島津忠恒過所
慶長三年四月九日 / 冊子 203頁
島津忠恒が船改御奉行へ発給した過所。薩摩船一艘に、船頭半左衛門、中乗八十二人、加子十二人、てるま・かくせい三十四人、合計百二十九人を乗せて帰朝させるため、支障なく通行させるよう命じる。
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慶長三年四月九日 / 冊子 203頁
島津忠恒が船改御奉行へ発給した過所。薩摩船一艘に、船頭半左衛門、中乗八十二人、加子十二人、てるま・かくせい三十四人、合計百二十九人を乗せて帰朝させるため、支障なく通行させるよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 521頁
文明十七年の郡山川田城攻めをはじめ、各地の戦闘で討死した者をまとめた殉死者記事。町田盛久・忠重、厚地半左衛門尉、鮫坂左衛門二郎、寺田平七、木下彦太郎らについて、戦場と没日を対応させて列記し、島津方家臣の戦死記録を残す。
年月日未詳 / 冊子 708頁
享禄三年の諸合戦で、山口重昌・北郷忠眞・井上半左衛門らが戦死し、島津忠明が大口城攻めで戦死したことを月日別に記す。
天明四年八月二十二日 / 冊子 748~749頁/原整理番号 2114の1/整理ID 2114-1
品川領大井村にある島津家の抱屋敷について、既存の家屋に加えて本家十九坪、東に物置二棟、西に物置一棟を建てる作事を願い出る。別紙の絵図を示して許可を求めた八月二十二日付の文書で、松平薩摩守家来根元政右衛門の名がある。
天明元年十一月(記事内) / 冊子 648頁/原整理番号 1841/整理ID 1841
府下士永田半左衛門は貧しい暮らしのなかで母を養い、蚊帳の代用、暑さ寒さへの備え、食事の用意に心を砕いた。母が病むと職務を辞して看病し、回復を祈った。十一月に有司がその孝行を報告し、銀五枚を与えて褒賞したと記す。褒賞の原単位は「銀五枚」であり、半左衛門の扶持高や母の氏名は本文にない。
辰六月8日、新納嘉藤二 / 冊子 569頁/原整理番号 741の2/整理ID 741-2
太守の国許への暇を命じられた件につき、非蔵人口からの呼出に出頭し、大原左馬頭から書付一通を渡されたので報告しておく旨を述べる。この用務を留守居附役勤小野半左衛門が勤めたことを、辰六月八日に新納嘉藤二が主殿へ知らせる。
天明四年九月二日 / 冊子 749頁/原整理番号 2114の2/整理ID 2114-2
島津家の品川領大井村抱屋敷について、惣地面一万八千四百六十八坪、囲い済み一万五千三百二十二坪、家坪四百四坪と示したうえで、本家十九坪の増築、東の物置二棟各二坪五合、西の物置一棟三坪五合を願う。絵図を添え、現場の見分と願いの取次ぎを求めた九月二日付の口上書。
3月24日 / 冊子 756頁/原整理番号 798
谷山衆が出陣する際、地頭が衆中を召し連れ諏訪方大明神で首途すること、召し連れた衆中が旧例・吉例であることを述べる。先年の島原一乱でも地頭代東郷長左衛門が衆中を召し連れた例を挙げ、旗竿を申し請けた事情を記す。丑三月二十四日、濱田半左衛門署名。
明和七年三月十三日 / 冊子 247~248頁/原整理番号 662/整理ID 662
浄岸院様の意向で於綾を太守様の御前様に立てたいとして、甘露寺家へ使者澁谷半左衛門を差し遣わした件を知らせる。半左衛門は去る二日に使いを務め、口上を申し上げて文を差し上げたところ、甘露寺家は委細承知し、満悦との返答を寄せた。双方の縁組願書は、当月二十六日以後晦日までの間にこちらが差し出す日取りを甘露寺家へ伝え、同日に提出してもらうとする。四月中の祝儀に関わる件も、願いだけでは禁裏の差支えにならず、堂上方一統の意向も整わないことはないと承知した旨を、京都留守居が江戸へ即夜の町便で知らせたと記す。於綾の道中・通路は甘露寺家の取計らいで行い、宿札や御前様としての通行に伴う仕向けは内談するよう求め、伏見から出る件を京都留守居に言い含めておく。願書提出の日取りはまだ江戸から来ず、甘露寺家の娘として通行するための関所手判を、先例に従って御諸司代から受ける必要もあるので、出立日程を直ちに決めがたいとする。それでも江戸から知らせたとおり近いうちに願書を差し出し、当地を出立する見込みで、返答を待っている旨を納得のために伝え、諸事が決まれば出立を知らせると結ぶ。三月十三日付、年は明和七年の朱注、樺山左京・島津左中の二署と喜入主馬殿・小松帯刀殿・川田伊織殿宛を備える。控の正文は家老座にあるという。
明和七年三月二十七日 / 冊子 249~250頁/原整理番号 668/整理ID 668
於綾を御前様に立てる件で、浄岸院様の使者澁谷半左衛門の勤めが済み、甘露寺家の返答一通が届いたことは先便のとおりとする。使いの際に直接返答があり、別紙写のとおりの請書を半左衛門へ渡したと記す。縁組願書提出や旅中の通路等は、細かなこともすべてこちらで取り計らう意向で、別紙の条書を渡して知らせる。於綾の京都からの出立に関し、表向きは甘露寺家の取計らいとなり、道中は甘露寺家の娘として通行したい旨があるため、伏見の横山権右衛門に言い含め内談したところ、意向どおり表向きは相手方の取計らいとするとの返答書が届いた。甘露寺家の娘として江戸へ下ることは決まったので、本日の便で二階堂源太夫へ知らせたと報告する。詳細は国元から源太夫へ知らせること、御守殿へは半左衛門が着いた際に申し上げる予定であることを記し、別紙四通を添えて御女中様方へ伝えるよう求める。三月二十七日付、年は明和七年の朱注、樺山左京・嶋津左中の二署と喜入主馬殿・小松帯刀殿・川田伊織殿宛を備える。控の正文は家老座にあるという。
天明四年十二月十三日・辰正月十二日(本文追記、時系列留保) / 冊子 771~772頁/原整理番号 2162/整理ID 2162
伊奈半左衛門の代官所西葛西領海辺新田にある三万三千三百八十七坪の抱屋敷で、長屋四十坪五合の建築を四月に願い、そのうち十三坪を家作し二十七坪五合は当年建て終えたため、国許からの申付けを踏まえて届出と後続の作事を取り計らうよう説明する。辰正月十二日の追記は、堀田相模守家来西淳甫の敷地隣接地での長屋と門の建直しについて、先の許可と内申、見分依頼、御願不要とされた経緯、残坪数の建築後に再度取り計らう必要を述べる。
年月日未詳 / 冊子 167~168頁/原整理番号 511
末吉の肝付弥八左衛門家系図。上世の出所は不明とし、肝付石見の実名も不詳とする。兼重(弥八左衛門)は肝付弥左衛門の次男で、八郎兵衛の養子となった。後裔の母方・婚姻を記し、別系の八郎兵衛は井之前半左衛門の次男から養子に入り、法号を教心善阿信士とする。
九月十八日 / 冊子 23~24頁/原整理番号 6-18
田中藤次兵衛の交替人について相談し、不慣れな者では勤まらないとして長崎長右衛門と徳永半左衛門の起用を提案し、同意があれば申し渡すと伝えた九月十八日付の書状。追伸では、程村紙の紙漉き枠一つを川野長右衛門方から受け取れると知らせる。
万治二年十一月十一日 / 冊子 27頁/原整理番号 6-37
田中藤次兵衛の役渡し後に亀の役を免じ、後任に徳永半左衛門を充てると指示する。御記録の外題は福昌寺内の長田という出家に書かせるよう命じた返答書。
天保2年(朱注。月日記載なし) / 冊子 857~858頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2423
島津重豪が、時刻と場所の記載に続き、奉文を拝領してから鷹部屋へ赴く経路を指示した覚書。翌日の吹上御鷹部屋で大野丹次・小野半左衛門へ挨拶し、途中の麻袴・高輪・表開披式臺を経て門内で待つよう記す。手明の村越守藏、鎌田覺右衛門、大野磯吉らの役割も署宛とともに残す。年次は天保二年の朱注、月日はない。
天明四年八月二十二日~九月十一日(各枝の日付) / 冊子 748~751頁/原整理番号 2114/整理ID 2114
品川領大井村の島津家抱屋敷で行う本家・物置の増築と、その許可申請・受領・後日の説明をまとめた一件。第一枝は八月二十二日の作事願い、第二枝は九月二日の建物・敷地を具体化した口上書、第三枝は名主からの受領返答、第四枝は九月七日から十一日にかけての許可・見分・近隣調整をめぐる経緯書である。
天明五年三月六日 / 冊子 798~800頁/原整理番号 2195の10/整理ID 2195-10
将軍転任祝儀の招請人名を72件列記する。三月六日・御次第不同とし、大書院・表書院御取持・勝手之間・小書院・居間書院・居間・勝手の区分と各人の断注を記す。同名の再出を含む。掲載数は出席人数を表さない。
宝暦十二年十二月四日(婚姻当日。月日は関連文書による) / 冊子 943~946頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2747
保姫の婚礼当日、新奥の蘭之間・寝所・化粧之間などに掛物・立花・立松・棚飾りを設け、三之間で下輿した保姫を女中・年寄が化粧之間へ案内し、御待上臈が迎えて着座させる次第を定める。結熨斗と御愛敬の御守の受渡し、太守・新造・御待上臈の式三献を記し、盃は三献それぞれ三度、計九度上げ、熨斗・鶴の吸物・亀之甲五種・鴨羽盛などの献立と器を列挙する。新造から太守、太守から新造への盃を御待上臈が取り次ぎ、色直しの衣類を受け渡した後、太守を客居、新造を主居とし、三汁九菜の料理を出す。上臈・年寄・局・若年寄、刑部卿方の大崎、土岐五郎左衛門、新海半左衛門、随行女中や表の使者にも、それぞれ三献、雑煮、吸物、二汁五菜・二汁六菜・二汁三菜などを供する手順を示す。
明和七年二月二十四日 / 冊子 244~245頁/原整理番号 655/整理ID 655
於綾を御前様に立てたいとの浄岸院様の意向を太守様が承知した旨を先月十九日に江戸へ知らせたため、御守殿が京都への使者澁谷半左衛門を去る十三日に差し立て、甘露寺家へ申し上げる内容を別紙のとおり言い含め、さらに浄岸院様からの文をもって伝えることを記す。届出には及ばないとの指図があるので、甘露寺家が決着すれば直ちに江戸へ飛脚で知らせ、京都までの往復日数を考えて双方の縁組願書を同日に差し出す日程を整えるよう求める。於綾の国元出立は縁組許可の承知がなくても可能であるとの浄岸院様の意向があり、願書案文を見ても異存がなく、甘露寺家の返答後には御用番へ提出し、日限は京都と同日に出すのがよいとする。甘露寺家の返答と願書提出の日限を京都へ伝える件などを内用書付で申し上げ、去る十三日の極急飛脚で報告したところ、日取りを決め、甘露寺家の返答が来れば双方の願書提出を進めるよう命じられた。太守様は於綾出立につき御守殿の意向を承知しており、縁組の命令をまだ承知していないことを理由に出立できないということはないとする。願書を差し出す日取りが決まれば極急飛脚で同日江戸へ返答するよう求め、内用書付写、半左衛門へ渡した書付、京都留守居への書付、願書案文など都合七通を添えると記す。願書提出と日取りが決まった旨が来れば、滞りなく出立できるよう委細申し上げ、手当を整えるよう結ぶ。二月二十四日付、年は明和七年の朱注、樺山左京・島津左中の署注、喜入主馬殿・小松帯刀殿・川田伊織殿宛を備える。控の正文は家老座にあるという。
安永七年十月十日・十一日、淨岸院七回忌日は当年十二月五日 / 冊子 556頁/原整理番号 1566/整理ID 1566
同年十月十日、大家と儲后が奏者井上河内守岑有を芝邸へ遣わし、淨岸院の香奠銀を賜ったと記す。小注では大家が銀三十枚、儲后が銀二十枚を与えたとし、この年の十二月五日が淨岸院の七回忌日なのでこの賜物があったと説明する。翌十一日には、儲后の生母津田氏、当時御部屋と称された者が、用人羽根半左衛門を使いとして香奠銀五枚を贈った。重豪は人にこれを持たせ、鹿児島の福昌寺へ納めさせた。十日・十一日の使者と贈り主、三十枚・二十枚・五枚、十二月五日の忌日、福昌寺への送納を分ける。銀の枚数を両に換えず、名代の御礼書二通という別の記載から拝領額を倍加しない。福昌寺へ納めた特定日は本文にない。
天明三年九月九日 / 冊子 704頁/原整理番号 1983/整理ID 1983
松平薩摩守の帰国に際し、宿駅の人馬や川で支障がないよう、道中筋の御料・私領の宿々から薩州まで申し送ることを命じる触書。薩摩守は既に出立しているため昼夜を限らず急送して途中で追い越すよう取り計らい、各宿の請書を求める。天明三年卯九月九日付、半左衛門役所印、品川宿の問屋・年寄の記載を伴う。
年月日未詳 / 冊子 702頁/原整理番号 731
正月十五日九つ時に出水へ着き、翌日は米之津町人半左衛門の宿へ移ったと記す。叔父杢田清兵衛・伊地知金右衛門や肝煎酒匂吉右衛門の来着、喜入吉兵衛からの宿手当書状、弓・鉄砲・具足の名簿送付を記録する。飯米も十七日に届き、諸勢は十七・十八日までに出水へ集まり喜入の到着次第出船する予定で、日々城攻めの鉄砲音が激しく聞こえたと伝える。
宝暦十二年十二月 / 冊子 965~972頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2763
高橋種寿・島津久郷が十二月、二十一日に重豪と御前が一橋へ赴く三ツ目祝・里披の手配を申し渡す。玄関・書院・大奥での役人配置、太刀・目録の受渡し、刑部卿・民部卿・隼之助・鎌三郎との三献、保姫との対面、太守への三汁十菜、長袴・半上下等の服装と道筋・供廻りを定める。太守から刑部卿へ太刀一腰・馬代金一枚・縮緬十巻、民部卿へ太刀一腰・馬代金一枚・縮緬五巻、隼之助・鎌三郎へ各太刀一腰・馬代金一枚を進める。太守・御前別に家老・番頭・用人・女中らへの贈物を配し、御前から刑部卿へ縮緬三巻・鯛一箱、民部卿へ縮緬三巻・鯛一折・樽代千疋、女中三十一人への銀二十枚(朱十五枚)等を記し、帰館時の出迎え・祝詞も指示する。
天明四年九月七日~十一日(文中の二日付) / 冊子 749~751頁/原整理番号 2114の4/整理ID 2114-4
大井抱屋敷の本家・物置の造作について、根元政右衛門が九月七日付で、願書・絵図の取次ぎ、代官所の見分、隣接する抱屋敷との調整などの経緯を申し出る。未許可の新規作事や見分をめぐる懸念を記し、作事方に意向を確かめて改めて願い出る必要を述べる。続く渋谷五郎右衛門の九月十一日付申出は、屋敷方・代官所・取次役の間で作事と見分の進め方を調整した事情を記す。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 780
蒲生有馬氏に正文が所在する覚書。谷口助右衛門らの氏名を三段組で列記し、随所に下人の名前や本人名の訂正・異記を添える。末尾の合計は人躰八十人、小者四十九人。文書独自の日付・宛先・作成者は記されず、名簿の対象集団や出陣先は、この覚書単独からは断定しない。旧切り抜きで774~782へ分散していた名簿を、本文の連続する三つの全高切片に復元した。
(寛永二十一年)八月四日 / 冊子 23~24頁/原整理番号 23
加久藤地頭狩夫二百人分の前年冬の代銭として銭拾貫文を受け取ったことを、満尾堅介ら三名が竹内権左衛門へ示す八月四日付受取写。
万治三年正月三日 / 冊子 28頁/原整理番号 6-42
万治三年正月三日夜の火事に際し、徳永半左衛門、御記録方細工人の慶覚坊、市後崎長右衛門、宮越新兵衛らが御記録所を見回った。平田清右衛門は、後日のために彼らの労をねぎらうべきか伺う。
寛永廿一年八月四日 / 冊子 181頁/原整理番号 92
寛永二十一年八月四日付、加久藤の行司竹内権左衛門尉宛ての受取写。加久藤地頭の前年冬の狩夫代銭について、二百人分に当たる納入分を山奉行が引き付けたことを記す。川村半左衛門尉・大山九郎兵衛・満尾堅介の名がある。