高山盛聴書状
(寛永十三年)十一月十日 / 冊子 560頁
将軍が息災でたびたび鷹狩に出ていることを伝え、家久の病気を聞いて心配していると述べる。医療のため人が派遣されたので効験があるだろうとし、寒中につき養生を第一にするよう勧めた書状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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(寛永十三年)十一月十日 / 冊子 560頁
将軍が息災でたびたび鷹狩に出ていることを伝え、家久の病気を聞いて心配していると述べる。医療のため人が派遣されたので効験があるだろうとし、寒中につき養生を第一にするよう勧めた書状。
(寛永十四年)五月九日 / 冊子 657~658頁
長く無沙汰したことを詫び、将軍の病状が次第に快方へ向かったことを喜ぶ。また家久にも治療の効果が現れて久志本式部少輔を帰したと聞き、引き続き養生するよう勧め、島津留守や川上将監とも連絡していると伝えた書状。
二月七日 / 冊子 649頁
北原久兼が肝付兼興に、贈答への謝意を述べ、鹿児島・高山・新城などをめぐる調停と今後の相談を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 856頁
朝鮮出陣にあたり、地域・番立ごとの人数を書き上げた「朝鮮出陣賦」。一番立の大村衆五十五人、山野衆四十人、三番立の高山衆百十人、一番立の馬越衆三十五人などを列記する。 地域別の動員数と隊編成を数値で確認できる短い賦役表。一部は「本文無之」とされ、底本だけでは内容を完全に復元できない。
寛永12年12月2日 / 冊子 233~235頁/原整理番号 171
古本在高山地頭假屋。高山衆中の五人組指出帳で、各組の年齢・生国・男女・子・下人と組頭を列記する。合男女の人数を組ごとにまとめ、寛永十二年十二月二日、追水善左衛門尉ほか五人組名判で結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 549~552頁/原整理番号 557
隅州横川の安良大明神、妙高山帝釈寺、大慈寺、昌林寺などの開基・移転・寺跡を年代順に記す由緒書。地理志・寺伝・棟札等を引き、永享・延文・応永・弘安年間の伝承を考証する。
天文8年霜月吉日; 永正元年・大永年間(付随系譜) / 冊子 341頁/原整理番号 130-28
天文八年霜月吉日、薩摩国市来院内伊作田名一町七反三十歩の坪付を河上次郎左衛門尉へ示した文書。忠元・本田親信・伊集院大和守忠朗を記し、忠元については「光」異本および正本では忠光との校異を付す。付随系譜は十一代河上年家が平次郎・次郎左衛門尉を称し、入道舟伴斎、法名高山道慶居士であったこと、永正元年に河上信濃守女を母として生まれ、大永年間に清水の本田某が敵対した際、年家の領する重久名を本田某が襲取したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 727~728頁
肝付兼重をめぐる系譜・軍事記事。入部七郎、鹿屋矢亀丸、肝付秋兼らの名と年齢・系統を掲げ、高山・鹿屋周辺での合戦、矢亀丸の討死、首級獲得、入部氏との関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 728頁
高山士入部氏の旧系図により、入部七郎・鹿屋矢亀丸・肝付秋兼らの系譜と戦闘を記す記事。高山合戦で矢亀丸が討死し、入部氏が首級を得たこと、肝付・鹿屋氏との関係を伝える。
年月日未詳 / 冊子 847頁
入部氏について、興国元年に鹿屋矢亀丸が長谷山で敵方平岡之四郎を討ち、首を取った由緒を記す系図記事。
壬申11月12日・14日 / 冊子 906~907頁/原整理番号 1120/整理ID 1120
朝廷への県内高届に用いるため、別紙様式で各自の持高を正確に記して十二日までに提出するよう命じる。あわせて、旧軍役高所務米の手形を区戸長へ渡すため、受取人は請取書を持参するよう十四日付で通知する。
明治6年3月19日・21日鹿児島県庁 / 冊子 914~915頁/原整理番号 1135/整理ID 1135
免許銃を除く所持銃砲を県庁または郡治所へ持参して検査を受け、法式どおり割印を受けるよう命じる。所有者名・銃番号を記録して期限までに届け出させ、各郷の割印番号の付け方を定める。官給銃の所持者には別紙へ調印し、所定期限までに申し出て返納等の処理を受けるよう通知する。
明治3年正月(日不記)知政所 / 冊子 731~732頁/原整理番号 949/整理ID 949
通達留。旧本立寺墓所を清水、旧興國寺を高山、旧隆盛院を草牟田、旧福昌寺を長谷場西、旧恵燈院を長谷場東、旧深固院を長谷場北、旧浄光明寺を上之原、旧南林寺を大門口、旧壽國寺を武、旧良英寺を田之浦の御墓と称する対応を列記する。旧大乘院内鍋休丸様の御墓は清水城下御墓とする。従来は寺号で呼んでいたが原「都而被廢付」と述べ、以後は各地名で呼ぶ旨を伝える。明治三午正月知政所。十一対応の呼称変更を保持し、遺骸の移葬や墓地造成・現在地の特定、廃寺完成数を補わない。
10月16日(目録、年次記載なし) / 冊子 351~352頁/原整理番号 18
高山高隼寺に関係する書付を掲げ、祈祷や寺社の所領・由緒に触れる。永禄年間の島津氏と花尾社をめぐる記事が続く。
永禄10年10月10日(目録) / 冊子 352~353頁/原整理番号 19
高山高隼寺に伝わる別の書付から始まり、島津氏の動向や社寺の祈祷に関する年次記事へ続く。
年月日未詳 / 冊子 545~549頁/原整理番号 556
島原出陣に際して提出された軍衆人数の控え。鹿児島・高山・市来などの諸士について、家格・系譜・年齢・軍役帳の石高・従者数・兵種を列挙し、出陣人数と装備を記録する。
年月日未詳 / 冊子 270~271頁/原整理番号 53
高山士山下善之丞所蔵の正文から、天神七代以下を略し、永和の改元と年次を抄録する年代記。永和四年戊午九月十日、了俊・大内・大友・少弐の数千騎が肥後へ寄せ、十六歳の菊池武朝が託間原の合戦で敵を打ち散らしたと記す。翌己未年の彗星出現と三月二十二日の改元も掲げる。
明治6年6月25日出納課 / 冊子 920頁/原整理番号 1150/整理ID 1150
旧十二月まで旧暦で扱うとした市中取引は、その後は新暦で統一して決済するよう改めて周知する。九月以降の軍功賞典禄・俸禄・養料・扶持米等についても、従来の手形を切り替え、対象者の明細書を作成して期限までに提出させる。
二月十五日 / 冊子 140頁/原整理番号 235-2
川上久国・三原重庸が諸外城へ、薩州様が今日着くとの有馬からの報を受け、猪鹿を捕って二十日・二十一日までに届けるよう命じた廻状。猪は雄猪を差し上げ、ほかに各地で得られる肴もできる限り調達するよう求める。
正保二年六月十六日 / 冊子 376~377頁/原整理番号 131
記録所からの伺書。島津勝久の沖之濱への移座と豊後・日向での動静について、家譜、寺院の書類など記録間の食い違いを挙げ、史料の扱いと記述の仕方を伺う。寛政十年四月五日付。
年月日未詳 / 冊子 566~567頁
明応三年頃の肝付兼久・高山城をめぐる争乱を記す軍記。島津忠昌、新納忠武、北郷数久、渋谷重度らが出兵し、伊東祐安方の動きに応じて梅北城・高山城・志和池城方面で攻防を重ねた。島津豊後守忠明を含む軍勢の進退と複数城郭を結ぶ戦線の推移を示す。
年月日未詳 / 冊子 590~591頁
島津忠昌が大隅国肝付氏の高山本城を攻めたものの、敵の激しい抵抗で軍勢が退き、やむなく退陣した経緯を記す島津氏家譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 591頁
永正三年、島津忠昌が肝付兼久の高山城を攻めるため新納忠武に援軍を求めた戦いと、琉球の貢納をめぐって忠昌が使者を派遣した経緯を記す西藩野史の記事。
天正五年春 / 冊子 508頁
天正五年春、島津方の命により、肝付兼護には高山一邑だけが所領として残され、その他の郷邑は没収されたことを記す。
天正五年春・十二月 / 冊子 509~510頁
天正五年春、城詰衆に伊東方との私戦を禁じた後、福島へ伊東勢が迫ると島津方が出馬して退けたことを記す。肝付兼護には高山だけを残し、志布志など諸領を没収した。十二月の日向出陣では嫡子忠実が従軍し、忠元は相良氏への備えとして大口・求麻境を守った。
慶長十一年五月二日 / 冊子 72~73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、財部内の知行地割目録。蒲興禅寺内などの田地を田位・面積・石高ごとに示し、仲兵衛・五郎右衛門・権右衛門・助六・伝右衛門・源太・弥六左衛門らへ割り付ける。総高二十三石九斗余と、ほかに高山へ遣す七石余を記し、二口を合計する。
慶長十一年五月二日 / 冊子 73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、高山内の知行名寄目録。赤池屋敷の田畠・屋敷を玄清・和泉・藤左衛門・与介・次郎左衛門・藤兵衛らの知行人別にまとめ、田位・面積・石高を列記する。総高二十石のうち合計七石一斗余を名寄し、残る十二石九斗余を財部へ遣すとする。
慶長十四年八月五日 / 冊子 243頁
慶長十四年八月五日、隅州肝付郡高山村内の屋敷・浮免などの知行を石高とともに記し、合計二石余を比志島国貞へ与えた島津紹益・樺山久高ほか一名の連署知行目録。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 534頁
高山盛光寺の社家領について、所領を知行として宛行い、その高に応じて公役を勤めるよう命じた四名連署知行目録。
慶長十九年七月廿五日 / 冊子 534頁
大隅国肝付郡高山新留村内の土地二十石を盛光寺へ知行として宛行い、公役・寺役を滞りなく勤めるよう命じた連署目録。
慶長十九年七月廿五日 / 冊子 538頁
大隅国肝付郡高山西方村内の長野屋敷など十六石余を昌林寺の御稲荷領として宛行い、公役・寺役を免じた連署知行目録。
年月日未詳 / 冊子 606頁
元和元年七月十八日、桂忠昉が隅州高山で病死し、享年五十八、法号を龍泉道活としたことを記す譜伝記事。
明和三年秋九月(日記載なし、本文今茲・年は配列補定) / 冊子 141頁/原整理番号 336/整理ID 336
薩摩郡平佐郷村の市人庄助を褒賞した記事。庄助はかつて高山郷波見村へ赴いて住み、飢饉の年に私蔵の米穀を出して村中の困苦者を救済したという。この年の秋九月、青銅千疋を与えて賞したとする。出典は「全御譜中」とされる。
8月16・21・26日、閏8月11・16・21日(出立表示、年不記) / 冊子 270頁/原整理番号 374/整理ID 374
八月十六日・廿一日・廿六日、閏八月十一日・十六日・廿一日の六つの出立日ごとに、人名と出府する郷別人数を掲げる一覧。最初は谷村十右衛門・宮里新次郎と樋脇・東郷・隈之城各五人。続く各群には国分・清水・串木野、櫻島・小根占・高山・鹿屋、加世田・志布志・蒲生、始羅郡山田・帖佐・伊集院・市来、福山・伊作・指宿・羽月を列記する。江戸の守衛のため出府を命じたとの末注がある。郷別人数の表示合計は第一群十五人、他の五群各二十人、参考合計百十五人。前に掲げた人名十四人が郷別数へ含まれるかは記さないので加算しない。
4月3日長州征伐割当;甲子4月5日写置注 / 冊子 354頁/原整理番号 501の4/整理ID 501-4
諸郷御先手を六組として列記する書付。川邊の物主は児玉佐平次、樋脇は圖師崎良助、高城は長束十郎、高山は山城新右衛門、大崎は益滿與右衛門、清水は武宮十五衛門とし、惣物主は高橋縫殿とする。高城郡の添記と「イ一陣」の表示も収める。四月三日、長州征伐に付いてこのとおり重ねて命じたとし、甲子四月五日の写置注がある。組割当・指揮担当を示すもので、各組の実人数や出陣・戦闘実績は記されない。
十二月廿六日 / 冊子 406頁
島津龍伯が山田越前入道へ、肝付高山内に田地化できる場所があると聞き、普請のため村田雅楽助を急派したので、現地で相談して工事の様子を見定め、周辺の人々を招集して首尾よく進めるよう命じた書状。
年月日未詳 / 冊子 768~771頁
島津忠国の四男勝久を祖とする桂氏系図。忠利が永禄二年に桂を称したこと、忠防の高山病死と家臣吉冨大蔵の殉死、忠次が父と朝鮮へ渡り帰朝時に明船との海戦で戦死したこと、忠秀が島津義弘の小姓として朝鮮へ従軍したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 777~778頁
伊作介久光の四男忠蔵を祖とする吉満氏系図。日向大崎士から隅州高山士となった忠蔵、串良士への婚姻、忠杢・忠陣以下の生没年、忠陣に嗣子がなく児島氏二男久申を養子としたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 94~98頁/原整理番号 20
藤原北家の日野流から平岡氏へ至る系図。藤原鎌足五代の内麿、真夏・冬嗣・閑雄以下を配し、日野・広橋・柳原の祖系を経て、義純が康平五年の安倍貞任・宗任追討に従軍した功で河内国平岡郷を賜り、富士から平岡を称したとする。義陳は保元の乱で源為義方、義真は平治の乱で藤原信頼・源義朝方となった経緯を記す。義養・義堯の九州下向、大隅国大姶良・小根占、平家六代御前との関係、源頼朝からの平岡郷・大姶良等の給与を述べる。後代は島津氏久方として志布志で楡井氏と戦った義則、松尾城と島津元久誕生、文明年間の飫肥をめぐる伊東祐国との戦い、肝付氏領下の高山・富山・松山城、北郷勢との合戦を記す。末尾では平岡義信が肝付氏の婿・名代として上京し、弘治四年に日向大崎龍山原で北郷勢らと戦死したことを掲げ、次文書の宣旨写へ接続する。
弘治2年10月5日 / 冊子 98~104頁/原整理番号 20-1
冒頭に弘治二年十月五日付の後奈良天皇口宣案を掲げ、権大僧都省釣(肝付兼続)を法印へ転任させる。上卿は中山大納言、奉者は蔵人頭左大弁頼房で、『家わけ二』肝付文書一七号と同文である。続いて前文書からつながる平岡氏系譜を収める。平岡義理は天正元年に日向国住吉原で北郷時久・相久・忠虎らとの合戦に討死し、義光は豊臣秀吉・徳川家康に仕えて子孫が旗本となった。義秀は島津義久に奉公し、天正六年の高城防衛と文禄元年の朝鮮出兵に従い、大崎横瀬村を賜る。義辰は慶長四年の恒吉城攻めに従軍し、のち串良杉尾口へ移された。以後、義長・義元・義彦・義遇・義敬・義業・義臣・義言・義堯・義源・義寄ら諸流について、寺院建立、知行・高山預、家督、養子・婚姻、医師・僧位、出生・没年・法名を詳記し、末尾は宝暦四年九月二十七日生の女子の記事で終わる。
年月日未詳 / 冊子 104~105頁/原整理番号 21
伴姓萩原家の祖系と下向由緒を記す導入系図。天智天皇について、推古三十五年誕生、舒明天皇の皇子・中大兄皇子、母は皇極天皇、即位・崩御・近江志賀大津宮・大安寺造営・藤原鎌足薨去などを記し、大友皇子と斯喜王子から光仁・桓武・嵯峨・光孝・宇多・醍醐の諸帝へ系線を引く。別伝として伊賀皇子、黒主王、葛野皇子・池辺王・小野祖、与多麿らを掲げ、大伴氏・伴氏の起源を説く。後半は伴宿禰以下、主麿・兼俊・兼行らの系譜を配し、兼行が安和元年に薩摩国守護を賜り、翌年鹿児島郡へ下向して神食江四十町に屋形を築き『伴様御館』と称したこと、村上天皇の勅命で舞鶴紋を賜ったこと、永観二年に大隅国肝属郡高山庄本城へ移ったことを記す。末尾は安楽豊前守・彦四郎の安楽庄受領へ続く。
年月日未詳 / 冊子 105~111頁/原整理番号 21-1
冒頭に大原・平野・住吉三社を御姓神として本地仏と祖先下向以来の守護祈願を掲げ、兼経以下の肝付・萩原諸流を展開する神名書上兼系図。中世部では兼元の応永十七年島津元久上洛供奉・足利義持拝謁・河内守任官・加治木陣没、萩原城・萩原館・萩原庄主、高崇寺・帝釈寺などを記す。近世部では兼隆・兼義の川辺から加世田への移住と島津忠良への奉公、島津義弘の飯野移住への供奉・七十三石拝領、兼通の飯野から出水・軸谷外城への移住と物主役、禁制宗旨を理由とする宝暦五年の出水から高山への移住を述べる。末尾は高山新留村・下之門・宮下村の居住を経て、甚五左衛門が寛政十年十一月十三日に三十四歳で高山を出奔し、家系が断絶したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 153~154頁/原整理番号 38
足利義昭―義尋を起点とし、義尊・常尊・義在以下へつなぐ永山休兵衛家系図。義尋は南都大乗院門首で、義尊・常尊の母は播磨人古市胤栄の娘とする。母は義尋との間に二子を生んだため南都に住めず、京都に居て高山を号し、のち後陽成天皇に仕えて三位局と称し、道晃法親王を生んだため、先の二子も天皇の子分とされ帝王系図に載るという。義在は足利義昭が泉州蟄居中に生まれ、隅州へ流された際、在地の永山信濃守から名字を借りて永山を号し、千寿・右近・休兵衛、知足軒道性を称した。妻を永山氏女とし、末尾に義房(彦右衛門)―義比(休兵衛)の系線を掲げる。
慶長5年(1600)の記事(作成年不詳) / 冊子 363頁/原整理番号 164
羽島太郎次郎が『末吉衆中根元記』に記した家の由緒。祖父が川内山田から高山へ移り、さらに慶長五年に末吉へ移住して、地頭村田雅楽助入道に付いて奉公した経緯を述べる。作成年月日は記されず、慶長五年の移住を回顧する記事である。
成立年未詳(系譜内に嘉祥3年~安永8年の記事) / 冊子 561~566頁/原整理番号 63
天智天皇・大友親王から伴姓の善名・善男を経て鹿屋氏に至る系線を掲げ、兼俊を肝付城高山の領主、兼任を萩原、俊貞を安楽、行俊を和泉、兼高を梅北とする諸分流を図示する。宗兼が父兼石から鹿屋院の弁済使職を譲られ、鹿屋を家号としたという名字の由来が中心記事で、日州三俣院の領主領阿との関係も記す。永和の乱に宮方へ属した兼永と高城での戦死、兼雄の鹿屋院長谷山城での戦闘、忠兼の島津元久の家老職、兼好の加治木・千本方面での軍功、幼い兼健が伯父兼直の養子となり平田兼宗の口添えなどを経て高隈を領した経緯を添える。弘治2年8月17日の日州国合原の北郷氏・肝付氏戦では肝付氏に加勢した兼豊が戦死し、幼い兼清は鹿屋を離れて日州志布志に住んだことも記載する。後半は日州・隅州の地頭職、改名・法名、婚姻・養子と各家への分岐を追い、元禄・正徳・享保・宝暦・安永期の出生・死亡・居所まで記す。系図中の古い祖系・軍歴は本文に記された家伝として扱い、文書全体の成立年とは区別する。
年月日不記(系譜記事に文明19年・天文2年・永禄5・9年など) / 冊子 593~598頁/原整理番号 101
前田茂右衛門の所蔵と記す伴家系図で、天智天皇・大友皇子から伴善男らを経て、肝付と号した兼後以下の諸流をつなぎ、家族関係・官職・法名・所領・軍功を併記する。兼藤の相模国鎌倉住、兼久の鹿屋・肝付殿番代、兼光の越前守、兼続の加治木城主・高山城落城後の入部、兼勝らの山城守・左右衛門尉などの系統をたどる。後半には、兼洪が天文二年に逆心露見により誅伐された記事と遺児の記述、兼続が永禄期に松山・志布志を知行し同九年に没した記録を載せる。系線だけでなく、女子の婚姻、養子、出家、戦死や相続の経緯まで書き込む点が特徴で、前項の宝永四年御記録所提出の近代肝属氏正統系図とは別の系図である。
年月日未詳 / 冊子 57~58頁/原整理番号 288
末吉衆中根元記から、羽島太郎次郎の祖父が川内山田から高山へ移り、慶長五年に末吉へ移住して地頭村田雅楽入道に付属した経緯を抄出し、羽島周防助以下の系譜注記を付した記録。
年月日未詳 / 冊子 148~153頁/原整理番号 492
古系図と注記された伴姓肝付氏の系図。天智天皇・大友皇子から大伴氏、勝部氏へつながる起源説を掲げ、肝付氏の諸代と多数の庶流を系線で示す。官途・通称、所領、婚姻・養子、寺院、法名を付し、加治木・高山城などの合戦、戦死、島津氏への奉公、謀反人に関する記事を収める。人名上の丸印が朱書であるとの注記もある。
年月日未詳 / 冊子 159~160頁/原整理番号 505
末吉の肝付覚左衛門家系図。上世の出所は不明と注記し、権之助豊前守兼隆が十七歳で伊東河内守を討ち、恩賞として知行六町を得たこと、二十三歳から兵道を行い、岩屋城攻めで敵三人を討ち取ったことを記す。兼隆が肝付郡高山から末吉へ移った由緒を述べ、治右衛門兼清・覚左衛門兼豊以下、伴右衛門・権右衛門らの分岐と婚姻を列記する。
(元禄八年)四月四日 / 冊子 172~173頁/原整理番号 515の1
都城川東村柿木薗門の嘉左衛門が、家の由緒を記して梅北正兵衛に追書を求めた覚書。曽祖父の肝付源左衛門は高山から志布志へ召し移され、ぞうめき口の屋敷を与えられ、のち入道して宗可と名乗ったという。助三郎の死後の家督継承、北原小名の称用、石垣普請や知行目録、龍峰寺・柿木薗門での家の継承を述べ、証文としての追書を依頼する。元禄八年四月四日付、嘉左衛門印。