新納久宣譜
年月日未詳 / 冊子 283頁
『新納久宣譜』の記事。新納久宣が島津義弘に従って朝鮮へ渡り、三年間軍務に従事したことや、太守父子の出動時に遅れず随行した十七人の一人であったことを記す。帰朝時の海戦で南海島に約五百人が孤立した際、敵船を恐れて救援船が退くなか、久宣だけが先に島へ到着し、後続船を導いて全員の帰帆を実現した功績を称える。
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年月日未詳 / 冊子 283頁
『新納久宣譜』の記事。新納久宣が島津義弘に従って朝鮮へ渡り、三年間軍務に従事したことや、太守父子の出動時に遅れず随行した十七人の一人であったことを記す。帰朝時の海戦で南海島に約五百人が孤立した際、敵船を恐れて救援船が退くなか、久宣だけが先に島へ到着し、後続船を導いて全員の帰帆を実現した功績を称える。
二月22日、御官名内内田仲之助 / 冊子 522頁/原整理番号 680の3/整理ID 680-3
御届書として銃隊五百人、手習廻十人、手廻十五人を掲げる。親征・大坂行幸供奉先陣を命じられ、人数付を差し上げるよう仰せ出されたことを承知したとして、二月二十二日に御官名内内田仲之助が届ける。「手習廻」はこの届書の原表記で、前行の追書では近習と記す。
辰二月23日内田から伊勢様、本文に昨22日の提出・今日代理勤務を記す / 冊子 522頁/原整理番号 680の2/整理ID 680-2
親征の太守供奉に関する御供列の届一通を私の名前で出すという表示を掲げ、昨二十二日に二条城太政官代へ出て松尾但馬に面会・演説の上差し出し、申上げる旨を聞いたと報じる。自分たちの差支えで留守居付役勤永山左内が勤めたとして、辰二月二十三日に内田仲之助が伊勢様へ知らせる。追記では、供列の内百人ほどを残して残りを先供として出輦二、三日前に大坂へ下すこと、五百人の内で太守御供百人ほどを残すという意味を承知したと述べる。近習十人・手廻り十五人までの扱いも軍務局から聞いたとして伝える。
(元亀三年)九月十一日 / 冊子 292頁
島津義弘が伊地知主水佑へ、上洛以来会えず朝夕懐かしく思うと述べ、再度の下向を望む。伊東勢が加久藤麓へ侵攻して退いた戦いでは、院内衆だけで五百人を討ち、今も山中で遺骸が見つかると戦果を報告する。左近権介も大いに働き無事であり、忠勤を重ねているので安心するよう伝える。
(天正20年)10月 / 冊子 610頁
島津義久(竜伯)が、朝鮮への軍勢・兵糧輸送を優先するため上洛を延期したと伝え、船がないことを理由に渡海を遅らせれば処罰対象になると厳しく警告する。 船を購入してでも、まず千五百人ほどを早急に渡海させ、番衆と兵糧も確実に送るよう命じる。島津領内における兵員・船舶・食糧調達を具体的な人数付きで督促した軍役書状である。
(慶長元年)九月十一日 / 冊子 43~44頁
島津義弘が忠恒へ、番船の出動に備えて薩隅諸県から約千五百人を直ちに鹿徳島へ渡し、城普請、兵糧、大鉄砲・石火矢・鉄砲・玉薬を整えるよう命じた書状。明勅使との対面後、朝鮮王子が来朝しなかったため再出兵が見込まれるとして、国元から人数を渡海させる準備も急がせている。
(寛永十四年)十一月十七日 / 冊子 693~694頁
「覚」として『家久公御譜中』に収められた島原・天草の戦況記事。島原城から一里ほどの米蔵へ侍十二人・鉄砲二百挺を遣わしたところ、千本村の一揆勢に襲われ、鉄砲頭の高橋弥次右衛門・入江与右衛門・高畠次郎太夫とほか四、五人が討死し、城へ退いたこと、城近辺の村々も焼かれたことを記す。唐津勢は十一月十日に天草本戸へ着き、先手四、五百人が島子村で約三千人の一揆勢に攻められて本戸へ退却、本戸の在家を焼かれ、三宅藤兵衛のいる富岡へ移ったという。これらは天草からの未確定情報であり、上使の下向・隣国加勢の続報はなく、御横目衆が高瀬へ来たとも記す。本文日付は寛永十四年十一月十七日。差出人・宛所のない覚書・譜記事で、索引の「文書・某書状」と形式が相違する。
〈宝暦四年〉正月 / 冊子 446頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1368
普請手伝方の人数案として小奉行三十人、歩行士百人、足軽二百人を掲げる。正月廿一日の一色周防守の指図注は小奉行人数を案どおりとし、広い普請場に対応するため歩行士三百人・足軽五百人ほどを出すのが適当とする。人数は当地方からの派遣と国元からの追派遣で賄い、不足すれば国許へ申し送る。また御用荷物と道中のため目印札を付けたいと願い、濃州・勢州・尾州川々御手伝御用の札図を示す。家中人員の道中駄賃・人馬を滞りなく出すよう宿々へ命じることも願う。提出案に対し、一色の指図は歩行士三百人・足軽五百人に増やしている。
〈宝暦四年〉七月六日(目録。対応主本文は七月八日) / 冊子 484頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1481
七月八日、在府の嶋津主鈴・主殿が義岡相馬・鎌田典膳へ、秋の水行普請に残す人員の調達と伝達を相談する。当春、一色周防守から小奉行三十人・歩行士三百人・足軽五百人を差し出すよう指示されたことを述べる。春普請が一方完成したため、秋の水行普請に必要な人数を残す件について国元から相談を受け、現場で吟味したところ、小奉行三十二人・歩行士百六十四人・足軽二百三十一人ほどと、別に浮人数を調達することになった。 別紙のとおり青木次郎九郎・吉田久左衛門へ申し出たところ、留め置く旨の挨拶を受けたと、惣負殿から報告された。さらに一色周防守へ岩下佐次右衛門を通じて取り次いだところ、同じく留め置く旨を申し付けられたので、この結果を国元へ知らせる。現場へも伝えておいたため、惣負殿から委細の連絡があると思われるとして結ぶ。別紙1483も三職の人数を同じく掲げる。
(慶長5年8月19日) / 冊子 96頁/原整理番号 66
惟新が伏見少将へ、春以来求めた伏見留守番の人衆が一人も上京していないことを嘆き、予定された在京人数七千人の半分、三千五百人を急送するよう重ねて求める。鹿嶋太郎兵衛尉を介した伝達にも触れ、他の九州勢が秀頼に奉公していることを挙げ、他国並みの軍役を果たすよう強く催促する。
年月日未詳 / 冊子 313頁/原整理番号 281の3
「唐津より来候与頭之覚」として、岡島次郎左衛門・沢木七郎兵衛らの組頭、鉄砲頭、人数千五百人を列記する三宅重利書状の別紙添書。唐津からの加勢部隊の編成と鉄砲百六十挺を記す。
正月24日 / 冊子 781~782頁/原整理番号 857の4
米の津への手配をねぎらい、既に七千五百人が渡海し、残る二千三百六十八人は当面渡す必要がないと市来宗友へ伝える。島原側と相談し、山田民部少の来訪や下野守・三原の帰陣に伴って、渡す人数と控える人数を調整すると述べる。追而書では川上彦左衛門・岩切六右衛門へ、兵糧を一刻も早くからつらへ渡すよう命じた書状を見せるとしている。
年月日未詳 / 冊子 62~63頁/原整理番号 95
伊地知季安の記事。この夜亥刻、島津久元らの島原からの書簡が上津浦へ届き、平田民部少輔宗直と出水・阿久根の衆を島原へ召すことになった。千五百人を編成する計画を立て、まず四百人を出発させた。
二月五日 / 冊子 71~72頁/原整理番号 113-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、出水衆を残らず戻す件を回答する。亀之川から荷物だけを船で、人は陸路で移し、三百人を渡す迎船を求める。平田宗直の衆は千五百人のうち四百人が帰り約千百人が残るため、大船十艘ほどを要望し、悪風で五日間滞留して米がさらに必要なこと、薩州様供立ての関船・荷船は出水へ回すことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 162頁/原整理番号 286
蒲生士谷口氏の書留。二月二十一日夜九ツ時、キリシタン二千五百人が陣中へ出撃して火を放ったが、そのうち二百九十二人が討ち取られたと記す。出撃人数二千五百人と討取人数二百九十二人は別の数量である。
年月日未詳 / 冊子 190~193頁/原整理番号 315
『平塞録』の二十六日記事。松平伊豆守(信綱)の陣で諸大将が攻城を評議し、城内では鉄砲の発射が減り、竹木を薪にし、海藻を拾うほど糧米・玉薬が払底したとの報告を受け、二十八日卯刻から追手・搦手が一斉に総攻めする方針を定めた。松平右衛門佐が前後からの越矢を懸念したのに対し、妙解公は越矢は弱まり、多少の被害を恐れて攻撃を控えるべきでないと述べ、詳しい手配は翌日に定めることとなった。同日、籠城方の四郎太夫は困窮を理由に翌夜の夜討を決め、三千人と二千五百人の二備(計五千五百人)を諫早口から鍋島本陣へ向かわせ、うち場数を踏んだ二百人を時枝隼人・赤星主膳の指揮で先に潜入させて馬を放つ計画を立てた。さらに別働五千人を島原口から細川勢へ、水練百人を海上から寄手の後備へ差し向け、四郎太夫は大江口で松平右衛門佐陣への攻撃を装うとした。相印は右肩を脱ぎ新縄で鉢巻し、合言葉は「鼠か」に「猫」と答える。城内の虎口を固め、敵の潜入・放火を警戒して夜討に備えるよう命じた。
二月廿五日 / 冊子 203~212頁/原整理番号 322
『藤掛集書』の「二月二十七・二十八日原之城落去之事」。二十七日朝、二十八日の城乗りを評定するため諸大将が戸田左門氏鉄の陣所に集まったところ、物見櫓番が鍋島勢の突入を告げ、松平伊豆守が確認して各将を陣所へ戻したため、諸勢が予定外の攻撃に続いた。本文は、軍法に背いた先行突入への批判、若年の近習・家臣らの戦功と戦死、証拠提出・褒賞の経緯を詳述する。また鍋島勢の先手三千人を二手とする編成、第二陣二千五百人、白布旗、梯子・竹束、海辺に潜ませた水練の達者百人などの攻城準備を記す。黒田右衛門佐が退却しないと誓って天草丸へ攻め、黒田美作が機を見て突入させた記事では、黒田勢の討死を上下二百人、手負千人余りとする。細川勢は二十七日巳の下刻、鍋島勢に続いて三の曲輪を破り、海手から二の丸へ入り、詰の丸東端を攻めて九曜旗を立てた。この時の手負・死人は百人。敵前に柵木を結って夜を明かし、二十八日早朝に四郎の居館へ入って焼き、天草四郎時貞の首を陣野佐左衛門が討ち取ったため、本丸一番乗りとして江戸へ注進したと記す。
寛永十七年七月九日 / 冊子 414~425頁/原整理番号 531
寛永十七年七月九日の人衆賦帳で、須木口・大口・加久藤口などの各方面へ、須木・小林・野尻・高原・高岡・鹿児島等の郷衆中と島津家諸士を組み分けし、各人の高、全役・半役、主従人数を列記する。複数の組に『合五百人』等の総計欄があり、国境方面へおおむね五百人単位で人衆を割り付けた構成を示す。冒頭の須木口一与は須木百人、小林百十人、野尻七十六人、高原百二十五人、高岡四十人、鹿児島五十人を掲げ、原記総計を五百二人とするが、内訳の算術合計は五百一人となる。編者は、相良清兵衛召還に伴う大童半兵衛ら三百余人の籠城と求麻騒動を受け、隣国境目の警備用に作成された帳簿と考証する。天保二年十二月二十日の写載経緯と、伊地知重政・相良頼員が京詰のため加久藤口の名簿に載らないとの説明も付す。
年月日未詳 / 冊子 281~282頁
『島津家久譜』の記事。十一月十八日の海戦後、乗船を焼かれて南海島に取り残された騎歩約五百人の救出経緯を記す。伊勢貞昌らが島津義弘・忠恒父子へ急報し、樺山忠征・島津久高・吉田大蔵・竹内兵部らが、生死をともにする覚悟で釜山浦へ救船を求めた。寺沢正成の提案を受け、小西・松浦・大村各氏が船を出し、敵中に孤立した将兵を収容した功労を称える。
(元和9年) / 冊子 97~98頁/原整理番号 68
知行高別の鉄砲・弓・鎗・騎馬・旗の負担表と、半役に付く扶持方人数表を記す。装備表の一万石は鉄砲二十丁・弓十張・鎗五十本・馬上十四騎・旗三本。扶持人数は百石七人、一万石百五十人、十万石千五百人などを挙げる。末尾は光久公御譜にある元和九年の公儀定書とみられると説明する。
年月日未詳 / 冊子 310頁/原整理番号 276
『平塞録』。五日、唐津寺沢家老中が富岡城代三宅藤兵衛へ加勢として組頭四人・物頭八人・総人数千五百人と鉄砲六十挺を遣わした記事。飛札への反応、唐津出発の遅れ、先遣と富岡援兵の準備を記す。
年月日未詳 / 冊子 330頁/原整理番号 301
十三日、大矢野四郎らが島原の一揆勢約千五百人を率いて天草へ渡海し、島原城を攻め落として長崎・九州へ勢力を広げる企てを進めたと記す。寺沢方は上津浦へ人数を集め、唐津勢を分配して迎撃する準備を整えた。
年月日未詳 / 冊子 780頁/原整理番号 855
細川越中守の有馬着陣と肥後守との合勢二万三千五百人、黒田右衛門佐らの合勢一万八千人を記す。日付について二十四日・二十二日、別記の二月八日を挙げ、どれが正しいか後に検討すると按語を添える。同日の大風で江戸近郊の家が損傷し、島原も強風だったという記事を引く。
正月24日 / 冊子 782~783頁/原整理番号 857の5
残留人数の渡海は当面不要なので差し控え、米を先に送るよう物奉行二人へ求める。十日分の飯米を渡された者も五日を過ぎれば困るため、早急な追送が必要とする。からつらへ陣替し、先に千四、五百人が向かうこと、大船が通れない本渡ではなく柳木へ送ることを伝える。番手が八日ほどで済むとは限らず、長期滞在への用意を求める。
正応二年八月廿三日 / 冊子 173~174頁/原整理番号 76
『上井覚兼日記』三月三~八日の田野御狩の記事。行司との日程調整を経て、覚兼は周辺諸所に人数を出すよう伝え、六日に田野で準備した。七日は吉利・福永・樺山などの衆と狩り、猪鹿十二、三頭を得た。八日は海江田への帰路に鹿倉で再び狩り、鹿五、六頭を得た。狩人は七日に約千人、八日に約五百人と記す。