島津久慶・鎌田政統連署書状
(寛永十五年)三月十日 / 冊子 791~792頁
大隅守死去後の薩摩守の家督・国政処置と江戸参府を見込み、幕府上使の下向もあり得るため内々に備えるよう伝えた島津久慶・鎌田政統の連署書状。上使対応の具体的な道中・船・供人手配は続くNo.1286に記される。
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(寛永十五年)三月十日 / 冊子 791~792頁
大隅守死去後の薩摩守の家督・国政処置と江戸参府を見込み、幕府上使の下向もあり得るため内々に備えるよう伝えた島津久慶・鎌田政統の連署書状。上使対応の具体的な道中・船・供人手配は続くNo.1286に記される。
(寛永十五年)三月十日 / 冊子 792~793頁
能勢小十郎から、幕府上使が薩摩へ下向するとの連絡を受け、道中の馬、乗船、京都以西の供人、差し支えがある場合の代替要員、随行人数などを早急に整えるよう伝えた島津久慶・鎌田政統の連署書状。
(寛永十五年)四月朔日 / 冊子 796~798頁
薩州様(島津光久)が帰府するまで御番を務める件を確認し、大坂から届いた品の送状を火災後の分と照合して、見つかった分を三札にして送る。桑畑藤右衛門尉・大脇正右衛門尉の到着、光久の参府見込み、野村勘兵衛尉を松平伊豆守へ遣わしたことを報告する。有馬一揆の城が先月二十七、八日に落ちたが、銀不足のため祝儀使者を差し止めたこと、山田民部少輔・新納加賀守ら薩摩勢が約二百の首級を挙げたとの情報を記す。江戸・京・大坂で借銀できず、借銀の利息さえ払えない窮状を述べ、銀子の送付を求める。新納勘解由が奉行する大廻船の仕出しや屋敷の無事も伝える。島津久慶・鎌田政統の連署で、島津久元・伊勢貞昌・川上久国・三原重庸・山田有栄宛。寛永十五年四月朔日付。
閏七月十二日 / 冊子 74頁
鎌田政統が新納仲左衛門尉に、御姫様の誕生について忠平様の書状の趣旨を受け、奥方が喜んでいることを報じた書状。その様子を機会をみて披露するよう依頼する。
二月十日 / 冊子 153頁
鎌田政統らが本田蔵人に、上使下向に伴う石原での宿泊施設と振舞いの準備を指示した連署書状。宿は仮設程度に軽く造り、数百人の供衆には五、六か所で簡素な食事を供し、普請では前方衆の大工を使わず加治木の使衆と相談して整えるよう命じる。
寛永十三年四月廿六日 / 冊子 537~541頁
島津久慶(弾正大弼)・島津久元(下野守)・川上久国・伊勢貞昌・山田有栄・三原重庸・鎌田政統が連署し、家中の政務処理を定めた「物定三十五条」。旧例・訴え・奉公上の申立ての扱い、家老衆・物奉行衆・賦衆・普請奉行等の職掌、知行・扶持・切米・納銀・欠米売買、江戸勤番・役人交替、訴訟・借銀・家中統制、年貢・諸役・蔵入などの処理を定める。末条では諸料物・調所の代物を別納し、神社・仏閣・橋の建立や給付の費用に充てることを定め、談合で決定した条々に違背しないよう命じる。本文は冊子537~541頁、日付は寛永十三年卯月二十六日。
(寛永十四年)十二月十六日 / 冊子 710~713頁
家久の年寄衆からの返書と二通の御状を受け、黄門へ進上した書状や幕府側の命令内容を照合し、長島・獅子島への兵配置と天草への即時渡海を協議する。肥後勢が十二月三日に三角瀬戸へ到着し、翌日天草へ押し寄せるとの注進を踏まえ、薩摩勢が遅れないよう準備を急がせた。薩摩から首取千人・鉄炮衆千人・馬乗三騎を天草へ遣わすとの取沙汰、山田民部少輔・新納賀州・仁礼左将を獅子島番手とすること、船の手当、本文を流布しないことを記す。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十六日付。
(寛永十四年)十二月十七日 / 冊子 713~714頁
上使衆の早打に託された先月二十三日付の御状が今月十一日夜に酒井讃岐守から兵部少へ届いたことを述べる。上使は十二日夜半に到着し、翌朝御奥で対面して雑煮の寄合と七五三の振舞を受け、黄門様の胸や手の様子を見た。北郷式部大輔と孫庵が相伴し、上使は引き留められたが十三日夜に出立した。先行して注進した者は海道で上使に追い越され、船で進んだ黒葛原周右衛門・松田七左衛門は五日前に到着したとし、一連の順調な到着を神仏の加護として祝う。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十七日付。
(寛永十五年)五月十日 / 冊子 804~805頁
急な御使を命じられて江戸へ上った伊集院左近を先に帰国させ、家督相続の報を国元へ伝えさせる。五月八日、島津光久(薩州様)が土井利勝(大炊頭)の宿所へ赴き、酒井忠勝(讃岐守)・阿部忠秋(豊後守)らの出合いのもとで家督相続を申し渡された。島津久慶・島津久元・鎌田政統・伊勢貞昌も供をして申し渡しを聞き、近く将軍への御目見があり、進物を準備していると報告する。四名連署で川上久国・山田有栄・三原重庸宛。寛永十五年五月十日付。
年月日未詳 / 冊子 521頁
島津家久の九男松千代丸が伊集院家を継いだのち、命により鎌田政統の養嗣となったこと、家久十二男の久朝が兄に代わって伊集院家の後嗣となったことを記す鎌田・伊集院両家の系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 135頁
伊集院氏の系譜から、遠江守久族、初久、松千代丸、十右衛門久朝らの出自・生没年・養子関係を抄出し、島津家久の子が伊集院家や鎌田家の後嗣となった経緯を記す系図抄。
年月日未詳 / 冊子 188頁
家久の十男・鎌田政勝について、政由・政昭・政道・正信・松千代丸・筑後蔵人などの名、寛永二年六月十三日の誕生、母、鎌田治部政統の養嗣となったこと、伊集院家との養子関係や滑川居住に関する考証を記す系譜記事。
(寛永十四年)十月十九日 / 冊子 682~683頁
家久周辺の内密な案件について、黄門様・奥方・野州老らへの対応、出仕や儀礼の手順を相談し、関係役人と連携して急ぎ処置するよう求めた連署書状。対象となる女性・屋敷内の事情や役割分担には難読箇所が多い。
(寛永十四年)十一月十三日 / 冊子 690~693頁
島原・天草一揆への幕府方針と周辺諸国の動きを詳報し、薩摩からの派兵命令に備えて人員・船・鉄砲を準備するよう指示する。切支丹の捜索と逃散防止、兵の集結、渡海・国境警備、上使への対応などを定め、関係者が協議して遅滞なく処置するよう求めた連署書状。
(寛永十四年)十一月廿四日 / 冊子 697頁
新庄右近の到着への対応を気遣い、図書頭帰国時の御内書、山田平左衛門の到着、有馬方面の急報と返書の送付、和田・有川両名による伝達、新納勘解由の帰国予定などを知らせる。大坂経由の奉書を速やかに届けるよう命じた連署書状。
(寛永十四年)十一月廿四日 / 冊子 698~699頁
細川肥後守が初めて暇を得て帰国するため、薩摩から祝儀の使者を派遣し、鎌田源左衛門または河田内膳を任命するよう指示する。太刀一腰・馬代黄金一枚・小袖十を贈るため、京都で小袖の表裏絹を調達し、仕立てと送付を急ぐよう命じ、祝儀書状の案文も添えた。
(寛永十四年)十二月五日 / 冊子 706頁
天草方面への出水・大口勢の先行や山田民部少輔の出水出陣を知らせ、遠国衆への差配、兵衛尉らの派遣、今後の指示について報告を求めた。
(寛永十五年)四月廿九日 / 冊子 802~804頁
有馬・天草への新領主入部、有馬向け米の調達、豊後目付の交替、使者到来や百姓負担のため遅れた国分川普請、種馬の扱い、喪中かつ家督相続前の改革抑制、家久遺物の贈与など、多数の政務案件を報告・協議した四名の連署書状。
(寛永十五年)五月十三日 / 冊子 806~807頁
五月八日に土井利勝邸で家督相続を正式に命じられた後、御礼登城・将軍拝謁を済ませて献上物を差し上げ、家久死去についての上意を受けたこと、幕閣への挨拶や贈物、供の者・使者への装束拝領、早期の暇と帰国の見込みなどを詳報した四名の連署書状。
寛永十六年十月廿三日 / 冊子 57~58頁
島津久慶ら六名が、高野山における島津家宿坊の由緒と蓮金院への改替を示した条書。義弘・家久が蓮金院と寺領三十五石を代銀四十貫目余で買い整備したこと、廻向院が豊臣秀頼の大坂籠城に加担したため寛永十六年に宿坊利用を禁じたことを述べ、領内の参詣者を蓮金院に付け、廻向院や他坊への宿泊を禁じ、違反時は届け出て処罰するよう定めている。
寛永十五年四月朔日 / 冊子 381~382頁/原整理番号 482
島津久慶・鎌田政統は、弾正が薩州様の帰府まで番を勤めること、大坂から届いた物の送状を火事後の分と照合することを伝える。薩州様の参府・宿・船・借銀等を相談し、有馬一揆の城が先月二十七、八日頃に落ちたため、相良主計に年寄衆への祝詞連署状を持参させると記す。諸外城衆の戦功により首級が二百ほどに及んだとの報も、宛先側の書状で知った情報として述べる。
4月19日 / 冊子 243頁/原整理番号 188
出家・山伏・医者・他国人ならびに身元不分明者、他所から移住した者を改めて報告するよう命じる連署状。卯月十九日、三原重庸・鎌田政統・川上久国らの連署で結ぶ。
寛永13年2月11日 / 冊子 243~244頁/原整理番号 189
宗門改めと他国商人・旅人の取締り、鹿児島への往来者の扱いを命じる触書。寛永十三年丙子二月十一日、三原重庸・鎌田政統・川上久国・伊勢貞昌・島津久慶らの連署で、種子島左近大夫宛に結ぶ。
寛永14年11月13日 / 冊子 332~335頁/原整理番号 308
江戸からの海道筋警固と帰国前の措置について、島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統が国元重臣へ連署で指示した書状である。切支丹一揆への上使派遣、肥後近辺の動向、船と兵糧の確保、人数差配を論じ、軽挙を避けて状況に応じるよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 559~560頁/原整理番号 568
江戸在府の島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統らが国元へ送った連署状の抄録。島原一揆への薩摩衆参陣、鉄砲・騎馬の働き、細川越中守からの評価、幕府方との相談内容を伝える。
年月日未詳 / 冊子 58頁
島津久慶ら五名が諸外城の地頭衆へ、高野山の島津家宿坊は廻向院から蓮金院へ改められたため、領内の登山者を蓮金院に宿泊させ、廻向院・覆坊・別坊への出入りや宿泊を禁じるよう申し渡した文書。村中へ徹底し、違反者は蓮金院からの届出に基づき処罰するとしている。
寛永十六年十一月朔日 / 冊子 60~63頁
島津久慶ら六名が勝連親方・金武按司へ、琉球からの報告各条に回答した連署返答書。進貢船と破損した小唐船、渡唐役人による銀の過分な支出と粗悪品買付けへの処罰、残銀管理、帰帆遅延、波照間島へ漂着した外国人二名の取扱い、宮古島へ漂着した南京船と積荷の検査・買上げ、不審船への対応を指示し、韃靼勢力が北京近郊へ侵攻したとの唐情報も記録している。
寛永十八年二月二日 / 冊子 148頁
島津久慶ら四名が、荒廃した吉松般若寺の観音堂について、勧進によって再興するため、身分の貴賤を問わず志に応じて奉納するよう命じた連署書下。川上因幡守・下野守・弾正少弼・治部少輔の印判を伴う。
寛永12年11月1日 / 冊子 231~232頁/原整理番号 169
八月二十八日江戸於御城、宗門法度の儀を国々右宗改へ入念するよう命じ、旅人・居付者・不審者の手札を改める覚。手札・納方米出物・地頭改衆・無紛通札・伴天連隠置・唐人帳等の処置を定め、寛永十二年十二月朔日、島津久慶外三名連署で結ぶ。
寛永12年12月5日 / 冊子 235~236頁/原整理番号 173
江戸より大準備前守を以きりしたん改の儀を仰せ渡されたため、地頭改衆・札持・不審者・渡船・旅人を厳しく改める覚。国境の番屋、渡船、野山へ逃れる者、南蛮起請文と血判等を定め、寛永十二年十二月五日、島津久慶外三名連署で結ぶ。
寛永14年11月24日 / 冊子 408~409頁/原整理番号 373
寛永十四年十一月二十四日、鎌田政統・伊勢貞昌・島津久慶が、肥後・有馬関係の書状と飛脚の受渡しについて下野守ら四人へ報じる。山田平左衛門の到着、十八日に着いた注進飛脚、年寄衆への報告と返書、新納勘解由の帰国予定、後藤豊後方への伝達を述べる。奉書を次の飛脚で大坂へ送る予定とし、御蔵元から届いた書状は確認のうえ転送するよう求める。追伸で新庄右近の急な下着と道中の人馬手配を気遣う。
「寛永十七年」二月廿日 / 冊子 101頁
北郷久加と山田有栄が、江戸から来た飛脚と下関で会い、上使が薩摩へ下向するとの書状を受け取ったため転送した連署書状。上使との行き違いを避けるため飛脚を陸路で下し、光久一行が大坂で数日待って参会できるよう、船中・道中の行程と受入れを関係重臣が相談するよう求めている。
(寛永12年)10月17日 / 冊子 224~225頁/原整理番号 156
宗門改めに際し、旅人・他国人・牢人・乞食等を隠さず申告し、旅人行脚帳・居付旅人帳・手札を整えるよう地頭・郷衆中へ命じた連署達。
寛永12年10月17日 / 冊子 225~226頁/原整理番号 158
宗門改めの書物案文と札の手本を配り、旅人・他国人を漏れなく調査し、旅人行脚帳・居付旅人帳などを整えるよう諸外城へ命じた連署達。
寛永12年11月1日 / 冊子 226~227頁/原整理番号 159
士衆の家族・奉公人等を年齢別に誓紙と手札へ登録し、他所居住者・浮世人・唐人等の手札と証文、改衆への贈物禁止を定めた連署覚。
寛永12年11月1日 / 冊子 227頁/原整理番号 160
御倉入の納方や百姓・入作人への札交付を急がせ、他国へ走った者の抱置を禁じ、旅人宿泊の届出と伴天連隠匿の穿鑿を定めた連署覚。
寛永13年4月18日 / 冊子 245頁/原整理番号 192
前年離別して田代に潜んでいた内儀らを、切支丹宗門であるため立野(永春尼)同様に種子島へ渡す旨を伝える。摂津内儀・越州内儀と、主水入道に同道させる娘が難儀しないよう保護を依頼する。詳細は主水入道が伝えるとする、島津久慶ら四名から種子島左近太夫への連署書状。
寛永14年12月5日 / 冊子 457~458頁/原整理番号 439
島津久慶ほか二名の連署書状。留守中の処置、薩州から出水・大口衆を天草へ加勢させること、人数・目付の差遣や島津家久の奉書到来を詳報する。遠国のため直ちに人数を召し置けない事情、幕府方の指図に従う方針も伝える。
寛永14年12月16日 / 冊子 479~482頁/原整理番号 476
島津久慶ほか二名の連署書状。黄門宛書状への返書を進上し、天草・島原への出兵、御城沙汰、獅子島人数の引き取り、渡海・船手配、幕府上使や細川勢との折衝を詳述する。日付・使者・指図の行き違いを整理し、現地の兵数、包囲、注進、帰国予定について関係者へ指示する。
寛永14年12月17日 / 冊子 483~484頁/原整理番号 478
島津久慶ほか二名の連署書状。現地の上使から早打で届いた報告と、先月十三日付の書状を受け、天草方面の人数差し越し、黄門との書状調整、御城沙汰、兵部少輔の届出を確認する。海路での使者到着、現地の仕合と今後の御用について四名へ指示する。
寛永十五年十月十五日 / 冊子 396頁/原整理番号 501
在々所々・町々でキリシタン宗の者を隠れ住まわせないよう命じる。公儀の定めとして、伴天連を届け出た者に銀二百枚、イルマンは百枚、キリシタン宗体の者は身分等に応じ五十枚または三十枚を与える。宗徒を知りながら届け出なかった者や匿った者は厳罰に処すとして、探索と通報を怠らないよう諭す。
寛永十五年十月十五日 / 冊子 397頁/原整理番号 503
在々所々でキリシタン宗門の者を隠れ住まわせないよう命じ、伴天連の届出には銀二百枚、イルマンには百枚、宗徒には身分等に応じ五十枚または三十枚を与えるとする。宗徒を知りながら届け出ない者や匿う者は厳罰に処すとして、探索・通報を怠らないよう命じる。
七月廿六日 / 冊子 394~395頁/原整理番号 500
島津久元・伊勢貞昌は、町田出羽守の使者を機に、公儀奉書の写しを送り、薩州様の有馬下向と天草への人数留置が承認されたことを祝う。有馬・天草間を物頭の断りなく移動した家中衆など軍令違反の疑いがある者について、幕府が処罰を命じていない場合でも十分に調査して報告するよう求める。暇・守備交替・琉球米の件にも触れる。
(寛永十四年)十月晦日 / 冊子 685頁
将軍から中納言家久への見舞いとして新庄右近が上使として下向することを家臣らへ知らせる。詳細は弾正・伊勢貞昌・鎌田政統から伝えるとし、重大事なので十分に精励し、家久の意向に反しても必要な意見は遠慮なく申し上げるよう命じた。
年月日未詳 / 冊子 794~795頁
島津家久が病中に光久への家督相続を幕府へ願い出たのち死去し、光久が三月十七日に鹿児島を発って江戸へ参府、五月に土井利勝邸で所領相続を命じられ、将軍への拝謁・献上を経て家督を継承した経緯を詳述する譜記事。
年月日未詳 / 冊子 332頁/原整理番号 306
薩摩藩家老の島津久慶・伊勢貞昌が、鎌田出雲守政統から肥後の賊乱を聞き、在藩家老へ飛脚で詳細を報告させたことを伊地知季安が記す。末尾には、その報告書を後続箇所へ写載すべき旨を付記する。
十月十五日 / 冊子 409~410頁/原整理番号 525
島津久慶ら五名は加久藤噯衆中らへ、キリシタン宗門の者が医者・山伏・出家、牢人、居付の旅人・商人などを装い、辺地の寺門前、人里離れた村や空家へ潜伏する可能性があるため、継続して念入りに糺明するよう命じる。潜伏者を匿った屋敷主は厳罰とし、他国で取締りが厳しいため姿を変えて当国へ入る者があるとして、国境の端々まで油断なく改めること、緩怠があれば担当者を処罰すると警告する。
寛永十二年十二月十五日、寛永十七年、正保二年冬、慶安二年春、明暦元年六月十五日 / 冊子 492~493頁/原整理番号 21-3
寛永十二年十二月十五日、三原左衛門佐重庸・鎌田出雲守政統・島津弾正大弼久慶が平田盛右衛門尉へ五十石を加増し、山田民部少輔有栄・新納加賀守忠清に支配させるよう命じた連署状。後半は平田純正による島津家家譜編纂の由来を記す。家久が病床で起き上がれなくなった際、純正は命により江戸へ赴き、宝刀吉・腹巻・鉄砲三挺など累代の重器を光久へ届けた。寛永十七年、諸侯・旧家へ自家系譜献上が命じられると、純正は国老島津図書久通と協力し、正保二年冬に光久から島津宗譜の校訂を命じられ、旧記・文書を自ら草稿化して慶安二年春に宗家・支流の草稿をほぼ完成させ、白銀百葉を賜った。明暦元年六月十五日の自宅火災では家財や宝刀・武具を失いながら、宗家・支流の伝記約三百冊と三万余の士庶の家譜草稿を守り抜き、四十余年の編纂労苦に対して光久から百石を賞賜されたとする。
寛永十七年六月十九日 / 冊子 412頁/原整理番号 529
島津光久は鎌田政統・島津久元・島津久慶へ、相良清兵衛が相良家中を意のままにし、壱岐守を遠ざけ、親類や気に入った者には良い知行、壱岐守に仕える者には悪所を与えたため、壱岐守が幕府年寄衆へ訴え、詮議と処罰が見込まれると知らせる。清兵衛が召しに応じず籠居する場合に備え、新納加賀守らへ人数を率いて参集させ、足りなければ近辺の地頭衆を加えること、計画を他言せず注進を待つことを命じる。