島津重豪願書
明和四年四月十九日 / 冊子 158頁/原整理番号 369/整理ID 369
重豪が、御暇を与えられて国許へ帰るに際し、まだ男子がいないため、在国中に不慮のことがあった場合には国許に置く大叔父島津杢に相続を命じ、跡職を相違なく与えるよう願う。島津杢は当年三十六歳と記す。四月十九日付、年は明和四年の朱注。宛記は松平右近将監・松平右京太夫・松平周防守・阿部伊豫守の四名。扣正文は右筆所にあるとする。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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明和四年四月十九日 / 冊子 158頁/原整理番号 369/整理ID 369
重豪が、御暇を与えられて国許へ帰るに際し、まだ男子がいないため、在国中に不慮のことがあった場合には国許に置く大叔父島津杢に相続を命じ、跡職を相違なく与えるよう願う。島津杢は当年三十六歳と記す。四月十九日付、年は明和四年の朱注。宛記は松平右近将監・松平右京太夫・松平周防守・阿部伊豫守の四名。扣正文は右筆所にあるとする。
宝暦十年五月二十五日 / 冊子 767頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2352
重豪が五月二十五日、代替に際して誓詞を差し出したいと願い出る。当年十六歳になったことを述べ、提出について伺う。
目録年月日記載なし / 冊子 430~431頁/原整理番号 46-1
長寿を祈る文言と年齢・正月二十一日の還化を記し、末尾に「于時文明十二年三月、沙弥聖栄歳八十六」と署す短い結語を収める。
元亀三年~天正元年七月廿四日 / 冊子 311頁
肝付・禰寝・伊地知三氏の離反と廻城奪取、元亀三年の早崎築陣・小浜攻略を前史として、天正元年七月二十四日の早崎夜襲を記す。守将家久は川南式部左衛門と戦い、田之上清左衛門に救援されつつ全身八か所を負傷した。喜入久績も負傷しながら敵を退け、平田光宗らも力戦して、二十六歳の家久は危機を免れた。
天正六年十月 / 冊子 554頁
伊地知重範が十六歳で初具足し、新納忠元が山野と球磨の境の深下で早牟田城之介を計略により討った戦いに参加した自記。重範は城之介の郎等に後ろから腰を斬られたが、新納忠実・伊地知重康らが伏兵から起こって主従七人を討ち、重範は褒美として飾りと兼光の刀を拝領した。
年月日未詳 / 冊子 701頁
矢崎の陣で拙斎が敵から島津家久の標識を奪い、丸田休右衛門に急いで城へ登るよう促されて横入りし、城を落としたという武功譚。丸田休右衛門は当時十六歳で、敵三十六人を討ち取ったと伝える。
天正十二年 / 冊子 968頁
島津忠隣が天正十二年、十六歳で猶子となり、出水から祁答院へ移ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 583頁
北郷久永は十六歳で島津義弘(惟新)の陣にあり、関ヶ原敗戦後に義弘を追ったが及ばず、郎従が離散するなか四位主水だけが従ったと記す。敵中を三日進み、足の腫痛で歩けなくなると主水が背負って加藤嘉明の陣へ赴いた。久永は進退窮まり首を刎ねるよう求めたが嘉明に救われ、その後三年間囚われたのち暇を得て帰国した。
元和八年八月九日 / 冊子 769頁
有川助兵衛尉が御座主へ、十六歳の男子に関する祈念を依頼し、御馬方大明神へ馬一疋と指刀一つを奉進するとした願文。
(寛永五年)六月十二日 / 冊子 63頁
島津家久が、又五郎の落馬を重ねて心配し、占いによれば現在の住居や二十六歳の年回りが良くないとして、祈念を十分にするよう勧める。詳しくは帰着後に話すと伝える仮名書きの書状。
年月日未詳 / 冊子 689頁
讃良善助貞資の自譜により、寛永十四年の島原一揆に際し、六十六歳の貞資が御使者竹内備前守に同行し、多数の足軽を添えて派遣されたことを記す。老練な人物として事情聴取のため遣わされたとみられる。
年月日未詳 / 冊子 112頁
殉国名藪抄の記事。島津図書久通の家臣土屋市之助が、久通の嫡男左兵衛尉久武が十六歳で早世した跡を追い、寛永十七年五月四日に殉死したことを記す。
元禄十三年秋(八月二十五日) / 冊子 229–230頁/整理ID 789
近衛関白基熙・右大臣家熙が、島津忠久以来の近衛家と島津家の旧好を理由に、島津綱貴の娘亀姫を大納言近衛家久の妻に望み、綱貴が承諾して八月二十五日に近衛家諸大夫へ書面で返答した記事。亀姫は元禄三年生まれで当時十一歳、のち家久の御簾中となり宝永二年に十六歳で早世したとの考証を付す。
年月日未詳 / 冊子 561頁/整理ID 1925
宝永二年三月十日、島津忠守が家老職を辞したことを記す記事。忠守は宝永四年十二月二十日に六十六歳で死去したと付記する。
宝永二年八月晦日(初参)・十月五日(死去)・七日夜(遺体移送)・十日酉刻(葬礼) / 冊子 593頁/整理ID 2012
綱貴公御子亀姫君伝中に、八月晦日、亀姫が前関白基熙の堀川御所へ初参し、平調五常楽・合歓塩・長慶子の音楽を聴いたことを記す。基熙の和琴、石井少納言の笛、櫛笥中将の琵琶、四辻の笙、監役らを列記する。同年秋に病み療養・投薬の効なく十月五日京都の邸で十六歳で死去。七日夜半に遺体を大徳寺へ移し、十日酉刻に葬礼、法諡は英光院殿覚樹圓明大姉、大徳寺輪番湘南和尚が引導した。後に位牌を薩州福昌寺内深固院へ置いたとする。
元文五年閏七月二十八日 / 冊子 608~609頁/整理ID 1530
大學頭父子から吉貴・継豊・宗信の生年と吉貴の隠居年月日の照会があり、江戸家老方が報告を受けて回答を指示した記録。回答は吉貴六十六歳、継豊四十歳、宗信十三歳とし、吉貴の隠居日を享保六年六月九日と記す。
天明八年正月十九日・二十一日 / 冊子 1007・1008頁/原整理番号 2716/整理ID 2716
正月二十一日、斉宣が前髪を除いた。これに先立つ十九日に官へ請願して許可を得ていたと記し、斉宣の年齢は実十六歳であったと続ける。
安政5年7月斉彬病歿・12月28日茂久家統継承;過去の改革を回顧 / 冊子 187~188頁/原整理番号 262/整理ID 262
御履歴から、安政五年七月の斉彬病歿と十二月二十八日の茂久家統継承を記し、斉彬の遺志と久光・忠義の履歴を総括する記事。米使節来航後の措置で公武の指旨に相違が多いことを憂え、皇国守護に心を尽くした斉彬の事業が未成に終わり、久光・忠義がそれを継承したと評する。斉彬が官礼・旧弊を改め、国論を採り、武門と国事守護を重視し、執事・軍務の官を設けたこと、十六歳から四十二歳までの城下兵士の砲銃訓練、薬・度量・製法の規定、海軍局と器械製造場の設置を列挙する。久光・忠義の教場巡察・試験、城外兵士の配置、在郷教育、民の農武両面と備え、忠義の財貨による軍備拡充も記す。始祖以来の治領を回顧し、潘士の恩と家臣の忠順・上下和協、武教の成就を論じ、久光・忠義の勤王の志業を斉彬の遺志に根拠付けるとの叙述で後文へつなぐ。事績の評価や因果関係はこの履歴記事の記述として整理する。
年月日未詳 / 冊子 313~314頁/原整理番号 340
有馬四郎の首を確定できなかったため、捕らえた八十歳余りの母に首を揃えて見せたが確かに見知れず、不審とされた二首を樟脳詰めにして上方へ差し上げたとする。四郎は生年十六歳で髭があったといい、江戸で四郎の首と判断された由を記す。三月に引陣し、田代衆中は全員帰国したと結び、本文末に寛永十五年三月とあるが、目録年月日欄は空欄のためB列へ補入しない。
年月日未詳 / 冊子 159頁/原整理番号 42
大友氏四代因幡守親時の二男泰親を祖とする入田氏系図。泰親は入田次郎を号し、因幡守・兵庫頭、のち秀直、初名松屋とし、豊後南郡を領して入田城に居住したという。氏綱・氏朝・親忠・氏廣・親廣・親廉へ続く系線と治部少輔・因幡守・豊後守・大膳大夫・修理亮・丹後守・出羽守などの官途を掲げ、氏綱を正和年間生、氏朝の母を草野筑後女とする。親直は入田城に居住し、十六歳の時に父とともに戸次玄興と戦って軍功を挙げ、古野尻で戦死した。後半は輝氏・義・義氏・義昌・義豊らを掲げ、入道半林・宗和等の名、義氏の高崎居住と庄内山田戦死、義昌の一時肥後居住と帰国、義豊の高岡から鹿児島への移住と元禄六年没を記す。
年月日未詳 / 冊子 270~271頁/原整理番号 53
高山士山下善之丞所蔵の正文から、天神七代以下を略し、永和の改元と年次を抄録する年代記。永和四年戊午九月十日、了俊・大内・大友・少弐の数千騎が肥後へ寄せ、十六歳の菊池武朝が託間原の合戦で敵を打ち散らしたと記す。翌己未年の彗星出現と三月二十二日の改元も掲げる。
年月日未詳 / 冊子 410頁/原整理番号 146
重範が十六歳で初めて具足を着け、求摩境の戦いに加わった経験を記す。忠元が敵を山野のふか下タへ誘い出し、忠堯・重康らの伏兵が攻めた。重範は郎等を斬った際に腰を負傷したという。早牟田城介ら主従七人を討ち、中間を捕らえた働きに対し、出水の義虎が兼光の刀を贈った。
年月日未詳 / 冊子 419頁/原整理番号 163
矢崎の戦いで忠元が働いた際、丸田休右衛門が相良方の城へ入ったことを記す。忠元の到着が遅いと人を通じて急がせたところ、ほどなく登城して敵を討ったという。丸田が天正九年八月吉日に述べた記録で、当時十六歳、三十六人を討ち取ったとする。
年月日未詳 / 冊子 433頁
伊作島津大安丸が伊集院諏訪祭祀の頭人を務め、祭礼後の長禄二年十二月四日に十六歳で死去し、法号を良山道賢としたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 698頁
大島忠明の子忠次が十六歳で戦死したことや、菱刈方との戦いで敵を討ち、忠次の首を取り返した家臣の働きを記す。
永禄七年五月晦日 / 冊子 133~134頁
永禄七年五月晦日、伊東勢が夜明けから申刻まで今城を攻め落とし、大河平隆次の一族・郎党九十余人が戦死した経過を記す。十六歳の隆次も一族全滅を嘆いて大軍へ突入し、伊東方にも五百余人の死者が出たが、城内の妻子・下人は捕虜となった。
年月日未詳 / 冊子 327頁
十六歳の町田久幸が、太平寺で豊臣秀吉へ降参する島津義久に供奉し、義久の太刀を捧持した。義久の帰城後も人質として秀吉のもとに残され、拝謁して羽織を賜う。のちに義久が上京した際にも供奉したことを記し、若年家臣が服属儀礼と人質役を担った具体例を示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 245~246頁
新納忠元勲功記。忠元が十六歳から島津氏に仕え、多くの合戦で先陣・一騎討ち・首級獲得などの武功を重ね、身体に十九か所の傷を負ったこと、子孫も軍功を立てたことを列挙する。
年月日未詳 / 冊子 718頁
「光久公御譜中」の系譜に、光久・忠朗・久直と並ぶ女子について、元和五年十月二十日に誕生し、母は家臣鎌田政重の娘、寛永十一年八月十八日に十六歳で早世したと記す。島津光久本人の出生記事ではない。
年月日未詳 / 冊子 733頁
島津光久譜中、元和六年六月十八日に生まれた光久と同母の家久女が、家臣島津大和久章の室となり、正保二年五月十日に二十六歳で早世し、桃岳英仙と号したことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 556頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1299
北郷忠長の譜は、寛文九年五月の光久の江戸行きに忠長と家老北郷次左衛門久伴が従ったと記す。参勤月には光久譜は九年三月とあり誤りかという傍注がある。続く翌年五月二十八日の将軍家綱への拝謁・献上は主語が省略されており、太刀一腰・馬代銀一枚・帷子一・熨斗目一・綿子一を献じたとする。同十年十一月十二日に江戸で二十六歳で没したと結ぶ。
延享二年九月二十七日(付属記事に二月三日) / 冊子 827~828頁/整理ID 2194
継豊は病気で将軍代替わりの礼式を自ら行い難く、代わりの私儀を早く行いたいと伺った。併せて誓詞の提出、宗信による儀式の代行、翌年参府時の誓詞と拝礼を相談する。付属の記録は、病気による不参・代理出仕・使者の扱い、十六歳以下の誓詞免除、先例を列挙し、どの手順が許されるかを検討している。
寛政元年六月十九日~天保五年五月二十六日等(系譜記事) / 冊子 1039頁/原整理番号 2808/整理ID 2808
重豪の子久昵について、初名久亮・一純・久亮、通称時之丞・諸之丞・蔵人、官称肥前守・左近を掲げ、寛政元年六月十九日に江府で生まれ、越前丸岡城主有馬誉純の養子となって有馬肥前守一純を称したと記す。文政二年二月六日、高輪邸で病気となり帰れず、老中への照会後いったん丸岡邸へ戻ったが、斉興と誉純が病気を理由に有馬家を辞する願書を出し、十七日に許されて高輪邸へ帰ったという。天保五年五月二十六日に四十六歳で没し、二十日を忌日とする注記があり、法号を本光院殿瑞巌永祥大居士、墓所を福昌寺とする。子善次郎は文政六年正月十一日生、母小笠原氏女、斉興の養子となり同年二月十一日に夭折し、宝珠院殿浮光幻影大禅童子と号した。
当月初比(閉門の伝聞、年月日不記) / 冊子 268頁/原整理番号 372の2/整理ID 372-2
中院前侍従通繁七十四歳、押小路遠江権介三十六歳、中山大納言忠能五十歳、岩倉三位貞慶五十六歳、千種左少将有文四十五歳を、官位と御家領・高、居所の表示とともに掲げる一覧。末尾に、この方々が当月初め頃に閉門を命じられたと聞いたとする文を付す。中院の御家領五百石、押小路の高百三十石、中山の二百石、岩倉・千種各百五十石の原単位を維持する。押小路の名はサネキヨとの注を取り、漢字細字は留保。閉門年月や具体的罪状・期間は補わず、聞いた処分内容として扱う。
十二月廿四日 / 冊子 123頁
新納忠元が丸田久右衛門尉に宛てた書状。馬越之前目を加増として拝領したことを伝え、明後日二十六日を吉日として、加増地に関する段取り、槍兵への指示、大隅殿への案内と番衆一人の派遣などを命じている。前段には丸田久右衛門尉について、天正五年以来の合戦歴、十六歳以来三十八人を討ち取ったこと、加藤式部左衛門尉を案内者として雇う案などを記した覚が付されている。
年月日未詳 / 冊子 268~269頁/原整理番号 219
『藤掛島原軍記』の記事。大矢野ら五人が小西行長旧臣の古老を訪ね、宗頭となる者の予言を聞いた話を記す。楠正成や未来記の謀計になぞらえ、天草四郎が十六歳で諸学・宗門の奥義を究め、各党に随身を誓わせたと評する。
年月日未詳 / 冊子 394~395頁/原整理番号 359
二十二日、天草四郎ら一万余の一揆勢が富岡城を再攻撃した経過を記す。十九日の退却後に攻撃を予告した一揆勢は志岐村で竹束などを準備して押し寄せ、城兵は鉄砲・大木・大石で防戦する。攻撃が水口へ回ると原田伊豫や島田・並河らの指揮下で諸士が出撃し、岡原・上月の戦死、古川の負傷と十六歳の九郎市による救出などを列挙する。多勢に圧迫された守備側が本丸内へ引き入るところまで叙述する。
年月日未詳 / 冊子 395~396頁/原整理番号 360
霜月二十二日の城攻めを記す。並河太左衛門・嶋田十郎左衛門らが守る伊勢丸に一揆勢が竹束を寄せると、六匁筒の鉄砲で撃退する。一揆勢が裏へ回って水の手を断つなか、岡原彦兵衛・上月八助の戦死、呼子平右衛門や古川傳右衛門らの出撃を叙述する。十六歳の古川九市郎が負傷した傳右衛門を担いで戻り、後に水谷伊勢守から五百石で召し抱えられ古川浅右衛門と名乗ったことを記す。守備側の奮戦で一揆勢は有馬方面へ移ったと結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 78~79頁/原整理番号 17-6
鹿児府衆中高究之帳から松崎杢右衛門入道の高七十五石を掲げ、同人と後継の貞綱の家歴を続記する。慶長十八年の江戸質開始に、杢右衛門入道は島津義弘の姫の上洛代官として役人十人を伴い、六月二十四日に鹿児島を出発し、十一月十六日に江戸桜田屋敷へ入った。四年間勤め、本文に『元和元年丙辰(ママ)』とある四月に暇を得て、御盃と小袖を拝領して六月七日に帰着した。元和五年から蔵入代官を務め、同六年の質様下向時にも谷山で代官となり、島津下野守久元への祝儀まで処理した。寛永十二年十一月二十五日に八十四歳で没し、幼少時に父貞充と伯父貞清を戦死で失いながら家を中興したとし、法名を覚翁宗泉と記す。貞綱は天正十六年正月二日生まれ、指宿左近女を妻とし、元和三年・七年の島津家久上洛と日光参詣に供奉し、能書として知られ、寛永十年七月十一日に四十六歳で没して法名を松屋常青とした。
元和元年 / 冊子 206頁/原整理番号 70
祢寝山城坊の女子から亀山又兵衛妻へ至る関係と、岡村伊織家の由緒を記す系図・由緒書。女子は近衛信輔公の側に召し置かれ、上京に供奉したのち、岡村伊織との縁組を命じられたとする。伊織は元和元年に豊臣秀頼方へ味方し、落城後は牢人として籠居したが、のち松平下総守に召し仕えた。伊織の子は十六歳の時、国許にいた母を見舞うため岡村新左衛門を伴って下り、亀山又兵衛宅に滞在した。その後上方へ戻ったところ父伊織が死去したため、母を介抱する目的で再び国へ下って居住し、札改めの際には亀山家の預りとして親類札に登録されたという。系線には岡村新左衛門―岡村市兵衛も掲げる。
永禄12年、天正6年11月11日、寛文5年 / 冊子 325頁/原整理番号 123
市来家氏流の家守以下を一頁に示す系図。新納忠元の妹を母とする家満は天正六年十一月十一日に新納院高城で戦死し、その子家繁は永禄十二年生まれで、頴娃・庄内・高城・伊作・蒲生などの地頭を歴任して多くの忠功を立て、宗友は蒲生地頭、家良は兵具奉行、家実は光久へ太刀・青銅を進上して御納戸奉行・穆佐地頭・御側御目付・鹿屋地頭を務めたとする。後代では、家張が高奉行、家的が三十六歳で大坂に死去し、家年が嫡宗家親の養子となったこと、家貞が兄二人の死後に家督を継いで江戸で死去したこと、家重が寛文五年に生まれ、兄二人の死により家督を継いだことなど、戦死・役職・養子・相続を記す。
弘化4年10月朔日 / 冊子 31~32頁/原整理番号 19
季安は御徒目付に任じられたことを届ける覚に、役料米二十四俵一斗、持高五十六石、原坂元村内の借地、年齢六十六歳を列記し、明細書を提出すると記す。