伊集院久治・山田有信連署知行目録
慶長六年六月吉日 / 冊子 765頁
伊集院久治(抱節)と山田有信(理安)が連署し、大隅国曽於郡財部日光神村内の田地・浮免など合計十石を日光神社の知行として定めた目録。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
122 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 3
慶長六年六月吉日 / 冊子 765頁
伊集院久治(抱節)と山田有信(理安)が連署し、大隅国曽於郡財部日光神村内の田地・浮免など合計十石を日光神社の知行として定めた目録。
慶長八年十一月廿八日 / 冊子 917頁
伊集院抱節久治と山田理安有信が連署した知行目録。大隅国曽於郡財部村内の西大河原門・右衛門浮免など各所の石高を列記し、合計高を加増として配分する旨を定める。
八月廿八日 / 冊子 856頁
財部元式が桃山殿に、御札と委細の命令を披見したことを報じ、姫木城の件などについて取り計らいを求めた書状。
永禄二年三月三日 / 冊子 69頁
財部筑前守が清水谷口方の扱いについて末吉で町田加賀守と相談済みであることを伝え、神前の宮代官任命や門川からの請取りを時機を見て進めるよう求める書状。
年月日未詳 / 冊子 105頁
天ヶ峯から平長谷へ陣を移した島津氏久方の戦闘を記す。財部勢が援軍として加わり、新納実久・本田重親らが部隊を編成して一揆軍の陣へ攻撃した。敵味方の隊列、先陣・後陣の動き、戦況の転換と勝敗を追い、救援軍の指揮系統を示す。
年月日未詳 / 冊子 757~758頁
尾張守資忠の旧領を近江守忠勝が押領したことから生じた領地争いを記す。島津貴久が双方の主張を聴取し、財部院・横市などの知行を裁定したが、忠勝方は処分に抵抗した。使者を介して返還・代替地・和議条件を調整した経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 759頁
天文七年、北郷忠相が財部院を奪還し、大崎城・安楽城などを攻めた戦役を諸譜からまとめる。島津忠朝・忠勝方との攻防、援軍と守兵の配置、各城の陥落を追い、攻城で戦死した家臣を列挙して、北郷方が庄内周辺の支配を拡大した経過を示す。
八月十日 / 冊子 868頁
隈江匡久が、伊東勢の越山と財部からの注進を受け、味方の動員と城の守備を依頼した書状。
年月日未詳 / 冊子 76頁
永禄三年五月十一日に戦死した財部武蔵盛慰について、戦場・所属などを注記する殉国記事。
永禄八年三月二十四日・五月朔日 / 冊子 139頁
永禄八年三月二十四日および五月朔日の戦死者を掲げた交名。吉満善左衛門久張、日置狩野介忠光、財部武蔵守盛慰らの名を伝える。
年月日未詳 / 冊子 451~452頁
島津忠恒が十月五日に森田へ陣を移し、北郷長千代丸らが志和池城周辺に布陣した後の戦闘経過を記す。高木村方面で高城勢を追撃し、伏兵戦や志和池城からの出撃で双方に戦死者が出たこと、北郷勢の高橋武蔵・白坂式部・財部武蔵らの討取、小杉太郎左衛門尉らの戦死を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 559~560頁
神戸久五郎が、八月朔日の伏見落城時、松丸口で父松岡勝兵衛が五代舎人と先頭に立ち、矢狭間を開いて槍で戦ったことを記す。勝兵衛は草摺を鉄砲で撃ち抜かれて瀕死の深手を負い、財部傳内は門内で敵と組み討死した。勝兵衛は島津義弘(惟新)の毎日の見舞いと薬により助かり、大柿への供を望んだが歩けず、のち大坂で米六十石を与えられたという。
慶長七年七月十七日 / 冊子 827頁
本田助丞元親が、財部伝内・中馬甚右衛門尉との三人組で菊屋宗可から京都で購入した小袖代の未進銀六十八匁について、返済責任と精算方法を記した証文。
寛永八年八月七日 / 冊子 225~226頁
北郷源左衛門忠俊の罪状を列挙する。讃州の殺害・成敗への関与、鹿児島や外城との往来遮断、殿役の不履行、公儀への祝儀使者の遅延、家老を無視した専断、家中の言論統制、財部宗三の成敗、出雲守の鹿児島屋敷普請の妨害、山城殿への根拠のない毒害嫌疑などを挙げ、北郷家を危うくしたとして成敗を命じた覚書。
四月十日 / 冊子 291~292頁
島津忠国が、松山滞在や財部・志布志方面の事情を伝え、十二日に出立する予定、内々の音信を絶やさず警戒すること、別符の合戦で大勝したことなどを内山千熊へ知らせた書状。
(寛永15年)正月5日 / 冊子 563~564頁/原整理番号 578
鹿児島賦所が財部衆へ出した手形。島原加勢の人数七十五人を定め、鉄砲・弓・鑓、飯米、水船を用意して差し出すよう命じる。寛永十五年正月五日付。
永禄十一年正月廿日~三月廿三日 / 冊子 186頁
永禄十一年正月二十日の羽作瀬合戦で戦功を挙げた将兵を中心に、その後の大口・曽木方面の戦闘参加者を併記した交名。義弘・歳久の退却を支えた遠矢良堅、財部盛弘、入来院筑後守、伊集院久治ら、二月二十八日の小苗代原で戦った忠元・兼寛ら、三月二十三日の曽木城防衛・永福寺口守備の人々を列挙する。
五月十八日 / 冊子 522頁/原整理番号 91の1
財部善三右衛門が佐久間勘兵衛へ差し出した前書。続く古記録には誤字・衍文や不通の文句が多いが、本書のまま改めず書写したこと、古い実録として大意を汲んで読むよう求める。五月十八日付。
永享七年十月十四日 / 冊子 371頁
本田重経らが連署し、一味同心して御用に立つこと、意見を求められた際は心底を残さず申し上げること、合議した事項を繰り返し検討することを神仏に誓った起請文。
永禄八年二月七日~五月朔日 / 冊子 140頁
永禄八年、伊東勢が板敷田に伏兵を置いて本城兵十三人を討ち、新山外屋尾・楠原へ進出した経過を記す。五月朔日に忠親方が新山外屋尾を攻め破り敵二十八人を討ち四十人を捕らえ、物具七百を得たが、味方も三十人戦死・四百八十人負傷した。
永禄十年十一月廿二日~廿四日 / 冊子 169~170頁
永禄十年十一月の馬越城攻めを義弘の働きを中心に記す。城壁を越えようとした辻・有馬・久富の三人が井手籠氏父子に討たれると、義弘が自ら太刀を取って強敵を斬り、諸将も門壁を破って井手籠父子以下多数を討った。勝利後、菱刈の諸城は大口城へ退き、隆秋は相良氏の援軍を得て同城を守った。
永禄十年十一月廿三日~廿四日 / 冊子 171頁
永禄十年十一月二十三日からの馬越城攻めに従軍した将兵を、義弘・歳久の指揮下に分けて列挙した交名。戦功を挙げた者に加え、辻大蔵左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、新納九郎らには戦死の注記を付す。
永禄十年十一月廿三日~廿五日 / 冊子 173~174頁
島津方が小林出勢を装って軍路を転じ、永禄十年十一月二十三日夜に般若寺越・構子木越から馬越城へ奇襲した経過を詳述する。義久・貴久が高地に陣し、義弘らが攻め上って井手籠父子以下多数を討ち、翌夜には周辺八城が放棄された。島津方は各城へ守兵を入れ、菱刈方は大口城へ集結して球磨の援軍を待った。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 182頁
永禄十一年正月二十日、大口城の球磨・葦北・八代勢が城外へ出たため、義久・義弘が戦おうとしたが、貴久は無評議の出勢を軍法に反するとして川上久朗に制止させた。すでに先陣が接戦していたため久朗・義弘が殿となり、別府安芸守ら敵の先鋒と激戦した。久朗は七箇所の深手を負い、義弘も諸将と退路を支え、義久・貴久の援軍到着によって曽木へ退いた。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 182~183頁
永禄十一年正月二十日、義弘が少数の精兵で大口方を誘い出して戦った経過を記す。敵先鋒の別府安芸守らに対し義弘が弓で応戦し、川上久朗も奮戦して重傷を負った。島津軍が退く際、義弘は殿となって追撃兵を繰り返し退け、歳久・伊集院久治らの来援で曽木城へ退却した。貴久は援軍を率い、進まなかった梶原某を追放した。
永禄十一年二月廿一日~十二月十九日 / 冊子 185~186頁
永禄十一年二月二十一日の飫肥方面の合戦を中心に、同年各月の戦死者を日付別に列挙する交名抄。北郷忠俊・久周、本田親豊、土持頼綱、和田匡郷ら多数のほか、三月九日の寺山直久、同月二十三日の佐多経久、八月・十二月の戦死者を記す。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 189~190頁
永禄十一年正月二十日、馬越から出た島津勢が大口方と羽作瀬で戦った経過を詳述する。川上久朗が飛田瀬で奮戦して戦死したと伝え、義弘は弓で敵先手を退けて味方を渡河させ、自ら殿を務めた。追撃兵の長槍を甲に受けながら多数を討ち、義久・貴久の援軍到着によって敵が退いた。長野仲左衛門尉・下島甚左衛門尉らの戦死や梶原某の追放も記す。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 190~191頁
永禄十一年正月二十日の大口・羽作瀬合戦を詳述する。川上久朗が飛田瀬で敵を支え、義弘は弓で応戦しながら殿を務め、難所の大河を渡った。追撃兵に囲まれた義弘は甲に多数の鑓を受け、家臣に助けられて渡河し、長野仲左衛門尉・下島甚左衛門尉らが戦死したが、義久・貴久の援軍到着により敵は退いた。
元亀三年三月廿三日・五月四日 / 冊子 266頁
元亀三年の殉死・戦死者を列記する。三月二十三日に島津貴久を慕って南林寺前の海に入水した平田純貞を掲げ、五月四日の木崎原合戦で戦死した鎌田大炊助政高・鎌田源三・野田越中坊・有馬豊前兵衛純秀・前田主税助範春・富永刑部左衛門・曽木播磨守重治ら多数の名を収録する。
年月日未詳 / 冊子 239頁/原整理番号 173-9
沢原野御牧で使う焼印金二つについて、牧の諸所に備えるため、財部淡路守の指示に従って竹内権左衛門尉のもとへ送り置いたことを知らせる書付。
寛永廿一年正月十九日 / 冊子 233頁/原整理番号 172-2
正月十九日付の廻状。沢原野の狼垣について、各所に垣木を用意させ、今年中の修理を進めるよう命じる。作業が間に合わない場合は他の外城へ人手を求めることも示し、廻状の内容を首尾よく実行するよう促す。
正保二年三月廿四日 / 冊子 237頁/原整理番号 173-2
正保二年三月二十四日付の書状。沢原野の御牧で捕らえた駒について、上申された書付を確認したと伝える。関連する別紙を提出し、今後の音信を待つよう求める。
正保二年三月廿四日 / 冊子 237~238頁/原整理番号 173-3
沢原野の御牧で捕らえた駒の毛色と頭数を列挙した書付。栗毛・青毛・鹿毛などを分けて記し、捕獲馬の内訳を報告する。
建武三年三月廿八日 / 冊子 657頁
財部孫四郎入道の多々良浜合戦での軍忠について、見知者に実否を問い、起請文を付して注進させるよう命じた足利尊氏奉行人連署奉書。
元文五年三月廿一日 / 冊子 593頁/整理ID 1479
三月二十一日、忠顕が忠紀の元服を祝い紗綾五巻を東武へ贈り、財部孫之丞盛興が下亭へ届けて伝えた記事。
〈寛延三年〉十二月十六日 / 冊子 291~292頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0845
嶋津主殿久柄が十二月十六日、義岡相馬・鎌田典膳・市来左中へ、隅州の今月二十二日の年賀御祝について連絡する。国許へ伺って返答を待つと遅くなるため、相談のうえ、当日の御祝料理には嶋津主鈴を使者として遣わし、家老らが料理に寄り合うよう命じられたと伝える。財部孫之丞も使者を務め、列席人数を先に知らせたとおりとし、別紙の次第書に従って隅州に御祝を申し上げるよう求める。慰物は嶋津遊閑操が担当し、山下御屋敷で面談して進上物を渡し、返しも賜るという。ほかの御祝儀もあるかと尋ね、隅州五十の年賀の前例を見いだせないまま、当日下屋敷へ面談に赴き、隅州と太守に御祝儀を申し上げるよう求める。別封書状を各方へ送るので、申し合わせのうえ御祝儀を届けてほしいと記す。
〈宝暦四年〉閏二月二日~八月十九日 / 冊子 466~467頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1418
重年夫人が病を得て床に伏し、湯薬による治療を受けても効なく、宝暦四年閏二月二日に江戸芝邸で死去した記事。法諱は智光院殿心顔貞鏡大姉で、芝の大圓寺へ葬った。三日夜に入棺し、六日夜に霊柩を芝邸東門から出して同夜大圓寺へ入れ、九日夜に葬礼を営んだ。島津主殿久鴻が神主を護持し、側用人菱刈孫兵衛實詮・財部孫之丞盛興、留守居赤松甚右衛門則正、使番本田六左衛門親相、代納殿役人白井猶右衛門昌住・郡山嘉右衛門貞雄・貴島幸右衛門國在らが供奉した。ほかの代納殿役人以下も葬場に列し、導師は大圓寺海卯和尚であった。閏二月十日から十四日まで中陰の梵儀を修した。同月二十日に訃報が薩府へ届いた。六月二十六日早朝、遺髪を大圓寺から国元へ送り、田中源之丞國盤と新番代納殿役、奥横目以下の軽士らが護送した。遺髪は行列では駕物と呼び、国元へ着いて営む際には髪と称するとの元注がある。東海道・伊勢路を進んで大坂から船で西海を航行し、薩州向田へ上陸、八月十九日に福昌寺へ入り、その日に廟所へ遺髪を納めた。出典は重年公御譜。
年月日未詳 / 冊子 718頁
暦応二年正月以降、財部城・大和田城をめぐる合戦で猪俣新左衛門尉らが奮戦した経過を記す肝付兼重伝。新左衛門尉が数十戦で傷を負い、二月・四月の攻防で諸将が戦死・負傷したことを記す。
享保十七年八月六日・八月十七日以後 / 冊子 189~190頁/整理ID 449
同年八月六日の法皇崩御について、八月十七日に先触があったことと、吉貴が使者財部伝五左衛門盛尚をもって泉涌寺の尊霊前に香奠銀三枚を献納した経緯を記す記事。その後、江戸の官府へ報じ、老中が奉書で返報したと続く。
〈寛延二年〉十一月十五日〔原本文〕 / 冊子 217~218頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0613
寛延二年十一月十五日、久門(重年)が執政の奉書に従って登城し、白書院で家重へ、襲封の御礼として太刀一腰・御刀一腰・縮緬二十巻・白銀百枚・馬二匹を献じた。永井伊賀守直陳が奏達し、久門は大納言家治にも御礼を申し上げ、尊詞を受けて退席した。その後、再び召されて敷居内へ進んだ。 宗族の島津木工久篤、家老の島津矢柄久富・伊勢兵部貞起・島津主鈴久郷は、それぞれ太刀一腰・馬代白銀一枚・縮緬五巻を献じた。番頭高橋七郎右衛門種辰、用人の宮之原甚五兵衛通興・本田孫右衛門親芳・財部孫之丞盛興、伊集院十左衛門久東は、それぞれ太刀一腰・馬代白銀一枚・縮緬三巻を献じて拝謁した。これらは当家の先例によると記す。 久門はさらに西城へ登り、大岡越前守忠宣の取次ぎで前大樹吉宗と家治に襲封の御礼を申し上げた。両公にはそれぞれ太刀一腰・御刀一腰・白銀百枚・馬一匹を献じた。家臣九人も随行し、執政・副執政各位の邸で御礼を申し上げた。また本営の老女へ白銀三枚ずつ、表使へ二枚ずつを贈り、このほか執政・諸有司・親戚・知己へ太刀・絹帛・酒肴等を贈って謝礼した。 冒頭に「全御譜中」。献上刀剣には銘・寸法や代金、馬には裸背の注を付す。
〈寛延二年〉十月二十日 / 冊子 274~275頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0781
宗信の肖像と厨子に付す二種の銘草案。第一案は大施主竹姫君、監事家老島津主鈴藤原久郷、執次用人財部孫之丞平盛興を掲げ、慈徳院殿俊巖良英大居士の肖像一軀を安厝すると記す。開眼師は大圓寺現住龍眉、仏師は法橋善慶で、寛延二年十月二十日の日付と、御影像の厨子内に書き置く旨の指示がある。別案は宗信を薩隅日三州主兼琉球国領主と称し、江戸芝の邸に生まれ、徳川綱吉の養女竹姫が養って子とした経歴を述べる。同年七月十日に薩府で没して慈徳院殿俊巖良英大居士と称され、十月二十日に竹姫が愛惜の余り坐像一軀を安厝したと記す。坐像は長五寸余で、日々香華を供え、威霊はなお在るとして、後世にも怠らず供養を続ける意を伝える。銘案の作成者実名は記されない。
〈寛延三年〉十一月朔日 / 冊子 275頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0783
右本書者から始まる指示は、御影像の厨子内に軸物を調えて掛け置くことを伝える。続く返答で吉田用右衛門は、竹姫用向きとして寛延二年十月二十日に江戸芝邸で島津主鈴から草案を受け取り、軸物を作成して差し上げた旨を述べる。同月晦日に主鈴が財部孫之丞を介し、後年に宗信の家譜へ記載するため国許御記録所へ草案を納めるよう命じたので、そのとおり納置したと答える。寛延三年十一月朔日付、御記録方添役吉田用右衛門の署名を持ち、御記録奉行上とする。
寛永十七年五月二十四日(聞き取り日) / 冊子 78~83頁/原整理番号 31
大和守久章の内衆から、京都三条宿での行動と五月十七日の失踪について聞き取った記録。好田半兵衛・池田仁左衛門・道具持・夫丸・財部権之丞らが、清水や茶屋への遊山、同伴者、銀子、挟箱、失踪当日の買物や目撃を個別に述べる。聞手は伊地知重政・相良頼員らで、証言は必ずしも一致しない。
天正十二年十二月一日~晦日 / 冊子 959~968頁
天正十二年十二月一日から晦日までの日記。義久・義弘・歳久らの鷹狩、秋月・龍造寺・彦山の使者と蔭涼軒の正式な拝謁・饗応、肥後諸氏の使者の進物を詳記する。中旬には新田宮再興、御船・隈庄方面の戦況、豊後勢の在陣を協議し、琉球渡海船へ印判を与えた。下旬は村田経定の赦免、年頭連歌、所領・鷹をめぐる相談を経て、加治木・宮内・財部を通り宮崎へ戻る年末の動向を記す。
正保二年十月四日 / 冊子 240頁/原整理番号 173-10
十月四日付の廻状。沢原野の大垣の修理について急いで相談するよう求める。狼による馬への被害を防ぐため、破損した垣を直し、状況を確認して油断なく対応するよう伝える。
正保二年四月十三日 / 冊子 239頁/原整理番号 173-8
四月十三日付の廻状。取駒が通る道のうち、関係する地域の道路を整えるよう求める。道が悪く駒に事故が起きれば現地の怠慢となるため、修理を急ぐよう注意する。
年月日未詳 / 冊子 355~356頁/原整理番号 58
菱刈方の背反を受け、島津方が進路を変えて馬越を夜襲した経緯を記す。義久は徳辺の岡へ上り、諸隊が競って攻め、負傷者・死者を出しながら城を落とした。義弘や各地の兵も働き、城戸で村田右衛門尉が戦死した。その後菱刈方は複数の城を捨てて大口へ籠もり、島津方は残る城へ守備隊を配置した。
年月日未詳 / 冊子 356~358頁/原整理番号 59
横川から来た者が島津方の情勢を菱刈・伊東・相良へ知らせ、背反が起きたことを記す。菱刈は大軍の進路に気づかなかったといい、島津方は馬越へ急襲した。先鋒が多数の損害を受けながら攻め、義久・義弘の隊や諸隊が戦って落城させた。諸城が放棄され大口に籠城されると守備隊を置いたが、相良頼房の加勢もあり、求麻・八代・芦北の兵や住民が集まって、大口は攻め難い城になったという。
年月日未詳 / 冊子 359~360頁/原整理番号 63
馬越の兵が大口へ伏兵を置き、出てきた敵と正月廿日に戦った記事。河上左近将監が飛田の瀬で戦死し、先手も負傷した。義弘は弓を射て味方を助け、羽作り瀬を渡らせ、小路で敵味方が接近すると大太刀で戦った。戦死した家臣らの働きを認め、旗役人の梶原の子がその功によって主君の内に仕え続けたことも記す。
二月十五日 / 冊子 140頁/原整理番号 235-2
川上久国・三原重庸が諸外城へ、薩州様が今日着くとの有馬からの報を受け、猪鹿を捕って二十日・二十一日までに届けるよう命じた廻状。猪は雄猪を差し上げ、ほかに各地で得られる肴もできる限り調達するよう求める。