管理表題:重永譜中記事:○光久公賜花押之簡牘
記事成立日:未確認 補記(正文と別層):不傳年號 / 冊子 154頁/整理ID KW1-G000136
光久公が花押のある簡牘を賜ったと記す。書状は丁寧で、左方にその内容を載せるという。
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記事成立日:未確認 補記(正文と別層):不傳年號 / 冊子 154頁/整理ID KW1-G000136
光久公が花押のある簡牘を賜ったと記す。書状は丁寧で、左方にその内容を載せるという。
年月日未詳 / 冊子 634頁
「光久公御譜中」に、島津忠朗(初名忠平、忠明、又八郎、兵庫)が元和二年十一月七日に誕生し、母は家臣鎌田政重の娘、延宝四年二月十六日に没したことなどを記す。島津光久本人の出生記事ではない。
年月日未詳 / 冊子 718頁
「光久公御譜中」の系譜に、光久・忠朗・久直と並ぶ女子について、元和五年十月二十日に誕生し、母は家臣鎌田政重の娘、寛永十一年八月十八日に十六歳で早世したと記す。島津光久本人の出生記事ではない。
承応二年四月二十二日 / 冊子 234頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0479
大猷院三回忌に際し、諸国の在々所々で大科以外の軽罪人を放免するよう命じた連署奉書を光久公御譜中に収める。
年月日未詳 / 冊子 718頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1878
光久公御譜中の記事として、天和四年二月二十一日に改元して貞享元年となったことを記す。
明和六年丑十一月二十八日 / 冊子 230頁/原整理番号 610/整理ID 610
大龍寺の文書十通の写に関する証状で、白木御文書五番箱にある覚写として掲げる。列挙するのは、将軍義稙公の延徳三年二月二十二日付公文一通、将軍義澄公の文亀二年十一月二十日・同年十二月二十一日付公文二通、将軍義昭公の天正六年八月十六日・同年十月十七日付公文二通、家久公の寛永六年四月八日・同年四月二十二日付公文二通、光久公の慶安三年閏十月五日付公文二通、および貞享三年九月十日付公文一通である。これら大龍寺の文書が失われたため、写の作成を願い出たことについて、島津久金・亡菱刈實詮の相談を経て申し上げ、御記録所で臨写するよう命じられたので、後代まで格護すべき旨を伝える。明和六年丑十一月二十八日付、樺山左京久智の判、大龍寺宛を備える。付記は、包書に朱で四十八・大龍寺格護の文書とあること、同年十一月二十八日に左京から後年の見合せのため御記録所へ渡し置く旨で渡され、東郷次太夫が承知して納め置いたことを記す。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):同十八年辛巳九月三日 / 冊子 153~154頁/整理ID KW1-G000134
太守大隅守光久公が重永の廃府の宅へ来駕し、島津豊前久賀が御伴した際、光久が七絶を賦し、久賀・忠張・重位・正貞・重將らも佳作を作ったと記す。 重永も和歌を詠み譜端に掲げたと述べ、左方に作品を載せる。短冊に記された名について小字注がある。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):同十九年壬午 補記(正文と別層):同脇「寛永」/月日不傳 / 冊子 154頁/整理ID KW1-G000135
光久公の命により八番組頭役となったと記す。
延宝六年四月廿八日 / 冊子 452頁/原整理番号 562-4
編者は、権左衛門が寛永十五年に二十二歳で光久の江戸供を勤め、同十七年の年頭使、同十九年三月の上屋敷普請奉行などを務めた経歴を挙げる。正保二年の制度改定後も三十四石で百石・二百石・三百石以上の者に準じる御賦を受けたのは、先祖の光というより、高役に召し仕われた人材を重んじた当時の運用によるものではないかと考証する。目録は延宝六年四月二十八日付伊地知重利書状とするが、本文は日付・署名のない編者記事である。
正保二年三月十七日 / 冊子 452頁/原整理番号 563
『御役元基』から、正保二年二月に光久が久慶へ、国内のキリシタンを油断なく探索し、唐船・キリシタン対応は弾正ら老中と相談して入港時に十人衆を派遣し、手筈違いは久慶一人の越度になると命じた部分を引く。続けて、寛永十九年十二月に城下士を十二組へ分け、正保三年に六組へ改めたこと、家老組は別に置かれ城近辺の士を組み入れたことを記す。目録は正保二年三月十七日付島津久通外二名連署廻状とするが、本文は複数時点を扱う記事である。
正保二年五月廿四日 / 冊子 194頁/原整理番号 116-5
季安の行間考証。万治四年の谷山御狩を見物した琉球の中城主を尚貞とし、その渡航・光久への謁見の経緯を記す。また、随行の津崎久左衛門の経歴を調べ、整然とした大人数の狩りを兵法の実地例として賞したという古老の伝承を紹介する。庭園造成に関する伝聞も付す。
年月日未詳 / 冊子 312~313頁/原整理番号 14
島津運久が日新を養子に迎えたことから説き起こす一族の由緒。後に生まれた実子とその子孫の家督・奉公の経緯、所領を離れて諸国を転々とし、播磨国に移った家系を述べる。
年月日未詳 / 冊子 707頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1830
光久公御譜中に、延宝九年九月二十一日に年号を天和元年へ改めたと記す記事。編者は本文間で月日の異同があるとして疑義を付す。
目録年月日記載なし / 冊子 538~539頁/原整理番号 77
正保四年から寛文十二年まで、光久公の御上洛・御参府、出船、家老衆の往来を月日順に列記する。
寛永十六年六月廿四日 / 冊子 18頁
島津光久が聖護院門跡の許可に基づき、薩摩・大隅・日向諸県郡の年行事職を飯隈山仙光坊へ安堵した公帖。毎年の大峯修行を中断せず、島津家のための祈念を丹精に勤めるよう命じている。
慶安三年閏十月五日 / 冊子 183頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0350
島津光久が、大隅国正興寺の住持職について、先例どおり職務を執行するよう命じた補任状。
慶安三年閏十月五日 / 冊子 183頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0351
建長寺の住持職について、先例どおり執務するよう守栄西堂へ命じた島津光久の補任状。
明暦二年十二月十七日 / 冊子 315~316頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0682
島津光久が柴喜西堂へ、正興寺の住持職について先例どおり執務するよう命じた公帖。
(寛文十二年)十一月廿八日 / 冊子 602~603頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1477
島津光久が守芳西堂へ、正興寺の住持職を先例のとおり務めるよう命じた公帖。
年月日未詳 / 冊子 709頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1840
島津綱貴が天和二年正月六日に鹿児島を発ち、中山王尚貞が将軍綱吉の就任を祝うため派遣した名護按司ら琉球使節を伴って参府し、江戸城での拝謁・献上、帰路までを取り計らった記事。
貞享三年九月十日 / 冊子 782頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2041
島津光久が不門西堂へ、正興寺住持職を先例に従って執務するよう命じた帖。
(寛永十四年)二月廿九日 / 冊子 640頁
「光久公御譜中」の記事。前年冬に父・島津家久が病臥した際、光久は江戸にいて見舞えなかった。寛永十四年二月、家久は平田盛右衛門純正を介し、島津家伝来の愛染明王像・摩利支天像・鷹之巣の御刀・鳥利作の太刀・光忠作の腰刀を光久へ譲った。愛染明王像は弘法大師作で「谷渡愛染」と呼ばれ、源頼朝が所持したのち信濃深草山の光忍を経て家久へ伝来したと記す。本文は宛所・署名のない譜記事であり、索引の「文書・島津光久書状」と形式が相違する。
「寛永十六年」三月十二日 / 冊子 12~14頁
出典見出し「御文庫拾九番箱中」「光久公御譜中三在り」の連署書状。島津久元(下野守)と伊勢貞昌(伊勢兵部少輔)が国元重臣へ、相良某に与えられていた米之津の屋敷の処置について協議を求めた。相良の上洛時に設けられた屋敷について、返還または預置の可否、屋敷守・商人の往来・隠し置かれた物品、国元と江戸双方の用向きを検討し、相良へ問い合わせたうえで返答するよう求めている。
「寛永十六年」八月十二日 / 冊子 33頁
出典見出し「御文庫拾九番箱三拾九巻中」「光久公御譜中二在り」の細川忠利書状。細川忠利(越中守)が島津光久へ、八月十一日の江戸城本丸火災で天守だけが残り、将軍が西の丸へ移ったこと、下々の者まで無事であることを知らせた。進物等について申し入れたので、早々に使者を下して礼を述べるよう伝えている。
「寛永十六年」八月十二日 / 冊子 33~34頁
出典見出し「御文庫拾九番箱三拾四巻中」「光久公御譜中二在り」の島津久元書状。島津久元(下野守)が国元重臣へ、江戸城本丸火災の焼失範囲、将軍の西の丸移動、姫君らの避難と無事を報告した。松平伊豆守・松平薩摩守の留守居衆らと、火災見舞いの登城・御目見や進物を相談し、御成蔵の品や材木などの候補を検討して国元の意向を求めている。
「正保元年」十二月廿二日 / 冊子 369頁
松平信綱・阿部忠秋・阿部重次の連署書状。「御文庫拾二番箱中」に収められ、「光久公御譜中二在り」と注記される。翌日の四つ時ごろに登城するよう上意があったので、その旨を承知するよう島津光久へ伝える。
「正保元年」十二月廿七日 / 冊子 370頁
出典見出し「光久公御譜中」の徳川家光御内書。歳暮の佳慶として島津光久(薩摩侍従)から小袖五重が届いたことを喜び、詳細は酒井讃岐守(酒井忠勝)から伝えるとした返礼。
(万治三年)十二月廿一日 / 冊子 433頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0917
光久公御譜中の仰出写二条。十二月十六日、島津図書(久通注)・町田勘解由(久則注)・鎌田源左衛門(政有注)に鷹を赦免し、場をさい原・柴原・谷山と定める。同月十七日、鷹野御免の衆に札三を渡し、首尾よく取り計らうよう命じ、但書で鷹犬まで免ずる。末尾十二月二十一日付で伊勢兵部が島津図書へ二条を伝える。
年月日未詳 / 冊子 439頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0936
『光久公御譜中』が、万治四年四月二十五日に元号を寛文へ改めたと記す記事。
寛文五年閏五月廿三日 / 冊子 504~505頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1121
光久公御譜中に琉球関係の島名を列挙した書上。大嶋・鬼界嶋・土久嶋・永良部嶋・与論嶋などから、本琉球と注記された沖縄、久米嶋・宮古嶋・八重山嶋まで続き、読みの傍訓や伊平屋等の注記を付す。土久嶋には徳之島、本ママの注がある。末尾に寛文五年閏五月廿三日と記す。
元禄十二年三月二十七日 / 冊子 108頁/整理ID 384
久雄が元禄十二年三月二十七日に鹿屋地頭職へ補任されたことを記す記事。出典は市太夫久雄譜中で、傍注に此久雄光久公ノ二十男ナリとある。光久を名乗ったとする記事ではなく、久雄を書状宛先として扱わない。
(貞享四年) / 冊子 797~798頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2102
中将がちよつる・とよ松方へ、消息を披見し、自身の願いどおり隠居を命じられ、家督を薩摩へ仰せ付けられたことを喜ぶ。諸衆に示して念を入れたことに謝し、こちらの一門も心安くしていると伝える。追書では、隠居の上で首尾よく暇を得て今日当地を発ち、やがて無事に下った後に詳しく伝えると述べる。
慶安元年五月 / 冊子 121頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0216
国元にいた光久が、家綱の初めての御中剃を聞き、使者を急派して樽肴を進献し、将軍家・大納言家を祝賀したという光久公譜の記事。
慶安元年七月三日 / 冊子 128頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0227
慶安元年七月三日、上使大久保平四郎忠興を介し、恩賜の御鷹が捕らえた雲雀を光久が謹んで拝受し、高城に登って奉謝したという光久公譜の記事。
慶安元年九月二十六日 / 冊子 133頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0241
九月二十六日、光久が犬追物を張行し、自らも射たという光久公譜の記事。代始めの犬追物であり、当家では家督を相続すると張行する旧例であると説明する。
慶安元年〈補年〉十一月十三日 / 冊子 140頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0254
光久公御譜中に、同年十一月十三日、家光公から御鷹之鶴一を恵まれ、執政が書を添えて駅路で薩府へ贈ったと記す。光久は恭しく拝戴し、鎌田又七郎政由を江府へ急派して謝礼した。
慶安二年十一月十五日 / 冊子 163頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0304
光久公御譜中に、幕府の命による薩摩・大隅・日向・琉球の領国絵図を諸家で取りまとめ、慶安二年十一月十五日に奉行井上筑後守政清へ献上したと記す。さらに同年十二月六日、家光が下曽根三十郎信由を通じて御鷹所撃の鶴一双を恵んだとの付記がある。
慶安三年九月二十日 / 冊子 179頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0337
慶安三年九月二十日、家綱が西丸へ移ったことを記す光久公譜の記事。光久は家光に籠三十間と肴三種・樽三荷を進め、家綱に太刀一腰・馬代黄金十両を献じて祝賀した。
慶安五年九月二十八日 / 冊子 225頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0450
慶安五年九月二十八日に年号を慶安から承応元年へ改めたことを島津光久公御譜中に記す。
承応二年二月二十一日 / 冊子 230頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0467
光久公御譜中に、承応二年二月二十一日、御鷹之鶴一隻が給され、執政が奉書を添えて駅路で薩州へ送ったと記す。
年月日未詳 / 冊子 240頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0496
光久公御譜中に、同年十一月十八日、御鷹が撃った鶴一隻を拝領し、斎藤佐源太が上使を務めたと記す。
年月日未詳 / 冊子 250頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0530
光久公御譜中に、同年十二月十二日、奉書により御鷹之鶴一が給され、駅路で薩州へ送られたと記す。光久は家臣佐多又四郎久孝を使者にして謝し、肴一種を献上した。
年月日未詳 / 冊子 257頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0558
光久公御譜中の句解として、前条の氏瀬を龍神であろうと説明し、贖物による罪の償い、悪神をスサノヲノミコトの類とする解釈、社頭に書物などを納めて祈念する啓白、鎮札、毎月の祭を注解する。毎月の祭は各人の分限に従い油断なく行う意味とする。
年月日未詳 / 冊子 319頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0692
光久公御譜中に、明暦三年正月十九日の江戸新鷹匠町からの火災が強風で城本丸へ及び、光久の屋敷も池魚之災に罹ったと記す。同年二月一日に参勤のため鹿児島を出て日州を進んでいた光久へ、参勤は六月・七月頃まで延期し、既に出発していても城へ戻るよう奉書が届き、帰城した。
年月日未詳 / 冊子 341頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0734
光久公譜中の記事。明暦三年、江戸城修復に用いる材木の目録を高城経営が執政へ願い、同年七月朔日の奉書で認められたとする。そのため翌年に杉戸・大坂(板カの刊本注)・樟板・松挽物を進献したと記す。
年月日未詳 / 冊子 357~358頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0758
光久公譜中の記事。十月六日に居城を発し薩摩西岸から乗船して大坂を経由、十二月十日に江府へ到着し、新納久詮・鎌田政昭らが供した。上使松平信綱が迎え、翌十一日登城で太刀一腰・馬一匹(黄金四十両注)・時服十二を献上したと記す。例年の進上物として太刀一腰、馬代銀百両、猩々皮十間、羅紗十間を挙げるが、当年は江戸大火のため減免され家老が再拝したとする。
年月日未詳 / 冊子 374頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0814
光久公御譜中に、同年閏十二月十九日、御鷹が撃った鶴一を恩賜され、執政が奉書で伝えたと記す。使者を馳せて恩に謝し、肴一種を献上した。
(万治三年) / 冊子 431頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0908
光久公御譜中に、同年十一月七日、御鷹が捉えた鶴一を拝賜し、執政が奉書で贈ったと記す。光久は使者を走らせて謝礼し、肴一種を献上した。
年月日未詳 / 冊子 448頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0970
光久公御譜中の記事。同年(前条から寛文二年)の四月十八日、上使が来て告げ、光久は「御給」百・白銀千枚・御馬一匹を拝戴する。五月二十五日に江戸を発し、驛路と渡海を経て七月十九日に鹿府へ到着し、家老島津中務久茂・島津筑前久頼が随行する。この折も種子島三郎次郎久時を東武へ派遣して賜暇の恩を謝し、羅紗五間・御樽肴を進める。久時の謁見・賜暇と家綱公からの例の受賜にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 472~473頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1044
光久公御譜中に、同年十月十三日、御鷹之鶴一隻を賜り、執政の奉書で通知され薩州へ送られたと記す。光久が使者を馳せて謝し、鰹節一匣を献上した。