北郷久根譜
年月日未詳 / 冊子 223頁
北郷久根は又五郎・蔵人・主膳と称し、高城地頭を長く務め、慶長十五年に都城へ移って家老職に約十九年就いた。寛永八年八月に再び家老に任じられ、腰物を拝領し、中尾口地頭、のち鷹尾口地頭を兼帯して寛永十七年に及んだと記す系譜記事。
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年月日未詳 / 冊子 223頁
北郷久根は又五郎・蔵人・主膳と称し、高城地頭を長く務め、慶長十五年に都城へ移って家老職に約十九年就いた。寛永八年八月に再び家老に任じられ、腰物を拝領し、中尾口地頭、のち鷹尾口地頭を兼帯して寛永十七年に及んだと記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 321~322頁
応永二十九年、島津貴久を大将として山門方面へ派遣し、伊集院頼久方の城を包囲した戦役を記す。和泉・阿久根方面を含む進軍路、城方の籠城、攻撃軍の兵站、周辺住民の避難・協力を追い、伊作城など山門地域の拠点を孤立させた経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 570頁
樺山長久起請文と阿久根高津宮明神棟札の年紀を掲げ、暦法・干支との関係から明応年間の年代を考証した島津国史の記事。
年月日未詳 / 冊子 221頁
島津忠倍譜の記事。慶長十四年五月十八日、宅地造営中に病となった忠倍が死去し、法号を覚翁大圓居士として青龍山大圓寺に葬られ、家臣の阿久根右衛門・山本弾右衛門・有川慶助も追跡殉死したことを記す。
正月23日 / 冊子 778頁/原整理番号 850
黄門の容態がよくなく、養生に天門冬の蜜漬が必要であるとして、阿久根の町や唐人の所持品を探すよう命じる。見つかれば蔵入の夫に持たせ、夜昼を問わず進上させることを求め、追而書でも少量であっても差し上げるよう念を押す。
年月日未詳 / 冊子 323~324頁
島津軍が豊後へ進出したのち、豊臣秀吉の大軍来援を受けて日向・肥後の二路から撤退するなか、桂忠昉が肥後路を退き平佐城へ入った経過を記す。秀吉方の小西摂津守・脇坂中務少輔・九鬼大隅守らが平佐城を包囲すると、城兵は討死を覚悟して抗戦し、高田橋安藝・阿久根權介らも城門で奮戦した。忠昉は落城後に秀吉へ出仕し、その剛勇を認められて宝刀を賜ったといい、九州征伐末期の平佐城攻防を伝える譜記事。
年月日未詳 / 冊子 299頁/原整理番号 34
阿久根氏系図を採録し、良望・忠頼・貞道・貞言・貞元らの代々と分岐を示す。諱や通称を補記した、阿久根氏の系譜確認のための史料。
年月日未詳 / 冊子 296~297頁
天正十五年四月二十五日、豊臣秀吉が川内の太平寺へ着陣し、西国諸将の大軍と舟橋で人馬を渡した。平佐城へ降伏を迫ると、城方は「賢人は二君に仕えず」と旧主への忠義を理由に拒絶。二十八日には城門・藤崎小路で激戦となり、高木帯刀・谷山紀伊守らが奮戦して京衆・在地衆を感嘆させた。
年月日未詳 / 冊子 320~323頁
肥後からの退陣時、白仁に在番した島津歳久勢が岡城主志賀道輝らの追撃を迎え撃ち、新納忠元・伊集院久春らが谷山・高城・水引などの防備と撤収に奔走した経過を詳述する。追撃戦や九鬼水軍との交戦、城兵・船の配置、戦死者を記したのち、島津義久が伊集院で剃髪して龍伯と号し、太平寺で豊臣秀吉に出仕して刀二腰と薩摩一国安堵の台書を受けるまでをたどる。九州征伐終結時の軍事・政治両面を連続して示す重要な譜記事。
慶長十一年十一月廿三日 / 冊子 94頁
出水郡の検地帳を受け取った旨を記す請取状。竹本・知識・鯖淵・杉川内・大川内・高尾野・野田・長崎など各村の帳数と内訳を列記し、受領・引渡しの関係者を記す。
林鐘二十日 / 冊子 101頁
琉球国三司官が市来因幡守ら五名に宛てた書状。文船派遣の依頼に対し、古来の交流は重んじるものの、近年は日本の賊船往来で海路が不穏となり、島々や港の警固に追われているため、現時点では要請に応じ難いと説明する。贈物への返礼として鹿錦三十把を進呈している。
延徳四年正月廿八日 / 冊子 559頁
阿久根郷の高津宮大明神宝殿の上棟に際し、天下泰平・海晏河清・子孫繁栄などを祈り、大工以下の関係者を記した棟札。
暦応五年七月十日 / 冊子 749頁
国中騒動のため軍勢催促への参陣が遅れた事情を述べ、阿久根猪右衛門に一族を残らず率いて早く馳せ加わり、忠節を尽くすよう求めた島津道鑑書状。
元禄十一年春 / 冊子 61頁/整理ID 192
島津綱貴譜は、元禄十一年春に向井市之丞友貞を琉球国在番奉行とし、岩城仲兵衛重良・名越與右衛門時氏・内田十郎右衛門頼実・佐々木新右衛門綱貞・阿久根助左衛門良隆の五人を副役に付けたと記す。友貞らは元禄十三年夏、任を終えて薩州へ帰った。
文明二年十月九日 / 冊子 471頁
島津国久が阿久根院蓮華寺の寺領・権益を安堵し、子孫や他門の者が妨げた場合は後日の証拠とする旨を定めた書下。
慶長十三年二月三日 / 冊子 160頁
慶長十三年二月三日、島津紹益と比志島国貞が阿久根寺家中へ、各寺領地の境界は二度の検地で許可済みであり、寺地を帳面に記して永く領知するよう命じた連署書下。
二月十三日 / 冊子 130頁/原整理番号 209
川上久国・三原重庸が指宿・市来・阿久根・串木野・頴娃・加世田・山川へ、黄門様の養生のため好物の生鮑・さし烏賊・「う□」・ながらめを調達し、昼夜を問わず急いで持参するよう命じた廻状。
二月十五日 / 冊子 141頁/原整理番号 238
川上久国・三原重庸が沿道諸地域へ、薩州様が今明日中に阿久根へ着き川内筋を通って鹿児島へ向かう予定なので、自有馬を整えて道橋を補修し、夜道に備えて各所で松明を用意するよう命じた。
七月四日 / 冊子 458頁/原整理番号 575
山田民部少輔が出水瀬之浦から隼人之迫川口まで赴くため、同所から人数を求める連絡があれば夜昼を問わず急ぎ参集するよう、出水・高尾野・阿久根の役衆へ回覧する。本文署名は北郷久加・川上久国・島津久慶だが、目録標題は島津久度外二名連署廻状とする。
七月朔日 / 冊子 469~470頁/原整理番号 600
京泊・西方・阿久根・出水の御曖衆に、管内の三枚帆から八反帆までの船を差し出し、昼夜を問わず至急久見崎御船手へ送るよう命じる。廻状を順次下へ回し、通過時刻を付けて差出地へ返送させる。
七月三日 / 冊子 475頁/原整理番号 612-2
前文書1通を宿次で速やかに送り、少しも遅延しないよう命じる添状。京泊・西方・網津・阿久根・野田などの通過時刻を記す。
正保四年八月十六日 / 冊子 86頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0164
長崎政所の指示により浦々へ張番を置いたが、黒船帰帆後は番衆を帰し、今後も船の往来を監視するよう各地へ回達した連署廻状。
七月朔日 / 冊子 468~469頁/原整理番号 597
南蛮船の件で、荒木嘉左衛門その他、長崎から鹿児島へ御用で通行する者を宿次で滞りなく送り届け、少しも遅延しないよう命じる。各宿の通過時刻・印を記した廻状として出水まで送達する。
七月朔日 / 冊子 469頁/原整理番号 598
長崎への黒船来航により、隠岐守・馬場三郎左衛門・高木摂津守・日根野織部からの連絡次第で人数を差し出すため、遠方の南潟衆を来る五日に向田へ集合させるよう命じる。山田民部少輔は出水へ赴き、高奉行から人数賦書立が届くので各人を見分して受け取るよう付記する。
七月朔日 / 冊子 469頁/原整理番号 599
長崎への外国船来航で多数の加子が必要なため、賦付の書物を持参する加子追立衆に従って早急に加子を立て、一刻も早く久見崎御船手へ送るよう命じる。遅延には後日厳しい処分があるとし、各所で判を据えて鹿児島へ返送させる。
七月二日 / 冊子 471~472頁/原整理番号 605-1
東郷重方・川越重昌は、長崎への船派遣で水手が大量に必要なため、年齢を問わず櫓取ができる者を当日中に久見崎御船手へ集めるよう命じる。さらに三枚帆以上で長崎まで渡れる船を調べて確保し、艘数を書き立て、廻状を走飛脚で回して各所の通過時刻を記すよう求める。
七月二日 / 冊子 472頁/原整理番号 605-2
前文書の急状を京泊以下の諸所へ送るため、走飛脚で時刻を移さず届け、各所で通過時刻を付すよう命じる添状。本文の『川越真左衛門』にはママ注があるため、目録標題の川越重昌と本文表記を区別する。
七月三日 / 冊子 474~475頁/原整理番号 611
前日の命令にもかかわらず水手の久見崎集合が遅れているため、年齢を問わず櫓取ができる者を追い立てて送るよう重ねて命じる。長崎へ向かう人数は既に向田へ着いており、水手が参集しなければ御用に支障を来して各担当者の落度になると警告する。
七月三日 / 冊子 475頁/原整理番号 612-1
鹿児島から、長崎へ送る人数・船を当面召し置くとの指示が届いたため、各御曖管内の船と加子を差し留めるよう宿次で知らせる廻状。
八月十二日 / 冊子 491頁/原整理番号 624-2
鎌田政慶が、召し置いた人数の名書には主取の名と派遣先を記し、この状を確認後に順次回送するよう命じる。郡山以下十三か所の御曖衆中を回覧先とし、十四日未刻に大口へ次渡したとの追記がある。
八月十六日 / 冊子 491頁/原整理番号 625
島津久慶・川上久国が、今月三日に長崎政所の命で浦々へ急に張番を命じたところ、各地が速やかに参集し行儀よく勤めたことを評価する。北郷佐渡が長崎から帰り、長崎奉行も帰国し、黒船も続く北東風で遠くへ帰帆したとの熟練船頭の判断を受け、夜番を引き揚げて早く帰るよう市来以下の夜番衆へ命じる。編者は『旧記雑録追録一』164号と同一文書と注記する。
長禄二年四月十七日 / 冊子 432頁
阿久根波留村の上下諏訪大明神両殿に納めた扇形の鏡について、信心の大願主平兼次の息災延命と子孫繁昌を祈る願意を記した鏡背銘。
永正十年十月吉日 / 冊子 603頁
阿久根院内の水田を、一壺町三段・六町卅・九段・一弐段などの区画に分け、所在地と面積を列記した坪付。
永正十七年六月四日 / 冊子 625頁
薩摩国阿久根の大固寺に関する水田を、合計十七町五段として所在別に書き上げた坪付。
正徳六年三月十三日 / 冊子 259頁/整理ID 652
吉貴が玄祐西堂に、阿久根蓮花寺の住持職を任せ、従前の例に従って職務を執るよう命じる公帖。三月十三日付。
安永九年十月四日 / 冊子 602頁/原整理番号 1708/整理ID 1708
島津重豪が玄牛西堂へ、阿久根蓮花寺広済寺の住持職について、先例に従って執務するよう命じた任命状。安永九年十月四日、中将重豪判。蓮花寺と広済寺の関係は本文の連続表記以上に補わない。
三月四日 / 冊子 364頁/原整理番号 430-1
天草出役に伴い、阿久根町浜の水手女房百十二人へ、延べ八千三百五十二日分の跡飯米として先掻粟三十四石六斗六升を渡すよう、廻文に従って田上九兵衛・小幡主膳正へ命じた寅三月四日付の手形。
年月日未詳 / 冊子 602頁/原整理番号 656
清色・鶴田・東郷・渋谷・阿久根・伊集院・種子島など各地から米之津へ集まった出陣衆について、領主・地頭と家衆・供夫の人数を列記し、船で久見崎へ向かった経過を記す。
記事成立日:未確認 / 冊子 583頁/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-A033
莫根次郎太郎成長入道圓也の注進目安状一通を紹介する。 「有御奉行所校正點古寫一通」と記し、貞久公御裏判の小字を添える。 正文が宮之城家臣阿久根伊右衛門良賢家にあると記す。 「記于左」によって七五号軍忠状案へ導く。
年月日未詳 / 冊子 450~454頁/原整理番号 2-21
当家が門屋を避け、十三歳まで宿を隠したとする旧記を引く。季安は市来氏旧志の出生年と年齢計算が合わないことを指摘し、今屋殿・後居陸峨・野依宮・安院宮を一人に混同した説を批判する。丹後局と惟宗廣言の住吉での出産、忠久と北陸宮の元服・改名・立皇、頼朝の記録における忠久の登場時期を、玉海・東鑑・家伝・古文書で検討する。忠久を北陸宮とする説には年月や行動の不足があるとし、「あかう所」を預所と読む理由、庄官・地頭・守護の兼務にも及ぶ。末尾では母方の系譜を比較して、自説のみを立てることへの慎重さを述べ、旧系図からの気づきを内密に上申し、江戸への申上げは都合次第とする。
年月日未詳 / 冊子 677~678頁/原整理番号 684
外城から島原方面へ動員され、米津から召し帰された軍衆の人数をまとめた指出留。全体の合人数二千九百二十一人を掲げ、上津浦・加世田・有馬詰をはじめ各地域の衆について、人躰・夫丸などの内訳と小計を記録する。
二月五日 / 冊子 71~72頁/原整理番号 113-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、出水衆を残らず戻す件を回答する。亀之川から荷物だけを船で、人は陸路で移し、三百人を渡す迎船を求める。平田宗直の衆は千五百人のうち四百人が帰り約千百人が残るため、大船十艘ほどを要望し、悪風で五日間滞留して米がさらに必要なこと、薩州様供立ての関船・荷船は出水へ回すことを伝える。
暦応五年七月十日 / 冊子 476頁/原整理番号 274
島津道鑑の書状。国中・四国宮方の動向や南方からの令旨を伝え、軍勢を整え国中の事態に備えるよう求める。七月十日付。
三月四日 / 冊子 365頁/原整理番号 430-2
有馬出役の水手三十五人について、延べ千三百八十一日分の女房跡飯米として、折口浜村に先掻粟五石七斗三升一合一夕を渡すよう、廻文に基づき命じた寅三月四日付の手形。右記が寛永十五年寅の留帳中にあるとの後記を伴う。
年月日未詳 / 冊子 250頁
『島津国史』が、文永元年前後の島津氏の家督・守護職・所領相続を詳述した記事。忠時・久経らの系統、薩摩・大隅・日向三州の支配、薩摩郡市来院・山田院・日置南郷・宮里郷・阿久根十二島などの所領、幕府・将軍家への奉公、親族間の譲与と訴訟を年代順に記す。蒙古襲来期の軍事奉仕や寺社との関係も含み、島津家の継承根拠を示す。
暦応四年九月十二日 / 冊子 742頁
宮之城の阿久根徳石衛門所蔵であることを示す所蔵注記のみを掲げた莫祢円也軍忠状の項目。本文は収録されていない。
(慶長四年)七月廿一日 / 冊子 405頁
島津義弘が少将に、呂宋への商買船と真壺の取扱いを詳しく指示する。長崎へ着岸した船の真壺を没収し、内府も商買船を曲事としたこと、甑島・阿久根方面の船も高島新蔵や寺沢志摩守と連携して厳重に改めることを伝え、「ばはん」船についても油断なく詮議するよう求める。
七月六日 / 冊子 823頁
島津義弘が忠恒へ、寺沢志摩守への使者が阿久根境の西方という場所に留め置かれていると、本田六右衛門尉から報告があったことを伝える。事情を確認し、舟を手配して対応するよう求めた書状。
(慶長九年)四月二日 / 冊子 929頁
寺沢広忠正成が島津忠恒へ、日向路から使者を送る予定だったが、龍伯の病気と阿久根からの出船を聞いて延期したと説明する。早舟と使者の手配を述べ、忠恒の上着後に面会して詳しく伝えるとした。
(慶長九年) / 冊子 944-945頁
島津義弘が、呂宋渡海船について山口直友へ照会し心配不要との返答を得たと報じる。海路・京都滞在中に家臣の狼籍がなく、所司代板倉勝重からも薩摩衆の宿取りを称賛されたとして、阿久根で定めた法度の効果を喜んだ。