根占重虎書状
文禄4年6月10日 / 冊子 889頁
根占重虎は、本田六右衛門尉に一件の筋目を託したので、相違なく取り計らうよう鎌田政近へ依頼する。 根占家への厚い配慮に礼を述べ、久四郎の件も申し請けたいとして、今後も変わらぬ取り成しを重ねて求める。
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文禄4年6月10日 / 冊子 889頁
根占重虎は、本田六右衛門尉に一件の筋目を託したので、相違なく取り計らうよう鎌田政近へ依頼する。 根占家への厚い配慮に礼を述べ、久四郎の件も申し請けたいとして、今後も変わらぬ取り成しを重ねて求める。
文禄4年6月14日 / 冊子 889~890頁
町田存松は、武庫様が六月五日に着船し、十二日に上洛したことを鎌田政近へ報告する。 若殿様も無事で、御本所へ朝鮮在陣の様子を詳しく報告する予定だと伝え、島津家中の帰朝後の動きを知らせる。
(慶長六年)正月十六日 / 冊子 741-742頁
島津忠恒(家久)が鎌田政近に、上方からの使者への返答は従前の方針を変えず、本田元親に十分理解させるよう指示した書状。徳川家康への忠誠を忘れず島津家の存続を図る一方、義久自身の上洛には慎重を期し、最悪の場合は家中一味で防戦する覚悟を伝える。
(慶長七年)五月朔日 / 冊子 816頁
本多正純が鎌田政近へ、前年以来の相談に礼を述べ、龍伯・少将の願いが御前で解決したことを報じる。龍伯の上洛を急ぐよう求め、佐渡守宛の硫黄五十斤を受領して届けると伝えた書状。
文禄2年9月25日 / 冊子 739~740頁
石田三成が名護屋へ着岸し、翌日に大坂へ上る予定を知らせる。相手方の病が快方に向かい帰国したことを喜ぶ一方、又一郎久保の急死を思いがけない悲事として悼む。 義弘も京都にいると聞くため、三成の弔意を義弘へ伝えるよう依頼した書状。
(慶長八年)九月二日 / 冊子 905-906頁
比志島国貞が将軍への拝謁と進上品を報告し、秀頼への進物は未決と伝える。休復の助命嘆願が認められ、遠国ではなく駿河国久能に置かれることとなり、島津家の働きとして世間の賞賛を得たと知らせた。
八月六日 / 冊子 536頁
東郷城破却の命令について、前年の上使幽斎による置目改定時には対象とされず、幽斎・石田三成の墨付がなければ承服できないと抗議する。寺沢広高・長束正家の書付が届いたため、その内容を心得るよう命じた島津義久書状。
十月八日 / 冊子 589頁
鎌田政近・比志島国貞が、豊後へ差し遣わす鉄砲衆について、富隈・鹿児島方・北郷殿・右馬頭殿などから出す人数を列記する。ほかに鹿児島から五人を加え、合計三十挺を早急に召し集めて豊後へ派遣するよう命じる。
(慶長五年)十月八日 / 冊子 590頁
原資料ではNo.1203の鎌田政近・比志島国貞連署状と同文であるため、本文を省略すると記されている。
慶長五年十一月六日 / 冊子 610頁
平田増宗・鎌田政近が古後七郎右衛門へ、銀子二百十五匁、五枚を京都への音信として中原般若院へ渡すよう指示する切手を発給する。
慶長五年十一月廿日 / 冊子 616-617頁
平田増宗・鎌田政近が連署し、北郷久観の累代の忠節と今度の戦功を賞して、山田のうち三百石を宛行う。目録を別紙とし、北郷次郎が若年であるため家老として忠節を尽くして北郷家を存続させ、島津家への奉公に努めるよう求める。
慶長五年十一月廿日 / 冊子 617-618頁
鎌田政近・平田増宗が連署し、庄内を北郷氏の旧領として返還する一方、島津方が出馬し奮戦した志和池・山田・野々見谷は残したと説明する。土持重綱の忠節と北郷家老としての功績を賞し、山田のうち三百石を宛行い、今後も忠貞を尽くして家を支えるよう命じる。
(慶長六年)八月二日 / 冊子 769-771頁
鎌田政近が上洛後の状況を詳報する。細島出船から室津・京都・大坂・伏見への行程、諸大名・奉行との取次、城普請、島津家の進退交渉、伊集院久治・山田有信の扱いなどを記し、慎重な対応を求めた書状。
(慶長六年)八月十一日 / 冊子 775頁
鎌田政近が徳川家康への拝謁と上方交渉を報告する。日向坂より下の所務を進め、龍伯の上洛を急ぐ一方、図書頭の上洛は不要と伝え、進物は唐物・金銀が適当であることや山口直友らへの働きかけを助言した書状。
(慶長六年)八月二十三日 / 冊子 777頁
鎌田政近が本田助左衛門の来訪と尽力に謝意を述べ、熊嶽へ使者を遣わして尋ねる事項を書き付けさせるよう求める。急ぎのため帰国後を待たずに依頼し、本多正信の当地来訪にも触れた書状。
慶長六年八月二十三日 / 冊子 777-778頁
鎌田政近が上方の政治処理を詳報する書状案。島津父子は逆乱に関与しなかったため領国が概ね安堵されたこと、上杉景勝の降参、佐土原の知行処理、井伊直政との面会や病気による帰国延期、出船予定などを伝える。
(慶長八年)二月二日 / 冊子 881頁
町田久倍と鎌田政近が連署し、豊後から帰国させる捕虜について、耕作期を逃さぬよう正月二十三日までに出立を協議し、主取衆と相談するよう指示する。帰国者の人数・名簿を肝煎衆が五、六日中に提出し、乗船準備を遅滞なく進めるよう命じた。
慶長八年六月廿六日 / 冊子 899頁
樺山久高と鎌田政近が連署し、京泊から入津する唐船に関して、公方への礼物を理由に商人へ不当な買付けを強いてはならず、川内の唐人を含む当事者の自由な交易を妨げないよう命じる。違反者は厳罰とした。
(慶長十年)七月十一日 / 冊子 23頁
鎌田政近が樺山権左衛門尉へ、前日の石船に関する相談を受け、黄金三百五十匁分と銀百五十枚を三原諸右衛門尉・相良勘解由次官・有川仲右衛門尉が受け取ったことを報告した書状。上州様への礼、和久甚兵衛尉の使者としての滞在、腰物、伊勢平左衛門尉からの詳報についても伝える。
慶長十年七月十七日 / 冊子 24頁
樺山久高と鎌田政近が田中伊豆守に、前年以来の長い在京勤務に加え、物方の代官として引き続き留まることを承諾した忠勤を賞した連署感状。今後恩賞を与えるとの上意を伝え、引き続き疎略なく勤めるよう命じる。
三月廿八日 / 冊子 42頁
鎌田政近と比志島国貞が、熊嶽に対する諸所からの勧進・寄進の継続を保証した連署証状。領国内の制度改定以来、寄進が途絶えた所があるとの申し立てを受け、旧来どおり復活させ、異議を差し挟まないことを認める。
文禄2年3月26日 / 冊子 679頁
日向国蓬原内の市園屋敷・新開・とものきれ・道下などの土地を、面積ごとに列挙して鹿屋周防介へ与えた領知目録。 屋敷・畠を合わせた給付地の内訳を示し、一部を「御加恩」、残りを寄替として処理している。土地の所在と面積を具体的に確認できる家臣知行文書。
文禄2年3月23日 / 冊子 679頁
薩摩国田布施内の深溝・川野先にある浮免一反を二宮掃部助へ与えた領知目録。島津義久(竜伯)の上洛中、二宮が諏訪大明神へ毎日参詣した忠節により畠一反を与えられ、その後、田方へ所替した経緯を記す。 単なる面積記録ではなく、祈願奉仕への恩賞と土地交換の履歴まで伝える史料。
天正四年八月~十月 / 冊子 496~497頁
肝付兼護が三百余兵で高原城攻めに従軍したが傍観したため、伊東方への内通を疑われた。忠節を示すため十月に飫肥へ出兵して南郷で伊東軍と戦うが大敗し、新納忠氏兄弟ら数百人が戦死した。福島城は鎌田政近・島津征久の援軍で守られた。
天正五年春 / 冊子 510~511頁
高原出陣で傍観した肝付勢が忠節を疑われ、伊東方との一戦を命じられた経緯を記す。内談では形だけの戦いのはずが雑兵間で実戦となり、肝付勢は大敗、福島を包囲された。鎌田政近と島津征久の救援で伊東勢を退けた後、肝付氏は高山一か所を残して諸領を没収された。
(天正14年)9月27日 / 冊子 235頁
No.188と同文のため、本文を省略して掲げた島津義久書状案。鎌田政近を介した上洛交渉、肥後・筑前方面の軍務による返答遅延、関白への取次依頼、生糸三十斤の贈答を内容とする。同内容が別の文書群にも伝わったことを示す異本・伝来資料である。
年月日未詳 / 冊子 238頁
鎌田政近を介して羽柴秀吉に九州の処置を求めたところ、秀吉は島津領を薩摩・大隅・日向・肥後半国などに限り、豊後を大友、筑前を公領、肥前を毛利領とする案を示した。島津義久は「九州すべてを島津の土地とするならよいが、そうでなければ兵革は止められない」と応じ、軍勢を増強して豊後侵攻へ踏み切った。九州国分案と島津側の拒絶を伝える重要史料である。
天正20年12月19日 / 冊子 617~618頁
薩州山川の正龍寺領について、長田・西之俣・冷水ヶ坂・山畑など各所の田地を列挙した寺領目録。 鎌田政近・町田久倍・長寿院盛淳らが連署し、寺領の所在地と面積を公的に確認した基礎史料。
天正20年12月20日 / 冊子 619頁
隅州蒲生のうち、山畑・加か山・みやの前・堂の脇・谷河つるなどの田地を列挙した領知目録。 島津義久の袖判と町田久倍・鎌田政近・長寿院盛淳の確認を伴い、蒲生地域の知行地構成を詳細に示す。
文禄2年4月6日 / 冊子 681頁
薩摩国川辺内の川口・城下・木場平・松木河原・野間口・四反田などにある田畠を、地名・旧給人・面積ごとに列挙した領知目録。 島津義久が袖判を加え、鎌田政近・町田久倍が連署して一乗院の領知を確認したもので、川辺地域の土地構成を具体的に追える。
文禄2年4月6日 / 冊子 681頁
一乗院の領地について、一反を含む合計一町一反三畝六歩と、鹿児返地のうち二反および門代内三畝六歩余を記した領知目録。 島津義久の袖判に鎌田政近・町田久倍が連署し、返地分を含む給付面積の内訳を確定している。
文禄2年5月28日 / 冊子 700~701頁
薩摩国大口内の「かつけの門」ほか多数の田畠を、地名・旧給人・面積ごとに列挙し、合計四町九反余を濱田民部左衛門尉へ与えた領知目録。 島津義久が袖判を加え、長寿院盛淳・町田久倍・鎌田政近が連署しており、大口地域の土地配分と給付規模を具体的に確認できる。
文禄2年5月29日 / 冊子 701~703頁
薩摩国内の諸所に散在する田畠・屋敷を、地名、旧給人、面積ごとに列挙して長谷場越前守へ与えた領知目録。 中原・岩崎・畠田・柳原・長野田・横手屋敷など多数の土地をまとめ、長寿院盛淳・町田久倍・鎌田政近が連署して給付内容を確定している。
文禄2年9月26日 / 冊子 740頁
鎌田政近・伊集院抱節・長寿院盛淳が、石田三成へ石火矢五十挺を進上することを記した連署覚書。内訳として幸侃から二挺、抱節から一挺など、各人の負担分を明記する。 朝鮮在陣期の火器調達と、島津家臣から三成への軍需品提供の実態を示す。
年月日未詳 / 冊子 301頁
鮫島氏伝が、鮫島筑右衛門が五百石相当の軍役で朝鮮へ出陣し、出陣前に二百石、唐島で五代少左衛門らと奉公した褒美に百石を受けた経緯を記す。帰朝後に残り二百石を願ったが、もとは田二段を持つ身であるとして給付を抑える裁定が示された。あわせて、過去に渋谷家または伊東方として敵対した二渡・壱岐両氏も二百五十石を相当とする鎌田政近の口達を載せる。
年月日未詳 / 冊子 581~582頁
石田三成が徳川家康に背き関西諸国を動員した際、島津義弘(惟新)は家康との盟約により伏見城を守ろうとしたが、鳥居元忠・内藤家長らに入城を拒まれ、やむなく石田方として関ヶ原へ出陣したと記す。西軍敗北で一族・家臣に多数の戦死者を出しながら義弘は帰国し、国中が動揺するなか、島津忠長と鎌田政近が赦免を評議した。翌年、政近を上京させ、本多正信・山口直友の仲介で義弘の赦免と誓書を得た経緯を述べる。
慶長五年十一月廿日 / 冊子 617頁
島津忠長・平田増宗・鎌田政近・比志島国貞が連署し、日向国諸県郡庄内山田村の薄谷・黒池・市蘭・山菅・牧野・小牟礼・是井・下権屋など、合計九百九十九石七斗四升四合を北郷久観への新知として示す。田畠を親疎なく公平に分け取るよう命じる新知目録である。
慶長五年十一月廿日 / 冊子 617-618頁
島津忠長・平田増宗・鎌田政近・比志島国貞が連署し、庄内山田村の薄谷・黒池・市蘭・山菅・牧野・小牟礼・是井・下権屋および上中原・瀬戸口・牛谷など、合計三百石を土持重綱への新知として示す。田畠を親疎なく公平に分け取るよう命じる。
慶長五年十二月二日 / 冊子 719頁
薩摩国祁答院の山崎村、指宿十九町の浦之門・尾辻之門・下吹越之門内を、合計千石余の加増として島津忠長へ与える目録。鎌田政近・比志島国貞・平田増宗が連署する。
慶長五年十二月八日 / 冊子 721頁
長谷場氏文書に収める、島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近の連署宛行状。慶長五年十二月八日付で長谷場越前守への知行宛行を認めた文書で、本文は史料上で省略されている。
慶長五年十二月八日 / 冊子 721頁
島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近が連署し、合計二百四十石を加増分の知行として長谷場越前守に宛行うことを認めた宛行状。
慶長五年十二月十八日 / 冊子 724-725頁
日向国諸県郡志布志安楽村内の勢園之門・江園門などの土地と石高を列記し、合計二十六石二斗を加増として宛行う目録。島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近が連署する。
慶長六年正月廿八日 / 冊子 744-745頁
日向国諸県郡の志和知・水流村など各地の知行を列記し、合計千石を北郷三久へ加増する目録。島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近が連署する。
慶長六年四月二十五日 / 冊子 760頁
島津忠長・比志島国貞・鎌田政近・平田増宗が、土持次郎九郎に南郷村内の五百石を加増し、所務を命じた目録。
(慶長六年)七月九日 / 冊子 766頁
福島正則が島津忠恒に、和久甚兵衛と鎌田政近の談合、伊勢平左衛門らとの協議、伊集院久治・山田有信の上方召喚について助言した書状。本文はNo.1566と同文のため本箇所では省略されている。
(慶長六年)七月十一日 / 冊子 766頁
島津義弘が寺沢正成に、徳川家康の意向を承知した礼として、忠恒が鎌田政近を使者に上洛させたと報じる。京都への使者に船などを提供するとの寺沢の厚意に謝し、今後も支援を依頼した書状案。
(慶長六年)七月十三日 / 冊子 766頁
島津義久が島津忠恒に、和久甚兵衛と鎌田政近の談合を急がせ、帰国後は伊勢平左衛門らと協議するよう指示する。伊集院久治・山田有信を軽々しく上方へ召さないことや、山口直友書状の扱いにも触れた。
慶長六年~七年 / 冊子 772-773頁
樺山紹剣自記は、鎌田政近が上洛し、山口直友の取次で本多正信らと島津家の赦免・上洛を交渉した経緯を記す。徳川家康の意向や諸士との折衝を受け、神慮を問うたうえで上洛する方針となり、準備が慶長七年秋まで延びた。
(慶長六年)八月九日 / 冊子 774頁
伊集院久治と山田有信が鎌田政近に、龍伯を迎える上方使者の下向や龍伯帰国の風聞を報じる。当国衰微で諸式が整わない事情を述べ、情報収集と周到な対応を求めた連署状。
慶長六年八月十六日 / 冊子 776頁
比志島国貞・鎌田政近・平田増宗らが、薩摩国加世田小湊村の田畠を源兵衛尉へ安堵した知行目録。日新が以前寄進し、天下の命で召し上げられていた所領を、少将忠恒の命により再び付与した。