼を行ったことが龍峯寺門徒の正月六日の先例になったと伝える。
天正元年二月~三月 / 冊子 299頁
肝付兼続と禰寝重長が長年島津氏に敵対するなか、島津義久が宝持院に八木昌信を添えて密かに禰寝へ送り、重長に肝付方から離れるよう説かせた。続いて天正元年二月、新納忠元・伊集院久治・上原尚常も渡海して説得し、二十一日に三使が、二十六日に義久と家老衆が誓紙を渡した。重長は三月に降参し、島津軍とともに肝付氏を攻めた。
天正元年二月廿一日~廿六日 / 冊子 299頁
天正元年、島津義久が宝持院・八木昌信を密使として禰寝重長を説得し、二月には新納忠元・伊集院久治・上原尚常を重ねて派遣した。忠元らは肝付方を離れて島津氏へ降ることが後栄になると説き、重長は応じて二十一日に三使と、二十六日に義久と盟約し、領地を挙げて降参した。