伊集院幸侃書状
年月日未詳 / 冊子 793~794頁
幸侃が検地の際には薩摩衆の過半を補助として付けるとの話を喜び、それが実現すれば万事残りなく進むと述べる。あわせて又八郎忠恒の祝儀も無事に済み、関係者が同席して上下ともめでたいと伝える。 検地実務への大規模な家臣動員と、忠恒の婚礼祝賀を同時に報告した書状。冒頭数文字は原資料でも判読しにくいため、その部分は断定を避けた。
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年月日未詳 / 冊子 793~794頁
幸侃が検地の際には薩摩衆の過半を補助として付けるとの話を喜び、それが実現すれば万事残りなく進むと述べる。あわせて又八郎忠恒の祝儀も無事に済み、関係者が同席して上下ともめでたいと伝える。 検地実務への大規模な家臣動員と、忠恒の婚礼祝賀を同時に報告した書状。冒頭数文字は原資料でも判読しにくいため、その部分は断定を避けた。
(文禄元年)8月29日 / 冊子 647~649頁
高麗在陣中の大島忠泰が、家族には自分を心配しないよう伝え、大蔵仲兵衛・九郎左衛門尉らに留守宅と家中のことを託した書状。 十八日以降の日付ごとに、宿泊地、進んだ里数、川口への船着きなど移動の経過を細かく報告し、書状や贈物の受け渡しにも触れる。 軍務の背後にある家族への気遣い、留守居の運営、朝鮮在陣者の通信と移動実態が一通から読み取れる私信。
年月日未詳 / 冊子 650~651頁
大島忠泰が内方へ、留守宅の火の用心を徹底し、仲兵衛の黒役や家中の作事について下代衆へ指示するよう頼む。 小吉・宮役殿・弥太右衛門らへの伝言、手紙や贈物の受け渡し、船を出す日取りについても細かく書き、三~五日中の好日を見て出船すると知らせる。 在外中の夫が妻へ家政・人間関係・輸送を託し、「心遣いあるまじく」と安心させる、生活感の濃い私信。
年月日未詳 / 冊子 661頁
平壌退却後、朝鮮の群盗が王城―釜山間の往還を塞いだため、奉行衆が咸鏡道の加藤清正を王城へ戻して鎮圧させる方針を決める。 敷根仲兵衛が使者を志願し、猿渡掃部兵衛と鉄砲の巧者百人を伴って甲山城へ赴き、清正に帰城命令を届けた経過を記す。 島津家臣が危険な連絡路を突破し、全軍の再編命令を伝えた具体的な軍使活動が分かる。
慶長十一年五月二日 / 冊子 72~73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、財部内の知行地割目録。蒲興禅寺内などの田地を田位・面積・石高ごとに示し、仲兵衛・五郎右衛門・権右衛門・助六・伝右衛門・源太・弥六左衛門らへ割り付ける。総高二十三石九斗余と、ほかに高山へ遣す七石余を記し、二口を合計する。
慶長十二年十一月八日 / 冊子 133頁
慶長十二年十一月八日、伊勢平左衛門貞成が肥前寺沢侯のもとへ使者として赴き、高畠仲兵衛と戦って唐津で死去したこと、および享年三十九歳と記す記事。
年月日未詳 / 冊子 133頁
島津惟新が寺沢広忠への使者に伊勢貞成を選び、主従五十二人で唐津へ派遣した経緯と、帰途に寺沢家臣高畠仲兵衛が貞成を茶に招いて襲撃し、戦闘に至った事件を記す系譜記事。
慶長十二年十一月十一日 / 冊子 133~134頁
慶長十二年十一月十一日、寺沢広忠が島津家久(羽柴陸奥守)へ、天草で起きた伊勢貞成と高畠仲兵衛の不慮の争いについて、自身に企図や指示は全くなかったと諸神に誓い、虚偽なら神罰を受けるとした起請文。
年月日未詳 / 冊子 528頁
家臣敷根仲兵衛は生来勇敢であったが、度重なる命令違反や不届きがあり、鹿児島で拘束されたのち、福山で斬首されたことを記す御譜抄。
未八月四日 / 冊子 511~512頁
普光院からの琉球関係文書一箱、徳川秀忠の御内書、系図調査時に島津弾正が借りた文書の所在を調査した報告。弾正死後に返上され、島津彦太夫から田中五右衛門へ受取が渡された経緯を阿多仲兵衛が記す。
寛永十九年正月廿八日 / 冊子 189~190頁
島津久元・山田有栄・頴娃久政が五代仲兵衛尉・三原五郎兵衛尉へ、高二百石を知行および御使役分として与え、両人で支配するよう命じた連署引付。寛永十九年正月二十八日付で、久元が印を据えている。
元禄十四年七月二十五日 / 冊子 246~247頁/原整理番号 22
猿渡信安が、宇都宮次郎左衛門が羽月へ移された由緒について鮫島仲兵衛の照会に答えた覚書。六代前の猿渡越中が加世田地頭から羽月地頭へ移った経緯と、天正十五年の肥後国合志城主一行に対する島津方の処置、猿渡越中・白坂式部らの役割を述べ、家伝の範囲で回答する。
明和六年十二月(家基の西丸移徙は九日、祝賀使者と送付日は不詳) / 冊子 232頁/原整理番号 617/整理ID 617
谿山郡谷山郷の仲兵衛が私財を出して道路を修め、さらに私蔵の米銭を出して村中の困窮者を賑救したので、この年の冬十二月、若干の品を与えて褒賞したことを記す。続く記事は、同月九日に大納言家基公が西丸へ移ったことに対し、重豪が西城へ使者を遣わし、三種二荷を献じて移徙を祝ったとする。付注は、その使者と月日が欠け、今は考えることができないと記す。移徙の日付と祝賀使者を遣わした日付を区別する。
(明暦三年)一月六日 / 冊子 317~318頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0688
鎌田政有が国元の役人へ、鶴御礼使の新納四郎左衛門と雁御礼使の本田仲兵衛が臘月二十八日に登城し、首尾よく正月六日に江戸を出立したことを報じ、御奉書を送る。薩州様が初めて御鷹之雁を拝領したことへの隅州様の祝儀、二種・一荷の調達と御礼の御服の相談、年頭の御礼・御名代、松河内守の参府と御孫誕生の祝儀等を伝える。正月六日付。封面には二月朔日に本田仲兵衛が持ち下ったと記す。
〔延宝六年〕十一月十九日 / 冊子 222~223頁/原整理番号 4
勝目助左衛門宗将が猿渡信安の先祖由緒について返答した書状。猿渡越中が日向根白坂で戦死したとの伝承、猿渡掃部兵衛の高麗での戦死と帖佐惣禅寺の石塔、石庵妙庵大姉との関係を述べる。さらに、朝鮮で掃部兵衛と同様の働きをした敷根仲兵衛家の証書を、跡目を願う義耕和尚へ渡した経緯を記す。
延宝八年二月二十二日 / 冊子 223~224頁/原整理番号 5
猿渡信安が、安宅三郎兵衛の先祖敷根仲兵衛と自らの曽祖父猿渡掃部兵衛との高麗での関係について証した書付。文禄二年春、石田治部少輔・大谷刑部少輔・増田右衛門佐・加藤主計頭らが在陣するなか、掃部兵衛が書状・感状を携えて使者を務めた経緯と、失われた証拠書類を写しによって確認したことを記す。
〔元禄十四年〕七月二十二日 / 冊子 245~246頁/原整理番号 21
猿渡信安が二男助左衛門の初御目見と太刀進上を願った口上覚。先に提出した家筋由緒書二通について、その後判明した内容と食い違うため返却を願う。あわせて家老衆から返された感状・書状の経緯と、猿渡越中信光から宇都宮次郎左衛門への羽月移封由緒を鮫島仲兵衛へ書き送ったことを付記する。
宝暦十二年二月十八日~三月二十七日 / 冊子 902~903頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2653
芝邸の焼失を受け、家治は二月十八日、宿次奉書で重豪の様子を尋ね、有馬正左衛門純春・伊集院甚助兼伯を宰領として江戸から遣わした。奉書は三月七日夜に芸州廿日市浦へ届き、重豪は翌朝税所次郎右衛門篤仁・三原經處を返使に遣わし、十四日の江戸到着後に井上利容へ証文を呈し、別の書状でも礼を述べた。二月十九日には参勤時期を孟秋へ延ばす奉書が出され、二階堂五郎太夫行照・山本郷太郎郷富が届けた奉書を三月九日に同浦で受け、伊地知彌兵衛季富・郷田仲兵衛兼品を返使に遣わして二十四日に江戸へ返答と礼を届けた。重豪は廿日市浦から直船で豊前大里へ戻り、九州を陸路で進み、三月二十七日に鹿児島へ帰着した。
文化元年子10月16日(朱注。享保・延享・宝暦の先例を遡記) / 冊子 280~281頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0063
大奥で召し仕えた女中が子を産んだ後に縁付を命じられた例、また子へ直接召し付けられた者があるか調べるよう命じられたことへの先例調書。浄国院(島津吉貴)の妾、郷田仲兵衛兼近女お幾・後霜林は子を産み、後に重富屋敷へ移った。重富留守居へ照会すると、当若狭殿の祖父周防殿(忠紀・注)が享保19寅9月に磯で生まれ、すぐ月桂院(吉貴側室)の養育となったが、延享2年乙丑3月21日に下屋敷から鼓川へ移り、同日母を勝浦山屋敷から召し移したと分かった。家元郷田安左衛門にも照会したが詳細不明で、形行いの次第は不知とする。吉貴の妾、近藤三左衛門嘉包女お政・後貞寿院は因幡殿の実母。吉貴逝去時まで御側に召し仕え、その後因幡方へ移り、今和泉留守居によれば延享元年甲子5月15日、因幡(初三次郎)の磯付高屋敷と道具を拝領、延享4年丁卯10月の遷去時も因幡の拝領なので磯屋敷で籠居した。宝暦2年申7月に居屋敷を拝領して家作し、翌3年酉には母子が喜入へ移った。有邦院(島津継豊)の妾、伊地知八四郎季鄰女おはんは本殿の実母で、知覧屋敷へ移った。享保17年子閏5月朔日に本丸大奥で出生し同日島津本久豪方へ引越し、直子の筋で養育された。延享2年丑12月朔日に北条織部から母を本殿方へ移す旨、100石の所務を一世下す旨を命じ、同日玄蕃から50石の所務を一世付けられたが、50石以外に本殿からの命はないとする。翌寅年2月26日、本殿15歳の時におはんが知覧へ移った。以上の先例は調べたが古い事なので細部は不明で、寛陽院(島津光久)の妾から子に召し付けられた人もあるものの、出産後の縁与等は見当たらないと報告する。文化元年子10月16日の朱注、記録奉行本田孫九郎・平山五郎右衛門、記録方添役橋口善兵衛、見習碇山八郎右衛門・本田休七・八田孝之進の六名を掲げる。居住・養育・道具・一世禄の先例と、縁付について確かな例を示せない調査結果を分ける。
万治2年8月18日(1659)の覚書・慶長6年(1601)~明和4年7月(1767)の系譜記事 / 冊子 437~445頁/原整理番号 13-7
冒頭に『高麗人諸事問条記一通、但十五ヶ条』と掲げ、平田清右衛門が淵辺量右衛門へ、ほかにも覚えている事柄を詳しく書き付けて提出するよう求めた万治二年八月十八日付覚書。御記録方で使用するための聞取であり、朝鮮軍記の提出控えは別紙にあると注記する。続いて元貞以下の淵辺家系譜を収め、元貞が寛文元年に七十九歳で没して柿本寺へ葬られ、元辰・元隆・元智・元錦・元能・元苗・元儀・元詮・元長・元彬・元甫・元休・元堅・元伴・元次・元敏らの出生、幼名・通称・法名、母方・婚姻、早世・没年・墓所を各代ごとに記す。元辰は六歳で家久に召し出されて仲兵衛の名を受け、元隆は太守光久の目見を得て加治木の花堂・藤原重俊女を妻とし、元錦は太守光久への御目見、武州品川稲荷大明神への祈願成就、家督勤役と知行百壱石余を記す。元詮は天和三年に太守綱貴の初参勤供を務め、元苗は元文四年の清女産神・太田大明神参詣、元儀は綱貴・吉貴への御目見と町田・川上両家への奉公、元堅は太守継豊の初参勤供、元甫は島津小平太の供、元休は太守綱貴・重年への奉公、元詮系では太守吉貴・継豊の家督礼や島津家諸役を伝える。末尾は明和四年七月朔日、太守重豪への初而奉拝記事まで続き、近世淵辺家の奉公・婚姻・家督・墓所を世代順にまとめる。
年月日未詳 / 冊子 586頁/原整理番号 626
肝付家譜。肝付三郎四郎兼屋が正月九日に百余人を率いて出陣し、高尾野・阿多藤代・串木野などの兵と家僕を集め、米之津から船団を出して島原へ向かった経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 670~677頁/原整理番号 683
島原へ向かう軍衆が飯米を受け取るために提出した人数差出を写し留めた帳簿。諸士・各地域衆ごとに主従、人躰、夫丸、小者等の人数と正月の出発・米津などへの到着日を記し、飯米渡しの根拠とする。末尾では不足者や指出のない者、張紙に記した有馬在陣の外城衆を含めて集計し、合人数三千百六十八人を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 779
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、十日または二十日分の飯米支給を注す。高山の名簿に載る以益について白坂氏譜を引いて帰還時期を考証し、兵糧不足による減員帰還と読む。末尾は十九日条への分載と十八日着津者の補記。
二月朔日 / 冊子 46頁/原整理番号 67-2
二月朔日に鹿児島へ参る衆28人の覚。四位与四郎以下、北原吉左衛門尉までを列挙する。文書67-1が出発を記す蒲生衆28人に対応する。
11月13日 / 冊子 2~3頁/原整理番号 1-1
島津綱貴代の記録奉行・大田小平次久知が平山勘兵衛へ送った十一月十三日付書状。本田氏元祖について浅羽三右衛門へ問い合わせた結果、所持する伝記はいずれも異説であるとしつつ、始祖を宣化天皇とし、武蔵七党の丹党に属して秩父郡内の本田・榛沢を拠点としたこと、家紋は「田」の字を十字形に配したものと伝える。親経以前は詳しいが以後は不明で、系図作成には至らないものの、元祖の由緒を知り疑いが解けた旨を述べる。
永禄12年、天正6年11月11日、寛文5年 / 冊子 325頁/原整理番号 123
市来家氏流の家守以下を一頁に示す系図。新納忠元の妹を母とする家満は天正六年十一月十一日に新納院高城で戦死し、その子家繁は永禄十二年生まれで、頴娃・庄内・高城・伊作・蒲生などの地頭を歴任して多くの忠功を立て、宗友は蒲生地頭、家良は兵具奉行、家実は光久へ太刀・青銅を進上して御納戸奉行・穆佐地頭・御側御目付・鹿屋地頭を務めたとする。後代では、家張が高奉行、家的が三十六歳で大坂に死去し、家年が嫡宗家親の養子となったこと、家貞が兄二人の死後に家督を継いで江戸で死去したこと、家重が寛文五年に生まれ、兄二人の死により家督を継いだことなど、戦死・役職・養子・相続を記す。
年月日未詳 / 冊子 78~79頁/原整理番号 336
内大臣平重盛から維盛・維清を経て、佐多氏の清重・清忠・清親・清治らへ続く系譜抄。大隅国祢寝郷との関係、佐多家の分流、御鹿倉・西方屋敷の由緒、光久からの褒賞、西方屋敷の氏神を山川から勧請したことなどを記す。日付欠。
明暦三年九月日 / 冊子 8~19頁/原整理番号 5-1
谷山・指宿・知覧・坊津・伊作・出水・帖佐・加治木など各地を見出しとし、家臣・寺社などの所持者ごとに史料名と巻・通・冊などの数量を列挙した帳簿。島津家や諸家の系図・由来記、義弘・家久らの書状、太閤の朱印状、軍記、朝鮮出兵関係の書付など、多様な史料の所在を記録し、明暦三年九月の日付で閉じる。
寛永十四年(寛永十五年正月六日) / 冊子 323頁/原整理番号 170
島原陣に加勢する軍勢の割り当てを列挙した抄。軍大将は山田民部少輔と渋谷四郎左衛門、乗馬は豊後守と渋谷石見守とし、川上・堀・児玉・柏原・大嶋・福屋・始良・田上・福崎・上持・田原・村尾・佐藤・長谷場・深栖などの軍衆を配している。
[慶安四年]十月六日 / 冊子 336頁/原整理番号 12
郷内の樹木の伐採に際し、持主だけで判断せず役人の申付けを受けるよう求める。用木や苗木を確保するための管理と取締りを記す。
元禄十一年春 / 冊子 61頁/整理ID 192
島津綱貴譜は、元禄十一年春に向井市之丞友貞を琉球国在番奉行とし、岩城仲兵衛重良・名越與右衛門時氏・内田十郎右衛門頼実・佐々木新右衛門綱貞・阿久根助左衛門良隆の五人を副役に付けたと記す。友貞らは元禄十三年夏、任を終えて薩州へ帰った。
三月二日 / 冊子 359頁/原整理番号 409
伊地知重政が大重伝左衛門尉久永へ、寛永十五年二月二十八日に有馬の原城本丸へ乗り入り、敵の首を討ち捕らえた働きを確かに見届けたとして、後証のため暮春二日に与えた証文。