討死人交名注文
年月日未詳 / 冊子 884頁
知色城合戦で討死した酒匂兵衛四郎、酒匂左衛門四郎、愛甲弥四郎、堀源五、阿曽谷三郎、土田五郎らを列記した交名注文。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 884頁
知色城合戦で討死した酒匂兵衛四郎、酒匂左衛門四郎、愛甲弥四郎、堀源五、阿曽谷三郎、土田五郎らを列記した交名注文。
年月日未詳 / 冊子 310~313頁/原整理番号 339-7
細川家中の討死者について、知行高、番頭・鉄砲頭・弓頭などの役、氏名を列挙した名付。中小姓、鉄砲之者并手伝討死、若者馬乗分などの区分も掲げ、末尾を合三十二人、手伝四人とする。続いて遊軍の討死・手負として、松平伊豆守手は討死6人・手負104人、戸田左門手は討死4人・手負30人、水野日向守手は討死188人・手負350人と記す。全7画像の名簿列を確認したが、全氏名・知行高・役職の独立転記照合と異体字比定は未実施。
年月日未詳 / 冊子 267~296頁/原整理番号 336-3
原城落城時の死傷者を寄手諸家別・身分別に集計し、個人名を列挙した大部の名簿。冒頭では、落城時に討ち込まれた者、焼死者、生捕り後に首を刎ねられた者、女童部を含む焼け残りの首を集め、北面に掛けたと記す。続いて黒田甲斐守・同市正、鍋島信濃守・同紀伊守、細川越中守、有馬玄蕃頭、寺沢兵庫頭、立花飛騨守、小笠原右近大夫・同信濃守、松倉長門守、有馬左衛門佐、水野日向守、松平伊豆守、戸田左門、松平丹後守らの家中について、討死・手負を歩・家中侍等に分け、小計と氏名を記す。末尾は総人数6,780人、内訳を討死773人・手負6,007人と総括し、三数値は算術上一致する。全名簿頁を画像確認したが、全氏名の独立転記照合・異体字比定は未実施。
年月日未詳 / 冊子 500頁/原整理番号 505の2
十二月十九日夜の立花勢を中心とする討死・手負衆の人名書上。役職・氏名・知行高とともに討死者、手負、近年召し抱えの牢人などを列挙する。有馬左衛門佐や上使衆に付属する者、肥後牢人らの被害も挙げ、末尾を二十一日乙卯とする。
年月日未詳 / 冊子 539頁/原整理番号 547の2
元日の原城攻撃における討死・手負を諸勢別に列挙した注文。有馬兵部太輔内、鍋島紀伊守内、松倉長門守内の士・雑兵、諸国の浪人・使者について、討死者と手負人の人数を記す。
年月日未詳 / 冊子 539頁/原整理番号 547の4
諸大名から派遣された使者の討死と働きを列挙する覚書。小山田蔵之助、坪内勝右衛門、伊藤十之允、横山助之進の戦死を記す。国司下総は後殿を務め、混乱した足軽を静かに退かせ、死傷者を陣へ収容した働きが諸人に称賛された。
年月日未詳 / 冊子 262~263頁/原整理番号 334-2
二月二十七・二十八日の原城総攻撃における諸大名家中の手負・討死人数を列挙した覚。細川忠利家中は手負826人・討死272人、黒田忠之家中は手負1,600人(異記1,658人)・討死213人などとし、秋月・佐賀・久留米・柳川・島原・小倉・豊後・備後・唐津・豫州・武州の各家中を続ける。末尾の原記載合計は手負6,823人・討死1,151人。ただし読み取れる討死内訳の単純合計は1,159人で8人多く、原記載の不一致として保持する。手負内訳も異記と『百余人』を含むため合計との一致は確定できない。
年月日未詳 / 冊子 267頁/原整理番号 336-4
寅年二月二十七・二十八日の黒田右衛門佐家中の討死・手負者を記した覚。討死者として濱田五郎兵衛、松岡作右衛門、梶川作左衛門、八田仁左衛門、林与左衛門、勝野伊右衛門、戸田角兵衛、丹野七右衛門、高館源左衛門、大石庄右衛門、立花弥兵衛、南畝太左衛門、野口万右衛門ら計17人を掲げ、続いて黒田三左衛門・井上半兵衛・黒田太郎介・北村頼母介ら手負者の氏名を列挙する。本文の日付は目録年月日欄へ補入しない。
年月日未詳 / 冊子 309~310頁/原整理番号 339-5
味方の討死・手負を諸将の手勢別に記す覚。先備七口について細川越中守手285人・1,826人、黒田右衛門佐手等251人・2,171人、鍋島信濃守手116人・600人、有馬玄蕃頭手88人・259人、寺沢兵庫頭手23人・338人、立花飛騨守手97人・305人、松倉長門守手27人・68人を列挙し、先備人数合85,086人、内討死1,563人・手負6,748人とする。読取可能な七明細は討死887人・手負5,567人で原記載内計と一致しないため、双方を保持する。後備として小笠原右近大夫・同信濃守・松平丹後守・有馬左衛門佐の死傷も掲げる。
現行年紀:永徳元年六月一日 / 冊子 81~82頁/原整理番号 135/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0135
永徳元年六月一日の佐多合戦注文で、祢寝帯刀左衛門尉・祢寝六郎三郎・武太郎・鹿嶋勘解由左衛門尉以下の名を列記する。 海老名七郎・西俣四郎・岩切孫四郎などに続き、中間五人と討死の中間一人を記す。 山本加賀守分の中間二人、肥後太郎分の野間平次・中間二人を別区分で載せる。
天文3年4月3日(系中の久礼橋討死記事) / 冊子 528~529頁/原整理番号 28
惟宗氏の宗大納言・紀中納言から忠方(若狭守)・知国へ続き、友兼・国光(筑前介)・成光(山城介)・国広(筑前介)の諸流へ分かれる執印家の古系図。国広系は忠友(民部大夫)―忠康(橋口右衛門尉)―忠久(豊後守)―忠時(大隅前司)へ続き、忠広(上総前司)・忠秀(兵衛尉)も掲げる。友兼系からは友広・友家・友久・康弘・康郷・重兼・友成・師久・光久らを出し、国分家元祖や佐包・新田宮執印などの注記を伴う。別に忠継―忠実、小嶋右衛門入道、久時―宗忠―貞久―宗久―氏久―元久―久豊―忠国―立久―武久―忠昌へ至る系線、重友(宮内允)から友郷・友雄・友弟・友令・康令・康秀・康貴らへ続く系統、政家・友氏から友繁・友豊・友俊・友孝へ分かれる市来・国分系の関係を図示する。末尾には興国寺殿玄鑑が天文3年4月3日に久礼橋で29歳にて討死した記事や、政家を市来政家とし、執印家が惟宗姓を名乗る由緒を記す。
元弘三年八月日 / 冊子 618頁
白浜三郎道季法師が、北条英時誅伐時の軍忠を申告した二箇条の申状。五月廿五日の鎮西博多合戦で先陣から北門を攻め、敵の討死・敗走を確認したこと、その後も惣州の持人として伊作田又三郎・大隅国加治木彦五郎らと守護方に従い筑州へ赴いたことを述べ、恩賞を求める。
建武三年二月日 / 冊子 651頁
重久篤兼が、建武三年正月廿八日の国富二郷胡麻崎城合戦、二月廿八日の志布志城攻め等で、親類・次郎祐任らと軍忠を尽くしたことを報告した軍忠状。敵を追落し、種牟田相家らを討死させた戦果を記し、証判を求める。
建武三年三月日 / 冊子 653頁
島津忠兼が播磨国下揖保庄地頭として、建武三年正月以降の鶴宿・楽々山北嶺等の合戦に参加し、珍海刑部三郎・旗差源二郎らの討死を伴いながら軍忠を尽くしたことを報告した軍忠状。各戦場の働きを列挙し、証判・恩賞を求める。
建武三年三月十五日 / 冊子 653頁
筑前国宮崎合戦で大平平次郎が忠功を尽くし、手負・討死があったことを賞し、神妙であるとして抽賞を約した足利直義感状。
建武三年三月日 / 冊子 659頁
小川小太郎季久が、建武三年二月廿八日の筑前国有智山合戦で軍忠を尽くし、若党伊与房らが被疵・討死したことを報告した軍忠状。自身の被疵、若党の射疵・討死を記し、証人の請文に基づく御注進と証判を求める。
年月日未詳 / 冊子 664~665頁
莫祢政貞が、肝付八郎兼重追討の御教書を受け、加瀬田城・岩戸原彦尾・水手周辺などで一族を率いて戦った軍忠を報告した申状。敵首の分捕り、城郭攻撃、家人の被疵・討死を日付順に挙げ、見知者の証明を得て恩賞を求める。
建武三年五月十九日 / 冊子 665~666頁
島津周防五郎三郎忠兼が、建武三年の諸合戦での軍忠を日付順に述べた軍忠状。中細尾合戦で赤松雅楽助方に属し、城中で敵の手を射て討ち取ったこと、各戦場での先懸・負傷・討死を挙げ、見知者の証明と証判を求める。
建武三年六月日 / 冊子 666~667頁
重久篤兼が、王子城・加瀬田城等での合戦を日付順に報告した軍忠状。五月五日の進軍、六日の渡河先登、九日の王子城攻撃、六月の合戦で、大隅入道・大手大将・掬手勢らと軍忠を尽くし、一族・若党の被疵・討死を記して証判を求める。
建武三年六月日 / 冊子 667~668頁
郡山弥五郎頼平が肝付兼重与党追討のため御教書を受け、五月六日から六月十日まで加瀬田城で日夜合戦した軍忠状。若党・親類を率い、先懸・射疵・討死を重ね、渡河責戦の際に親類助太郎左衛門尉義清が射疵を負うなどの軍忠を列挙し、恩賞を求める。
建武三年十月日 / 冊子 672~673頁
島津周防五郎三郎忠兼が、播磨国下揖保・丹生寺等の合戦で軍忠を尽くしたことを日付順に報告した軍忠状。敵城への攻撃、先懸、敵の射取り、味方の負傷・討死を列挙し、見知者の実検と証判を求める。
建武三年十一月廿一日 / 冊子 673~674頁
大隅国弥寝孫四郎重種が、伊東藤内左衛門尉祐広・肝付八郎兼重以下の凶徒追討のため日向国へ参陣した着到状。大田城・宮崎城・南郷等で味方と合戦し、家人の被疵・討死を伴いながら軍忠を尽くしたとして、披露・証判を求める。
年月日未詳 / 冊子 684頁
比志島孫三郎範経が市来氏等を率いて戦い、九月晦日に討死したこと、莫禰孫五郎貞友も同所で戦死したことを諸記録から考証する殉国名藪の記事。
建武四年四月日 / 冊子 686頁
本田次郎左衛門尉久兼が越前国敦賀城合戦で軍忠を尽くした軍忠状。正月十八日の大手攻め、二月十六日の大勢寄来時の懸合、三月二日の攻寄、同十四日の夜襲、同十五日の入城での負傷・討死者を列挙し、見知と証判を求める。
年月日未詳 / 冊子 693~694頁
建武四年七月以降、川上頼久が島津宗久・友久、鮫島彦次郎家藤、伊集院忠国、谷山五郎隆信らと参戦した経過を記す川上頼久伝。市来・高橋・松原口・阿多郡高橋などでの合戦、敵の討取り、味方の矢疵・討死を日付順に記し、八月三日の手負注文へつなぐ。
建武四年九月二日 / 冊子 697頁
親父比志島義範が討死して忠節を尽くした恩賞として、比志島彦二に薩摩国満家院内油須木四町を先例に従い本領として安堵した島津道鑑安堵状。
年月日未詳 / 冊子 698頁
建武四年九月以降の川上頼久らの軍事行動を記す伝記記事。市来城へ進み、水塞・薄大門を攻め、高野中務丞頼久・高野淡路房宗栄らを救援し、白加木城・吉田方面でも戦った経過、島津忠国・延時忠能・大隅助七・上原中務丞らの参戦、負傷・討死、京都への注進を編年で記す。
延元二年十月日 / 冊子 698~699頁
指宿彦次郎入道成栄代の高野淡路房宗栄が、市来城攻めで軍忠を尽くした軍忠状。九月十七日から市来へ進み、翌夜の合戦、同十九日の市来・平城攻め、吉田又次郎らとの合戦、手負・討死を列挙し、守護代官酒匂兵衛二郎らの見知と証判を求める。
建武四年十二月日 / 冊子 703~704頁
河田智門房慶喜が市来城攻めで軍忠を尽くした軍忠状。七月十五日の市来発向、八月一日の攻城での負傷、同四日の伊集院石谷での戦闘、九月十九日の再攻城で親類河田弥三郎家弘が討死したこと、城内への追拂いを列挙し、大隅式部三郎らの見知と証判を求める。
建武五年閏七月廿九日 / 冊子 714~715頁
島津周防五郎三郎忠兼が丹生寺・加蘭坂・明石城などで軍忠を尽くした軍忠状。六月廿六日に丹生寺凶徒と戦い、翌日加蘭坂で合戦して馬を射られ、夜襲で明石城へ寄せ、若党山田左衛門次郎が討死するなどの損害を挙げ、見知と証判を求める。
年月日未詳 / 冊子 727~728頁
肝付兼重をめぐる系譜・軍事記事。入部七郎、鹿屋矢亀丸、肝付秋兼らの名と年齢・系統を掲げ、高山・鹿屋周辺での合戦、矢亀丸の討死、首級獲得、入部氏との関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 728頁
高山士入部氏の旧系図により、入部七郎・鹿屋矢亀丸・肝付秋兼らの系譜と戦闘を記す記事。高山合戦で矢亀丸が討死し、入部氏が首級を得たこと、肝付・鹿屋氏との関係を伝える。
暦応四年閏四月日 / 冊子 738頁
和泉保末が薩摩国和泉・市来方面の軍事行動を申告した軍忠状。押寄・城攻めへの参陣、複数回の合戦、討死・負傷などの忠節を列挙し、承了の証判を得る。
暦応四年後四月日 / 冊子 738頁
祢寝清増が薩摩国凶徒退治のため、伊集院・一宇治城・市来城・東福寺城など各地の合戦に参加した軍忠状。押寄、夜討、城攻め、討死・負傷を日付順に挙げ、忠節の証判を求める。
暦応四年九月日 / 冊子 742~743頁
祢寝重種が薩摩国凶徒退治のため、伊集院平城・阿多郡加世田別符などへ発向し、押寄・合戦に参加した経過を日付順に述べ、討死・負傷を含む一族の軍忠について証判を求めた軍忠状。
観応元年八月廿一日 / 冊子 796頁
大蔵頼平が、八月十八日の薩摩国郡山城合戦で大隅助三郎入道以下の凶徒と戦った軍忠を申す。親類小山田彦五郎の射傷、左衛門次郎・森五郎三郎らの負傷や討死、比志島孫太郎らとの合戦経過を列挙し、後日の証拠として御判を求めた軍忠状。
年月日未詳 / 冊子 796頁
猿渡氏の藤三郎について、郡山で高名を挙げたことが一見状で明白であり、橘木野で官方と合戦して討死したことを記した系図記事。
観応二年八月日 / 冊子 810-811頁
祢寝清種が、建武三年以来、大隅・日向・薩摩で御方に属して戦った軍忠を月日順に詳記する。肝付郡加世田城、大姶良城、鹿屋院高熊城、庄内・日州方面の攻防、同行した一族・従者、落城・退治、負傷・討死者を列挙し、証判を求めた軍忠状。
年月日未詳 / 冊子 813頁
九月二十八日の金隈合戦で伊地知弾正忠季随が討死したことを記し、異説の日付にも触れた殉国名藪の記事。
観応二年十月日 / 冊子 814頁
島津氏久が、前年九月二十八日の金隈合戦で先懸けし左股を射られたことを申す。一族・従者の射傷・切疵・討死、各人の戦功を列挙し、一見状を副えて後日の証拠となる証判を求めた軍忠状。
観応三年四月十日 / 冊子 818頁
足利尊氏が島津又三郎へ、前年九月二十八日の筑前国金隈合戦で若党らが討死し、自身も負傷したことを神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
観応三年四月廿五日 / 冊子 819頁
足利尊氏が、前年九月八日の筑前国金隈合戦で父本田左衛門尉次郎入道道意が討死したことを神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
観応三年四月廿五日 / 冊子 819頁
足利尊氏が本田熊鬼丸へ、前年九月八日の筑前国金隈合戦で父伊集院彦五郎入道道迎が討死したことを神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
観応三年四月廿五日 / 冊子 820頁
足利尊氏が伊集院又五郎へ、前年九月八日の筑前国金隈合戦で父中條六郎が討死したことを神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
観応三年四月廿五日 / 冊子 820頁
足利尊氏が池上弥四郎へ、前年九月八日の筑前国金隈合戦で父池上四郎兵衛尉光久が討死したことを神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
年月日未詳 / 冊子 820頁
山田聖栄が、島津氏久幼少時の名代として肥後へ赴いた人物が各地の合戦で負傷し、金隈合戦で討死した由緒と、その忠節・子孫について記した自記。
観応三年四月廿五日 / 冊子 820頁
足利尊氏が伊地知彦七へ、前年九月八日の筑前国金隈合戦で父伊地知弾正忠季随が討死したことを神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
年月日未詳 / 冊子 820頁
島津道鑑が鎮西の凶徒を退け静謐を回復した後、長く獄舎に置かれた伊地知氏の赦免を将軍へ訴えた経緯を記す。伊地知氏は氏久幼少時の名代として肥後へ上り、金隈合戦で討死した忠臣で凶悪な党類ではないと弁じ、赦免を得た譜記事。
年月日未詳 / 冊子 881頁
殉国名藪の記事として、知色城・木野城攻撃で九月三日に討死した猿渡藤三郎信重らを挙げ、酒匂兵衛四郎・愛甲弥四郎ら関係者の名も記す。
年月日未詳 / 冊子 32~33頁
指宿氏の系図。指宿郡司又次郎忠連を起点に、忠篤・忠泰・忠勝・忠元・忠平らの系統、入道名、討死や寺院関係などを図示する。