帖佐方軍役究目録
慶長三年三月廿二日 / 冊子 201頁
帖佐方の軍役高を区分別に集計した目録。定軍役分三万七千百四十三石七斗九升三合四夕六才、奥方二千百八十三石四斗二升七合六夕二才、医者分百二十三石七斗のほか、諸職・道具衆・中間・行司・浮所の各分を掲げる。これら七口の計を七千六百二石余、別の三口を四万四千七百四十六石余、北郷持分を三万七千三百三十一石余とし、最終の三口合計を八万二千七十七石八斗四升八合四夕二才と記す。
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慶長三年三月廿二日 / 冊子 201頁
帖佐方の軍役高を区分別に集計した目録。定軍役分三万七千百四十三石七斗九升三合四夕六才、奥方二千百八十三石四斗二升七合六夕二才、医者分百二十三石七斗のほか、諸職・道具衆・中間・行司・浮所の各分を掲げる。これら七口の計を七千六百二石余、別の三口を四万四千七百四十六石余、北郷持分を三万七千三百三十一石余とし、最終の三口合計を八万二千七十七石八斗四升八合四夕二才と記す。
年月日未詳 / 冊子 340頁
国家相続の長久を祝い、国宗の金覆輪太刀一腰と鳴織物五端を贈る書状。また、相手国の医者について聞き及んだとして、自国には当時医術に通じた者がいないため下向させるよう求め、年寄衆からも申し入れると述べる。
十月朔日 / 冊子 69頁
島津久慶が新納仲左衛門尉に、家譜へ記載するため過去の贈答・拝領記録を捜すよう頼んだ書状。関ヶ原後の伏見で黄門様が拝謁した際の進上・拝領物、惟新様病中の上使と拝領物、医者三官関係の書物などを詳しく調査して書き付けるよう求める。
安永三年歳在甲午夏四月二十日、本文安永二年冬十月着工・明年二月落成 / 冊子 429頁/原整理番号 1184/整理ID 1184
本府の医学院を設けた理由を述べる記。世には医学は経書を本とするだけでは世の実際に合わず、古を根とするだけでは今に合わないと論じる者がいるが、それは庸医を見て立てた議論で、良医の術を論じたものではないとする。良医の処方・用薬には異説に見えても効験があり、その理由を尋ねれば経を考え古を考えるものである。経を本とし、世の実際に照らし、古を根とすることを一概に今に不適当とは言えず、用い方こそを見るべきだと説く。刻舟求剣・膠柱鼓瑟のように古説を固守し、経に質したつもりになるのは庸医の業であり、その例で全体を論じることを戒める。安永二年癸巳、本府に医学院を創建する公命があり、同年冬十月に工事を始め、明年二月に落成した。講堂・寝廬など若干の建物を備え、直衡に記文を命じたとする。三折肱を良医とする古語を引き、書を学ぶ者は紙を費やすが、医学を学ぶ者が誤れば人を害するという、医を学ぶ難しさを述べる。しかし学ばなければ良医にはなれず、人を費やすのは善く学べていないためだとする。講業に精しく、伝え聞きの術へ急がず、積み重ねて成就すれば、人を救うための術で人を害することは避けられると説く。医を学ぶ道もここにあるとし、学院の設立を記して来学者に考えさせ、古を師とせず独自に用いる世への戒めとする。院中には神農殿も設け、当世の医家が尸するものと記す。末尾は安永三年甲午夏四月二十日、本府副史兼知学事山本直衡謹撰并書。正文は医学院、出典は重豪公御譜中。古今・経と実際を調和する良医の学習、長期の修学と救人、学院・神農殿の意義を記す。
(寛文二年)九月二日 / 冊子 452頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0981
綱久が島津図書へ、伊勢兵部宛の書状を読み、来息又五郎(久竹の傍注)が伏見で患った際、医者と看病人を付けたことを承知したと伝える。礼として遠路使僧を遣わされ、樽肴も到来したことを喜び、詳しくは兵部が口頭で述べるとする。
二月五日 / 冊子 79頁/原整理番号 127
川上久国・三原重庸が伊勢貞昌へ、黄門様はこの十日ほどで最も気色が軽く、食事・脈も良いと医者衆が述べ、薩州様下向の知らせで心持ちも改善したと報告する。有馬表に変化はなく、同地から届いた書状を一覧のため添送する。
二月五日 / 冊子 79頁/原整理番号 128
三原重庸・川上久国が三原次郎左衛門尉・猿渡加左衛門尉へ、去る四日付の有馬書状が届き、松平信綱から島津久元へ薩州様の有馬行きは不要と伝えられたため写しを送ると知らせる。黄門様は食事・脈ともこの十日ほどで最も良いと医者衆が述べたとして、適宜披露を求める。
二月五日 / 冊子 77頁/原整理番号 124
川上久国・三原重庸が市来宗友へ、昨日の書状への返答として、有馬文箱の受領、薩州様の有馬渡海不要、日向への連絡、在陣・帰還衆の書立と後続衆の出発見合わせを伝える。兵糧配分、琉球米船五艘のうち三艘を山川から回す手配、船着・宿所、黄門様の病状改善、薩州様未着も報告し、文箱を有馬へ届けるよう追伸する。
文禄3年11月28日 / 冊子 828~829頁
島津義弘は新納武蔵入道に、弥太右が前年秋以来病を患い、在地の医者では十分な養生が難しいと報じる。まず帰朝させて治療に専念させ、快気したなら再び参陣させるよう求めた。 弥太右の母にも配慮するよう依頼し、来春は京都で御殿普請が予定されていることも伝える。戦傷ではなく病気の将兵を帰国療養させる判断が分かる書状。
(慶長四年)八月三日 / 冊子 418~419頁
島津義弘が少将島津忠恒に、船越五郎右衛門の紹介による生田小兵衛尉を推薦する。生田は疵医者で医道に長じ、本人も実直で種々の奉公ができる人物と聞くため、まず召し使って力量を見るよう勧める。知行を与えるまでは十二人扶持または十五人扶持を分別次第で支給し、肥後に置く妻子も薩摩へ呼び寄せられるよう配慮を求める。
正月9日 / 冊子 590頁/原整理番号 637
伊集院方面から来る人数と野州老らへ急ぎ使者を送り、通路各所での宿、米・大豆・野菜・薪の用意、医者の派遣、船の借用などを手配するよう山田民部少へ命じる。
寛永十六年正月廿九日 / 冊子 399頁/原整理番号 511-2
八日町の五人組名簿に続き、キリシタン宗を法度どおり厳重に取り締まること、往来の旅人は一夜泊まりでも組内で詳しく尋ねたうえで宿を貸し、不審者は届け出ることを定める。先年の札改め後に住み着いた旅人や他国の医者・山伏に紛れた宗徒を組内で見逃せば、五人組一同を厳罰に処すとする。
十月十五日 / 冊子 409~410頁/原整理番号 525
島津久慶ら五名は加久藤噯衆中らへ、キリシタン宗門の者が医者・山伏・出家、牢人、居付の旅人・商人などを装い、辺地の寺門前、人里離れた村や空家へ潜伏する可能性があるため、継続して念入りに糺明するよう命じる。潜伏者を匿った屋敷主は厳罰とし、他国で取締りが厳しいため姿を変えて当国へ入る者があるとして、国境の端々まで油断なく改めること、緩怠があれば担当者を処罰すると警告する。
文禄3年7月28日 / 冊子 800~801頁
義久が義弘から薩摩・大隅の検地についての書状を受け取り、泉・川内・菱刈・郡山方面まで刀狩と検地が及ぶとの風聞を伝える。国々が乱れる事態を憂慮しつつ、現地には正式な沙汰が届いていないのかと問い返す。 検地衆の振る舞いや医者・薬師の扱いにも触れ、三官奉行を通じて情報を得るよう求める。太閤検地をめぐる領国の混乱と情報不足を義久が義弘へ訴えた書状。
延宝三年六月十六日 / 冊子 650頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1629
永井伊賀守尚庸が松平大隅守へ、公方の機嫌を伝え、飛脚からの知らせを受け、参勤途中の病気のため医者を呼び寄せ療養している旨を老中から高聞に達したと述べる。そのため差し越された上意の趣旨の奉書を持参する旨を記す口上覚書。
10月24日 / 冊子 242頁/原整理番号 185
浮世人・百姓を所付けして身元を改め、他所へ移る者や出家・山伏・医者・他国人を届け出るよう命じる条々。十月二十四日、山田民部少輔・北郷久加・北佐渡守・川上因幡守らの連署で、大野将右衛門殿御宿所宛に結ぶ。
4月19日 / 冊子 243頁/原整理番号 188
出家・山伏・医者・他国人ならびに身元不分明者、他所から移住した者を改めて報告するよう命じる連署状。卯月十九日、三原重庸・鎌田政統・川上久国らの連署で結ぶ。
八月五日 / 冊子 489頁/原整理番号 623-1
向田表へ出す物頭・地頭衆・兵具奉行・軍役奉行・兵道役者・普請奉行・船奉行・御使番・兵粮渡手・石火矢射手・弓射手・大矢射手・金瘡医者・本道医者・筆者を掲げ、諸所の人数を水引96人、高城120人、隈之城140人、百次36人、清敷160人、中郷32人、大口320人(うち40人は当分京泊で地頭に同心)、高江25人、山田25人とする。記載合計は904人だが、列挙値の算術合計は954人で一致しないため原記載のまま留保する。