島津久慶・島津久元連署宛行状
(寛永十一年)五月八日 / 冊子 421頁
島津久慶・久元が、諸所の合戦での戦功と政務参与の功労を賞し、太守家久の命により薩摩国伊佐郡黒木村を食邑として島津豊後守久賀へ与えた連署宛行状。
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(寛永十一年)五月八日 / 冊子 421頁
島津久慶・久元が、諸所の合戦での戦功と政務参与の功労を賞し、太守家久の命により薩摩国伊佐郡黒木村を食邑として島津豊後守久賀へ与えた連署宛行状。
十二月十九日 / 冊子 76頁
島津久賀・川上久国が、今月十六日に又三郎の祝儀が無事整ったことを報告する。兵部少輔夫妻の参列や黄門からの祝物に触れ、今後の指示を求める連署書状。
(寛永六年)十二月十九日 / 冊子 131頁
又三郎(島津光久)の十二月十六日の祝儀が滞りなく行われ、黄門や兵部少輔夫妻から祝物が届けられたことを、島津久賀・川上久国が報じた連署書状。
(慶長十八年)十一月晦日 / 冊子 423~425頁
慶長十八年十一月頃、島津家の女性年長者が、江戸へ赴く女性親族に対し、道中と在府中の身持ち、女房衆や家臣の統率、贈答、他家との交際、親子・家族への配慮を細かく説いた長文書状。
寛永十四年十二月廿二日 / 冊子 718~719頁
領内にキリシタン宗門はないとする従来の宗門改めを踏まえ、旅人・商人・出家・山伏などの身元と宿泊を厳しく調査し、改宗者や不審者を見つけた場合は拘束・通報するよう命じた条目。
(慶長十一年)六月十九日・六月二十八日 / 冊子 78頁
島津家久譜の記事。島津義久(龍伯)・島津義弘(惟新)の評議により、島津図書入道紹益の嫡子・河内忠倍を当家の人質として伏見へ赴かせることとし、島津藤次郎久賀の妹が主命と国家への忠節を重んじて忠倍を導いた。旅支度が整い、六月十九日に忠倍が鹿児島を出発して上国へ向かったこと、同月二十八日に家久が理性院を訪問し、これに関して院主が書状で謝意を述べたことを記す。
元和十年二月十二日 / 冊子 806~808頁
元和十年二月十二日に島津家久らが催した「賦何船」連歌。春の花、霞、船旅、月、雨、秋、里山などを題材として、家久・久賀・紹嘉・玄与・日説・元綱・宗可・重位・久元・重長・喜庵・国隆らが百韻を連ねた作品。
元和十年二月十二日 / 冊子 808~811頁
元和十年二月十二日に島津家久らが催した「賦何人」連歌。柳・月・霞・旅・山寺・秋・雪・里・恋などを題材として、家久・久賀・紹嘉・玄与・日説・元綱・宗可・重位・久元・重長・喜庵・国隆らが百韻を連ねた作品。
年月日未詳 / 冊子 167頁
島津朝久を祖とする豊州家の系譜を示し、久賀・忠次・藤次郎・久守・久邦・久元らの続柄を図示する。注記では、書状中の藤次郎を久賀の長男とする。
年月日未詳 / 冊子 747~749頁
豊州家六代朝久以後の系図。島津義弘の嫡女を母とする久賀、島津家久の庶子で朝久後室の領地を継いだ忠弘、松平定行家などへの婚姻、久次・久美以下の生没年・母方・養子関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 97~100頁
寛永六年六月二十二日、島津家久らが催した懐旧連歌。涼しさ、露、月、雪、松、旅、別れ、無常、四季の景物などを詠み継ぎ、各句に作者名を付して長い連歌一巻を構成する。
廿九日 / 冊子 327頁
伊予御方から届いた書状に、亥子の祝いとして目見えがあったと記されている件を取り上げ、親類中だけの催しなのか、他の書状には見えないので先方での評判を尋ね、まずはめでたいことだと述べた島津家久書状。
廿三日 / 冊子 327~328頁
前日に下々まで手厚い饗応と菓子を受けたことに謝し、疲れていたので当日に茶を飲んで味わうこと、数寄屋で飲みたいことを述べ、すぐ訪ねてくるよう誘った島津家久書状。
十八日 / 冊子 328頁
遠方からの心遣いに謝し、避けられない一度の用事を了承し、強風で出船できないため三日頃に桑名へ向かう見込みと伝え、現地の様子を詳しく書いて後便を送るとした島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 129頁/原整理番号 204-1
島津久賀の従兵・時任氏の日記。十三日、有馬城見物のため上津浦を出船したが、順風が悪く、柳之瀬戸に船掛かりしてその夜泊まったと記す。以下は十四日条へ続く。
年月日未詳 / 冊子 132頁/原整理番号 216
島津久賀の従兵・時任氏の日記。十四日に有馬へ着船し、薩州様の船で目見えしたのち、陣場と城を見物し、同日晩に有馬を出船して上津浦へ着いたと記す。
正月廿七日 / 冊子 17頁/原整理番号 19
島津久賀(豊後守)・喜入忠政(摂津守)が連署し、大嶋子之清左衛門尉は当地の案内者であるため、薩摩の軍衆は少しも乱妨してはならないと命じた手形。肥後天草の永野九郎兵衛輝澄家に伝来したもの。
正月廿九日 / 冊子 25~26頁/原整理番号 39-4
喜入忠政・島津久賀が市来宗友へ、その地での逗留をねぎらい、兵糧不足のため余分に召し置いた軍勢を順次帰すよう将州老から命じられたので、両人の人衆の一部を帰したと報じる。当地へ渡った人数は本文に「都合七千九萬」とあるが、季安は「七千九百之誤也」と注し、このうち三千余は有馬へ渡り、残りは当地にいるという。長島から米約七百石を積んだ三艘のうち、一艘は「かうね」に残る石州・佐州の人衆用に残し、二艘は上津浦へ向けたが悪風のため未着なので、現地の物奉行と早急に継続輸送を相談するよう求める。今後の兵糧船・使船は上津浦へ送り、全軍勢を一両日中に当地へ揃える予定で、細川越中守殿衆へ早く派遣せよとの命令を受けて二千人を二十六日に受け取ったこと、鹿児島への早使、小舟の多数準備も伝える。追而書で、大小三艘を送り、必要な者を乗せるよう指示する書状。
正月廿九日 / 冊子 26頁/原整理番号 40-2
喜入忠政・島津久賀が三原重庸・川上久国へ、上津浦の番手を受け取ったことを報告する使者を出し、鬼塚源太左衛門尉から条書への返答を受領したと伝える。条書は、命令なく有馬へ渡る者には自船・自飯米を負担させ、後日処分もあり得るという内容で、当地の諸軍勢へ周知するとする。一方、「かうね」から当地へ人衆を繰り渡す船で平田民部少輔が相談なく有馬へ渡り、船の配分や四、五千人の輸送を乱したことを強く批判する。物頭・奉行を安易に任じれば国のためにならないとして、厳格に命じるよう求め、三原重庸の帰着後に詳しく協議し、加世田小内記にも条書で伝える書状。
正月廿九日 / 冊子 27頁/原整理番号 41-2
喜入忠政・島津久賀が、「かう祢」にいる上入来院重国・北郷久加へ、有馬から届いた御袖判の条書を当地の軍勢には申し渡したので、両名のもとにいる者たちにも早急に伝えるよう求める。鹿児島との往復で得た返答から要点三か条を書き写し、任意に有馬へ渡海する者は自船・自飯米とする命令を周知しなければ、さらに無断渡海者が出ると警告する。船奉行で今度の諸役人中でも重要な立場の平田民部少輔まで前日に有馬へ渡ったと聞き、不都合であるとして、この法度を速やかに触れ渡すよう命じる書状。追而書で、昨日も飛札を出しており、当地へ早く来るよう求める。
正月廿九日 / 冊子 27頁/原整理番号 41-3
喜入忠政・島津久賀が亀之河の島津久頼・肝付兼屋・東郷昌重・吉利忠張へ、鹿児島へ照会した条書への返答を知らせる。任意に有馬へ渡る者は自ら飯米と船を用意し、後日処分を受ける場合もあるとの命令なので、条書の写しを送り、当地から直接任意に渡ろうとする者も含め、配下の全員へ漏れなく申し渡すよう求める書状。
正月廿九日 / 冊子 28頁/原整理番号 42-2
喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、前日に鬼塚源太左衛門尉が渡海した際に書状を出しており、さらに事情を伝えるため今井市兵衛を派遣したので、返答と口頭説明を聞くよう求める。「かう袮」の衆は、小舟による繰り越しを手配しにくいため、まだ当地へ来ていないと報告する書状。
正月廿九日 / 冊子 28頁/原整理番号 42-3
喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、平田民部少輔が当地へ来ておらず、そちらへ渡ったとの風聞が事実なら当地へ送るよう求める。「かう袮」の衆も船の配分不調により未着で、当地ではすでに四か所へ陣替えしたのに船奉行が不在だと訴え、山田にも暇ができ次第の来着を求める。また、命令なく有馬へ渡った者には兵糧・船を支給せず、後日処罰するとの鹿児島からの命令を伝える。鹿児島衆の出立総数は本文に「三□□十人程」と欠字を含み「百」の補記があり、割当中56人が当地へ来て少人数が「かう袮」に残ると報告する。出水衆約300人は渡海希望があるものの当地に置くよう命じられているため、その通り伝えたとする覚書。
正月廿九日 / 冊子 28~29頁/原整理番号 42-4
喜入忠政・島津久賀が薩摩番所へ、本砥での用務のため使者二人を派遣するので、異議なく通行させるよう命じる手形。
二月三日 / 冊子 57~58頁/原整理番号 85-2
島津久賀・喜入忠政が島津久元・山田有栄へ、薩州様が日向筋から鹿児島・出水・獅子島を経て渡海する予定と、御陸衆を留める指示を了承したと返答する。伊地知杢右衛門らの参着、外城衆の人数調整、帰還者と船の配分、兵糧消費を報じ、不要な人衆を早く帰すことと船の処置について下知を求める。
二月五日 / 冊子 71~72頁/原整理番号 113-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、出水衆を残らず戻す件を回答する。亀之川から荷物だけを船で、人は陸路で移し、三百人を渡す迎船を求める。平田宗直の衆は千五百人のうち四百人が帰り約千百人が残るため、大船十艘ほどを要望し、悪風で五日間滞留して米がさらに必要なこと、薩州様供立ての関船・荷船は出水へ回すことを伝える。
二月五日 / 冊子 73頁/原整理番号 114-2
島津久賀・喜入忠政が永左近允蘇右衛門直純・竹内備前守へ、崎之津の舟番は不要となったので上津浦側へ帰るよう重ねて命じる。崎之津近くの二島を先の指示どおり狩り、早く来るよう求める。『かう袮』の佐州老・石州老からも帰還命令の書状が出たと伝える。
二月五日 / 冊子 73~74頁/原整理番号 115-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が島津久頼・肝付兼屋・東郷昌重・吉利忠張へ、全員が急いで渡るよう命じる。荷物は船、人は徒歩とし、陣屋道具を余計に積まないこと、渡り終えるまで吉利忠張・東郷昌重が残ることを指示する。山狩奉行の長谷場兵右衛門・肥後内蔵助には狩りの結果を報告させ、有馬へ伝えるため早く来るよう求める。
二月五日 / 冊子 74頁/原整理番号 116-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が渡邊半右衛門尉へ、先日の使者としての来訪と伊東大和守祐久の書状を謝す。上津浦番所を大隅守が命じられたため自分たちが当地へ来たこと、近所なので今後も連絡し、異変があれば早く知らせるよう求める。
二月五日 / 冊子 74頁/原整理番号 116-3
入来院重国・北郷久加・喜入忠政・島津久賀が米舟上乗衆へ、『かうつら』軍衆の兵糧を積んだ船六艘を柳之瀬戸へ繋いでおき、誰から命じられても四人へ申し来て下知を受けるまでは、どこへも移動させないよう命じた。
二月五日 / 冊子 74~75頁/原整理番号 117-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、酉刻に届いた川上久国の書状を早船で送る。薩州様が直接当地へ渡るため軍衆を一人も帰さないよう命じられたこと、十二端帆の米舟一艘が来たが、当地にも大人数がいて兵糧がないため船を残したことを伝える。
二月七日 / 冊子 85~86頁/原整理番号 141-2
入来院重国・北郷久加・喜入忠政・島津久賀が三原重庸・川上久国へ、去る四日付書状への返答を多条で伝える。薩州様の有馬直行の有無に応じた番手・人数の扱い、船不足による軍衆の滞留、兵糧船・在陣人数・一日当たり兵糧などを報告し、兵糧蔵の引渡し等を求める。
年月日未詳 / 冊子 97頁/原整理番号 154-2
入来院重国・喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、村田経乗の返事を受け、渡海人数と兵糧が多過ぎるため、船便に応じて人数を帰し兵糧を陣へ送る案を相談する。上津浦衆を新着衆と交代させ、帰還前に島原の陣城を見せたいとの願いも取り次ぐ。本文末は二月八日だが目録年月日欄は空欄。
二月九日 / 冊子 101頁/原整理番号 161-2
入来院重国・喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、村田経乗が召し寄せられたため五か条の書付を送り、返答を早く求める。本田親紀を同行させ、詳しくは同人を通じて伝えるとする。
二月九日 / 冊子 102頁/原整理番号 162-2
入来院重国・喜入忠政・島津久賀が市来宗友へ、上津浦の軍衆五千人に対して米千石ほどしかなく一か月分の兵糧にも足りないため、雑穀を含め早急に継送するよう求める。薩州様の有馬直行を踏まえ、賦方・物奉行と相談して手配させる。
二月十一日 / 冊子 116頁/原整理番号 185-2
入来院重国・喜入忠政・島津久賀が島津久元・山田有栄へ、当地には一所衆や鹿児島衆など若輩が多く、武功ある者が少ないため、召し寄せられた皿良善介・蒲川内蔵允の両人をこちらに置くよう求める。事情に応じて相談の上取り計らうよう依頼する。
寛永十九年正月廿三日 / 冊子 431頁/原整理番号 543
島津久賀ら四名は、有馬・天草へ出陣した鹿児島・外城衆のうち御賦銀を受けていない者が支給を願い続けているとし、江戸の老中談合後に出物方で差し引いて支給するとの話も実現していないため、この機会に必ず取り次ぐよう野村大学・仁礼主計へ求める。数年支給がなく家計が続かない事情を訴える。
年月日未詳 / 冊子 417~419頁
露、池水、月、雁、田面、雪、雲、春野、山寺、旅、恋、花などを題材として、多数の連衆が句を連ねた『賦朝何連歌』。
年月日未詳 / 冊子 419~421頁
秋近い池、風、夕日、鳥、旅衣、月、野分、志賀の花、舟、恋、萩、蹴鞠の場など四季と旅恋を広く詠み継いだ別本の『賦朝何連歌』。
年月日未詳 / 冊子 421頁
修行、恨み、待恋、竹垣、梅、谷水、鴫、秋風、月、庵、蚊遣火、別れなどを題材に連衆が詠み継いだ『賦初何連歌』。
年月日未詳 / 冊子 427頁
菊、千年の松、秋月、雁、田面、海路、浦風、鐘、旅宿、山路、猪、露、浮れ妻、柴戸、花、胡蝶などを詠み継いだ『賦何道連歌』。
正月18日 / 冊子 746頁/原整理番号 775
軍衆は二万ほどの割当だったが各自が大勢を召し連れたため、水手を合わせ三万ほどとなり、米は五千石しかないと伝える。一か月分の兵糧のうち二十日分は既に渡しており、人数を減らすか、肥前・肥後などから米を借りるかを物奉行と相談するよう求める。日向庄内・肝付・根占など後続の衆は呼び留め、残っている大勢の扱いも相談するよう命じる。正月十八日付、久賀ら六名宛。
正月25日 / 冊子 789頁/原整理番号 874
国分の山伏である存堯坊・本林坊・大鏡坊について、当地で験者を務めさせるため、一刻も早く帰すよう久賀ら四人に命じる。引き延ばしてはならないとし、鬼塚の便で伝える。末尾には前の条書による指示だが、この控えではこのように記したという注がある。
正月廿八日 / 冊子 20~21頁/原整理番号 29
川上久国が島津久賀ら四名へ、二十四日付書状を受け取ったと応じる。黄門様は二十一日以来ひどく重かったが前日から少し楽になり、なお非常に疲れているものの琢庵の薬がよく合っていると報告する。黄門様から松平主税助・伊東大和守へ出した書状を稲留軍介が受け取らなかったという件は出水へ照会するよう求める。兵糧不足には、出水・川内にいる八左衛門ら四名へ申し付けるよう指示し、依頼された紙も送る書状。
正月廿九日 / 冊子 25頁/原整理番号 39-3
三原重庸・川上久国が天草の北郷久加・上入来院重国・喜入忠政・島津久賀へ、江戸にいる園田清左衛門尉を早々に出立させるよう児玉利昌を介して命令が出たため、急いで帰国するよう命じることを求める。薩州様は大坂から下向し近日到着する見込みだが、黄門様は二十一日以来食事が取れず日々衰弱していると知らせる。現地の番手人数を問い、狼藉がないよう十分に相談するよう求める書状。
二月四日 / 冊子 64~65頁/原整理番号 99
川上久国・三原重庸が島津久賀・喜入忠政へ、鬼塚源太左衛門の上津浦到着と条書への返答を受けたこと、黄門様の病状、薩州様の細島未着を報じる。有馬渡海衆の扱い、天草番手の必要人数確定後の余員帰陣、米之津へ向かう兵糧米七百石の船が未着であるため出水からも順次送ることを回答する。
二月四日 / 冊子 68~69頁/原整理番号 108
川上久国・三原重庸が島津久賀・喜入忠政へ、加世田内記が持参した御状・条書への返答を伝える。薩州様が大勢を率いて出張するなら態勢が変わるが、松平伊豆守信綱から参陣不要と指示された場合は番手だけを残して帰陣するため、まず確認するよう求める。北郷久加・入来院重国にも知らせ、村田郷左衛門・猪俣為右衛門と筆者衆を米之津へ急行させるよう追伸する。
二月七日 / 冊子 86頁/原整理番号 142-2
入来院重国ら四将が東郷昌重へ、薩州様の紫尾山通行に伴う道普請のため鶴田衆を帰したいとの願いに答える。出陣中の人衆帰還は法度で認められないため、道は所持の三村の庄屋に命じて整えるよう指示した。
二月九日 / 冊子 100~101頁/原整理番号 160-2
入来院重国ら上津浦四将が山田有栄・島津久元へ、薩州様の直行に伴い伊勢貞昌から注進があり、陣営を早く整えるため村田経乗・相良頼房・村尾源左衛門らを当地へ参らせるよう求める。佐州・石州の陣所が遠いため両所とも相談したと追伸する。
寛永十八年九月廿八日 / 冊子 428頁/原整理番号 537
山田有栄ら六名は、寛永十五年正月晦日までに天草へ渡った人数を、都合五千七百三十一人、内訳は人躰二千六百十九人・雑兵三千百十二人として差し出す。内訳二項の合計は総数と一致する。文書539と人数・連署者は同じだが、本書の対象期日は『正月晦日まで』であり、539の『正月朔日まで』と区別する。