吉利氏系図
年月日未詳 / 冊子 712頁
吉利氏の忠将・久起らの親子・兄弟関係、出生、戦死、法名を掲げる系図。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 712頁
吉利氏の忠将・久起らの親子・兄弟関係、出生、戦死、法名を掲げる系図。
年月日未詳 / 冊子 50頁
吉利氏の久定について、永正十六年の誕生、母が島津相模守忠幸の娘であること、島津貴久から吉利の地を与えられて居住したこと、弘治三年九月十二日に三十九歳で没したこと、法名舜公・号日山を記す系図記事。
年月日未詳 / 冊子 50~51頁
吉利氏祖の出自を島津薩摩守国久の四男とし、居住地、官途・入道名、弘治三年九月二十日の没年、法名を記す系図記事。
年月日未詳 / 冊子 68頁
吉利忠澄の天文十八年誕生、永禄元年十二月二十七日の初吉利、文禄四年の没年を記し、娘が伊集院忠棟室となったこと、忠棟誅殺後の一族の処遇を載せる系図記事。
天正元年十一月十三日 / 冊子 321頁
吉利氏の下総守忠澄の子孫を掲げ、三郎九郎長住・顧金らの名と花押を記す。長住は天正元年十一月十三日生まれで、母は上井武蔵守為秋の娘とし、忠紹は天正十六年生まれとする。
年月日未詳 / 冊子 557頁
吉利氏元祖秀久の二男久起の娘が白坂七右衛門と離別後に壱岐幸則へ再嫁し、その娘の子が幸則家を継いだ経緯など、婚姻と家督継承を記した吉利氏系図抄。
年月日未詳 / 冊子 558頁
吉利忠張の子女から久在・久良・忠名・久遠・忠真らへ続く家系を、生没年、母方、幼名・官途、養子相続とともに記した吉利氏系図抄。久在に男子がなく、義岡久達の長子久良が姉婿として家を継いだ経緯を載せる。
寛永三年七月八日 / 冊子 13~14頁
国政上の協議事項を列挙した覚書。唐船の来航・積荷・銀子・商取引、異国人や船員への対応、国内の諸役、城・寺社・屋敷・港湾の管理、役人の配置や掃除・警備などについて、関係者が相談して処理し、独断や先例に反する措置を避けるよう定める。
年月日未詳 / 冊子 712頁
天文元年十月、吉利忠将とその弟大野忠友が薩州中郷松嶋で戦死したことを記す。
天正十年八月八日 / 冊子 716頁
新納忠元が伊集院忠棟へ、近衛前久の書状を持って帰国する長持寺僧を熊本から大口経由で安全に同行させるよう依頼した書状。僧が京都情勢を直説するとし、羽柴秀吉が中国方と和談して明智方を討ち、信長の仏事を行ったと報じる。一方、細川藤孝戦死の風聞を惜しみ、秋の出勢について吉利忠澄の進言も伝える。
天正十二年四月 / 冊子 893頁
天正十二年四月、北郷忠虎が吉利忠澄・伊集院久治とともに肥後の敵勢を討ち、首級六十余を得た。
年月日未詳 / 冊子 233頁
七月十四日、吉利下総守が三城から宮崎へ至り、国境に異変がない旨を上井伊勢守へ報じたこと、井尻伊賀守が八代から封物を携えてきたことを記す。さらに長寿院・大善坊を京都へ遣わし、前年に鎌田刑部左衛門尉を介して関白へ伝えた件を再度説明しようとしたが、鎌田の病で果たせなかったという。国境情報と京都外交の連絡経路を併記した記事である。
年月日未詳 / 冊子 764頁
京都からの命令で石田三成配下が下向し、国中で竿打ちによる検地を実施したことを樺山紹剣が自記する。薩摩は黒川右近、日向は伊地知氏、大隅は吉利氏が案内を担当した。 薩摩十三郡を測量した一方、泉・高城郡から山北は竿入れの対象外だったと、現場側の役割分担を具体的に記す。
年月日未詳 / 冊子 8頁
島津家久が帰国の挨拶として吉利下総守忠張を使者に立て、沈香五斤と薩摩で焼いた茶碗・灰入・底取を徳川秀忠・家光へ献上したことを記す。土井利勝・酒井忠世が披露し、忠張は御前で拝謁を許され、内書を賜った。
(寛永七年)十一月廿八日 / 冊子 179頁
琉球へ派遣する川上又左衛門尉・菱刈伴右衛門尉に付ける人数、京都で調達する銀子、帖佐弥左衛門尉の知行召上げ、比志島宮内少の嫡子の屋久島での出家、種子島にいる宮内少の女性と子二人の移送、息女を吉利下総守へ預けることなどを指示した覚書条書。
(寛永九年)八月廿二日 / 冊子 312~314頁
島津久元・伊勢貞昌が、吉利下総守・新納右衛門佐を通じて伝えた国元軍役の談合状況を問い、武具兵具の調達、道具用意、知行高に応じた具足・馬・武具の賦課、御城の総高六拾万五千石を基準とする軍役などについて、早急な決定と報告を求めた連署書状。
寛永十四年十二月五日 / 冊子 704~706頁
「覚」として、幕府が十一月二十六日付の奉書により肥後・薩摩勢へ天草一揆の鎮圧を命じたことを受け、有馬方面で一揆が起きた際の即応、一万人のうち動員できる兵数、川尻に進出した肥後勢との歩調、薩摩勢用の船の準備を問い合わせる。天草平定後の早急な報告、一揆勢の首級を目付衆に見せるため捨てないことも指示する。さらに松平隠岐守の条書、松平伊豆守らへの兵粮・音信、渋谷知兵衛尉の派遣、天草一揆が長引き上洛延期となる場合の報告に言及する。吉利織部祐が署名し、使者を川越三右衛門尉とする。寛永十四年十二月五日付。
二月七日 / 冊子 124頁
年頭の三献式における参加者の座次・献数を書き留めた覚書。惟新をはじめ川上・新納・北郷・樺山・入来院・吉利・菱刈・伊地知・根占などを列挙し、三献・一献等の区分を示す。
(慶長十八年) / 冊子 425~426頁
慶長十八年、島津義弘が娘へ、寒中の長旅と奉公の苦労を気遣い、江戸へ向かう道中の無事を祈るとともに、東国の様子や途中の出来事を折々知らせるよう求めた書状。
(寛永三年)閏四月廿二日 / 冊子 8~9頁
土井利勝が島津家久へ、無事の帰国を祝し、使者と沈香・薩摩焼の献上が将軍に披露され、使者が御前へ召されて内書を賜ったことを報告した書状。大御所の江戸出発は五月末の予定で、上洛の心得を整えるよう伝える。
(寛永三年)五月四日 / 冊子 9頁
徳川家光が島津家久へ、家久の帰国後に使者から沈香五斤と薩摩焼の茶碗などを贈られ、遠路の厚意を喜んだ御内書。詳しくは酒井忠世が述べるとする。
(寛永三年)五月七日 / 冊子 9~10頁
酒井忠世が島津家久へ、無事の帰国と将軍への献上品を祝し、使者が御前へ召され内書と巻物・薩摩焼の茶器類を賜ったことを報告した書状。長期滞在中に多忙で疎遠だったことを詫び、再上洛時の面会を期す。
二月五日 / 冊子 73~74頁/原整理番号 115-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が島津久頼・肝付兼屋・東郷昌重・吉利忠張へ、全員が急いで渡るよう命じる。荷物は船、人は徒歩とし、陣屋道具を余計に積まないこと、渡り終えるまで吉利忠張・東郷昌重が残ることを指示する。山狩奉行の長谷場兵右衛門・肥後内蔵助には狩りの結果を報告させ、有馬へ伝えるため早く来るよう求める。
二月十日 / 冊子 114頁/原整理番号 178
川上久国・三原重庸が吉利役人へ、当地にいる『とりい』の件で川窪慶右衛門に用があるため直ちに参るよう命じ、送迎等は役内で調達して後日役奉行へ報告し、少しも遅延しないよう指示する。
6月1日(年未詳) / 冊子 343頁/原整理番号 130-31
六月一日、島津忠長が吉利杢右衛門尉へ出した兵糧渡付の命令書。川上二郎左衛門尉と従者二人からなる主従三人に兵糧を渡すよう命じ、忠長の印を据える。正本は家蔵と注記する。
天正三年三月十七日 / 冊子 431~432頁
天正三年三月十七日の犬追物手組で、義弘・吉利忠澄・本田董親・歳久・喜入季久らの射手、射犬数、検見・喚次を列挙する。雨天のため当初予定から延期された回の記録である。
天正六年十月廿日~十一月十二日 / 冊子 553頁
大友宗麟・義統の十万余騎が高城を包囲すると、島津家久は山田有信・吉利忠澄・鎌田政近・比志島国貞らと守った。十一月十二日、義久軍が根白坂で大友軍と戦うのに呼応して城内から突出し、疲労した敵を深淵へ追い込み、家久自身も単騎で敵中へ突入して将十余人を斬った。耳川まで追撃し、戦後に佐土原を与えられて移った。
天正十一年春夏 / 冊子 754頁
天正十一年春夏までに内空閑・合志・津守・木山・三船・隈之庄との境を小競り合いで安定させたこと、相良義陽が三船で敗死したため薩摩から八代へ番兵を置き、忠平が八代に滞在したことを記す。樺山紹剣が吉利氏と番替して八代へ赴いた後、樺山規久が日比良城を攻略し、負傷しながら敵を討たせたことも載せる。
天正十一年春夏 / 冊子 760頁
天正十一年春夏までに内空閑・合志・津守・木山・三船・隈之庄との境で敵を退け、相良義陽が三船で敗死したため薩摩勢を八代警固に置いたことを記す。相良氏には球磨のみが残り、忠平が八代へ渡った際、樺山忠助は吉利氏と番替して八代へ赴き祝賀した。
年月日未詳 / 冊子 22~37頁
上井覚兼が天正十三年三月のほぼ一か月を日次で記した日記。寺社参詣や勤行、島津義久への出仕、家臣・僧侶・使者の来訪、書状と贈物の往来に加え、所領・境界争論の聴取、訴訟関係者の召喚、家中の談合など行政実務を詳しく伝える。一方で茶湯、連歌・酒宴、花や香を取り出して優劣を論じる遊興、酔客の振る舞い、病人への薬や医師の対応までが同じ日々の中に記される。月後半にも来客の饗応、武州・吉利殿らとの会談、荒神参詣、贈答が続き、覚兼が政務・信仰・情報収集・人的交際を絶えず調整していた実像が見える。戦国期島津家中の日常生活と裁許の双方を追える貴重な記録。
年月日未詳 / 冊子 69頁
天正十三年七月十三日以降、吉利下総守らが上井覚兼へ伝えた諸方の軍事情報をまとめた『島津義久譜』の記事。羽柴筑前守の軍勢が四国で戦い、七、八百人を失って敗れたとの風聞、甲斐宗運が病死したとの情報が届くが、謀略の可能性も疑っている。続いて島津図書頭忠長・伊集院忠棟らが宮崎・高知尾方面の作戦と兵器輸送を協議し、花山城をめぐって阿蘇・甲斐方の大軍と交戦した経過を記す。未確認情報を吟味しながら救援・守城策を組み立てる島津方の情報活動が分かる。
年月日未詳 / 冊子 763頁
秀吉の命で薩摩・大隅・日向三州の旧田数と境界を改める検地が行われ、石田三成の家臣らが下向した経緯を記す。薩摩では黒川右近が筆頭となり、樺山忠助が案内・指南を務めた。 日向は伊地知某、大隅は吉利某が担当し、高城・出水など公領は検地対象外だったことも示す譜記事。
元禄十三年十二月十八日 / 冊子 234~236頁/原整理番号 11
吉利治部忠名が猿渡監物へ与えた古系図写に関する証文。猿渡藤三郎信元から二十代喜右衛門までの系図は吉岡宮内太輔久喜の自筆写で、原本焼失後に返却したため後代まで大切に保管するよう述べる。市来源右衛門家年の証文や、田中国明・隈元太市左衛門を介した系図・旧記照合の経緯を付載する。
天正三年 / 冊子 393~394頁
天正三年の島津氏の動向を編年で記す。年始儀礼と椀飯、三度の犬追物、琉球使節の接遇、近衛前久の来薩、山田・入来境界の処置、肝付家の後継争いと高城・櫛間・志布志をめぐる伊東勢の動向、島津忠良の豊後帰還、近衛前久の出水到着などを載せる。
天正三年三月十五日 / 冊子 430~431頁
天正三年三月十五日の代始犬追物の手組で、義久が二十九疋を射たのをはじめ、各射手を角ごとに配し、射犬数と検見・喚次を記録する。終了後は桟敷で三献を行い、川上経久に馬・太刀を与え、射手を手組順に召して酒を賜った。
天正三年三月廿四日 / 冊子 431~432頁
天正三年三月二十四日の犬追物手組として、四角に分かれた射手、各人の射犬数、検見・喚次を記す。犬を射終えた後は桟敷で三献を行い、一所衆・諸地頭も太刀を持参した。
天正三年四月廿一日 / 冊子 435頁
琉球使節慰労の犬追物手組で、義久・歳久・征久ら射手の配置と射犬数、検見・喚次を記す。琉球衆の桟敷を馬場西北の犬橋辺に設け、雪辱和尚も同席した。天界寺南叔が漢詩を作り、雪辱・東雲以下が和韻し、義久ら一族は和歌を詠んだ。本文日付は天正三年四月二十一日と読める。
天正三年十月廿一日 / 冊子 440頁
加世田で犬百匹を射立てた天正三年十月二十一日の犬追物手組。四角の射手、各人の射犬数、検見と喚次を記し、島津歳久・家久、新納忠元、島津忠長らが参加した。
天正四年四月九日 / 冊子 474~475頁
近衛前久の台覧に供した天正四年四月九日の犬追物手組。四角に配した射手、各人の射犬数、検見・喚次を記し、島津征久・歳久・忠長、喜入季久らが参加した。
天正四年四月十二日 / 冊子 475頁
天正四年四月十二日の犬追物手組。四角の射手と各人の射犬数、検見・喚次を記し、前久台覧のもと島津征久・歳久・忠長、喜入季久らが射芸を披露した。
天正五年十一月十三日 / 冊子 521~522頁
鹿児島馬場で行われた天正五年十一月十三日の犬追物手組。四角に配した義弘・歳久・家久・久隅・征久・喜入季久らの射犬数、検見・喚次を記す。
天正五年十一月十五日 / 冊子 522頁
天正五年十一月十五日の犬追物手組。義久の検見のもと、義弘・歳久・家久・征久・久隅・喜入季久らを四角に配し、各人の射犬数と検見・喚次を記す。
天正六年十月十四日以後 / 冊子 551~552頁
天正六年十月二十日、大友宗麟・義統の大軍が日向高城を包囲し村落を焼いたが、山田有信・島津家久らが籠城した。城内は水不足となったものの古橋陰から泉が湧いたとする。大友方は伊東残党と三納村の蜂起も図ったが島津方が鎮圧し、家久の作戦報告を受けた義久は二十五日に大軍を率いて日向へ進発し、夢中の句を勝利の兆しとした。
天正六年八月十八日~十月十九日以後 / 冊子 591~592頁
大友軍は八月十八日に耳川を越え、十月十九日に十万余騎で新納院高城へ進み、野頸・内原・田間・松原などに布陣した。山田有信ら五百余人と三州の交替兵、家久を大将とする六千余騎が籠城した。大友方は城外を焼き包囲したが、城中では古橋の陰から水が湧き、数千の兵が渇きを免れたことを義久の徳による奇瑞とする。
天正六年十月九日~二十四日 / 冊子 597~598頁
大友軍が高城を包囲する一方、伊東旧臣らは日向四十八外城へ廻文を回し、十月十日に一斉放火して都於郡へ攻め入る計画を立て、警固船も折生迫へ向かわせた。しかし一味の一部が島津方へ内通したため九日に企図が露見して関係者が誅伐された。二十四日には平野・三納勢が放火と都於郡攻撃を試みたが、連判勢が失われて千人ほどに減り、島津方に撃退された。
天正九年十二月以後~天正十年 / 冊子 745~746頁
相良義陽が三船へ出兵して甲斐親乗に討たれ、八代が騒動したため、新納忠元が大口など九か所の地頭衆を率いて直ちに八代へ入り、諸城の番を固めた記事。八代古老の要請で八代が島津領となり、地頭は後に伊集院忠棟が務めた。また大口衆らに日比良城を忍び落とさせ、安楽城も退去させたこと、合志・甲斐・有馬・田尻各氏の帰属を記す。
年月日未詳 / 冊子 215~224頁
上井覚兼が八月朔日から晦日までを記した長大な日記。岩屋城攻めで負傷した覚兼は帰路と療養の様子を記しつつ、立花・宝満・筑紫方面の処置、豊後出兵をめぐる評定、諸将・使僧・寺社との面会を続ける。書状や使者の往復、降伏者・人質・知行の扱い、兵糧・酒・贈物、医師の治療や負傷者への見舞いまで日々記録する。北部九州攻略後の占領統治と次の豊後侵攻準備が、覚兼自身の傷の痛みや日常生活と並行して進む様子を伝える陣中・軍政日記である。
年月日未詳 / 冊子 224~233頁
上井覚兼が九月朔日から月末までの動静を記した長大な日記。療養を続けながら出仕・宿所移動・帰陣を重ね、立花・筑紫・秋月方面の処置と豊後侵攻の進発計画を諸将・使者と協議する。書状・起請文・使僧の往復、船・兵糧・武具の手配、降参者・人質・知行をめぐる判断、戦死者遺族や負傷者への対応を日々記録する。茶・酒・贈答、寺社参詣、病状など私的生活も併記され、北部九州攻略後の軍政と次期作戦を支えた情報伝達・家中調整の実態が分かる。
年月日未詳 / 冊子 359頁
慶長四年三月、伊集院忠真が都城に拠って十二の砦を構え、同年六月に島津忠恒が出馬すると、北郷久村は宮之城から長千代丸に随って出陣した。敵の出城防戦に際し、味方が退いた後も久村は退かず、三度援兵を率いて敵城内まで追撃し、多くの家臣が戦死したことを記す。
(寛永四年)十二月廿七日 / 冊子 49~50頁
寺領への居所移転、使者の人選、比志島宮内少輔のもとへ出入りする者の礼法・監視を指示する。また、度重なる命令不履行、訴訟で自説を押し立てること、他人と相談しないことなどを問題として、宮内少輔へ申し聞かせるよう命じる覚書。