隈江匡久書状
「大永六年」五月廿三日 / 冊子 660頁
隈江匡久が山田安藝守に、北郷方の離反に備えて都城攻撃を準備し、城戸が開かれて双方の衆が合流した状況や、末吉へ寄った人衆の動向を伝えた書状。
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「大永六年」五月廿三日 / 冊子 660頁
隈江匡久が山田安藝守に、北郷方の離反に備えて都城攻撃を準備し、城戸が開かれて双方の衆が合流した状況や、末吉へ寄った人衆の動向を伝えた書状。
五月四日 / 冊子 131頁
限江匡久が山田安藝守に、山東・池袋・都城から相次いで使僧や使者が来訪し、寸暇もない状況を伝えた書状。相手方の落ち着いた暮らしを羨むと述べ、当地の多忙な政務・取次事情を知らせる。
五月廿三日 / 冊子 131~132頁
限江匡久が山田安藝守に、北郷方が心変わりすれば都城へ攻め懸かる可能性があるので油断しないよう警告した書状。今明日の間に情勢が明らかになるとして、北郷との談合、城戸の守備、弓矢を備えた番衆の配置を求める。
四月廿二日 / 冊子 321頁
本文はNo.338と同文として省略される。参照先によれば、限江匡久が山田安藝守に、山東・池袋・都城から使僧・使者が相次ぎ多忙であると伝えた書状。ただし目録の年月日・標題は四月廿二日・伊集院忠朗書状で、参照先No.338の五月四日・限江匡久書状とは一致しない。
辛未12月12日鹿児島県庁 / 冊子 865頁/原整理番号 1084の4/整理ID 1084-4
人口増加に対して市中の生業が不足するため、山沢・原野の未利用地を開墾させる。希望者へ土地を払い下げ、開拓後二年間は無税とし、地面の広さに応じて受け付ける。都城県管轄郷内の希望者にも適用する。
明治2年十一月15日知政所(年は朱書) / 冊子 711頁/原整理番号 930の3/整理ID 930-3
都城を吟味したとして、山田村等十ヶ村を上荘内郷、郡元村等十五村を下荘内郷と称するよう定め、都城内大寺村の処は梶山郷とする。分割した各郷を設けるが、地頭は従来通り任じ置き、下荘内に罷在するよう命じる。地頭・民事総裁と関係先へ知らせる。朱明治二巳十一月十五日、知政所。各村名は専用台帳へ転記し、原野々三谷村の美注を保持する。十村・十五村と三郷の区分、地頭の継続と勤務場所を分け、新地頭三人の任命、人口・面積・現代行政界、実分割完了は補わない。
明治6年1月15日太政官・1月30日庶務課 / 冊子 909~910頁/原整理番号 1124/整理ID 1124
都城県を廃止し、大隅国のうち同県が従来管轄した地域を鹿児島県の管轄とする。土地・物成・郷村等を受け取り、物成は壬申年分から鹿児島県が受け取る旨を、一月三十日に県内へ布告する。
年月日未詳 / 冊子 299頁/原整理番号 35
都城名勝志に差し出された安久の富山家に関する記述。旧守護の名代を務めた由緒、所領や社役の伝承を述べ、地域の家筋と神社との関係を伝える。
年月日未詳 / 冊子 329~330頁/原整理番号 89
島津庄・都城周辺の名勝旧跡として、稲荷社の由緒、忠久の下向後の居所とされる堀之内門御所跡、島津の地名や旧家の伝承を列挙する。古記の記述と地元の言い伝えを併記した地誌資料。
文化10年9月(朱年注。日なし) / 冊子 415~416頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1301
全上・扣正文在家老座。①一門家の重富・加治木・垂水・今和泉と四家の日置・宮之城・花岡・都城は格別の家柄で名代等も任せるが、身分を慎まぬとの聞きを戒め先年の細達を遵守させる。世間徘徊は忍たりとも駕籠・乗馬・歩行に相応の家来を召列し、相当の家柄・間柄の者を差し越す。身分違いの向きは縦令間柄迚もと記し家老の指図を得る。出入・集会も人柄を勘弁せず一般の風俗に合わせないよう、身分の心得違いを戒める。②大目付以上は政事を預かるのに心得が薄く程過・不沙汰を放置するため、国政・諸役場・支配下を監督して全体の風俗を立直す。常時見聞の趣を穿鑿し油断・万事不行を防ぎ、物躰取締、目付役の勤向監督、諸蔵方・出入取捌の厳格化を命じ、各方面相談してさらに細かく申し付ける。文化10年朱注9月、家老中・若年寄・大目付宛、重豪名義は目録。一門家四名と四家四名を一群四名に縮めず、人物の身分・行動規制と役人の政事責任を二条で分ける。
辛未12月鹿児島県庁 / 冊子 863頁/原整理番号 1084の1/整理ID 1084-1
新県の設置に伴い、従来の下荘内を「都城」、上荘内を「荘内」と唱えるよう改める。辛未十二月鹿児島県庁。
辛未11月太政官 / 冊子 863~864頁/原整理番号 1084の2/整理ID 1084-2
西海道の従来の諸県を廃し、白杵県・都城県・美々津県・鹿児島県などを置く。肥後、日向、大隅、薩摩、琉球の各郡を新県へ配分し、庁所在地を定め、旧県官員の追々の処遇と物成・郷村等の引継ぎを命じる。
年月日なし / 冊子 864~865頁/原整理番号 1084の3/整理ID 1084-3
薩摩・大隅・日向・琉球の各地域について、鹿児島県・都城県・延岡県・飫肥県等へ引き継ぐ石高を列記する。新県再編に伴い、別紙の方針に従って旧県事務を継続し、管轄郡への委細伝達、地頭・郡役人その他の職務遂行を命じる。
壬申5月19日・6月 / 冊子 885~887頁/原整理番号 1102/整理ID 1102
大隅国の始羅・菱刈・桑原各郡と日向国諸郡について、鹿児島・都城・美々津各県間の管轄替を命じ、石高・反別を村ごとに調査して大蔵省へ提出させる。飛地や錯綜した郡村境界を実地調査し、絵図を添えて整理する。
年月日未詳 / 冊子 336~337頁/原整理番号 110
都城郡元村安養寺の本尊銘を抄出し、応永十五年の造立と由緒を記す。寺と旧村の位置、のちの本尊の移動、山田聖栄の記録との関係について編者の注記を伴う。
正保二年三月十二日 / 冊子 7頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0009
島津久慶・川上久国・島津久通が都城衆中・殿役奉行へ、異国船発見時の飛脚・通報・取調べを定めた条書。報告を遅延させず、乗員・船の動静を把握し、疑わしい者を仮置きして関係役人へ引き渡すことなどを命じる。
応仁二年二月廿九日 / 冊子 464頁
都城安久村正応寺の日吉山王宮一宇を造立したことを記し、当郷守護島津氏や棟梁・大願主らを列挙する棟札。
年月日未詳 / 冊子 32頁
本田助之丞家蔵文書に収める、近衛信輔が庄内都城で興行した和歌会の作品群。「松蔭新涼」「秋日同詠松蔭新涼和歌」などを題に、近衛信輔、龍伯、大蔵少輔長治、左衛門尉長家ほか島津家臣らが、松陰・秋風・露・涼しさを詠んだ。
4月4・9日(式部申渡);文久3年亥4月6・10日取次注 / 冊子 292~293頁/原整理番号 412の1/整理ID 412-1
五内容の通知群。第一は三郎が細嶋で機嫌よく滞在し、供人数と持道具が到着したので昨三日に発駕し宿割どおり通行するとする四月四日式部の通知と、松岡十太夫を通じて向々へ伝える同日通知。第二は来九日の帰着に備え、嶋津又六郎一列は所定の通筋へ出て、帰着後に本丸で家老へ祝儀を述べるよう求める。第三も三日に臼州細嶋を発ち九日帰着予定と伝え、手当の手抜かりを防ぐ四月式部の通知で、本文亥四月六日松岡十太夫取次注。第四は昨八日高岡を発ち、明後十一日に帰着する予定を宿割とともに伝え、四月九日式部、当日伊地知壮之丞取次注。第五は嶋津圖書が御迎のため都城まで遣わされ、附添の御供にも同様に命じたという四月通知で、文久三年亥四月十日向井新兵衛通達注。九日と十一日は各通知の予定として分け、統一した到着日を作らない。
永禄元年3月19日、文禄元年、慶長5年1月12日、元和元年5月、明暦3年9月17日、元禄7年、天保7年7月ほか / 冊子 278~280頁/原整理番号 109
都城臣上原甚左衛門家について、上原宮内左衛門の父・長門守以来の北郷氏への奉公と近世の子孫をたどる系図。父祖は豊州家に仕えて飫肥へ移り、北郷忠親が豊州家を継いだ後に北郷氏へ臣従したと伝え、宮内左衛門は永禄元年三月十九日、北郷時久に従って肝付氏と恒吉宮ヶ浜で戦い死亡し、法名を長阿弥陀とする。宮内左衛門の戦死後、時久の許可で養子となった野崎丹後左衛門入道正金の嫡子は、天正年間に旧地回復の使者として二十八人を率いて飫肥へ赴き、文禄元年には北郷忠虎に従って朝鮮へ出陣した。さらに慶長五年茶園尾陣で没した齊次郎、元和元年に北郷忠能に従い大坂へ出陣した尚保、尚貞・尚盛・尚明・尚時・尚純・尚次・尚侍・尚政・尚常らの出生・没年、法名、婚姻・養子関係を収め、末尾に元禄七年の再撰書出から抄出した略系を天保七年七月に伊地知季安が記したと明記する。
(元禄八年)四月四日 / 冊子 172~173頁/原整理番号 515の1
都城川東村柿木薗門の嘉左衛門が、家の由緒を記して梅北正兵衛に追書を求めた覚書。曽祖父の肝付源左衛門は高山から志布志へ召し移され、ぞうめき口の屋敷を与えられ、のち入道して宗可と名乗ったという。助三郎の死後の家督継承、北原小名の称用、石垣普請や知行目録、龍峰寺・柿木薗門での家の継承を述べ、証文としての追書を依頼する。元禄八年四月四日付、嘉左衛門印。
年月日未詳 / 冊子 291~292頁/原整理番号 24
都城の名勝として、梅北の神柱両社・妙見大菩薩の本地、伊勢からの遷座伝承、梅北家の由緒、鳥居や社殿の造営を記す。寛文六年二月付の梅北正兵衛の差出文書で、神社の縁起と祭祀の継続を伝える。
目録年月日記載なし / 冊子 131~132頁/原整理番号 4-9
「都城名勝志差出」の神柱社関係記事。日州庄内梅北にある神柱両社について、祭神・本地と社の創建、平朝臣平大監末基に関わる伝承を記す。大門の柱を神柱と称した由緒、伊勢からの移住や梅北の地名・社頭に関する言い伝えを掲げる。
寛政2年5月(朱注) / 冊子 5頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0017
中将様への八朔の進上物について、一門方、日置家の島津左衛門、花岡家の島津美濃、宮之城家の島津図書、都城家の島津筑後を対象として取扱いを伝える内意書。今後は江戸で名代を立てて太刀を進上し、年頭と同じように扱うとする。そのうち江戸詰の者には年頭に準じた扱いを定め、家格・地頭職により太守様へ八朔の進上物を出す者も中将様へ同様に進上させ、仕向等も同様にするよう伝える。目録は島津重豪内意書とするが、本文に独立した署名・宛名はない。
(文和三年八月十六日) / 冊子 858頁
兼阿が都城本田氏へ所領を譲り、子孫への相続、後日の違乱禁止を仮名書きで定めた譲状。自筆であることと後証のため判形を加えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 509頁
日向国島津院円福寺の阿弥陀如来造立について、文明十六年六月十五日の年紀、信心大願主、僧寶秋ら奉加者を刻んだ仏像甲板の銘。
明治3年12月28日知政所 / 冊子 780頁/原整理番号 996の3/整理ID 996-3
勅使は明後二十八日朝八字に客屋を出立し、御成御門から石燈籠を通って御渡戸で乗船し、福山へ渡海する。別紙の休泊予定どおり通行し、既発の布令に従って滞りなく取り計らう。御渡戸までの供回りと取締は到着時と同様とし、小休場所は地頭が見計らう。二十八日福山一泊、二十九日上三俣泊など、正月二日高岡泊までの日程を掲げる。明治三年十二月二十八日知政所。
目録年月日記載なし / 冊子 131頁/原整理番号 4-8
「南山巡狩録巻九」の記載を引き、山名氏に伝わる錦の御旗の由緒を検討する。季安は神柱社・梅北家の伝承と照らして、御旗が伊勢から贈られたとの説や、梅北大宮司の職掌・居所に関する言い伝えを考証する。
建武二年七月六日 / 冊子 636頁
薩摩国役所が、山門院内針原・横峯・内野分について、建武二年三月一日から七月一日まで都城本田孫二郎が大番役を勤仕したことを認めた島津貞久大番役請取状。
年月日未詳 / 冊子 67頁
伊東・北原・相良氏らの凶徒が都城周辺へ攻め寄せたため、新納実久が救援に向かい、応安六年三月一日の戦闘で軍功を挙げた経過を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 73頁
永和元年、北郷讃岐守義久が日向国南郷に城を築き、都城と名付けて居城としたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 77頁
北郷讃岐守義久の譜中から、永和元年に都城を築いて移居したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 101頁
永和二年冬、相良氏が伊東氏らと結んで守護領へ侵入し、守護命に背いた六十三人を旗下に集め、本原城を本営として都城へ迫った記事。北郷義久は平田新左衛門重親入道玄心・工藤蔵人ら勇士七十余騎と都城に籠城して防御し、島津氏久は救援のため自ら志布志の天ヶ峯へ出陣した。
年月日未詳 / 冊子 101~102頁
北郷祐山兄弟が本領を確保して庄内南郷の都城を取った頃からの攻防を叙述する『山田聖栄自記』の記事。相良・伊東方が都城へ迫り、島津氏久が志布志から天ヶ峯に陣取って救援した経過を記す。二月十九日頃の合戦に際し、平田重親は甥の氏親に、自身は討死するので生きて又三郎殿に仕えるよう諭した。重親は討死し、氏親は七か所を負傷しながら生還したという。
年月日未詳 / 冊子 102~103頁
天授三年、島津氏久と世子久豊が都城救援を企て、肝付兼氏へ加勢を求めたことから始まる肝付氏の譜記事。北郷・本田・伊東など諸勢力が天ヶ峯・蓑原周辺で交戦し、進軍・退却・戦死が相次いだ経過と勝敗を追い、都城をめぐる広域戦の展開を記す。
年月日未詳 / 冊子 103~104頁
天授三年前後の南九州争乱を詳述する国史記事。島津氏久・久豊方と北郷・肝付・伊東・相良・本田諸氏が同盟と離反を繰り返し、都城周辺の諸城・陣地で交戦した。各隊の進軍・退却、武将の戦死、勝敗の転換を追い、戦後に忠功を認定して恩賞を与えるまでを一連の軍事過程として記す。
年月日未詳 / 冊子 104~105頁
三か国の御家人と相良氏らが一揆して都城を圧迫したため、北郷義久が新納・本田・樺山・平田諸将と籠城した経過を記す。島津氏久は志布志から救援し、天ヶ峯・平長谷方面へ軍を進めて一揆軍と交戦し、都城の包囲を解こうとした。
年月日未詳 / 冊子 108~109頁
土持栄勝が、都城陣での宿直と合戦、姫木城没落時の出陣、飲肥・櫛間への在陣や庄内への随行などの軍忠を列挙し、後日の証拠となる御判を求めた軍忠状。
「永和三年」十二月二日 / 冊子 111頁
今川満範が土持左近将監に、春から十二月二日まで飲肥・志布志・都城以下の諸方を同心させた忠節を賞し、その詳細を上申すると伝え、今後も忠節を尽くすよう求めた書状。
康暦元年十月七日 / 冊子 120頁
今川満範が土持大塚左近将監に、日向国都城の合戦で挙げた忠節を殊に神妙であると賞し、その功を上申すると伝えた感状。
年月日未詳 / 冊子 120頁
島津国史として、康暦二年に今川了俊が禰寝久清の本邑領有を回復させ、大隅始良荘を権領させたこと、今川満範が北郷城ヶ崎に陣して都城再攻を企て、禰寝久清の鷹栖城での戦功を賞したことなどを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 146~147頁
島津国史として、明徳四年の高木久家退治に際して島津元久が禰寝久清へ都城参陣を命じたこと、相国寺領問題による上洛延期と使者・贈物、攻略後の高城支配や伊集院氏・山田聖栄をめぐる処置を記す。
明徳四年四月廿八日 / 冊子 146~147頁
島津元久が禰寝久清に、前年九月十七日の御教書に従い高木久永を退治するため、来月十五日以前に都城へ参陣するよう命じた施行状。
年月日未詳 / 冊子 149~150頁
応永元年、今川貞兼が都城方面を攻めたため、島津元久が北郷讃久方を救援した経過を記す国史記事。梶山・三俣・野々美谷・高城などで和田・高木氏らと交戦し、北郷久秀・忠通らが戦死した。伊地知又七郎や山田聖栄の記録も踏まえ、攻略後の城・領地処置までを追う。
年月日未詳 / 冊子 152~153頁
『応永記』が、島津元久・伊久と本田忠親の談合、渋谷一族への対応、今川貞兼を介した軍事行動を記す。北郷・梶山・伊東氏らの移動と、梶山城・野々三谷城・都城周辺の合戦を追い、諸勢力の合流と離反を伴う応永初年の戦線拡大を伝える。
応永十五年 / 冊子 230~231頁
日向国島津院安養寺が応永十五年に造立されたことを記す本尊銘。後注は、都城郡元村早水境の堂山に安養寺門の地名が残り、本尊阿弥陀が川東村の大草氏隣家へ移されたと伝える。
年月日未詳 / 冊子 487頁
文明八年六月二十一日、北郷敏久が島津立久から都城を再び与えられ、安永から都城へ移り、守護方の城衆から城を受け取ったことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 487頁
北郷氏庶流系図として、文明八年六月二十一日の都城再拝領と安永からの移転、北郷氏一族による都城受取を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 525~526頁
文明十七年春、伊東方の山東・飫肥方面への進発と長雨・兵粮難、薩摩守重久・修理亮忠廉らによる都城方面の軍勢催促を記し、さらに竹田法印昭慶の医療と出陣をめぐる忠昌・伊東祐国・伊作式部太輔らの応酬を載せる長文譜記事。
年月日未詳 / 冊子 528頁
文明十七年六月十二日、島津忠昌が鹿島を発して敷根へ着き、翌日末吉、さらに都城方面へ進んだ経過を記す島津氏家譜記事。薩摩守重久・修理亮忠廉・北郷讃岐守ら諸将を率い、伊東方との合戦に臨んだ。鹿児島から日向国境へ至る進軍日程と軍勢編成を示す。