島津久元・伊勢貞昌連署書状
(寛永十年)三月廿七日 / 冊子 362~364頁
島津久元・伊勢貞昌が、高崎伊豆守・伊東二右衛門尉から検地の報告を聞いたうえで、旧検地の不正や悪役人を調査し、訴えのある土地を公平に再検分して実際の耕地を正確に把握し、関係者を処置するよう国元へ指示した連署書状。
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(寛永十年)三月廿七日 / 冊子 362~364頁
島津久元・伊勢貞昌が、高崎伊豆守・伊東二右衛門尉から検地の報告を聞いたうえで、旧検地の不正や悪役人を調査し、訴えのある土地を公平に再検分して実際の耕地を正確に把握し、関係者を処置するよう国元へ指示した連署書状。
(寛永十一年)七月六日 / 冊子 433~434頁
島津家久が、北郷跡職の件に対する祝儀の使者と太刀一腰・馬代銀三十枚を喜び、伊東二右衛門尉を使者として樽・肴・帷子を贈り、秋の帰国時の再会を期した書状。
三月十四日 / 冊子 74頁
山田有榮が新納仲左衛門尉に、江戸から下着した大井二右衛門が携えた武庫様より又八郎様宛ての書状を送付した書状。前日に当地へ届いたため差し上げるので、適切に披露するよう頼む。
十月十五日 / 冊子 74頁
島津久元・川上久國・喜入忠政(のち忠続)が、新納仲左衛門尉・市来備前守・比志嶋掃部助に、薬師寺内蔵丞が養子となって当地の役儀を勤めているため、水引へ移すよう伊東二右衛門尉から申し入れがあったと伝え、支障がなければ相談するよう求めた連署書状。切り抜きにより、別掲されていた島津久元の署名を含む三名連署と確認した。
八月十二日 / 冊子 157頁
山田有栄と市来家繁が本田源右衛門らに、蒲生衆の天辰二右衛門から瀬口主税助が知行高九石余を永代買得した件を伝えた連署書状。現地で事情を詳しく聞き、従来から異儀がなければ、その高を瀬口の知行に加えるよう認める。
七月六日 / 冊子 738頁
北郷家督相続の祝儀として遠路から使者と太刀一腰・馬代銀三十枚が届いたことを喜び、返使伊東二右衛門と樽・肴・雉子・肩衣・袴を贈り、秋中の帰国を待つと伝えた島津家久書状。
二月十四日 / 冊子 77頁
島津久慶と島津久元が、羽嶋蔵人家の事情により、その子一人を当地へ置く願いが認められたと伝えた連署書状。蔵人の宗領の子へ知行四十五石を付け鹿児島へ召し置くため、相手方の高から分けるよう求める。
宝永五年四月廿八日 / 冊子 506~507頁
黄致誠の朝鮮国書が島津武久宛とする点を、忠昌の実名・生没年と万暦年号から検討し、義久の時代には合うが宛名の書き違いとも考えにくいとして、年代の疑問を後考のため記した連署添書。
二月十四日 / 冊子 134~135頁/原整理番号 223
新納二右衛門尉が有馬へ使者となる際に渡された覚。先に出水へ派遣された南戸衆、伊豆守方に留め置かれた高岡・穆佐・相良の衆、江戸南戸衆の欠員補充、小番衆・大番衆の稽古、御番帳、病欠時の補充などについて、現地で事情を確認し報告するよう求める。
寛永十七年六月十三日 / 冊子 85~86頁/原整理番号 35
島津久慶が新納二右衛門へ、大和守久章が五月十七日に京都から出奔したとの知らせを受け、家の外聞を損なう嘆かわしい出来事だと述べる。あわせて江戸からの書状により新納の江戸出仕を急がせ、準備を促す六月十三日付書状。
正保二年十二月十四日か(本文に異年注) / 冊子 88頁/原整理番号 42
島津久通が新納二右衛門へ、大和守久章の流罪の任務で谷山へ向かった折、残った郎等の一人に襲われ数か所を負傷しながら相手を刺し止めた働きを称え、養生を勧める十二月十四日付書状。
正保二年十二月十六日か / 冊子 88頁/原整理番号 43
新納忠清が新納二右衛門へ、大和守久章の件で谷山に赴いた際、不慮の襲撃で数か所を負傷したと聞き驚いたと伝える。遠方のため見舞いに行けないが、傷の具合を尋ねて養生を勧める十二月十六日付書状。
寛永15年正月19日 / 冊子 757~759頁/原整理番号 803
出水米之津と黒之戸で定めた天草出陣人数を、久元3,707人、久賀3,609人、久加3,692人、浮衆・船奉行と廻り245人、兵糧渡衆15人、総計11,268人とする。人躰5,235人、卒者・夫丸6,033人に分け、先に島原へ渡った衆や諸湊から直接渡海した者、未着者など、人数不明・除外の事情を細記する。寛永十五年正月十九日、賦所二名が花押を据え、相良ら四名に宛てる。
正月廿六日 / 冊子 8~9頁/原整理番号 3-9
喜入忠政が喜入久右衛門尉ら四名へ、急用の使者として加世田衆一人を差し上せ、自分の夫を付けて届けたので、帰路には宿送夫一人を付けるよう求める。また、出水から小船で天草上津浦へ着けるための取り成しと、先便で頼んだ杉原・中紙の早急な送付を依頼する書状。
二月八日 / 冊子 99~100頁/原整理番号 157
川上久国・三原重庸が薩州様の有馬下向に伴う手配を条書きした覚。供人数・着陣・伊豆守への挨拶、左右の備と上方軍法に従うこと、黄門様への暇乞い、使者礼、武具・小袖・道服などの装備、琉球船約二十艘の参着と上津浦への回送などを伝える。
「寛永十六年」十二月十三日 / 冊子 70~71頁
島津光久が伊勢貞昌へ、新納二右衛門尉を国元へ下した件について、貞昌が事情を聞き合わせて知らせたことに満足したと伝えた書状。今後も意見を報告すること、上洛時期について年寄衆の意向や現地での面会内容を詳しく知らせることを求めている。
「寛永十七年」正月晦日 / 冊子 97頁
島津光久が島津久慶へ、各方面に横目を二人ずつ置き、頴娃主膳・新納二右衛門にも同様の心得を伝えたとする書状。岩切縫殿助について久慶方の老若がどのように述べているか報告を求め、供衆に適任者が乏しいため黒葛原勝左衛門・田中内膳を派遣するので、両人が小身であることに配慮するよう頼んでいる。
二月五日 / 冊子 72~73頁/原整理番号 113-3
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、『かう袮』で牛を切った一人を成敗したと報告する。首を村役人の陰山二右衛門へ渡す予定だったが、有馬兵庫頭の用で不在のため庄屋へ預け、兵庫頭の役人へ伝えるよう求める。季安は森元宗節家に伝承があるため後日調べると注記する。
二月十四日 / 冊子 133~134頁/原整理番号 221
川上久国・三原重庸が山田有栄・伊勢貞昌・島津久元へ、新納二右衛門尉の動向を報告する。新納は東目への御下向を聞いて迎えのため豊後方面まで赴いたが、御下向到来の報を受けて戻り、この日出立したので、与えられた陸衆の賦を直ちに伝達するよう求める。尚々書には一昨日帰着し、今日また当地を発ったとある。
二月十四日 / 冊子 134頁/原整理番号 222
川上久国・三原重庸が市来宗友へ、前日の書状と有馬からの文箱が届いたと伝え、有馬へ使者として赴く新納二右衛門尉と北郷式部の使者一人に早船を手配するよう求める。薩州様の着船後の御座、黄門様の病状、薩州様に供奉する人数、兵糧不足者や琉球船までの扱いも指示する。
二月十四日 / 冊子 137~138頁/原整理番号 229
川上久国・三原重庸が島津久元・山田有栄へ、十一日付書状を受け、薩州様の着船報告を待つとともに、日々重くなる黄門様の病状を新納二右衛門尉へ伝えるよう求める。城攻めの状況、陣所普請、松平主税助・戸田左門・寺沢・伊東大和守らとの相談、唐津方面の薩摩衆を含む帰衆の扱いを照会する。
二月十四日 / 冊子 138~139頁/原整理番号 230
黄門様の病状を列記し、新納二右衛門尉を使者として山田有栄・伊勢貞昌・島津久元らへ伝えた覚。日々の衰弱、夜間の痰と咳・熱、食事量、脈の状態、入浴禁止、薬、薩州様の帰着待ち、式部大輔の見舞いなどを具体的に報告する。
「十六年」七月廿日 / 冊子 29頁
伊東某が琉球へ渡る使者に示した覚書。中国貿易に用いる銀子の取扱い、琉球国司への進上物、米・野菜・薪・味噌など滞在中の入用、船の手配と出帆、現地役人との協議について条項ごとに指示し、渡唐関係の用向きを遅滞なく処理するよう求めている。
(寛永十四年)八月十四日 / 冊子 672~673頁
藩内で自分たちを悪く申し立てる企てがあるとの風聞をめぐり、関係者が霊社の起請文を提出して否定した経緯を詳述する。根拠のない取沙汰を共同で退け、関係者に事情を承知してもらうよう求めた書状案。
正保二年十二月十六日 / 冊子 31~32頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0052
新納忠清が、大和守関係の者に遭遇して負傷者が出た件につき、事情聴取と処置、関係者の養生・赦免の取次を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 779
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、十日または二十日分の飯米支給を注す。高山の名簿に載る以益について白坂氏譜を引いて帰還時期を考証し、兵糧不足による減員帰還と読む。末尾は十九日条への分載と十八日着津者の補記。
正月18日 / 冊子 750~751頁/原整理番号 788
野州老と松平伊豆守との面談や江戸への御礼に関する連絡を受け、吉田次郎兵衛の出発時に伝える旨を述べる。天草への順次渡海、軍衆法度の交付、板倉・石谷の条書返上を扱い、有馬・天草の急用を物奉行・船奉行・市来八左衛門らと調整するよう求める。長嶋・高尾野・阿久根での道具や大鋸大工の手配にも触れる。末尾では死去・病気や多忙による人手不足、書状の重複・書き落しを詫び、万事の取計らいを頼む。
年月日未詳 / 冊子 752~755頁/原整理番号 794
村田市助家蔵の模本から、三原喜太郎・里村十左衛門や谷山・加治木・財部・末吉・大崎・志布志・頴娃・指宿・飯野・高原などの人躰、卒者・夫丸、個人別の随伴人数と着津日を記す。飯米は十日または二十日分を渡し、長嶋ふくら蔵元と米津で分けて支給する例もある。末吉衆中の検見崎兼堯について、家系・移住と島原出陣時の行動を元禄七年の系図申出により補注する。末尾は二十三日条へ続く旨の注。
寛永十五年正月廿九日 / 冊子 30~32頁/原整理番号 45-2
寛永十五年正月二十九日の島原出陣に備え、武器・軍勢・奉行・輸送・兵糧などの割当を列挙した頭書。御備は昇100本、外城衆の鉄砲300挺・弓200張、御道具衆の鑓200本、馬乗衆50騎(分限役の馬は別)、陸衆150人(外城衆は別)、召立乗馬50騎とする。有馬には3,262人中782人が帰り2,480人、天草には5,201人中1,624人が帰り3,577人が残り、両地の残留総数を6,057人とする。軍勢の兵糧・船手、兵具・送夫馬・普請・諸調、旗本・供衆、船手奉行、先備、玉薬、持道具、番道具、普請奉行、法度、武器別奉行・備頭、仮屋、使番・使衆・右筆・代官・給書・物荷・膳配・同朋・小姓・評定・医師・納戸・進物・門番・陣僧・振舞等の担当や準備事項を挙げる。鉄砲備頭5人・小指物1,050本、弓備頭3人、鑓備頭3人、惣備奉行10騎、御備直し20人、仮屋見舞衆3人なども定める。末尾で編者は、『旧記雑録後編五』222号文書と同文だが後半を欠くとし、以下は二月朔日の肩書により同日に写載したこと、軍衆法度の旧留は続く三公の掟を指すらしいと注記する。
寛永十五年正月廿九日 / 冊子 37~40頁/原整理番号 55
寛永十五年正月二十九日の島原出陣に際する御備・軍勢・奉行・輸送・兵糧等の割当帳。冒頭に「正文在文庫」「二重除之」とある。御備は昇100本、外城衆の鉄砲300挺・弓200張、御兵具衆の鑓200本、馬乗衆50騎、御陸衆150人、召立乗馬50騎とする。有馬3,262人のうち782人、天草5,201人のうち1,624人が帰還し、両地の残留総数を6,057人とする。御供、兵糧・船手、兵具・送夫馬・普請・諸調、法度、船手・先備・玉薬・持道具・番道具、火番・合印、武器別備頭、使番、仮屋、代官、絵書、荷物、医師、祈念、評定所筆者、納戸、進物、陣僧などの担当・準備事項を列挙する。鉄砲備頭5人・小指物1,050本、弓備頭3人、鑓備頭3人、惣備奉行10騎、御備直し20人、仮屋見舞衆3人等も定める。二月朔日の項では幕・進物蔵・送状、朱書の宿泊地等を扱い、二月七日には両条を新納右衛門佐へ申し渡す。さらに当地に必要な殿役・船・普請・町・蔵・兵具・馬屋・物奉行等を列挙する。編者は『旧記雑録後編五』222号文書と同一と注記する。末尾の「晦日甲午」は次の日次見出しである。
二月七日 / 冊子 90~91頁/原整理番号 149
川上久国・三原重庸が伊勢貞昌へ、東郷肥前守を通じた黄門様の意向として、薩州様の有馬直行はもっともである一方、松平信綱の従前の指示どおり在陣は不要で軍法に従うべきことを伝える。黄門様の病状は二十五日以来やや軽快し食事も取るが、咳で横臥しにくいとも報じる。
寛永十六年二月九日 / 冊子 5~7頁
金武朝貞と勝連良継が、薩摩から託された銀による中国貿易について、銀三百貫目や隠銀の取扱い、買物糸・巻物の品質と価格、銀の差替え、船の遅延、役人の違背と処罰などを詳細に報告した覚書。銀千貫目の貿易命令が首尾を得なかった事情や、中城・野村大学助らの銀運用上の問題を条項ごとに述べ、自分たちの責任と経緯を弁明している。
寛永十六年二月九日 / 冊子 7~8頁
金武朝貞と勝連良継が、中国貿易用の御物銀と糸代銀について、残銀、差替え、商人への過分な支払い、役人間の役割分担と処分を追加報告した覚書。中城の主取としての責任や、福治官舎・与那城官舎らの取扱い、残銀をめぐる違背と処罰を挙げ、関係者の主張の食い違いも含めて経緯を説明している。
年月日未詳 / 冊子 214~218頁/原整理番号 549
鹿屋壱岐守兼長が子孫へ残した家の由緒・軍功書上。兼秀が肝付祓川から帖佐を経て球磨へ移った経緯、父恒治の早世と墓所、薩摩・肥後・川内・筑前・高麗などでの合戦・使者役・城務、島津義久・義弘のもとでの奉公、知行や証文・道具の伝来を列挙する。末尾で後代の奥書継承を命じ、鹿屋二右衛門尉兼慶へ附属する。