島津久豊等連署起請文
応永七年四月八日 / 冊子 194~195頁
島津久豊・時成らが阿多加賀守へ、今度の供奉を願い、主君の重大事を自身の大事として力を尽くすこと、風聞があれば直接尋ねを受けて真意を説明することを八幡三所大菩薩などに誓った連署起請文。
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応永七年四月八日 / 冊子 194~195頁
島津久豊・時成らが阿多加賀守へ、今度の供奉を願い、主君の重大事を自身の大事として力を尽くすこと、風聞があれば直接尋ねを受けて真意を説明することを八幡三所大菩薩などに誓った連署起請文。
応永廿四年二月六日 / 冊子 298頁
島津忠国が阿多飛彈守久清に、薩摩国鹿児島郡内の中村・郡本を料所として宛行い、先例に任せて知行するよう命じた宛行状。
永享四年四月廿日 / 冊子 354頁
島津忠国が阿多氏へ、河野辺内の田野上十八町と高橋三十六町を宛行い、伊集院方の状況に応じて替地七十町を計らうと定めた宛行状。本文年紀は『永享三年卯月廿日』。
永享四年十一月三日 / 冊子 359頁
島津忠国が阿多氏へ、薩摩国河辺内の泊之津を忠節により宛行い、先例どおり知行するよう命じた宛行状。本文年紀は『永享三年十一月三日』。
永享四年十二月七日 / 冊子 359頁
島津好久が阿多氏へ、伊作院内の和田・大野・多布施内高橋、河辺内の田辺田・田上・野間・今田・泊津などを宛行い、先例どおり知行するよう命じた宛行状。本文年紀は『永享三年十二月七日』。
永享四年十二月七日 / 冊子 360頁
島津好久が阿多氏へ、天下が変転しても関係を変えず、大事には奉公し、不穏な動きがあれば面談して確認することを誓い、違背時の神罰を掲げた契状。本文年紀は『永享三年十二月七日』。
(天文十五年)八月廿九日 / 冊子 838頁
半松斎宗養が阿多但馬守に、新詠の送付を喜び、春成兵庫助下国の際の贈物を謝し、今後も詠歌を送るよう求めた書状。
元和六年十一月十五日 / 冊子 235頁
加久藤湯田村内の知行をまとめた名寄目録。高六斗四升の知行分を阿多甚左衛門に宛てて記録する。永禄十三年関係文書の後に、後代の元和六年十一月十五日付目録を参考として収録したもの。
天正20年12月28日 / 冊子 620~621頁
薩州田布施のうち、内侍先・濱田・日置町などにある浮免田を列挙し、阿多掃部介へ宛行った領知目録。 島津義久の袖判に加えて比志島国貞・町田久倍・長寿院盛淳らが確認し、複数地点に分散した知行地の構成を示す。
(慶長四年)七月晦日 / 冊子 410頁
入来院重時・平田宗増・新納為舟が阿多甚左衛門尉に、書状を拝領し、当地での勤番について特別に言葉を掛けられたことを謝する。内府の上使から庄内の件を島津方の存分に任せる旨が示されたのは大慶であり、今こそ軍勢を差し寄せる時機ではないかとして、この意向の披露を求める。
十一月十日 / 冊子 205~206頁
島津忠隣が阿多若州老に、いしん様への酒進上の意向、当地や紀州の情勢、中嶋から届いた兵糧夫役の件などを知らせた書状。兵糧・人夫の扱いは国の定めに従い、少数の私的な者だけで処理せず、内容を他言しないよう慎重な対応を求める。
八月廿九日 / 冊子 323頁
半松斎宗養が阿多但馬守に、当年の新詠を送ってほしいと求める。春成兵庫助の下国時に書状を託して返書を得たこと、新作の詠歌を都で写し留め後世の教訓としたことを述べ、奥書への礼として贈られた沈香三斤および別に受領した二斤に謝意を表し、詳事は春成兵庫助に託した書状。
慶長五年十二月廿七日 / 冊子 550~551頁
薩摩国日置郡吉利村馬場薗の屋敷・田畠合計十石二斗八升五合を新知として阿多地某へ宛行った島津忠長外三名連署知行宛行状。
永享四年六月卅日 / 冊子 354頁
本文では『全上』と省略され、No.1108と全文同じであることを示す別伝の宛行状。巻末目録では永享四年六月卅日付として収録される。
六月廿四日 / 冊子 18頁
島津忠嘉が、帖佐衆中の安楽五郎左衛門尉と伊地知丹波守との入組を処理するよう求めた書状。両者は以前にも公儀へ事情を申し上げ、再び参上したので、事情を知る相手方から当奉行衆へ相談し、解決に導くよう頼む。
年月日未詳 / 冊子 354頁
阿多氏について、久清から忠清・経久へ続く系譜と、家久・亀徳丸・飛騨守の名乗りを簡略に示した系図記事。
永正十五年五月廿一日 / 冊子 617頁
阿多上宮熊野権現の御鏡について、寸法・銘文と、島津藤原朝臣の子孫繁昌・忠幸を祈る願文を刻んだ鏡銘。
年月日未詳 / 冊子 766頁
天文七年十二月二十九日の加世田出陣に際し、日新公が高良八幡へ参詣して誓願し、阿多花瀬村立本原で軍勢を集めたこと、落城後に社を移して造営したことを記す。
(寛永十一年)八月十五日 / 冊子 445頁
栗野のうちの知行について、籾九俵一升八合、高にして三石三斗と記した阿多掃部助知行目録の写。
未八月四日 / 冊子 511~512頁
普光院からの琉球関係文書一箱、徳川秀忠の御内書、系図調査時に島津弾正が借りた文書の所在を調査した報告。弾正死後に返上され、島津彦太夫から田中五右衛門へ受取が渡された経緯を阿多仲兵衛が記す。
元亨三年四月十七日 / 冊子 494頁
阿多泰忠が阿多郡五大院内の知行分を庚八郎次郎・河辺左衛門三郎・兵衛太郎らへ安堵した請文。公文所の許可なく権門へ売却した場合、年貢・社役を怠った場合は没収すると定め、召文時の出頭と翌年貢以下の勤仕を命じる。
十一月十六日 / 冊子 96頁
島津龍伯が吉野で鷹狩りをして加治木へ赴く予定だったが、当日は雨天のため出発できたかを尋ね、島津惟新から番所まで状況を問い合わせるよう命じられたため飛札を送った書状。
年月日未詳 / 冊子 208頁
島津恕翁譜の記事として、山東・海江田方面の戦況を背景に、加江田本城の修築と阿多加賀守の地頭補任を記す。南面・細江などへ守備兵を配置し、伊東氏らの進出に備えた後、城郭と周辺交通路をめぐる攻防が続いた経過を述べ、領地防衛と在地支配を結び付ける。
年月日未詳 / 冊子 219~220頁
島津国史の記事として、応永十二年冬の元久による田布施・年禮城攻撃、翌春の別府・阿多氏の救援と行貞の退城、田布施の掌握、元久の娘と伊作克久の婚姻および田布施譲与などを記す。後続の寺領記事は主要事項に限定した。
年月日未詳 / 冊子 297~298頁
応永二十四年秋、伊集院頼久方が松尾城・谷山城をめぐって島津久豊方と戦った記事。久豊が援軍を送り、山田・阿多・田代・吉田・蒲生・新納・平田らが交戦し、多数の死傷者を出しながら城の救援と奪回を図った経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 305頁
伊作氏と阿多氏の対立から戦闘が広がり、存忠が救援兵を送り、伊作方・田布施方らが合戦した経過を記す。各地から援軍が集まったが、伊作方の敗北と多数の戦死者に至った。
年月日未詳 / 冊子 306頁
応永二十五年正月、伊東大和守祐立との盟約を背景に、島津方が伊作・阿多勢を組織して敵対勢力へ対処した記事。援軍派遣、宿陣、戦闘と損害、各氏の帰順・離反を記し、次の伊東祐立契状へ続く経緯を示す。
年月日未詳 / 冊子 311頁
応永二十七年の頴娃城攻めと頴娃氏の没落を記す。島津久豊方の攻撃に対する城方の籠城、一族の退去と離散を追い、伊東・阿多・山田・鮫島諸氏がどちらに与したかを示しながら、頴娃氏が所領を失い周辺勢力の配置が変化した経過をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 311~312頁
川邊・知覧方面で続いた島津久豊方と伊集院頼久方の攻防を記す。知覧氏をはじめ阿多・山田・鮫島諸氏が所領防衛のため出兵し、戦況に応じて退去・帰服・再戦を重ねた動きを追い、南薩摩の国衆が所属を変えながら領地を維持した状況を示す。
年月日未詳 / 冊子 353~354頁
永享三・四年頃の島津忠国をめぐる動向をまとめた国史記事。廻氏との盟約、阿多某への書状、伊作庄大野などをめぐる阿多方との対立・攻撃を記し、伊作鶴丸、好久、樺山次郎、山田忠尚ら家臣への所領宛行と盟書によって味方を組織した過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 372~373頁
永享八年、島津忠国が串良院岩弘名を大慈寺領として寄進し、山田忠尚に下大隅二河村を領知させ、正八幡宮へ栗野院・帖佐郷の地を与え、祢寝直清・重清や樺山孝久らに所領・地頭代官職を与えた経緯を記す。翌永享九年の祢寝氏・阿多亀徳らへの宛行にも及ぶ国史記事。
年月日未詳 / 冊子 587~588頁
永正三年七月十一日の土川合戦後、山崎助左衛門が捕虜・被官・領知の処置をめぐる交渉を記した覚書。和泉氏・阿多民部左衛門尉ら当事者の申し分を整理し、誰を返還・召し抱えるか、所領をどう扱うかについて島津忠興が下した裁定を伝える。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 151~153頁
永禄九年十月二十六日の三山合戦で戦死した島津方将兵を多数列挙した交名抄。阿多中務允久宗、末弘又左衛門尉、本田治部少輔、本田興五郎、鮫島文左衛門宗明らをはじめ、各地・各家に属する人々の名と戦死注記を載せる。
年月日未詳 / 冊子 543頁
川上久朗の子・久辰について、通称を源三郎、左近将監とし、母は阿多大炊助の娘、幼名は石船と記す川上氏支流系図。
年月日未詳 / 冊子 858頁
島津義弘が栗野から帖佐へ移り、同地を居城としたことを記す。あわせて阿多長寿院・上井次郎左衛門・伊集院肥前入道一雄を家老として掲げる。 義弘の本拠移転と、その時期の家老構成を同時に確認できる記事である。
(慶長四年)七月二日 / 冊子 395頁
島津義久が倉光主水佐に、前年に捕えた羽虫鷹の羽穴を木釘で補修し、羽や尾羽を整えている状況を詳述する。鷹を扱う阿多甚左衛門は正式な鷹匠の作法こそ知らないが養生には通じるとし、薬の使用法を尋ねる。また、関白の薩州下向時の騒動で以前拝領した鷹を失ったことや、鷹の馬への据え方・馴らし方にも触れ、飼育上の助言を求める。
年月日未詳 / 冊子 592頁
大田吉兵衛忠綱は、慶長五年秋に石田三成が関東へ兵を起こすと、阿多長寿院らと帖佐を発し、島津義弘(惟新)に従って美濃国関ヶ原へ向かった。西軍敗北後も義弘の側を離れず大軍中を切り抜けて帰国し、軍功により感状を重ねて受け、百石を与えられた。
年月日未詳 / 冊子 330頁
阿多の五社についても修補を怠らず、他に異なるほど厚く敬信したとの記事。
年月日未詳 / 冊子 331頁
阿多と加世田が万之瀬川の鎮守の渡で戦った際、劣勢から退いた阿多勢が再び進撃し、激戦の末に敵数十人を討ち取った記事。肥後掃部左衛門・宮人・井尻四郎左衛門らが戦死したため、その忠節に報いるべく戦死地に六地蔵を建立し、冥途の灯とした。
十一月十三日 / 冊子 75~79頁
幼少の袈裟菊丸島津常久の知行処置をめぐり、祖母方による上方への直訴を禁じ、三千六百石の蔵入・家臣知行配分を阿多大炊助に任せた経緯を説明し、宇多奥右衛門親子への切腹命令を義弘が出したとの疑惑を否定して、関係者へ周知を命じた長文書状。
年月日未詳 / 冊子 219頁
島津恕翁譜の記事として、伊作久義と別府氏の対立、久哲による新納実久への調停依頼、二階堂氏の立場、元久による田布施包囲へ至る経緯を記す。複数年にわたる軍事・婚姻関係を主要経過に限定した。
仁治三年十一月十九日 / 冊子 180頁
六波羅が左衛門尉友成に対し、薩摩国阿多郡北方地頭による池辺村の押領・濫妨を停止し、先例と証拠に基づいて処理するよう命じた御教書。
建長元年八月十一日 / 冊子 204頁
六波羅が、薩摩国新田宮所司神官等と阿多郡北方地頭の訴訟について、関東御教書の趣旨に従い、訴状・具書を取り寄せて早急に召決するよう命じた御教書。
嘉元四年五月廿五日 / 冊子 420~421頁
阿多五大院田内の河辺弥平太と大浦入道の相論について、先年の参町六段下地と年貢未進を挙げ、名主職の知行と今後の処置を請け負った沙弥連道請文。
元徳元年十二月廿五日 / 冊子 571~573頁
阿多郡北方高橋郷の地頭職をめぐる隠岐三郎左衛門尉行雄方と忍照・妙性らの長期相論を裁いた鎮西下知状。父祖以来の知行、年貢五十貫文、異国警固、後家・女子の相続、押領・未進、関東御教書や請文を詳細に審理し、正当な所領分と所務を確定する。
元禄10年2月21日 / 冊子 249頁/原整理番号 199の2
『御内意申上候覚』として、立野に隠居した永春の宗門、相続、居住と死後の処置を詳述する。宗門帳の改帳、類族帳、領国外へ差し放つ場合の扱いなどを申し上げ、元禄十年二月二十一日、種子島蔵人久時から阿多太中宛に結ぶ。
(寛永15年)正月5日 / 冊子 562頁/原整理番号 574
鹿児島賦所が阿多衆中へ出した手形。島原加勢の人数六十五人を定め、鉄砲・弓・鑓、飯米、水船を用意し、指定どおり差し出すよう命じる。寛永十五年正月五日付。
文書本文の日付:文永八年九月十三日 / 冊子 544頁/原整理番号 九/整理ID TMP-P03-NIKAIDO-D0009
蒙古人襲来の由が聞こえるとして、鎮西へ御家人等を下遣したと記す。 薩摩國阿多北方へ器用の代官を急ぎ差し下し、守護人と相伴う旨を伝える。 異國を防禦させ、領内の悪黨を鎮める旨を「依仰執達如件」と伝える。 文永八年九月十三日付で相模守・左京権大夫が署し、阿多北方地頭殿を宛所とする。
年月日未詳 / 冊子 45頁
『島津国史』が貞治五年(南朝正平二十一年)の出来事を記す。島津師久から長子伊久への薩摩守護職継承、久安を祖とする支族の成立、菊池武光討伐の戦闘を掲げる。さらに種子島頼時、二階堂近江前司、阿多郡司らへの命令を収録し、家督継承と領国支配の再編を結び付ける。
年月日未詳 / 冊子 668頁
大永六年初秋、島津勝久と実久の不和が深まる中、勝久が忠良へ奉公と支援を求めた経過を記す。伊集院・阿多加賀守・本田紀伊守らが仲介し、忠良の子貴久・虎寿丸を勝久の後継に据える政治調整を進め、家中対立を収拾しようとした。