喜入忠続譜
年月日未詳 / 冊子 911頁
喜入忠続譜は、慶長八年十月に忠続が使節として上洛し、徳川家康の征夷大将軍就任を祝賀して、砂糖二樽と鉄砲二挺を献上したと記す。
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年月日未詳 / 冊子 911頁
喜入忠続譜は、慶長八年十月に忠続が使節として上洛し、徳川家康の征夷大将軍就任を祝賀して、砂糖二樽と鉄砲二挺を献上したと記す。
元和九年八月廿三日 / 冊子 796頁
他国へ通す馬・駒・小荷駄・牛について、上々・上・中・下・下々など等級別の手形銭を定め、同日から改定するとした島津久元・喜入忠続連署の定書。乗馬は一疋八貫文から一貫文、小荷駄は一貫七百文から一貫三百文、牛は一貫文から五百文までを定める。
(寛永七年)三月十八日 / 冊子 135頁
島津家久が、又三郎(島津光久)の縁組祝儀として遠路から使札を受けたことを喜び、詳細は下野守が伝えると返答した書状。
十一月十八日 / 冊子 393頁
前日の来訪と談話を喜び、夕方に伊源へ出掛けるなら自分も同行したいと伝えた島津忠恒書状。
年月日未詳 / 冊子 583頁
慶長五年秋、喜入忠続が惟新君すなわち島津義弘(惟新)に従い、濃州関ヶ原へ出陣したことを簡潔に記す。
年月日未詳 / 冊子 158頁
慶長十三年春、喜入忠続が島津義久の使節として駿府・江戸へ赴き、島津常久と海路・陸路をともにしたことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 532頁
慶長十九年、長崎・有馬のキリシタン宗旨を退治するため山口駿河守が下向した際、喜入忠続が多数の兵を率いて現地へ赴き、その指揮下に入ったことを記す喜入忠続譜。
寛永三年丙寅十月十一日 / 冊子 22~23頁
島津久元・喜入忠続が琉球側へ示した条書。中国での白糸価格、唐船・唐使来航時の奄美諸島の役割、琉球からの上納品と売却銀、唐への渡銀、出銀負担と猶予願いなど、対中貿易と琉球支配の実務を細かく指示・回答する。
(寛永四年)四月廿四日 / 冊子 34頁
喜入忠続・伊勢貞昌が、薩摩殿父子の御目見は又三郎の腹痛で延期されたが四月二十三日に実現し、両御所が一同の参上を大いに喜び、兄弟も御前で褒美を受けたと早打で報じる。
(寛永四年)七月廿七日 / 冊子 39頁
喜入忠続・比志島国隆が、京都で調達すべき御用品の注文書を荷方衆から持たせたので、渋谷四郎左衛門・上井東市正へ渡して調達させ、主君の上洛を待つよう命じる書状案。
(寛永五年)三月七日 / 冊子 56頁
喜入忠続が、島津家久の上洛に伴う御供船の水夫・荷下ろし水夫・大廻船水夫・船頭の雇賃を定める。さらに一人一日当たり銭百文と飯米七合五勺、雑役夫にも銭百文を支給するよう算用所へ命じる達書。
寛永五年九月十日 / 冊子 69~70頁
喜入忠続が琉球側に、江戸への言上・役人の召し出し、知行・進物・船舶と交易品、年々の産物上納、芸能や武具、翌夏の参上などについて処置を指示する条書。国元との連絡と役人の配置を整え、定めた規則を守るよう求める。
寛永五年十二月十五日 / 冊子 75~76頁
島津久元・喜入忠続が、市来備前守への加増知行百石、鎌田播磨守の本高三百九十石、恵灯院五十石、月江院三十石、新納刑部太輔の大口方面の替地二百五十石余について支配を命じる連署書下。
年月日未詳 / 冊子 82頁
寛永六年春、徳川家光が痘疹を患ったため、その安否を確かめる使節として喜入忠続が江戸へ参候したことを記す譜記事。
(寛永七年)三月三日 / 冊子 134~135頁
伊集院家の名字・家督について、松千代を定めた経緯、本人の名乗り、親族・関係者の同意と披露の手順を説明し、異論がないよう内談を求めた島津久元・喜入忠続の連署書状。
寛永九年六月二日 / 冊子 274~275頁
喜入忠続と川上久国が、唐へ渡す多額の銀子調達を新納加州老・最上土州老を通じて三司官に談合させ、冠船交易時の商人への銀子二分運上、七島衆の唐交易と私的銀取引の禁止、七島・徳之島・沖永良部等からの借銀、市来和泉守を介した連絡、上船改めや琉球の身分層・町人への運上を定めた条書。
寛永九年八月十四日 / 冊子 303頁
喜入忠続が琉球三司官へ示した条書。家久の江戸在府と将軍家での首尾、前年に新納・最上を介して行った唐交易交渉、借銀返済のための銀子送付、返済不調時の知行召上げ、冠船渡海、鹿二十頭の送付、加藤忠広父子の改易・流罪を伝えた。
寛永十年九月三日 / 冊子 379~382頁
島津久元・喜入忠続の連署覚書。山川に滞留する巡見使の屋久島・種子島渡海について、船・水先案内・宿・人馬・荷物・食糧・贈答・役人配置などの接待と輸送手順を詳細に定めた。
寛永十年九月四日 / 冊子 383頁
喜入忠続が鎌田出雲守へ、江戸到着後に書状を届けたこと、家久への目通りや野州老・仁蔵らを介した取次、伊兵少老への嘆願、関係者の応対などを報告した書状。
六月十三日 / 冊子 38頁
喜入忠続と川上久国が、当年の諏訪祭礼の居頭役について連署した書状。役が町田名字・長野名字に当たるため、当地の長野彦右衛門尉と同名字の衆が同心し、来月二十日に必ず参上するよう申し渡すことを求める。
六月廿四日 / 冊子 154頁
喜入忠続らが諸所の地頭・衆中に示した連署の法度。近年、衆中が生活難などから方々へ離散しているため、地頭へ届けず在所を離れた者は知行を召し上げて御内から離し、私に御内を離れて他人へ奉公する者は重罪とする旨を命じる。
四月廿七日 / 冊子 155頁
喜入忠続と比志島国隆が本田源右衛門に、京都で調達すべき御用物の注文を御荷内衆に持たせたと知らせた連署書状。注文を渋谷四郎左衛門と上井東市正へ渡して品物を調達し、上洛を待つよう指示する。
閏二月十六日 / 冊子 156頁
喜入忠続と川上久国が本田蔵人に、去々年分の煙草出銭がいまだ未納であることを厳しく咎めた連署書状。延引は重い曲事であるとして、三日以内に全額を揃えて当地の蔵衆へ渡し、少しも猶予しないよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 81頁
大野久武・高崎能乗・平田純正の三名が島津家久の使節として、比志島宮内少輔の処分など数条の命令を携えて江戸から帰着したことを記す。政務停止や宝福寺への移動を命じ、国分民部左衛門尉が正月八日付書簡を持参して領内処置を伝えた。
寛永六年十月朔日 / 冊子 113~115頁
分国内の総知行改めに伴い、薩摩・日向各地の村ごとの石高を列挙して島津久元へ配分した知行目録。総高一万二千三百五十六石余のうち二千石を役分として付け、役を離れた時は返上すべき旨を定める。
八月晦日 / 冊子 73頁
喜入忠政が比志嶋掃部助らに、初鷹を届けるので新納仲左衛門尉の奥方へ進上するよう依頼した書状。三日後に江戸へ向かう早便があるため、その件もあらかじめ申し入れておくよう求める。
(寛永四年)八月六日 / 冊子 39~41頁
伊勢貞昌が、出水の神主中野村兵部少輔をめぐる不審事を報告する。屋敷から本尊・看経道具・霊剣などが掘り出され、矢先が城へ向けられていたことから、地頭への悪意や呪術的行為を疑い、本人を厳しく尋問して上意を仰ぐよう求める。
(寛永四年)十一月廿八日 / 冊子 47~48頁
島津久元・伊勢貞昌が、島津家久の到着と将軍の鷹狩、江戸での勤務交代、狩野永甫をめぐる処置、参勤時に必要な乗馬衆の人数と配置、霧島からの材木手配など、江戸滞在中の諸案件を詳しく協議・指示する。
年月日未詳 / 冊子 928頁
島津家久譜は、慶長九年三月に徳川家康が江戸から上洛したため、山口直友の催促を受けた島津忠恒も鹿児島を発ち京都へ向かったと記す。喜入忠続ら家臣を伴い海路を進み、風待ちや寄港を重ねた上洛行程を述べる。
(寛永六年)正月八日 / 冊子 81~82頁
島津家久が喜入忠続・川上久国に、比志島宮内少輔の曲事は深刻で、今後国のためにならないとして処分を徹底するよう命じる。先に派遣した三人への指示どおり、情実を交えず相談し、詳しくは国分民部左衛門尉から聞くよう伝える。
年月日未詳 / 冊子 297頁
七月二十三日、大口の宰新納忠清が川上久国・喜入忠続へ書状を送り、肥後から帰った者の報告として、熊本城・八代城を収公する幕府上使が七月二十一日に到着したことを伝えたとする家久譜の記事。後掲No.553の書状内容を要約する。
年月日未詳 / 冊子 320頁
島津家久譜の記事。伊達政宗・前田利常らと大御所の一周忌をめぐり相談したこと、十月十日に家臣島津久慶へ、細川忠利の肥後拝領を祝う使者として翌年早々に赴き、贈物は喜入忠続と協議するよう命じたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 354頁
島津家久譜の記事。江戸にいた島津久元・伊勢貞昌が国元の同職である喜入忠続・川上久国へ書状を送り、九州を巡察する上使の小出対馬守・城織部佐・能勢小十郎の接待について指示したことを記す。
寛永十年八月十日 / 冊子 375~377頁
島津久元・喜入忠続・川上久国の連署による物資調達の条書。上方から借りた銀で糸・唐物・銅・薬種などを購入する際の価格、帳簿、担当者、商人との取引、賄賂・私的売買の禁止などを細かく定めた。
(慶長八年)十月十八日 / 冊子 911頁
島津龍伯が上洛使節の喜入摂津守へ、京都で細川幽斎に書状と進物を確実に届けるよう命じる。遠国の宛先への書状も持ち帰るよう伝え、熊野紙を添えた。
(慶長八年)十二月五日 / 冊子 917-918頁
山口直友が島津忠恒へ、宇喜多秀家の処遇に関する礼使として喜入摂津守を派遣したことを了承する。島から贈られた蜜柑を受け取り関東へ進上したこと、内地産の蜜柑も献上してよいことを伝え、徳川家康の鷹狩りと江戸出立の動向にも触れた。
(慶長八年)十二月廿日 / 冊子 919頁
山口直友が島津忠恒へ、向島から贈られた蜜柑を受け取り関東へ進上したことを報じ、内地産の蜜柑も献上してよいと喜入摂津守へ伝えたと述べる。徳川家康の鷹狩りと江戸方面の動向に触れ、翌春早々の上洛を待つと伝えた。
寛永七年三月廿日 / 冊子 136頁
前年の蔵米の大坂未着分への対応、当年以後の法度、仕上米・積荷の二重検査、船頭・請人、役人の証文、蔵入地・荒地、盗難、茶の納直などを定めた連署達書。
(寛永九年)六月十一日 / 冊子 279~281頁
島津久元と伊勢貞昌が、家中の乗馬を五百騎と定め、四百十一騎が有分、御蔵入から五十騎を仕立て、残る八十九騎の不足を補うことや、高二百石以上を常時乗馬とすることを示した条書。先備・二番備・三番備・左右備、馬廻・使番、外城小給人の配賦を定め、乗馬の差物・馬具・腹巻、軍役衆の船賦、琉球からの合力銀、御座船、弓、鉄砲百挺とその口径、召立衆、兵道粮の人数、幟の紋など、国元の軍役・出陣準備を具体的に整えるよう命じる。
(寛永九年)八月十一日 / 冊子 302~303頁
島津久元・伊勢貞昌が、前日十日に西之御丸で豊嶋和部殿が小姓衆と争い三人が死亡した事件を報じた連署書状。城が取り囲まれ、黄門様が乗物を降りて徒歩で入城した状況を伝え、異常な事態を嘆いた。
(寛永九年)八月廿七日 / 冊子 314~316頁
新納忠清・最上義時が、琉球から唐へ渡る進貢船・冠船等の運用について定めた連署条書。御借銀返済、船数と往復時期、船主・勘使の選定、銀子・荷物・糸の管理、漂着・破船時の処置、唐への渡航者の統制などを詳細に指示した。
(寛永九年)八月晦日 / 冊子 316~318頁
島津久元・伊勢貞昌が、琉球の冠船参候に伴う黄門様の座席・贈答、琉球銀子の取扱い、種子島殿への知行加増と軍役、茶入・藤堂殿関係の品、種子島への蔵入四千斛の処置などを指示した連署書状。
(寛永九年)十一月十五日 / 冊子 324~325頁
島津久元・伊勢貞昌が、駿河大納言徳川忠長の処分について報じた連署書状。忠長が高崎へ移され、付属の者五人が同行し、家臣の知行・屋敷が召し上げられたことなどを伝え、今後の処置と世上の評判を案じた。
寛永九年十二月六日 / 冊子 330~331頁
島津久元ら四名が連署した検地覚書。検地中の夫役の扱い、当日算用の夜間確定、祈願所・菩提所と寺社の別帳、山林・屋敷の扱い、名子の選定、未進・相続・離散者の処置などを定めた。
寛永九年十二月九日 / 冊子 331~332頁
島津久元ら四名が連署した検地覚書。検地村の相談、先年の検地法、名寄帳・京判による面積確定、耕作放棄地・未進地・荒地・屋敷・相続地・逃散百姓の扱い、分付帳の記載、弁済不能者の処置などを詳細に指示した。
(寛永十年)二月十一日 / 冊子 354~358頁
島津久元・伊勢貞昌が、九州巡察上使三名の薩摩入りに備えるよう国元へ詳しく指示した連署書状。上使の出立・巡回日程、宿泊、馬・船・荷駄、道中警固、食事・贈物・乱舞などの接待、供人数、費用と人夫の負担を定め、過度な馳走を避けるよう求めた。
(寛永十年)三月十六日 / 冊子 360~361頁
島津久元・伊勢貞昌が、九州巡察上使三名の出立時期と経路、薩摩到着見込み、宿泊・食事・馬船・荷駄・案内・贈物などの接待方法を国元へ追報し、過度な馳走や準備を避けるよう指示した連署書状。
寛永十年三月廿日 / 冊子 361~362頁
島津久元ら三名が琉球三司官へ示した条書。対唐交易に伴う銀賦課、冊封使渡来年の加算、出陣時の銀子合力、中国産生糸の価格・品質管理、密貿易と違反者の取締りなどを定めた。
(寛永十年)三月廿七日 / 冊子 362~364頁
島津久元・伊勢貞昌が、高崎伊豆守・伊東二右衛門尉から検地の報告を聞いたうえで、旧検地の不正や悪役人を調査し、訴えのある土地を公平に再検分して実際の耕地を正確に把握し、関係者を処置するよう国元へ指示した連署書状。
(寛永十年)七月廿日 / 冊子 374~375頁
伊勢貞昌が、江戸城御殿の新造に伴う諸大名からの進物について、薩摩から役立つ国産品や唐物などを選び、年寄衆への取次を相談するよう求めた書状。国元・種子島・渡海の状況報告も促した。