町田忠如書状
二月廿一日 / 冊子 674頁
町田忠如が町田中務少輔に、伊作へ帰宅するよう促し、以前の奉公を今後も変わらず評価するとして帰参と忠節を求めた書状。
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二月廿一日 / 冊子 674頁
町田忠如が町田中務少輔に、伊作へ帰宅するよう促し、以前の奉公を今後も変わらず評価するとして帰参と忠節を求めた書状。
七月十八日 / 冊子 96~97頁
数年来の島津家と相手方の戦争を仲介して和睦と縁組を実現し、三郡を治めた功績を賞し、使者派遣を辞退すれば島津方から疑われかねないとして、従来どおり忠義と奉公を続けるよう求めた連署状。
正月十一日 / 冊子 186~187頁
豊臣秀吉が正月朔日付の注進を十一日に受け、唐人・朝鮮勢が蔚山へ進出し、日本諸将が迎撃に向かったことを承知した朱印状。諸将に相談して敵を一人も漏らさず討ち果たすよう命じ、安芸中納言・増田右衛門尉・因幡衆・大和衆・紀伊国衆・但馬衆・九鬼大隅らを増援として順次派遣すると告げる。今後の戦況報告を待ち、その注進次第では秀吉自身も渡海するとした。
二月廿日 / 冊子 514頁
山口直友が濱市で進む交渉は一両日中におおむね決着する見込みだと報じ、その間は軍事行動を控えるよう要請する。竜伯父子にも同様に伝え、濱市へ戻って現地の状況を追って知らせるとする。
応永十七年六月 / 冊子 240~241頁
将軍足利義持が島津元久の在京屋形へ御成りになった際の御目見人数と進上物を列記した注文。北郷中務少輔、樺山安藝守、加治木能登守、野邊右衛門大夫ら一門・家臣が太刀・銭などを献じたことを記し、将軍接遇における島津家中の序列と役割を示す。
年月日未詳 / 冊子 323~324頁
島津軍が豊後へ進出したのち、豊臣秀吉の大軍来援を受けて日向・肥後の二路から撤退するなか、桂忠昉が肥後路を退き平佐城へ入った経過を記す。秀吉方の小西摂津守・脇坂中務少輔・九鬼大隅守らが平佐城を包囲すると、城兵は討死を覚悟して抗戦し、高田橋安藝・阿久根權介らも城門で奮戦した。忠昉は落城後に秀吉へ出仕し、その剛勇を認められて宝刀を賜ったといい、九州征伐末期の平佐城攻防を伝える譜記事。
(慶長十四年)七月廿九日 / 冊子 239頁
七月二十九日、徳川秀忠が島津家久から使者として敷根中務少輔を遣わされ、虎皮五枚・熊皮十枚・焼酒二壺を受領したことを喜び、詳細は本多正信が述べるとした御内書。
(寛永九年)十一月二日 / 冊子 322~323頁
軍勢編成の覚書。大将を兵庫頭殿とし、その六百六十七人をはじめ、安芸守・下野守・中務少輔・喜入摂津守・川上因幡守・三原左衛門佐らの人数を列記し、合計千八百十三人とする。
応永十八年十一月二日 / 冊子 258~259頁
北郷知久が樺山方に、公方へ一味同心して忠節を尽くすこと、親子双方の重大事を互いの重大事とし、意向を隠さず申し合わせることなどを神仏に誓った契状。
永正十二年二月七日 / 冊子 606頁
No.1856と同日の犬追物について、別の初日二番の射手と射数を列記した手組。
永正十三年六月一日 / 冊子 611頁
No.1874・1875と同日の犬追物について、別の射手と射数を列記した手組。
〔慶長五年〕十一月十四日 / 冊子 466頁
本文はNo.1286と同文であるため省略されている。島津惟新が少将に、山田衆が美濃から離れて出水へ逃れ、佐敷・水俣の敵勢は大軍ではないとの報告を伝える。出水へ使者を送ること、庄内山田で粉骨した者への扶持、今回の軍役に進まない侍への対策として身分を問わず一人三石を与える案を示し、龍伯への取成しを求める。
年月日未詳 / 冊子 747頁
町田久用から治部少輔・中務少輔へ続く庶流の系譜を掲げ、久用が実久方として伊集院城を守り、天文五年三月七日に戦死したことを注記する。
年月日未詳 / 冊子 240頁
北郷知久譜が、応永十七年六月二十九日に将軍足利義持が島津元久の京都の館へ御成りになり、在京中の北郷知久に関する進上物証書が作成されたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 319頁
薩摩平定後、島津貴久が未婚であったため、島津久豊が新納忠臣の娘を麑島へ迎えて貴久の妻とするよう、北郷知久を介して婚姻を進めたことを記す。
永正十一年十一月十四日 / 冊子 605頁
永正十一年十一月十四日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
永正十一年十一月十九日 / 冊子 605頁
永正十一年十一月十九日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
永正十一年十二月九日 / 冊子 605頁
永正十一年十二月九日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
十一月廿五日 / 冊子 670頁
島津忠兼が曽於郡衆に、雪花の手配を命じ、地頭がいない時期から一味して奉公したことを賞し、河上・伊地知・有屋田・鹿島らの協力と番の用心を頼んだ書状。
年月日未詳 / 冊子 723~724頁
天文三年八月十四日の永吉城攻防で、平田清宗・樺山氏・新納氏・三原氏・伊地知氏ら多数が戦死したことを、諸名とともに記す。
年月日未詳 / 冊子 304~305頁
豊臣秀吉が八代から佐敷・日州方面へ船団と兵糧を送り、諸城の降参を受けながら進軍した経過を記す。海上輸送、船橋、陣取りを組み合わせた補給体制と、島津義久が赦免・安堵を求めて服属へ進む政治交渉が併記される。
(元和六年)九月廿日 / 冊子 736頁
秋月種有が三原左衛門らに、細島に置いた者が帰着し、十九日に長門守が細島へ着いたこと、上使の船が下関へ到着して西目への下向が決まったとの情報を急報した書状。
十一月廿五日 / 冊子 726頁
地頭不在の時期にも一味同心して忠実に奉公した曾於郡衆の懇志を喜び、特に川上十郎左衛門ら諸士の入魂を頼もしく評価する。番所の用心を堅固にして油断しないよう命じ、雪花の件には急ぎ合力すると約した島津忠兼書状。
寛永廿一年三月廿九日 / 冊子 233~234頁/原整理番号 172-3
三月二十九日付の達書。沢原野の御馬追を四月六日または七日に天候を見て行うことになったと伝え、例年どおり郷町の人々を招集するよう命じる。招集に遅れが出ないよう、関係各所へ知らせる。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):同三年丙寅九月十六日 小字・補記(別層):(文安) 補記(正文と別層):(文安) / 冊子 132頁/整理ID KW1-G000098
北郷中務少輔知久の契約状を左に収録すると記す。
文久4年正月14日 / 冊子 335頁/原整理番号 472/整理ID 472
文久四年正月十四日、従四位下源久光朝臣を左近衛権少将に任じる宣旨の口宣案。上卿は坊城大納言、裏面に口宣案、奉者に蔵人中務少輔藤原資生を記す。同日付の従四位下叙位文書とは、授ける位階と官職の内容が異なる。
正文日付不記(前条同上の書立) / 冊子 335頁/原整理番号 474/整理ID 474
「同上」として、嶋津少将の従四位下、上卿坊城大納言、職事中御門頭右大辨、少将の上卿坊城大納言、職事勘解由小路中務少輔を列記する書立。位階・任官に関係する上卿と職事の組合せを記す本文で、ここに独立した年月日はない。前条との同上関係は保持し、明記のない人物名や日付を追加しない。
〔大永6年〕11月25日 / 冊子 340頁/原整理番号 130-26
〔大永六年〕十一月二十五日、島津忠兼が曽於郡衆へ送った書状。雪花の件を承知して早急に命じて合力すると約し、澄真から詳しく聞いた曽於郡衆の比類ない懇意を喜ぶ。とりわけ地頭不在の時にも忠兼方へ一味の心で余儀なく奉公したことは永く忘れないと述べ、河上十郎左衛門尉・河上山城守・否笠佐渡守・伊地知七郎三郎・有屋田治部少輔・鹿嶋中務少輔が親密に結束しているとの報告を頼もしいと評価し、番の用心を堅固にして油断しないよう命じる。詳細は使僧に口頭で伝えさせるとする。
天正15年5月26日 / 冊子 340頁
島津義久が島津中務少輔(家久)へ、近年の混乱後で世上が不安定ななか、豊臣政権への服属を外れて公儀に背くことのないよう慎重な判断を求めた書状。家久が上洛するとの風聞にも触れ、詳しいことは高崎某に言い含めたとしており、家久の進退を強く案じる内容である。
天正15年5月27日 / 冊子 340頁
豊臣秀長が島津中務少輔(家久)へ、家久の身上について申し上げた結果、佐土原城と本来の知行を返還することになったと伝え、その旨を承知するよう求めた書状。豊臣政権への服属後、家久の本拠と旧領が正式に安堵されたことを示す。
正保四年一月五日 / 冊子 63頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0119
島津光久が嶋津中務少輔へ、今回論じた犬追物問答五か条を免許すると伝える。当家の秘伝なので、少しも他人に見せたり口外したりしてはならないと命じる。正保四年正月五日付で、光久の御判と御書判上の朱印の注記がある。
(慶長五年)十一月十四日 / 冊子 614-615頁
島津義弘(惟新)が、関ヶ原で離散した山田衆が肥後を逃れて出水へ着き、佐敷・水俣の敵はさほど大勢でないとの情報を伝える。佐土原について中務少輔との親類・旧交を理由に龍伯と忠恒の支援を求め、国内神社の屋根修復を進めること、今度の軍役で禄のない侍へ一人三石ずつ与える案を示して龍伯との相談を依頼する。
応永17年6月 / 冊子 52頁/原整理番号 49の9
島津殿(冒頭原注は島津元久)の上洛について、応永十七年六月三日の参府、十一日の参会、二十九日に御屋形へ御成の際の引物と、御所の目に懸かった供衆を記す。御一家二名、國方六名、御内方二名に分け、北郷中務少輔・樺山安藝守・加治木能登守ら各人の御太刀一・鳥目百貫を列挙する。軍行ではないが供衆の例として略抄した記事。
寛永十九年十二月三日 / 冊子 431~434頁/原整理番号 544
天草の明地へ移す百姓について、出身村、家長、男女人数、馬匹、農具・鍋釜・桶・種などを戸別に列記する。全三十戸の人数は男女計百五十六人、馬は四十五疋である。冒頭の一戸では鋤一丁・まんが一つ・鍬三具・鎌三具などを明記し、後続戸は同断または個別の道具を記す。編者は寛永十九年七月十六日の奉書による移住とみなし、帳末は相良権兵衛頼員・島津中務少輔久茂が同年十二月三日に署判する。
永正十一年十二月十一日 / 冊子 135頁/原整理番号 54
永正十一年十二月十一日の犬追物手組。島津塩鍋丸・石井中務少輔・島津源左衛門尉・税所左衛門尉・肝付三郎五郎らの射手を列記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)、喚次を飛彈源次郎とする。
永正十二年二月七日 / 冊子 135頁/原整理番号 55
永正十二年二月七日の犬追物手組。島津又六郎十九疋、税所左衛門尉十七疋、石井中務少輔九疋などの配当を列記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)、喚次を大寺駿河守とする。
永正十三年六月一日 / 冊子 137頁/原整理番号 61
永正十三年六月一日の犬追物手組。島津太郎左衛門尉・島津助六・税所左衛門尉・廻兵部少輔・石井中務少輔らの射手を列記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)、喚次を伊地知四郎左衛門尉とする。射手別犬数は記さない。
慶安元年九月廿六日 / 冊子 167頁/原整理番号 119
慶安元年九月二十六日の「初日一番四角之外」犬追物手組。光久様六疋、島津又左衛門尉五疋、島津中務少輔三疋などを記し、検見を島津圖書頭、喚次を蒲池新助とする。
6月29日宸翰写;8月摂津伝達(各原記載) / 冊子 373頁/原整理番号 535の3~5/整理ID 535-3
原の3~5を一行にまとめた文書群。原の3は御名の島津茂久と松平三河守・細川越中守ら二十三の官称を列記する名書。原の4は六月廿九日、一橋中納言へ賜った宸翰写で、世上の騒動を憂え、昨年八月十八日の出来事と関白らの意図を結び付ける噂に惑わされないよう述べる。大和への行幸は望まないと申し出たのに延期となったこと、守護職を肥後守に命じたのはその忠誠によることで私情ではないことを説明する。原の5は、長州人の入京を許さない旨の書付と稲葉美濃守の御渡書写で、本文は第533号の2と同文として略すとの注がある。さらに別紙五通を稲葉美濃守と所司代から受けたことを、漏れなく諸郷・私領へ周知する八月摂津の通知を収める。政治判断・噂の否定は宸翰や書付の叙述として読む。
天正六年十一月十三日 / 冊子 558~559頁
島津義久が島津家久へ、大友軍が高城へ着陣した難局で昼夜軍労を尽くし、本懐を遂げた高名は比類ないと賞した。その忠節に対して領地を宛行い、今後も戦功を尽くすよう命じた感状。本文年紀は天正六年十一月十三日と読める。
天正十年十一月二十六日 / 冊子 728頁
近衛信尹が島津家久へ、京都で不慮の錯乱が起こり他に手段がないため、匠作へ使札を送ったと知らせ、この機会の助力を頼んだ書状。扇子五本を贈り、詳細は進藤筑後守に託す。
応永十七年六月 / 冊子 472~475頁/原整理番号 269
進上物の注文。諸大名・寺社や役人などへの太刀・馬・弓矢・刀装具・酒肴等の贈答品を、相手方ごとに品目と数量を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 153頁
北郷義久を祖として、子の久秀(藤次郎)・忠通(又次郎)・知久(中務少輔)を示す北郷氏の系図。
年月日未詳 / 冊子 158頁
島津元久譜として、梶山で兄二人を失い寺で喝食となっていた北郷知久を還俗させ、加冠・命名して宝刀鵜戸丸を与え北郷家を継がせたこと、応永十七年に将軍足利義持から中務少輔に任じられたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 734頁
島津義弘の初名忠平、通称中務少輔・又四郎・兵庫頭、位階・官職と、天文四年七月二十三日の出生、母が入来院弾正忠重聡の娘であることを記す。
永禄十年十一月 / 冊子 171頁
菱刈氏が島津家に背いたため、永禄十年に貴久・義久が出陣して馬越城を攻め、横川城主菱刈中務少輔が同地を島津方へ献じて退去したことを記す。途中の詳細は省略される譜中記事。
天正15年6月10日 / 冊子 341頁
豊臣秀長が、島津中務少輔家久の突然の死を受けた島津又七郎(豊久)へ、生死は世の習いなので分別を失わぬよう慰めた書状。藤堂某を派遣して諸事を相談させ、豊久の覚悟次第で今後取り立てると約しており、父を失った若い豊久の後見と処遇を示す。
寛延二年十一月廿八日 / 冊子 220~222頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0626
寛延二年十一月廿八日、従五位下源朝臣重年を従四位下に叙すべしとする位記。中務の叙位文は、兵欄・羽衛に勤め、精誠を怠らず夙夜公に尽くしたことを述べ、「宜申榮級、用旌寵章」として昇叙を命じる。中務卿職仁親王が宣し、中務大輔藤原朝臣光香が奉じ、中務少輔藤原朝臣冬康が行う。 続いて大納言・中納言の交名を掲げる。通兄・兼潔・榮親・尚實・秀定・光綱、雅香・重熙・規長・公文・顯道・公積・通枝・頼要の名を載せ、重熙には皇太后宮権大夫、顯道には左兵衛督、通枝には左衛門督の兼官を付す。一部は位階・官職だけを記し、姓名を記さない。末尾に「等言」(ママ)と記す。 「制書如右、請奉」「制、附外施行、謹言」「制可」と記し、太政大臣・摂政・左大臣・右大臣の欄、兵部卿貞建親王、兵部大輔基風、右大辨為成を列記する。大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充と右中辨益房の記載を経て、従四位下源朝臣重年への告文と「符到奉行」に続く。兵部少輔兼皇太后宮少進泰兄、大録・少録の欄、天皇御璽を示す枠と朱印の注を載せ、末尾にも同年十一月廿八日を記す。冒頭は「全上」「正文在文庫」。
寛延二年十一月廿八日 / 冊子 222~224頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0630
寛延二年十一月廿八日、源朝臣重年を従五位下に叙すべしとする位記。「右可従五位下」に続く中務の叙位文は、兵欄・羽衛に勤め、精誠を怠らず夙夜公に尽くしたことを述べ、「宜授榮爵、用旌寵章」として叙位を命じる。中務卿職仁親王が宣し、中務大輔藤原朝臣光香が奉じ、中務少輔藤原朝臣冬康が行う。 大納言・中納言の交名には通兄・兼潔・榮親・尚實・秀定・光綱、雅香・重熙・規長・公文・顯道・公積・通枝・頼要を掲げる。尚實には左近衛大将、重熙には皇太后宮権大夫、顯道には左兵衛督、通枝には左衛門督の兼官を付す。一部は位階・官職だけを記して姓名を欠き、末尾に「等言」(ママ)と記す。 「制書如右、請奉」「制、附外施行、謹言」「制可」とし、太政大臣・摂政・左大臣・右大臣の欄、兵部卿貞建親王、兵部大輔基風、右大辨為成を列記する。大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充と右中辨益房の記載を経て、従五位下源朝臣重年への告文と「符到奉行」に続く。兵部少輔兼皇太后宮少進泰兄、大録・少録の欄、天皇御璽を示す枠と朱印の注を載せ、末尾にも同年十一月廿八日を記す。冒頭は「全上」「正文在文庫」。
文政元年12月16日 / 冊子 541~543頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1640
従四位下源朝臣斉興を従四位上に叙する位記。兵欄・羽衛に勤め、精誠に懈りなく昼夜公に奉じたことを称え、位階を進め寵章を用いるとして、担当者に施行を命じる。文政元年十二月十六日、朱印の表示を伴う。三品行中務卿紹仁親王宣、正四位下行中務大輔藤原朝臣師光奉、従四位下行中務少輔藤原朝臣維長行。公修以下、権大納言・権中納言などの官職と名を列記し、制書の内容を奉じて外へ施行する旨が続く。従五位上行大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師徳、右中辨光成を掲げ、関白・左大臣・右大臣・内大臣は名の空欄を残し、太政大臣は闕とする。二品行兵部卿貞敬親王、兵部大輔兼淡路守良久、右大辨在経、兵部少輔兼遠江守利根の官職・名を記し、斉興に制書を告げて符の到来後に奉行する書式へ続く。末尾にも同日付、朱印の枠図表示、大録・少録・少録の欄、右一通を採録する。「月日辰時」という未記入欄や空白の官職名欄を補わず、転写された印の表示と現物の押印を区別する。