島津忠恒家久書状
(慶長十年)三月十九日 / 冊子 8頁
島津忠恒が藤次郎へ、妹を関東への質人として上国させた忠節を賞し、その恩賞として阿多のうちに知行地を宛行い、確実に領知するよう命じた書状。
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(慶長十年)三月十九日 / 冊子 8頁
島津忠恒が藤次郎へ、妹を関東への質人として上国させた忠節を賞し、その恩賞として阿多のうちに知行地を宛行い、確実に領知するよう命じた書状。
二月廿七日 / 冊子 86頁
明真が斎藤次郎左衛門尉に、島津殿に関する用件で使節に選ばれたため、急いで渡海・参向するよう求めた書状。松浦山代方へも書状を送り、決して等閑にせず対応するよう念を押す。
二月十七日 / 冊子 245頁
明真が、島津領内の倉上に関する措置に伴って使節に指名されたため、急いで赴いて引き渡しを行うこと、松浦・山代方へも特に書状を遣わしたので心得て等閑なく勤めるよう斎藤次郎左衛門尉へ命じた書状。
天明三年十月廿二日 / 冊子 706頁/原整理番号 1991/整理ID 1991
島津重豪が島津愛二郎の加冠に際し、仮名を藤次郎とするよう定めた書出。天明三年卯十月廿二日付、御判。正文は島津主計にあるとの保管注記を伴う。
(慶長十一年)六月十九日・六月二十八日 / 冊子 78頁
島津家久譜の記事。島津義久(龍伯)・島津義弘(惟新)の評議により、島津図書入道紹益の嫡子・河内忠倍を当家の人質として伏見へ赴かせることとし、島津藤次郎久賀の妹が主命と国家への忠節を重んじて忠倍を導いた。旅支度が整い、六月十九日に忠倍が鹿児島を出発して上国へ向かったこと、同月二十八日に家久が理性院を訪問し、これに関して院主が書状で謝意を述べたことを記す。
(寛永七年)五月十一日 / 冊子 166頁
藤次郎が若くして不慮に死去したことを夢のようだと嘆き、遺族の悲嘆と後の弔いを案じ、豊後守にも触れて慰問した島津家久の仮名書状。
(寛永七年)五月十五日 / 冊子 166~167頁
豊後守が安元へ赴いた労苦をねぎらい、子息藤次郎の不慮の死を聞いて意外の仕合に驚いたことを述べ、詳しい弔意は使者から伝えるとした島津家久の書状。
年月日未詳 / 冊子 167頁
島津朝久を祖とする豊州家の系譜を示し、久賀・忠次・藤次郎・久守・久邦・久元らの続柄を図示する。注記では、書状中の藤次郎を久賀の長男とする。
五月十一日 / 冊子 178~179頁
藤次郎の身に起きた不幸を夢のようだと嘆き、先ごろ少し具合が悪いと聞いて案じていたものの、若く世の中もまだ十分見ないうちの出来事だけに残念で、遺された者の悲しみを思いやった弔意の書状。
永正十三年八月廿六日 / 冊子 612頁
石塚種延が清水楞厳寺へ、大門口一町内の田二段などを寄進し、本物は宇大鳥丸貫文・洪武二貫文・米一斗であると記した寄進状。
正徳四年四月廿八日 / 冊子 140頁/整理ID 343
島津吉貴が比志嶋藤次郎に加冠を許し、右兵衛の名乗りを与える。文末に吉貴の判を付す。
年月日未詳 / 冊子 416~417頁
太閤蔵入・治少蔵入の収納、寺院、上米、般若寺、島津龍伯・義弘・忠恒の上洛供衆、忠恒の越年、浜之市・蒲生への移住者、軍役、地頭私領、藤次郎母や福永宮内少への知行、伏見屋形などの懸案を箇条書きにした覚書。
永正十一年九月十四日 / 冊子 604頁
永正十一年九月十四日、鹿児島殿中で蘭窓(島津忠治)の代に初めて行われた犬追物について、参加者別の疋数と検見・喚次を記した手組。
永正十一年十一月十四日 / 冊子 605頁
永正十一年十一月十四日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
永正十一年十二月九日 / 冊子 605頁
永正十一年十二月九日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
(慶長元年)五月朔日 / 冊子 19~20頁
島津義弘が宰相殿へ、平松の家作が粗末で雨漏りし、家中の者も難儀しているため、平松の役人に修築を申し付けたことを述べる。使者や家臣の動向、伊東孫八の書状到着、又八郎忠恒の帰朝・上洛と迎えの国分左京亮派遣、高麗への出船、求聞持修行や平田豊前の子の大峯入峰に祈念を命じたことなどを報告し、返書を求めた書状。
(慶長七年)十一月四日 / 冊子 859頁
島津忠恒が国元の家臣へ、上洛後に福島正則・山口直友や諸大名から格別の厚遇を受け、交渉が順調であると報告する。内府は関東へ下向中だが年内に上国する見込みであり、国元の諸事を念入りに処理するよう命じた。
年月日未詳 / 冊子 140~158頁
慶長十三年正月の加治木御日記。正月朔日から月末にかけ、島津家久のもとへ参上した家臣・僧侶・使者、各地からの年頭礼、太刀・馬・金銭・酒・茶・食品などの献上と返礼、饗応、祈願や使者の取次を日ごとに記す。
長禄二年正月四日 / 冊子 113~133頁/原整理番号 28
慶長十三年正月朔日から晦日までの加治木御日記。惟新(島津義弘)のもとに参上する家臣・寺社・使者と年頭の進物・酒宴を日ごとに列記する。前年からの惟新の病状を案じる龍伯・奥州らとの使者往来、各寺社の祈祷成就と札・巻数の進上が繰り返し現れる。十五日には駿河普請に関する口達、二十五日には猿渡弥七郎の処罰、晦日には惟新の吉書を記す。末尾の注記は、この日記の儀式を隠居後の加治木城の式例とそのまま同一視できないと述べる。
建武三年四月十日 / 冊子 661頁
大隅国筒羽野村半分の地頭代官職について、東条藤次郎入道を補任し、当村半分で先例どおり所務を沙汰するよう命じた島津道鑑下文。
元禄十四年五月二十日 / 冊子 302頁/整理ID 995
元禄十四年五月二十日、島津藤次郎久智の室で江田国重の娘が武州芝邸で女子於奈百を出産した記事。於奈百は享保四年正月十日に没し、法名を常心玄円としたことも記す。
天明六年正月二十六日 / 冊子 850頁/原整理番号 2343/整理ID 2343
高崎藤次郎は、正月二十三日に芝田町一丁目裏通の松平隼人屋敷から出火し、薩摩守所持の番家一棟(四坪五合)、物置一棟(十五坪五合)と表通三か所の町並屋敷・町家が類焼したため、別紙絵図を添えて届ける。
文亀4年3月22日 / 冊子 256頁/原整理番号 99
文亀四年三月二十二日の犬追物手組。番号付きの項目として「一 島津備前守」九疋、「二 島津左馬助」十八疋、「三 渋谷藤次郎」五疋、「四 島津次郎四郎」五疋を記し、ほかに豊後守殿十四疋、梁瀬源五十一疋、島津治部少輔十疋、村田与次郎九疋、柏原助七郎十一疋、羽嶋新三郎三疋、羽嶋越前守三疋、上原又七六疋を割り当てる。検見を餅原駿河守、喚次を吉田六郎三郎が務め、前掲の延徳二年手組と同じく参加者・馬匹数・役割を表形式で示す。正本は家蔵され、『旧記雑録前編二』一七八九号文書と同一と注記される。
〔慶長十年〕三月十九日 / 冊子 359頁/原整理番号 12
島津忠恒が、関東への質人として藤次郎の妹を上国させることに礼を述べ、その忠節を認め、領地の件も内々に取り計らうと伝える三月十九日付の書状。
天明六年二月二日 / 冊子 850~852頁/原整理番号 2344/整理ID 2344
渋谷貫富は、芝田町屋敷類焼後の届書・絵図提出、渡辺忠四郎・安部次郎兵衛らとの見分や先例の確認、町並屋敷の地面配分と再建、御留守居付役の扱いを記す。高崎・長友らの往復書面と絵図を収める。
寛政5年5月14日・9月15日(本文。誕生と立儲) / 冊子 67頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0219
敏次郎君の誕生・立儲を記し、参府途上の重豪が老中へ祝いを伝えた記事。5月14日に家斉の男子が誕生し敏次郎と称したこと、加納遠江守久周が蟇目の役、加納備中守久敬が矢取、曽我伊賀守助鑑が箆刀を奉じたことを記す。母は押田藤次郎敏勝の娘で、8月28日に御台所へ養子となったとの注がある。竹千代君の薨去後、9月15日に大家が敏次郎を諸后に立てたことを、重豪は参府途中の城州伏見で聞き、直ちに老中へ飛翰を送って祝賀したという。「諸后」には「本ノママ」と「嗣カ」の校注があり、その字を推定だけで本文の確定表記へ直さない。
永正十一年九月十四日 / 冊子 134頁/原整理番号 51
永正十一年九月十四日の犬追物手組。殿十二疋、伊地知縫殿助二疋、加治木又八郎二疋、竹田藤次郎三疋などの犬数を記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)・大寺宗左衛門尉、喚次を島津三郎四郎とする。
永正十一年十一月十九日 / 冊子 134頁/原整理番号 52
永正十一年十一月十九日の犬追物手組。吉田若狭守・竹田藤次郎・平田右馬助・税所左衛門尉・島津又六郎らの射手を列記し、検見を伊地知周防守、喚次を飛彈源次郎とする。
永正十一年十二月九日 / 冊子 134~135頁/原整理番号 53
永正十一年十二月九日の犬追物手組。殿・島津五郎丸に続き、島津左衛門督、税所左衛門尉、竹田藤次郎、本田三河守らの射手を列記する。検見は島津豊後守、喚次は島津十郎。本文に射手別犬数はない。
年月日未詳 / 冊子 149頁/原整理番号 92
日付を記さない「二日二番手組」。家久様、島津近江守、島津伊藤次郎、伊勢平左衛門尉らの射手を挙げる。検見・喚次はいずれも「ナシ」と明記される。
天明六年十一月廿八日 / 冊子 173~174頁/原整理番号 131
天明六年十一月二十八日の神事犬追物手組。上手組・次手組・下手組ごとに射手を「九ツノ免」「六ツノ免」「四ツノ免」などに分け、各組の検見・喚次を付す。上手組には島津出雲・島津藤次郎ら、下手組には北郷宗次郎らを配する。
天明六年十二月九日 / 冊子 174~175頁/原整理番号 133
天明六年十二月九日の「論勝負之犬追物稽古手組」。島津出雲・島津藤次郎を「九ツノ免」、相良弥千母・鮫島四郎右衛門らを「四ツノ免」などの区分で記す。検見を伊勢亘、喚次を寺山四郎左衛門とする。
天明六年十二月十一日 / 冊子 175頁/原整理番号 134
天明六年十二月十一日の「論勝負之犬追物初稽古手組」。島津藤次郎・島津出雲らを「九ツノ免」、本田信次郎・相良弥千母らを「四ツノ免」などの区分で示す。検見を北郷宗次郎、喚次を市来十郎右衛門とする。
天明七年十月十七日 / 冊子 175頁/原整理番号 135
天明七年十月十七日の犬追物稽古手組。上手組と次手組に射手を分け、島津藤次郎・栗川弥七・森六郎らを記す。両組の検見を川上十郎左衛門・カワカミ十郎左衛門、喚次を瀬川作平次らとして列記する。
天明七年十月十七日 / 冊子 176頁/原整理番号 136
同じ十月十七日の「論勝負之犬追物稽古手組」。島津藤次郎・北郷宗次郎・三原彦五郎らの射手と、島津主税の検見、伊勢亘・西怡之助の喚次を掲げる。犬数の記入はない。
天明七年十二月九日 / 冊子 176頁/原整理番号 137
天明七年十二月九日の「真之犬追物稽古手組」。島津藤次郎・和田乗太郎・島津主税を射手に挙げ、検見を伊勢亘、喚次を本田孫右衛門とする。
天明七年十二月廿三日 / 冊子 176~177頁/原整理番号 138
天明七年十二月二十三日の「納之犬稽古手組」。一番に島津圖書・伊地知新太夫・伊勢平八郎ら、二番に島津藤次郎・富山弥右衛門・堀八百助らを配し、それぞれ検見と喚次の担当者を示す。
天明八年三月十三日 / 冊子 177~178頁/原整理番号 140
天明八年三月十三日の犬追物稽古手組。一番に島津圖書・伊地知新太夫ら、二番に島津藤次郎・本田孫右衛門らを配し、それぞれ検見と喚次を示す。
天明八年三月十三日 / 冊子 177~178頁/原整理番号 141
天明八年三月十三日の「論之犬稽古手組」。一番・二番に射手を分け、島津藤次郎・伊地知新太夫・島津主税らを記す。各番の末尾に検見と喚次の担当者を付す。
天明八年四月十四日 / 冊子 178~179頁/原整理番号 142
天明八年四月十四日の犬追物稽古手組。上手組・次手組・下手組に射手を分け、島津美濃・喜入善之助・島津藤次郎らを列記する。各組に検見・喚次を付し、下手組には左右の「四ツノ免」の射手も示す。
寛政元年二月廿五日 / 冊子 179~180頁/原整理番号 144
寛政元年二月二十五日の犬追物稽古手組。上手組・次手組・下手組ごとに島津藤次郎・市来十郎右衛門ら射手を列記し、各組の検見と喚次を付す。
寛政元年二月廿五日 / 冊子 180頁/原整理番号 145
寛政元年二月二十五日の「論之犬稽古手組」。島津藤次郎・本田作左衛門・和田乗太郎らを列記し、検見を伊勢亘、喚次を鮫島四郎右衛門とする。
寛政二年三月廿一日 / 冊子 182~183頁/原整理番号 149
寛政二年三月二十一日の「論之犬追物手組」。島津藤次郎・山田震九郎・木場休右衛門ら射手に足数を付し、検見・喚次・射手奉行・日記・幣之役を記す。続いて雨天時の集合時刻、着用、御覧支度に関する指示を載せる。
寛政二年十二月七日 / 冊子 183頁/原整理番号 150
寛政二年十二月七日の犬追物稽古手組。上手組・次手組・下手組に射手を分け、島津藤次郎・山岡斎宮・秩父十郎らを列記する。各組に検見と喚次の担当者を付す。
寛政二年十二月七日 / 冊子 184頁/原整理番号 151
同じ十二月七日の「論之犬追古手組」。島津藤次郎・秩父十郎ら射手を列記し、一足・二足・三足などの付記を示す。検見を川上十郎左衛門、喚次を鮫島四郎右衛門とする。
系図全体は無年次(寛永17年・正保4年・延宝6年・元禄7年などの出生記事を記載) / 冊子 602~603頁/原整理番号 105
前田右近・大炊之助・太郎四郎以下をつなぐ前田七郎右衛門家の系図。兼門の条は、寛永年間に自宅から火を出して証書などを焼失したため、右近より前の祖先は分からないと明記する。兼次が宮里壹岐正親義方に召し出された際の養子関係や、兼治が佐藤諸左衛門信實の婿養子となったことを記し、兼浮・兼貞らの出生年月日、官途、居住・婚姻先を続ける。女子の佐藤・河野・谷山吉井・堀之内・松下・鎌田・入佐家との関係や、養子を兄弟とする記述もあり、証拠文書の喪失と継承の事情が系図自体に刻まれている。
天明八年四月十四日 / 冊子 179頁/原整理番号 143
同じ四月十四日の「論之勝負犬稽古手組」。島津出雲・與十郎・本田孫右衛門・伊地知新太夫らの射手を列記し、末尾に検見と喚次の担当者を付す。
寛政二年二月廿八日 / 冊子 180~181頁/原整理番号 146
寛政二年二月二十八日の「草之犬追物御覧手組」。上手組・次手組・下手組に射手を分け、「四ツノ免」「六ツノ免」などの区分や定足・一足の付記を示す。各組の検見を川上十郎左衛門、喚次を木脇賀左衛門らとする。
寛政二年二月廿八日 / 冊子 181頁/原整理番号 147
同じ二月二十八日の「論之犬追物御覧手組」。射手を四ツ・六ツの免などに分けて列記し、検見・喚次に続いて射手奉行、日記、幣之役、犬奉行の担当者を記す。
寛政二年三月廿一日 / 冊子 181~182頁/原整理番号 148
寛政二年三月二十一日の「草之犬追物手組」。上手組・次手組・下手組に射手を分け、足数の付記や「六ツノ免」「四ツノ免」などの区分を示す。各組の検見と喚次の担当者も列記する。