島津忠兼書状
大永六年十一月四日 / 冊子 339~340頁/原整理番号 3の35
島津忠兼が本田因幡守に与えた大永六年十一月四日付書状。頼み入れの件につき曽於郡を宛行い、忠節を尽くすよう求める。後段には本田氏から重久氏への系譜と後嗣に関する考証を付す。
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大永六年十一月四日 / 冊子 339~340頁/原整理番号 3の35
島津忠兼が本田因幡守に与えた大永六年十一月四日付書状。頼み入れの件につき曽於郡を宛行い、忠節を尽くすよう求める。後段には本田氏から重久氏への系譜と後嗣に関する考証を付す。
大永六年九月廿四日 / 冊子 288~289頁/原整理番号 19
大永六年、梅北村の神柱社司が神柱宮の再興を勧進する疏。南郷益貫村の古廟と社地の荒廃を述べ、戦乱で失われた社殿を復興するため寄進を求める。末尾に九月二十四日付と大工・小工の名を記す。
年月日未詳 / 冊子 655~657頁
大永六年の島津勝久と忠誉の盟約、後柏原天皇から後奈良天皇への代替わりを記す国史記事。曽於郡をめぐって本田親尚と北郷忠相らが争い、忠相が同郡を占領した経過を追う。その後の領地配分、家臣の帰属、婚姻関係、梅岳君・本田紀伊守董親の動向までを収録し、政治再編を示す。
年月日未詳 / 冊子 658~659頁
大永六年四月、島津忠良が鹿児島から生別府へ渡り、十四歳の千代鍋を元服させて太郎と称させ、虎寿丸の弟として遇するよう命じ、奉公を誓わせたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 659~660頁
本田氏の領する曽於郡の土卒が本田方に背き北郷方へ応じたため、北郷忠相が大永六年五月二十日に兵を進め、新納氏も加わって城を落とし、曽於郡を領有した経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 661~662頁
『本田親安伝』に、大永六年七月廿三日、管領大内義興が杉三河守に書状を持たせ、島津忠兼へ働き掛けたことを記す記事。続くNo.2037にその書状本文を収める。
年月日未詳 / 冊子 665頁
大田氏二代昌久の官途・号と、島津忠昌への川辺の居城献上、南郷・田布施への移住、大永六年十一月に島津忠兼から帖佐地頭職を与えられた経歴を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 665頁
島津実久が忠兼の継嗣となることを企てたため忠兼が憂慮し、大永六年十月に国政を島津忠良へ委ね、同年十一月四日に本田兼親へ曽於郡城を与えた経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 666頁
大永六年十一月七日前後の帖佐方面の戦いで、鎌田政辰や島津安久・又七郎らが戦死した経緯と、邊川方への援軍・戦闘を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 666~667頁
大永六年十一月十二日、島津忠兼が使者を通じ、忠良の長男虎寿丸を猶子として家督を譲る意向を伝えた経過を記す。忠良は村田越前守・土持伊豆守・梶原備前守らの仲介にも再三辞退したが、最終的に受諾し、虎寿丸が貴久として継承する。
年月日未詳 / 冊子 668頁
大永六年初秋、島津勝久と実久の不和が深まる中、勝久が忠良へ奉公と支援を求めた経過を記す。伊集院・阿多加賀守・本田紀伊守らが仲介し、忠良の子貴久・虎寿丸を勝久の後継に据える政治調整を進め、家中対立を収拾しようとした。
年月日未詳 / 冊子 668~669頁
大永六年、島津忠良が桑波田氏の奉公に報いて南郷を与えたことから、勝久が忠良の勢力拡大に驚き伊集院へ赴いた経過を記す。両者の協議で貴久・虎寿丸を勝久の養子とする約束が進み、所領給与を契機に守護家の後継問題が動いた。
年月日未詳 / 冊子 669頁
大永六年初秋、島津実久が太守勝久に背いたことから始まる家中対立を記す。島津忠良が調停・軍事介入し、新城・本城をめぐって両勢が動く中、岩永寿斎・伊集院氏らが使者となって条件を調整し、勝久と実久の関係修復を試みた経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 670~671頁
大永六年霜月二十八日の宮内社頭焼失後、加治木の統治が絶えたため、新たな領地・守備配分を行った経過を記す樺山玄佐自記。新納・北郷・吉松・本田・北原氏らに拠点防衛を分担させ、横川や越前守領などを処置した。火災を契機に島津勝久方が地域支配を再編した具体策を示す。
年月日未詳 / 冊子 671頁
新納忠元が大永六年某月三日に生まれ、幼名を安萬丸、次郎四郎、中務刑部大輔、のち武蔵守と称したこと、母が袮寝周防守久友の娘であったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 671頁
大永六年、島津忠兼が忠良一族へ国政を委ねようとした時期の樺山信久の動向を記す。信久は虎寿丸を後継者として支え、肝付三郎五郎・本田紀伊守・樺山助太郎らと諸家の帰属、領地配分、奉公条件を協議し、新体制への移行を調整した。
永正18年3月吉日; 大永6年12月27日 / 冊子 340頁/原整理番号 130-25
坪付本文をいずれも「末略」とした二件の抄録。第一は永正十八年三月吉日付で、大隅国重久名十七町四反の総面積を掲げ、忠基(末弘伯耆守かとの傍注)と桑波田讃岐守景元を記す。第二は大永六年十二月二十七日付で、薩摩国市来院伊作田名一町七反の総面積を掲げ、伊地知縫殿助重周・肝付越前守兼演・本田因幡守兼親が署判し、河上山城守・河上平次郎へ渡したもの。
〔大永6年〕11月25日 / 冊子 340頁/原整理番号 130-26
〔大永六年〕十一月二十五日、島津忠兼が曽於郡衆へ送った書状。雪花の件を承知して早急に命じて合力すると約し、澄真から詳しく聞いた曽於郡衆の比類ない懇意を喜ぶ。とりわけ地頭不在の時にも忠兼方へ一味の心で余儀なく奉公したことは永く忘れないと述べ、河上十郎左衛門尉・河上山城守・否笠佐渡守・伊地知七郎三郎・有屋田治部少輔・鹿嶋中務少輔が親密に結束しているとの報告を頼もしいと評価し、番の用心を堅固にして油断しないよう命じる。詳細は使僧に口頭で伝えさせるとする。
大永6年11月7日、同年某月28日 / 冊子 340~341頁/原整理番号 130-27
樺山玄佐の自記から、大永六年の島津忠兼・本田氏関係と河上氏系譜記事を抄出した記録。十一月七日、金吾様に同行した忠兼が鹿児島へ帰陣し、本田因幡守兼親と父三河守親安の無二の奉公により本田氏へ曽於郡を与えたが、ほどなく河上次郎左衛門の姉に関わる事情から召し返したため、本田氏が恨んで出仕を止め、新納殿を頼ったと記す。さらに新納殿が本田氏へ内通した時、大永六年某月二十八日に宮内の社頭が天火かによって全焼したとする。付随記事は、市来氏へ嫁いだ女子の年代矛盾、僧一人、源左衛門の坂元氏養子、厚地吉内左衛門家長の曾祖父が家林から厚地名字を許された由来を記す。
大永六年二月廿日 / 冊子 657頁
島津忠兼が島津忠誉に、弓矢の儀や諸事で互いに頼み、雑説が生じた際は申し開きをし、自身一代は疎略にしないことを神仏へ誓った誓状。
(大永六年)三月廿七日 / 冊子 658頁
島津忠朝が北原伊与守・臼杵民部少輔に、境目の争いについて伊東方へ助言してもらったことに謝意を述べ、今後の相談と定恵院による詳説を求めた書状。
(大永六年)三月廿七日 / 冊子 658頁
島津忠朝が大友方に、太刀二腰・織物一端を受けた礼と、伊東方への助言に対する謝意を述べ、返礼の進物を贈った書状。
「大永六年」五月四日 / 冊子 659頁
隈江匡久が山田安藝守に、伊東方・北郷方・都城から使者が相次いだこと、清水の番役、姫木・下大隅・曽於郡の動向を知らせ、世情を見聞するよう求めた書状。
「大永六年」五月廿三日 / 冊子 660頁
隈江匡久が山田安藝守に、北郷方の離反に備えて都城攻撃を準備し、城戸が開かれて双方の衆が合流した状況や、末吉へ寄った人衆の動向を伝えた書状。
「大永六年」六月十一日 / 冊子 660頁
隈江匡久が山田安藝守に、末吉・肝付方面と三俣の急変を知らせ、豊州方の参会、伊地知・梶原・池袋方による垂水攻撃、境目への足軽派遣を伝えた書状。
「大永六年」七月十日 / 冊子 661頁
隈江匡久が山田安藝守に、梶山殿・三河殿の来訪を伝え、十三日の出動に備えて年齢層を問わず人衆を立てるよう求め、油断を戒めた書状。
「大永六年」八月朔日 / 冊子 662頁
琉球国世主が島津方からの音信と武具二種を喜び、返礼として北絹十端・素糸十斤を贈り、披露を求めた書状。
大永六年八月十八日 / 冊子 662頁
島津忠良が一乗院に、田布施内十穀園の門について本物を返して請け取るまで一乗院の所領とする旨を認めた証状。
「大永六年」九月四日 / 冊子 662頁
島津勝久が北郷信濃守に、たびたび味方してくれることへの謝意を述べ、金吾・祐脩との結束を今後も保つよう求め、詳細を知覧の使者に託した書状。
「大永六年」九月廿一日 / 冊子 663頁
島津忠兼が三郎左衛門尉に、疎略の意はないと釈明し、庄内の情勢について若年の自分へ今後も思案と指導を加えるよう求めた書状。
大永六年九月廿四日 / 冊子 663~664頁
日向国南郷益貫村の神柱宮再興を目的とする勧進文。神祇の霊徳と鎮座の由緒を説き、荒廃や災害で損なわれた社殿・祭祀を復旧する必要を訴える。勧進沙門が地域の領主・住民へ広く寄進を求め、施財を神恩と現世・後世の利益に結び付ける。
大永六年十月廿八日 / 冊子 664~665頁
臼杵長景が島津忠朝方に、伊東方への使節と返書、鹿児島への披露、北原伊与守が大内方の援軍として芸州へ出張したことなどを報じた書状。
「大永六年」十一月五日 / 冊子 666頁
島津忠兼が肝付兼演に、虎寿丸らが来訪して心配はなく、肝付方が出頭する運びなので、確かな奉公を頼むとした書状。
「大永六年」十一月七日 / 冊子 666頁
島津忠兼が肝付兼演に、金吾との合意、伊集院での参会と鹿児島への同行、虎寿丸を呼び寄せたことを伝え、境目の番を堅固にするよう頼んだ書状。
「大永六年」八月朔日 / 冊子 667頁
本文ではNo.2038と同文のため省略された琉球国世主書状。音信と武具への返礼として北絹・素糸を贈る内容である。
大永六年八月十八日 / 冊子 667頁
本文ではNo.2039と同文のため省略された島津忠良証状。田布施内十穀園の門を一乗院の所領と認める内容である。
大永六年八月十八日 / 冊子 667頁
本文ではNo.2039と同文のため省略された別伝本の島津忠良証状。田布施内十穀園の門を一乗院の所領と認める内容である。
(大永六年)八月廿一日 / 冊子 667頁
隈江匡久が山田安藝守に、蒲生・祁答院・北郷・本田方の動向、御屋形衆と祁答院勢の二度の合戦と損害、白清水からの注進などを伝えた書状。
(大永六年)九月四日 / 冊子 667頁
本文ではNo.2041と同文のため省略された島津勝久書状。北郷信濃守に金吾・祐脩らとの協力を求め、忠節を頼み入れた内容である。
「大永六年」九月七日 / 冊子 667頁
隈江匡久が山田安藝守に、勝利を祝して一層の用心を勧め、急な山東への命令や鷹を捕らえたことなどについて述べた書状。
「大永六年」十一月五日 / 冊子 670頁
本文ではNo.2052と同文のため省略された島津忠兼書状。肝付兼演に、虎寿丸らの来訪と人質方の出頭を踏まえ、確かな契約を頼むと伝えた内容である。
「大永六年」十一月七日 / 冊子 670頁
本文ではNo.2054と同文のため省略された島津忠兼書状。肝付兼演に、三吾との合意、伊集院での対面と鹿児島同行、虎寿丸を呼び寄せたことなどを伝えた内容である。
「大永六年」十一月廿一日 / 冊子 670頁
隈江匡久が山田安藝守に冬毛の皮を求め、初千代方の蒲生・邊川・佐多らの動向、北郷・北原方の和融が未成立であることを報じ、番城の用心と三夜留の準備を命じた書状。
年月日未詳 / 冊子 659頁
島津忠良が出家して日新斎と号し、生別府で十四歳の千代鍋を元服させ、太郎(樺山玄佐)と称させた記事。太郎を島津貴久の弟の列に加え、樺山氏の後継として位置付ける。あわせて忠良の次女が伊作浦から市来湊を経て生別府へ移った経路を記し、一族の身分編成と移動を示す。
年月日未詳 / 冊子 660頁
本田氏領曽於郡の土卒が北郷忠相へ通じ、忠相が北郷左京亮・加茂民部らを清水へ派遣し、新納勢とともに城を攻略して曽於郡を領有し、北郷久利を地頭とした経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 660頁
本田氏の臣が曽於郡で北郷忠相に内応し、忠相が北郷左京亮・加茂民部を派遣、新納忠勝も合流して城を落とし、北郷久利を地頭に据えた経緯を考証した記事。
年月日未詳 / 冊子 661頁
島津忠昌の三子から忠兼(勝久)が家督を継いだ経緯を述べ、忠兼の人物と政道を厳しく批判する島津日新譜記事。忠兼・実久・忠良・北郷忠相らの対立によって家中と国中が動揺したことを記し、守護の賞罰・人材登用の誤りが政争を拡大したとの評価を示す。
年月日未詳 / 冊子 56頁/原整理番号 51の1
大永六年の記事として、忠良が伊集院へ参上し、勝久が鹿児島へ帰宅するのに忠良も供奉した経緯を記す。勝久の御剣を忠良家臣の阿多加賀守、忠良の御太刀を本田紀伊守が持ち、両者が以後の契約を結んだことを述べる。
巻一/冊子 3~4頁
島津忠昌の子忠治・忠隆・忠兼(のち勝久)へと家督が移った経緯を述べ、忠兼の失政と実久との対立を背景に、島津忠良へ国政再建が託された事情を記す。忠兼は忠良に南郷を与え、さらに忠良の嫡男虎寿丸を養子に迎えるよう求めた。忠良は再三辞退したが命を拒みきれず、虎寿丸を鹿児島へ伴う。大永六年、忠兼が虎寿丸へ家督を譲り、虎寿丸は又三郎貴久と称した。記事は、島津氏の系譜、忠兼と忠良の盟約、貴久への禅譲を一連の家督再編として描き、国人がこれを三州安定の端緒として歓迎したと結ぶ。
巻一/冊子 4頁
帖佐城主渋川氏が島津家累代の臣でありながら実久方に通じ、本城・新城を拠点に反抗した事件を扱う。忠良は大永六年十二月に鹿児島を発し、吉田で軍備を整えて両城を攻撃した。実久方の援軍は高尾方面で繰り返し防戦したが敗れ、新城も陥落する。退却者の多くが城濠や柵、火災によって死傷したと戦場の惨状を記し、反逆が自滅を招いたものと評する。戦後、帖佐は昌久に、伊集院は忠良に与えられ、地域支配が再編された。