松平大隅守申渡書(御太刀献上儀礼と受渡手順)
享保六年十二月 / 冊子 500~501頁/整理ID 1344
松平大隅守が佐久間九右衛門へ、年頭の御太刀献上に伴う登城・御礼・使者の手順を指示する。御太刀口上書、使者の取次、正月二日の受渡しと返答の扱いを細かく定める。
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享保六年十二月 / 冊子 500~501頁/整理ID 1344
松平大隅守が佐久間九右衛門へ、年頭の御太刀献上に伴う登城・御礼・使者の手順を指示する。御太刀口上書、使者の取次、正月二日の受渡しと返答の扱いを細かく定める。
年月日未詳 / 冊子 139頁/原整理番号 233-1
御納戸奉行の米良九右衛門・左近允与太夫が、二十目の御持筒一挺について、石神源兵衛・重永重次作との銘があることを示し、九字筒の帳面では照合できないため、委細の由緒を知らせるよう求めた連署覚。本文は丑十二月十八日付だが目録年月日欄は空欄。
二月十三日 / 冊子 25~26頁
銀子百枚を西洞院へ届けるよう依頼し、合田一族をめぐる問題への助力を謝したうえ、井伊直政から上洛を求められながら伊東氏の攻勢で離れられない事情と、上方情勢の報告を求めた書状。
享保六年六月六日 / 冊子 501頁/整理ID 1345
島津久兵が、佐久間九右衛門から太刀・小サ刀の古代作の拵えを求められた件について、手元や神社にある刀とその付属品の状態を吟味し、拵えを調えて差し出すよう関係者へ達する。
享保八年八月 / 冊子 624~625頁/整理ID 1575
台湾の乱で捕らえ福州城内に置かれた囚人が逃亡し、官人らが追捕した経緯と報告の取次ぎを記す。
年月日未詳 / 冊子 110~112頁/原整理番号 24
文禄四年十二月下旬の朝鮮在陣中の日記。歳暮の礼として竹嶋・小西・大村・天草らから届いた鳥・樽・肴などの進物、加藤・小西ら諸大名への年末の使者と書状、年男の任命、鳥狩りや鞠、道具衆・中間衆への衣服の給与を日ごとに記す。釜山浦では小西行長・寺沢正成へ進物を届け、末尾に年男らへの肩衣・袴の給与を記す。
元禄十年六月 / 冊子 29–30頁/整理ID 91
日向国の御代官所之覚写として、宮崎郡・那珂郡・諸県郡の村々を列記する。庵屋村・船引村の別記・合記の扱いを、郷村帳・内証・郷帳・割付との関係で注記する。那珂郡の江田・新別府・吉・下別府などには郷村帳上の郡所属との異同を付し、同名の南方村についても領主・所在の注記を記す。松永村は郷村帳に見えないと注記する。元禄十年丑六月、今井九右衛門印で、兼直の傍注がある。
明和二年四月二十一日 / 冊子 89頁/原整理番号 181の77/整理ID 181-77
御臺様へ一種一荷を献上した首尾を記す。日光山法会の終了への祝儀献上として、本人が使者佐久間九右衛門を同道し、平川口の番所で、奏者久世出雲守の家来田中源右衛門に使者から御目録を渡して献上を済ませた。今朝、使者の案内を勤めた首尾を、四月二十一日に寄御留守居矢野清右衛門が左中様へ報告する。署名には清香の注記がある。目録の清香と本文の署名・注記の対応を示し、御臺への献上先・使者・取次と案内者を区別する。
十二月(上包は安永元年辰十二月十九日・目録は明和九年) / 冊子 338頁/原整理番号 955/整理ID 955
嶋津加賀守の妾腹の男子直江が新家に取り立てられ、知行百石を与えられたことを記す。番頭格を望んだことは認められ、家号・実名の見合い、紋所絵形の使用についても淡路守から願いが出され、江府で伝えられて別紙のとおりに命じられたと御記録奉行へ知らせる。先月十三日、彼方の家老名代伊集院吉左衛門を呼び、佐久間九右衛門を介して渡し、紋所絵形・願書等を返却し、淡路守へは左中から書状で知らせたという。別紙の写を渡すので、後年の見合いのため記録しておくよう求める。本文は十二月付、帯刀の名に小松清香との注がある。上包には安永元年辰十二月十九日、帯刀から御記録奉行へ渡した旨があるという。
元禄十三年 / 冊子 243頁/整理ID 826
島津綱貴が今井九右衛門へ、諸国絵図改訂で日向国清絵図を島津家が調製するため、日州の幕府支配所の絵図を調えて国元へ送るよう命じた達書。境界変更などを検査した絵図三枚を作り、日州・琉球の下絵図と同時に江戸へ出せるよう調製し、赤松甚右衛門を介して相談・受渡しするよう求める。
享保七年七月 / 冊子 580頁/整理ID 1449
上米納付後の御座席と納付の取扱いをめぐる達しを記し、金子での納付や御座を得て役入りする場合の席次を尋ねる。
享保七年八月 / 冊子 582頁/整理ID 1455
御城廻の普請御手伝について、過去の記録帳面に該当例が見当たらないことと、元書留・留守居への照会、今後の申来の扱いを述べる。
享保七年九月 / 冊子 589~590頁/整理ID 1477
石高に応じた上米の割当てについて、米の調達と大坂・江戸での納付の扱いを述べ、取扱いの確認を願い出る。
享保七年十月朔日 / 冊子 590頁/整理ID 1478
琉球高を含む総高をもとにした上米の割当てについて、従来の扱いと納付方法を示し、取扱いを伺う。
享保七年十月 / 冊子 590~591頁/整理ID 1480
領国と琉球高を合わせた石高に基づく上米の割当てを示し、御蔵方の証文と納付の扱いについて願い出る。
享保八年六月 / 冊子 617~618頁/整理ID 1556
幕府から薩州の牧場・馬産について問われ、牧場の馬数、繁殖・捕獲、飼養場所、献上馬の選定と受渡しの慣行を説明する。
享保九年 / 冊子 660頁/整理ID 1673
松平大隅守領内の銅山検分について、来訪した役人への応対、銅気の状況や山をめぐる事情を記した覚。
享保十年三月 / 冊子 691~692頁/整理ID 1761
江戸家老座に金二千八百十三両三分と銀二匁一分を上納した旨を記し、内訳と上納先の役人名を列挙する。
二月朔日 / 冊子 46頁/原整理番号 67-2
二月朔日に鹿児島へ参る衆28人の覚。四位与四郎以下、北原吉左衛門尉までを列挙する。文書67-1が出発を記す蒲生衆28人に対応する。
九月七日 / 冊子 347頁/原整理番号 39-2
前条の指示を諸郷へ伝え、植木の件を滞りなく実施するよう求める。山田・富山九右衛門らへの伝達が記される。
享保六年六月二日 / 冊子 502頁/整理ID 1345
佐久間九右衛門が、古代作の太刀と小サ刀の拵えについて、御城へ差し出す際の手順と刀身・柄・鞘などの状態を記し、御用にかなう品の有無を確かめる。
享保六年六月二十七日 / 冊子 502頁/整理ID 1345
島津久貫ら四名が、佐久間九右衛門の求めに応じ、古代作の太刀と小サ刀を調達し、神社所蔵の刀の状態や差し出し方を吟味して取り計らう旨を連署して請ける。
享保六年七月二十七日 / 冊子 505~506頁/整理ID 1346
島津久貫が、佐久間九右衛門から求められた古代作の太刀・小サ刀を調べ、神社所蔵品と公儀御用の拵えを比べながら、差出し可能な品や不足する拵えの扱いを問い合わせる。
享保六年八月七日 / 冊子 508頁/整理ID 1346
島津久兵が、公儀御用の太刀・小サ刀を佐久間九右衛門に渡すよう伝え、神社に関わる品や三宅徳恩宅にある拵えも調べ、受渡しの進め方を指示する。
享保六年八月十六日 / 冊子 510頁/整理ID 1346
島津久兵が、佐久間九右衛門からの太刀・小サ刀の拵えの照会に答え、古い刀には適合する拵えがないこと、代用の拵えや神社の刀の扱いを検討することを伝える。
享保六年九月八日 / 冊子 510~511頁/整理ID 1346
島津久貫が、佐久間九右衛門から伝えられた太刀・小サ刀の拵えに関する幕府側の意向を受け、神社に残す刀と差し出す刀の選択、古代作と新しい拵えの整合を再度吟味する。
享保七年二月八日 / 冊子 519頁/整理ID 1346
島津久兵が、御戸丸の太刀・木形・拵えを佐久間九右衛門へ届けたこと、差し出した品が幕府側で御機嫌よく受け取られたことを報告する。
享保八年九月二十三日 / 冊子 629~630頁/整理ID 1586
佐久間九右衛門が、水野和泉守の御用人からの召出しを受け、島津但馬守の留守居ともに御用の書付を受ける手順と挨拶の段取りを記す。
享保十三年四月十三日~廿五日 / 冊子 776頁/整理ID 2046
徳川吉宗の日光社参を受け、島津継豊が堀萬右衛門貞皎を江戸城への賀使とし、佐久間九右衛門盛村を留守居役へ派遣した経緯を記す。二十五日の使節の登城・献上と、在国・在府の使者からの賀儀にも触れる。
〈寛延四年〉九月十九日 / 冊子 330頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0975
九月十九日、家重が重年の襲封後初の帰国を祝い、安否を問うため佳肴、鮭十尺と老中宿次奉書・驛路證印を授けた記事。騎馬士・歩行士・軽卒らが警衛して江戸を発ち、東海・山陽・西海路を昼夜休まず進み、十月十五日に鹿城へ着いた。同日、重年は一門島津周防忠紀を恩賜への謝使として鹿城から江戸へ遣わし、継豊も物頭中江九右衛門員張を、重年の拝賜を謝するため忠紀と同行させた。員張は十一月十八日に江戸芝邸へ着き、二十一日に用番老中酒井忠寄の邸で継豊の家重・家治宛連署二通を届けた。また西尾忠尚の邸で継豊の格書を渡し、執政・若年寄各位の邸にも継豊の書牘を届けて献物を行わせた。十二月十三日に武元の邸へ、十八日に西尾忠尚の邸へ召され、それぞれ用人から報書を手渡され、謝使の役目を終えた。員張は二十六日に芝邸を発ち、翌三月十七日に薩府へ帰って復命した。
〈宝暦四年〉六月二十三日~十二月五日(記事) / 冊子 504頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1531
重年公御譜は、閑院弾正尹直仁親王の姫宮と大納言家治の婚儀を記す。今年六月二十三日に結納、十一月十一日に入輿があり、重年は事前に許可を得て姫宮へ料紙箱一箇を献じ、継豊も茶弁当一荷を献じた。十二月朔日に入輿の事が済み、家治の上使土岐伊豫守頼熙が芝第へ来て二種一荷を賜り、姫宮の上使永井九右衛門も同じ品を賜る。両者から継豊にも同じ品を賜り、重年は執政各々の邸へ赴いて礼を述べる。同日の婚礼大礼が済んだため、家重・家治へ二種十四于、御簾中へ二種五百四于と記す品を献じて祝う。姫宮について宮務御簾中との注がある。五日には柳営で猿楽があり、諸侯が幕府の招きに応じて営中で賀し、重年は折一合を献じた。朔日の婚礼祝賀に伴う献上・拝領と、五日の猿楽での折一合献上を記す。
年月日未詳 / 冊子 57頁/原整理番号 180/整理ID 180
神祖家康の百五十回忌法会が野州日光山で行われるため、重豪は家老高橋此面種寿を登山させ、四月十七日に日光山本坊へ太刀一腰・馬代黄金十両を献納した。留守居東郷源五実孝が種寿に同行して取次を務めた。法会終了後の同月廿一日、側用人島津矢柄久籌を登城させて家治へ二種一荷を、勝手方用人岩下佐次右衛門方峯を登城させて儲君へ一種一荷を、用人格佐久間九右衛門盛邦を通じて御台所へ同品を献上し祝賀した。久籌には仮為番頭、方峯には同久籌、盛邦には亦同久籌の注がある。目録は記事で年月日欄なし。出典注は重豪公御譜中。
明和二年四月(日未詳) / 冊子 79頁/原整理番号 181の47/整理ID 181-47
日光山で権現の百五十回御法会が済んだ祝儀として、来る二十一日に御番頭の使者を通じて献上する贈物を定め、御使番へ申し渡して首尾懸にも伝えるよう指示する。配分は将軍へ二種一荷、御台所と若君へ一種一荷ずつであり、品物の種類は記されていない。正文は四月付、左中名。四月七日の朱書には、本文のとおり御使番へ申し渡し、首尾懸にも伝えたとあり、取次を岩下佐次右衛門とする。四月八日の朱書は、この件により御側御用人島津矢柄、御用人岩下佐次右衛門、御用人格佐久間九右衛門を使者に命じ、相談して勤めるよう口達で申し渡したことを記す。献上先ごとの数量、予定日、申し渡しの記録と使者三人の任命を分けて示す。
明和三年正月廿三日~三月廿一日(参勤)、正月廿八日・翌廿九日(着袴、287により月補定) / 冊子 122~123頁/原整理番号 268/整理ID 268
明和三年丙戌正月二十三日、重豪が参勤のため国を発し、大口筋を通った記事。家老の川田伊織国福・高橋此面種寿、側用人の山岡斎宮久澄・二階堂蔀行旦、近習役の関山新左衛門金郷らが供奉した。二十四日に山箇野金山を周覧し、二十六日に肥後州へ出て西海道を経由、二月四日に豊前大里に到着して同日乗船した。十八日に播州坂越へ着船し、翌朝から陸路で播磨路を経て二十三日に大坂へ至り三日留滞。二十七日に舟で川をさかのぼって枚方に繋ぎ、二十八日に伏見へ着いた。三月二日に伏見を発して伊勢路・東海道を経由し、十九日に芝邸へ到着、老中の宅へ使者を遣わして参府を報告した。二十一日には月番老中松平周防守康福及び西丸附秋元但馬守涼朝の宅へ赴き、将軍・世子の起居を伺って廻勤した。参勤は四月を期とするが、先に中山王聘使を率いたため孟秋へ延期されており、持病により炎暑の旅行が適さないとしてあらかじめ早い参府を願ったことも記す。続く着袴の条は「同月廿八日」とし、正月廿八日に行われた儲君家基の着袴始に諸侯が祝賀したと記す。重豪は側用人仁礼仲右衛門仲古を城へ、用人佐久間九右衛門盛邦を御臺へ、勝手方用人岩下佐次右衛門方峯を西城の儲君へ遣わし、それぞれ二種二荷を献じた。儲君の生母・年寄女等にも品を贈り、その内容には差があった。翌二十九日には夫人が女使を遣わし、将軍・御臺へ各一種、儲君へ一種三百匹を献じた。同日、将軍は留守居の注が付く駒木根大内記政親を芝邸へ遣わし、浄岸院主に二種一荷を賜った。御臺も同じく二種一荷、儲君は二種二荷を賜り、重豪は途上で聞いて書簡により拝賜の恩を謝した。
明和四年六月十二~十六日・二十~二十一日(同年配列) / 冊子 163頁/原整理番号 383/整理ID 383
同年六月十六日、福昌寺で圓徳院殿の十三年忌法事を修したと記し、十二日から十六日までとの日注がある。圓徳院には重年の小字注がある。十二日は島津播磨久敦、十四日は島津杢久峯を代参とし、同夜の頓写は島津玄蕃貴澄が代わり、十六日は島津大學久尚を代参とする。満散寄合の式もあり、久敦を「余」の代としたという。続いて六月二十日、大家が東叡山で有徳院殿の十七回忌法事を修したため、二十一日、重豪は用人佐久間九右衛門盛邦を遣わし、香奠銀十枚を献納して拝礼させた。有徳院には徳川吉宗の注がある。
明和九年の編年記事(九月六日~十月八日、原「今茲」) / 冊子 330頁/原整理番号 918/整理ID 918
江府にいる重豪はこの頃寒温の疾があり、相州塔之沢で温泉に浴して治したいと願い、大家が許した。九月六日に江戸を発ち、八日に相州塔之沢へ到着して二十余日湯治した。十月二日に塔之沢を去り、豆州熱海へ向かって二日浴湯し、五日に熱海を発ち、八日に江府芝邸へ戻った。その後も痾はまだ癒えず、朝へ出ることができなかったため、官をもって用人格佐久間九右衛門盛邦を城へ遣わし、大家と儲君へ一筐を献じて湯治の恩を謝したと記す。
明和九年十一月(箱銘廿一日・献備使者勤方は安永元年十一月廿七日) / 冊子 337頁/原整理番号 952/整理ID 952
聖堂へ献備する唐本六通を二箱に収めた目録。礼記義疏八十二冊、儀礼義疏五十冊、周官義疏四十九冊を一箱十八帙とし、周易述義四冊、詩義折中八冊、春秋直解八冊を一箱三帙と記す。松平薩摩守の献備で、明和九年十一月の朱注があり、箱銘を金泥で調え、年月日は明和九年十一月廿一日と記すという。二箱に鍵二通と書銘覚書一通を添え、蓋の献備件書にも同じ年号・日付があったが、その間に改元したため、聖堂献備の使者勤方は安永元年十一月廿七日と記したと説明する。使者は番頭の佐久間九右衛門で、盛邦との注と熨斗目長上下の服装記載がある。控正文は江戸家老座にあるという。
安永元年(原文月日無記載) / 冊子 339~340頁/原整理番号 960/整理ID 960
湯治帰の御礼を使者によって献上した次第を記す。公方には干鯛一箱を佐久間九右衛門が使者として届け、本丸の檜の間で奏者番戸田長門守が出席し、使者から目録を差し上げたところ披露する旨を告げられ、目付本目隼人に尋ねられた。使者の着服は紗物麻袴と記す。大納言にも干鯛一箱を同じ使者が届け、西丸の蘇鉄の間で、奏者番本多伊勢守の家来廣田孫太夫に目録を渡して献上を済ませた。九右衛門には盛邦、戸田には忠言、本目には親英との注がある。安永元年の朱注を備え、独立の月日は記さない。控正文は文庫にあるという。
安永二年閏三月(年は朱、包紙に同月二十五日) / 冊子 364~365頁/原整理番号 1024/整理ID 1024
江戸聖堂への太守の寄附書を列挙した申渡。周易述義四冊・詩義折中八冊・春秋眞解八冊を一箱、礼記八十二冊・儀礼五十冊・周官四十九冊を一箱に入れると記す。以前から「御合表」をしていたところ、公儀から寄附物についての通知があり、しかるべく扱うよう命じられた。去年三月に寄附する予定だったが、火災で聖堂を焼失したため献備が延引し、建物の普請もまだ出来ないまま準備を整えたという。改元以前の年号で十一月十一日付の書付を、佐久間九右衛門を使者として渡し、去年十一月二十七日に献備が済んだ旨の申出があったので、この経緯を申し渡す。末尾は閏三月、左京、朱に安永二年。朱の包紙には巳閏三月二十五日に藤野休左衛門から黒田嘉右衛門へ渡したものを納める旨がある。正文は文庫、写しは白木御文書五番箱中にある。
年月日未詳 / 冊子 768頁/原整理番号 821
出水米之津へ出立した人々の消息を聞くため飛脚を遣わし、書状も持たせたと記す。飛脚は正月二十一日の八つ時頃に出発して帰参し、その仕銭五百文を上野九右衛門の手前から差し出した。夜昼急いで往来させる旨も記す。
慶長5年10月10日(1600) / 冊子 458~459頁/原整理番号 14-17
島津惟新が指宿清左衛門尉へ、美濃国関ヶ原合戦で粉骨し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国途上も片時も側を離れず奉公したことを賞して、知行百石を宛行った慶長五年十月十日付感状。後続系譜には、出水の八重尾因幡守家、蒲生の野村九右衛門家への婚姻、福山居住、忠易夫妻の出水での没年・法名などを記す。
享保六年七月~享保七年八月 / 冊子 505~521頁/整理ID 1346
古代作の太刀と小サ刀を差し出すため、久貫・久兵らが拵えや神社所蔵品の適否を検討した一連の書状・覚書。職人による鍔・柄・鞘などの仕様書、古記録の引用、御納戸への受渡しも含む。
享保七年三月 / 冊子 521~522頁/整理ID 1347
鳴津内記が古代作太刀・小サ刀の製作や差出しに関する経緯を記す。薩州頴娃郷の新田宮社内への刀剣奉納を引き、木形・拵え・御道具の照会、太刀の申渡し、記録所への書付を述べる。
三月 / 冊子 527~528頁/整理ID 1365
江戸家老が、前年に領内で刀二腰の打調えを許され、到着後に献上する段取りを記す。三月十一日に戸田山城守へ申出、翌朝の献上・披露と、刀身や柄・鞘などの品目を列記する。
享保七年九月 / 冊子 590頁/整理ID 1479
上米の石高を算出し、大坂で納付する量と差し引く分について、御勘定方への照会・提出を記す。
享保七年十月廿八日 / 冊子 593頁/整理ID 1485
清朝の官服・平服、甲鎧・兵杖とその図形について幕府から尋ねられ、琉球人の所持品や書物を調べて回答する経緯を記す。
享保八年六月 / 冊子 618~619頁/整理ID 1557
薩州領内の長嶋野・高牧野などの牧場名を国・郡ごとに列記し、幕府の牧場照会への差出しを記す。
享保十四年八月二十六日 / 冊子 904~907頁/整理ID 2312
芝屋敷の拝領地引渡しをめぐる経緯を詳記。八月九日・十一日の引渡し、幕構や道の改変、屋敷境界と隣家との折衝、御用人らの協議、図面の確認を記す。末尾に八月二十六日付の関係役人への照会・連絡を掲げ、続いて屋敷地と道路の図を載せる。
享保二十一年三月頃 / 冊子 370~372頁/整理ID 878
太守から又三郎へ贈る大小の刀装具一式と金品・衣類・食品などの元服祝物を列記し、先例との相違も注記する。
(寛永15年)正月より3月まで / 冊子 654~668頁/原整理番号 673
寛永十五年正月から三月まで、鹿児島衆から有馬へ出陣した諸士について、一人ごとに主従の内訳、従軍期間、延べ日数を列記した人数究帳。末尾で総人数五万七千七百四十一人、その内訳を人躰三千七百五人・小者夫五万四千三十六人と集計し、寛永二十一年正月二十六日に一日賦として照合した旨を記す。