伊作島津久逸譜
年月日未詳 / 冊子 388頁
伊作島津久逸の出生と伊作家継承を記す系譜記事。久逸は永享十二年に島津忠国の三男として生まれ、母は新納近江守忠臣の娘。伊作家の大安丸が早世したため、忠国の意向で久逸が迎えられ、大安丸の妹を妻として伊作家を継いだ。
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年月日未詳 / 冊子 388頁
伊作島津久逸の出生と伊作家継承を記す系譜記事。久逸は永享十二年に島津忠国の三男として生まれ、母は新納近江守忠臣の娘。伊作家の大安丸が早世したため、忠国の意向で久逸が迎えられ、大安丸の妹を妻として伊作家を継いだ。
二月十日 / 冊子 388頁
島津久逸が坊津一乗院へ、例年の大般若経祈念に加え、屋形から国名を拝領するための祈念が成就したことを謝した書状。宝生院が使僧として巻数を持参した際、久逸は鹿児島にいて対面できなかったため、改めて参上して礼を述べるとする。
文明十二年四月五日 / 冊子 493頁
島津久逸が村田経安・平田兼宗に、世上が変転しても御屋形武久を一途に仰ぎ、公私の事を相談して隠し事をせず、互いに協力することを誓った契状。
年月日未詳 / 冊子 507~508頁
島津久逸が新納忠続との間で、世上が変転しても互いに二心なく同心し、重要事を相談して忠節を尽くし、和睦や凶書なども隠さず知らせることを誓った契状。
年月日未詳 / 冊子 508頁
島津久逸が、御屋形への書状を若い使者に持たせたこと、取次を頼むこと、長年の名字に関する指示は書状で知らせてほしいことを伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 508~509頁
島津久逸が、飫肥と当地の間に生じた雑説について永徳寺芳蔵主へ問い合わせ、御屋形への請札や年来の名字に関する取りなしを依頼した書状。
年月日未詳 / 冊子 534頁
伊作久逸譜中に載る契状。本文はNo.1561号文書と同文のため省略されており、独立番号として同文関係のみを記録する。
年月日未詳 / 冊子 578頁
島津久逸が島津忠興と島津忠福の加世田城争いで忠福方に加勢し、明応九年十一月十一日に六十一歳で戦死し、善勝寺殿徳瑠輝公と追号されたことを記す譜記事。
天正十二年八月頃 / 冊子 922~923頁
三原昌安書状に基づき、幼少の伊作久逸(亀房)と岩切氏の関係を記す。伊作家の後継が絶えたため、鎌田氏が忠国の三男亀房を無断で連れ出して伊作家へ迎えた際、岩切氏が生涯供奉すると申し出て忠国・御簾中を安心させた。以後、岩切氏は久逸に最初に仕えた家臣として重んじられた。
二月十日 / 冊子 99-100頁
島津久逸が二乗院に宛てた書状。新春の祝意を述べ、先に依頼した祈祷への配慮と、自身に関わる名の拝領を喜ぶ。宝生院が使僧として祈祷の巻数を持参した際、鹿児島不在で会えなかったことを残念がり、改めて参上して礼を述べたいとしている。
年月日未詳 / 冊子 545頁
世情がどう変わっても互いに疎略にせず、重大事を自分のこととして扱うと約束する。どちらかに野心の疑いが生じれば他方に味方し、小さな不和は仲介し、凶害の情報は隠さず知らせると神前に誓った島津久逸契状。
九月十九日 / 冊子 723頁
こちらは何事もなく退屈に過ごしているが相手の様子を知りたいと返事を求め、来訪を願って人を遣わそうとしたものの秋中は暇がないと聞いて断念したこと、朝夕噂ばかりしていると親しく伝えた島津久逸書状。
寛文九年閏十月十四日 / 冊子 205~206頁
堀四郎左衛門が、島津忠国・元久・用久・忠良・久逸らの親族関係と、忠国の娘玉泉智芳大姉をめぐる玉泉寺の由来、長興寺からの改称、寺領・由緒を記した覚書。
年月日未詳 / 冊子 477~478頁
文明六年、島津久逸(円室公)が元服して又三郎を称し、伊作家の家督を継いだことを記す。梶原氏を含む一族・家臣との関係、伊作家の系譜、所領支配の由来と継承を整理し、久逸が一門の当主として成立した後の家中構成を示す国史記事。
年月日未詳 / 冊子 479頁
島津立久の子女とその母、婚姻、子孫、寺院住持などを列挙し、伊作久逸をはじめとする一族の系譜を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 483~484頁
文明七年に行われた犬追物を起点として、伊作久逸・新納忠続ら島津一族の動向を記す。高城をめぐる北原氏・相良氏との抗争、諸勢の出陣と城郭支配の変化を追い、武家儀礼の開催と並行して家中・国衆間の軍事的緊張が高まった情勢をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 484~485頁
文明八年以後の薩摩・大隅・日向三州の軍事情勢を記す。清水・曽於郡勢による宮内・東郷攻撃に対して島津久逸・伯耆守豊久・新納忠続・北郷敏久らが反撃し、加世田城・都城をめぐって出陣・攻城・退却を重ねた経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 487~488頁
文明九年の薩隅日情勢を、帖佐・加治木勢による宮内侵攻とその撃退を中心に記す。島津久逸・忠廉、新納忠続、北郷敏久、季久・国久ら一族諸勢の布陣と城郭攻防を追い、相互の同盟・離反が変化する中で島津家中の軍事対立が拡大した経過をまとめる。
文明九年四月十九日 / 冊子 488頁
島津友久・久逸・国久らが、天下の情勢が変化しても一味同心し、家中の無事を保ち、凶害の企てがあれば互いに知らせることを誓約した連署契状。
年月日未詳 / 冊子 492頁
『島津国史』が、文明十二年の島津久逸・忠廉・新納忠続ら一族と家臣の盟約を記す。家中の一味同心と国要への対応、渡唐船の警固・運航をめぐる命令、伊作・村田・平田氏らの役割を挙げ、領国内政治と対外交通を同時に処理した状況を示す。
文明十二年十月廿日 / 冊子 494~495頁
島津友久・国久・久逸・忠廉・忠続ら一族が、家中や国が動乱に巻き込まれた際は武久を中心に一味同心すると誓った連署契状。親疎に偏らず相談し、公私の案件や讒言を隠さず共有し、相互に支援することを定める。分裂期の島津一族が意思決定と忠節の原則を確認した文書。
年月日未詳 / 冊子 504~506頁
文明十六年前後、伊作久逸・新納忠続らが伊東祐国・北郷忠相方と戦った軍記。飫肥・福島・櫛間・高城を転戦し、島津忠廉・伊作祐安ら諸将の出陣、援軍、戦死、敗兵の撤退を追って、日向南部から庄内へ広がった戦線の推移を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 506~507頁
文明十六年、伊東方との戦いで新納忠続・久治、伊作久逸らが飫肥・伊作・北郷方面を転戦した経過を記す。各城の包囲・防戦、兵糧不足、援軍到着、敗走後の再進軍を追い、島津忠廉・北郷敏久らを含む諸勢が日向南部で戦線を維持した状況を示す。
年月日未詳 / 冊子 508頁
文明十六年の薩摩・大隅・日向三州大乱を記す島津氏譜記事。伊作久逸・新納忠続らの対立に対し、島津忠昌が治部少輔・伊勢守・近江守らを介して仲裁し、近江守の移封、所領・兵糧配分を調整したが、諸勢の不満が収まらなかった経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 509頁
文明十六年、三か国の分裂を背景に伊作久逸・新納忠続側が島津忠昌へ訴えた内容を記す。忠昌は近江守・治部少輔・伊勢守らの使者を介して仲裁し、所領移転と和睦条件を調整したが、双方が譲らず交渉が不調に終わり、対立が継続した。
年月日未詳 / 冊子 514頁
文明十六年冬、島津久逸が新納近江守忠続の所領である日向飫肥南郷城を攻めた際、佐多忠山が久逸方へ加勢して戦死したこと、享年四十四と法名を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 528頁
文明十六年十一月、伊東祐国・伊作久逸・北原長門守らが新納近江守の飫肥城を攻めたため、北郷敏久が救援に赴いた経過を記す。越験山で敵軍を破って多数を討ち取り、包囲された城を救った。援軍の進路、決戦地、戦果を明記する北郷氏の戦功記事。
年月日未詳 / 冊子 541頁
文明十八年、忠昌が伯父忠続に末吉・財部・救仁郷を与えて飫肥と替え、久逸を伊作へ戻し、忠廉に豊州二郷を与えた。忠続が志布志へ移る際、友義が従ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 541~542頁
種子島氏家臣知覧氏の系図記事。島津久逸方の戦い、島津忠朝と新納忠武の関係を述べ、加治木大和守が帖佐城を奪取すると島津忠昌が加治木を攻めた経過を記す。降伏後の阿多移封までを追い、園田新右衛門・川山忠直ら知覧氏関係者の軍歴と所領移動を示す。
年月日未詳 / 冊子 542~543頁
島津忠廉が上京して足利義尚や宗祇・飯尾氏ら文化人と交わり、和歌と古今伝授を学んだ経歴を記す。帰国後は伊作久逸との戦い、島津忠朝らの軍事行動に関与した。さらに忠昌による加治木攻略、平山忠康への串良給付までを述べ、京都文化の受容と領国での軍事・恩賞を一続きに描く。
年月日未詳 / 冊子 576~577頁
明応九年、後土御門天皇崩御と後柏原天皇践祚の年に起きた島津一族の争いを記す。島津忠興が加世田城の忠福を攻め、伊作久逸が救援に向かったが敗北し、園田新左衛門に討たれた。中央の皇位継承と加世田をめぐる軍事衝突を同年記事として収録する。
年月日未詳 / 冊子 577頁
明応九年十一月十一日の加世田城攻防で、伊作河内守久逸が島津忠福を救援して戦死し、枕崎右衛門祐能・松元左近将監久賢らも同時に討死したことを記す殉国記事。
年月日未詳 / 冊子 578~579頁
大田氏系図により、忠福が加世田城で島津忠興の攻撃を受け、伊作河内守久逸の来援を得て抗戦したものの、久逸の戦死後に窮地へ陥った経緯を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 321頁
『文明記』の記事。河内守久逸以来の家系と伊作氏七代の系譜を述べ、家運断絶の危機に際して日州福島から伊作へ移居させ、近江守との縁組によって家を継承し、子孫が続いた経緯を記す。
十月十七日 / 冊子 544頁
加世田の河内守島津久逸の戦死を悼み、菊三郎の今後を案じる。弓箭では将来が定まらず、島津家当主と疎遠になるのは不利なので、旧知の者と相談し、鎌田出雲らを通じて返書するよう勧めた喜入忠弘書状。
文明六年八月廿三日 / 冊子 481頁
文明六年八月二十三日の犬追物について、島津氏一族と家臣を組別に配し、各人の得点を記した手組。
文明六年十月十八日 / 冊子 482頁
文明六年十月十八日、肝付での参会時に行われた犬追物について、参加者を組別に配し各人の得点を記した手組。
文明九年四月廿一日 / 冊子 489頁
島津武久を中心に一族が、情勢の変化にかかわらず同心し、家中の無事と相互扶助を守ることを神仏に誓った契状。
年月日未詳 / 冊子 514頁
義岡伯耆守豊久の出生と経歴を記し、文明十六年十二月廿二日に飫肥城へ押し寄せた敵二千騎余に三百余騎で応戦して戦死したこと、享年六十四と法号を伝える譜記事。
年月日未詳 / 冊子 588頁
島津忠良が十五歳の時に観音の霊夢を得て供物を捧げ、伊作城が攻撃された際にも観音の加護を受けたとする伊作観音の由緒記。
天正十二年八月十二日 / 冊子 922~923頁
三原昌安が岩切三河守へ、岩切氏が上古以来島津家に仕え、幼少の亀房を伊作家へ迎えた際に生涯供奉を誓って忠国・御簾中を安心させた由緒を詳述した。亀房が福島・伊作へ移る際も従い、家中で比類ない譜代として遇されたとする。
寛正七年正月十七日 / 冊子 453~454頁
島津立久をはじめ、鴨津氏・蒲生氏・伊東氏・伊地知氏・大寺氏・村田氏ら犬追物参加者を左右の組に分け、各人の騎数を列挙した手組。
文明四年二月五日 / 冊子 474~475頁
犬追物の手組として、島津氏一族・蒲生氏・長野氏・伊地知氏・平田氏らを組別に配し、参加者名を列挙したもの。
年月日未詳 / 冊子 564~566頁/原整理番号 16
豊州家の系図。島津忠国から忠昌・久逸らへの系譜、法名、役職や居城を示し、帖佐・平山城をめぐる一族の経歴を傍注する。
明応9年11月11日(久逸戦死時との注)、天文7年、寛永11年 / 冊子 178頁/原整理番号 58
伊東作太夫家の系図。祐康は井尻を号し源兵衛を称し、祐能は孫右衛門として伊作久逸に仕え、加世田で戦死したと記す。傍注はその時を久逸が戦死した明応九年庚申十一月十一日であろうとする。祐秀は四郎左衛門で間瀬川に戦死。祐貞は伊賀守として日新公に仕え、天文七年戊戌に日州日知屋へ移って地頭となった。別系の祐盛は伊賀守で功があり、祐盈は太郎四郎を称して京都で没した。末尾の祐義は伊左衛門、寛永十一年生まれで母を仁礼蔵人の女とし、養子で実は喜入休右衛門久守の三男、伊東へ改号したと記す。島津光久の江戸下向時に平戸で没した。
文明十六年~ / 冊子 436~445頁/原整理番号 68の1
文明十六年に始まる薩摩・大隅・日向の戦乱記録。島津久逸と新納忠績の不和を発端に、近江守方と伊勢守方の対立、鹿児島・伊作・加治木・帖佐・蒲生・市来・東郷・祁答院などでの出陣、城攻め、和睦、軍勢の移動を日次に記す。末尾は東郷・山田・平川方面の掃討と帰陣に至る。
正保四年一月五日 / 冊子 63頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0119
島津光久が嶋津中務少輔へ、今回論じた犬追物問答五か条を免許すると伝える。当家の秘伝なので、少しも他人に見せたり口外したりしてはならないと命じる。正保四年正月五日付で、光久の御判と御書判上の朱印の注記がある。
年月日未詳 / 冊子 388頁
伊作家の元祖・久長が伊作庄を領して同地に長く居住し、のちに日向国樺間院を与えられて移住したことを記す伊作島津久逸譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 534頁
新納近江守忠続が日向国飫肥院に住み、一門でありながら不和が深まって伊東六郎左衛門尉祐国と結び、飫肥城を囲んだ経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 534頁
文明十七年六月二十一日、太守が飫肥陣の後詰として大軍を発したが、味方軍は敗北し、櫛間城へ退いたことを記す。