足利義詮感状
貞治元年十月十七日 / 冊子 30頁
足利義詮が薩摩郡司弥太郎に、同年三月三日の薩摩国宮里城合戦で挙げた軍忠について島津大夫判官の注進を受け、神妙と賞して今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
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貞治元年十月十七日 / 冊子 30頁
足利義詮が薩摩郡司弥太郎に、同年三月三日の薩摩国宮里城合戦で挙げた軍忠について島津大夫判官の注進を受け、神妙と賞して今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
至徳三年五月十三日 / 冊子 130頁
今川了俊が渋谷薩摩守に、伊集院入道跡の三分一を恩賞として宛行い、知行するよう命じた宛行状。
〔至徳三年〕五月十三日 / 冊子 130頁
今川了俊が渋谷薩摩守に、伊集院入道跡を恩賞として申し行ったこと、赤山城と河尻を押さえて武朝以下を討つ合戦準備、名和への扶持を依頼することを伝え、贈物への謝意を述べた書状。
応永六年十一月三日 / 冊子 184頁
足利義満が、大内入道の謀反が露見したため討手を派遣したと告げ、鎮西の薩摩国地頭御家人に、幕府方として忠節を尽くす者には恩賞を与えると命じた御判御教書。
(天正17年)5月3日 / 冊子 447頁
豊臣秀吉が、端午の祝儀として羽柴薩摩侍従から帷子五領が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。 詳しい返答は石田治部少輔(三成)から申し伝えるとしており、No.589とは贈答者と品数が異なる。
(天正17年)7月14日 / 冊子 450頁
豊臣秀吉が、盆の祝儀として羽柴薩摩侍従から帷子五領が届いたことを喜び、懇意への謝意を伝えた朱印状。 同日付のNo.598と同種の贈答文書だが、宛先が羽柴薩摩侍従である点が異なる。
(天正17年)7月晦日 / 冊子 450頁
豊臣秀吉が、八朔の祝儀として羽柴薩摩侍従から帷子五領・生絹が届き、北政所・秀頼にも同様の贈答があったことを喜んだ朱印状。 No.601と同じ秀吉一家への八朔贈答を、別の島津家人物に対して受領確認した文書である。
(天正17年)9月16日 / 冊子 452~453頁
豊臣秀吉が羽柴薩摩侍従へ、薩摩・大隅両国内の鶴・白鳥・雁・鴨などを、前年同様に鉄砲衆や猟師へ命じて捕らえ、進上するよう求めた朱印状。 御鷹場では他者に鳥を捕らせず、確実に集めることを命じ、詳細は島津中山城守から申し伝えるとしている。
文禄3年4月14日 / 冊子 779頁
安国寺恵瓊が書状を拝見し、薩摩侍従を見舞うべきところ病気のため訪問を控えたと詫びる。代わりに同名の播州某を進め、直接返事を伝えるよう依頼する。 帰朝の命が出たことを知らせ、長期の軍労後は養生が肝要だと気遣い、詳しい口上を播州某に託した見舞状。
(慶長元年)五月朔日 / 冊子 20頁
長宗我部元親が羽柴薩摩侍従方へ、前日に使札を受け取り、龍門の途中で相手方の使者に会ったことを伝える。陣の交替衆が近辺まで渡って来たとの風聞は真偽不明とし、薩摩侍従が帰朝するなら必ず対面して意向を承りたいと述べた書状。
(慶長二年)二月十日 / 冊子 77頁
長束正家が羽柴薩摩侍従へ、来年の人数渡海と赤国での軍事行動を確実に進めるよう求めた書状。遠路のため無音であったことを詫び、詳しいことは毛利豊前守・平野新左衛門から申し伝えるとしている。
(慶長三年)八月九日 / 冊子 227頁
豊臣秀吉が島津忠恒(薩摩侍従)に、大仏用の油蠟を扱う唐人について国役を免除したので承知し、屋敷などを扶助して、特に懇ろに扱い生活を維持できるよう申し付けることを命じた朱印状。
(慶長三年)十月十六日 / 冊子 263~264頁
増田長盛が(慶長三年)十月十六日付で島津忠恒(薩摩侍従)らへ出した書状。蔚山・順天への明軍進出に備え、日本各浦の警固船・大安宅・小安宅を準備し、中国・四国・淡路の舟手や九鬼・堀内・脇坂らを渡海させる計画を示す。石田三成・浅野長政が博多へ下向したこと、注進に応じて援軍を送ることを伝え、竹島・唐島付近への城や兵船の配置も指示する。日本国内は静謐であるため心配不要と結ぶ。
(慶長四年)四月朔日 / 冊子 371頁
豊臣政権の五大老が島津義弘(羽柴薩摩宰相)・忠恒(羽柴薩摩少将)父子に対し、他所へ罷り渡る者があれば固く停止し、法度に背いて越境した者は本人だけでなく一類も成敗し、受入側にも責任を負わせるよう連署して命じる。
慶長四年四月二日 / 冊子 371~372頁
徳川家康が、秀頼に疎略なく仕えること、島津義弘(羽柴薩摩宰相)・忠恒(羽柴薩摩少将)父子に毛頭疎略せず表裏をしないこと、双方の間を妨げる者が現れた際は直談して疑念を晴らすことを誓い、違反時には諸神の罰を受けるとする。
(慶長四年)七月九日 / 冊子 398頁
徳川家康が薩摩少将に、音信として銀子三十枚を贈られたことへの謝意を示し、無事に帰国したとの知らせを喜ぶ。詳しいことは伊奈図書頭から申し伝えるとして書状を結ぶ。
(慶長四年)七月九日 / 冊子 399頁
徳川家康が薩摩少将に、帰国後しばらく書状を送らなかったため使者を遣わすと述べる。伊集院源次郎がなお城を抱えていると聞き、譜代家人として自由な振る舞いであるから早急に成敗すべきだとしつつ、軍勢に手違いがないよう慎重な処置を求め、委細は使者の口上に託す。
(慶長四年)七月九日 / 冊子 399頁
伊那令成が薩摩少将方に、帰国後の見舞いに対する使札と、縮百端・帷子百・矢根二千の音信を受けた旨を述べる。伊集院源次郎がなお城に楯籠していることを内府徳川家康が懸念しており、下城しなければ早々に成敗すること、必要なら軍勢を随時出すことを伝え、委細は山口勘兵衛尉の口上に託す。
(慶長四年)七月九日 / 冊子 399~400頁
寺沢正成が薩摩少将方に、伊集院源次郎がなお楯籠しているため、内府徳川家康が見廻として山口勘兵衛を派遣したと知らせ、使者到着後に現地事情を説明するよう求める。自身も下向する意向を述べ、源次郎の弟たちは近日佐竹方へ送られる予定で、兵庫殿とも相談したと伝える。
(慶長四年)七月十六日 / 冊子 403頁
徳川家康が薩摩少将に、六月二十四日付の書状を受け、源次郎方の先手が楯籠した城を即時に攻め破り、数百人を討ち取った戦果を称賛する。引き続き油断なく行動し、源次郎の居城攻略も近いと見込みつつ、味方の人数を損なわないよう慎重に進めることを求める。
(慶長四年)七月廿四日 / 冊子 405~406頁
立花親成が薩摩少将に、使僧への厚遇に謝意を示す。伊集院源次郎の楯籠に対して少人数を率いて出陣する意向を度々申し入れたが制止されたため、島津方が城中を徐々に弱らせて自落させる方針を尊重すると述べる。内府の見廻使者派遣にも触れ、必要時にはいつでも支援すると伝える。
(慶長四年)八月廿日 / 冊子 428頁
徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝・前田利長の五大老が羽柴薩摩少将島津忠恒に、先年から禁止していた海賊行為を当年に犯した者を成敗したと通達する。今後は従来の置目どおり各領主が違反者を処罰し、船の出航と帰着を厳重に改めるよう命じる連署状である。
(慶長四年)八月廿日 / 冊子 429頁
豊臣氏奉行衆が羽柴薩摩少将島津忠恒に、先年から禁止している海賊行為について、当年に違反者を成敗したと通達する。今後は海賊を出した領主の責任とし、船の出航時と帰着時に厳重な検査を行うよう命じる連署状である。
(慶長四年)九月二日 / 冊子 433頁
徳川家康が薩摩少将島津忠恒に、先に派遣した使者が到着したとの報告を受け、丁寧な知らせを喜ぶ。伊集院の件については先日寺沢志摩守に申し遣わしたので、書中では詳述しないと伝える。
〔慶長四年〕九月晦日 / 冊子 447頁
徳川家康が薩摩少将(島津忠恒)に、書状を拝見し、源二郎の振舞いが表裏あるものだと述べる。詳しいことは兵庫頭から伝えるので、書面では省略するとする。兵庫頭の人物同定は保留する。
(慶長四年)十一月廿七日 / 冊子 470頁
徳川家康が薩摩少将に、使札と音信として贈られた鉄炮・甘葛への祝着を述べ、小袖十を進上する。庄内の儀は龍伯・惟新へ申し遣わしたので、両人の意見に任せるのがもっともだとし、詳細は山口勘兵衛尉の口上に含めたと伝える。
(慶長五年)五月廿日 / 冊子 546頁
徳川家康が島津忠恒(薩摩少将)に、たびたびの書状を喜び、領国の仕置をゆるゆると済ませたうえで上洛するよう伝える。詳細は石川左衛門大夫から申し伝えるとして本文を省略する。
(慶長五年)十一月十三日 / 冊子 612-613頁
井伊直政が薩摩少将こと島津忠恒(家久)に対し、先の書状の到着を問い、当地での釈明をなぜ油断しているのかとして早急な申し立てを促す。自身も随分奔走するので、意向があれば詳しく知らせるよう伝える。No.1281とほぼ同文だが宛先が薩摩少将である。
(元和六年)三月三日 / 冊子 726頁
山口恵倫(直友)が松平薩摩守に、以前からの懇書への返礼が遅れたことを詫び、江戸への使者派遣の件や、伏見で御法度・仕置等を申し付けた使者への処置をめぐる訴訟について、上方の相応の御用等を仰せ付けるよう求めた書状。
正月十一日 / 冊子 410頁
島津義久が薩摩守殿へ、改年の吉兆を祝い、豊州・北郷殿・新納殿・典厩・金吾・薩州らに関する返礼文言の扱いを示し、年賀の祝儀として五明二本を贈った書状案。薩摩守殿の人物同定は保留する。
十二月十六日 / 冊子 411頁
島津義久が薩摩守へ、歳暮の吉祥を重ねて祝い、恒例の贈答に対する礼を述べるとともに、明春には相互の祝言を申し交わしたいと伝えた年末の書状。
五月二日 / 冊子 421頁
前田玄以・長束正家・増田長盛・石田三成が薩摩侍従(島津忠恒)に宛てて連署した書状。薩摩・大隅両国の知行をまとめた御前帳を調製し、郡ごとの絵図も作成して上覧に供するよう命じる。帳面の作成様式を別紙で送り、来る十月以前に提出すること、諸国にも同様に命じているので油断なく進めることを求めている。
九月廿九日 / 冊子 19頁
指定された諸城をただちに明け渡し、上使衆の意向に従うことを薩摩・鹿児島・日置などの城持衆へ命じた直書。
四月朔日 / 冊子 38~39頁
徳川家康ら五大老が島津義弘(羽柴薩摩侍従)・島津忠恒(島津又八郎)父子へ、時勢を守り、下々の者がみだりに海を渡ることを厳禁し、法度に背けば本人だけでなく一類を成敗し、島津側の落度にもすると警告した連署状。
(慶長十二年)四月廿日 / 冊子 282頁
徳川秀忠が島津家久(薩摩少将)から陽春の祝儀として太刀一腰・馬一疋・緞子十巻を受領したことを喜び、詳細を本多佐渡守正信に託した御内書。『旧記雑録後編4』No.340と同文の重出。
九月六日 / 冊子 441~442頁
松平河内守頼重が島津光久に、薩摩での船舶建造をめぐり酒井讃岐守忠勝の内意を伝える。法度に反する船は早々に取り崩し、規定内の船はそのまま置くこと、現在までに完成した船以外は新造を控え、翌春の参勤時に老中へ内談した後、必要なら再開するよう求めた。この話は公儀の正式な沙汰ではないため隠密に扱うよう命じる。追而書では、今回命じられた船のうち五百石以上の船は早々に受け取るよう伝えており、大船を一律に取り崩させたのではなく、法度適合性と既発注分を区別して処置したことが分かる。
〔慶長三年〕三月十三日 / 冊子 199~200頁
豊臣秀吉が島津義弘・忠恒へ、蔚山・梁山・順天の三城を自分の許可なく引き払うとの申し出を曲事として強く戒めた朱印状。前年、城数を減らして海辺を固め、交代で人数を渡海させて敵地を焼き働きする方針を示したのに、蔚山城の普請や兵粮・玉薬が整わない時に明・朝鮮軍の攻撃を受けて敗軍したことを挙げる。三城の普請を完成させ、兵粮・玉薬を備えて堅固に守ること、守備困難なら帰朝前に申し出ること、翌年には軍勢を渡して朝鮮の都まで攻めるため蔚山に在城して準備することを命じる。
(慶長三年)八月七日 / 冊子 227頁
寺沢正成(広高)が島津忠恒に、豊臣秀吉は重い病にかかったが快気し、諸将の不安を解くため朱印を発したと伝えた書状。朱印を携えた使者が申刻に釜山浦へ到着したので直ちに送ること、上方からの使者を城に留めているため、請取状を整えてこの使者に渡すことを求める。
(慶長三年)八月廿五日 / 冊子 230頁
豊臣秀吉が島津忠恒に、朝鮮在番の見廻りとして徳永寿昌・宮木豊盛を派遣したことを伝え、長期在番の苦労をねぎらって道服と袷を与えた朱印状。詳しくは奉行衆・年寄衆から申し伝えるとする。
(慶長四年)七月九日 / 冊子 399頁
『嶋津氏文書』所収の徳川家康書状について、本文巻六のNo.789と同文であるため本文を省略した旨を記す。御譜中を用いて写した二通であり、重複になるとの注記を付す。内容は、伊集院源次郎の籠城を早急に成敗し、軍勢の扱いに手違いがないよう求める書状である。
(慶長四年)七月九日 / 冊子 399頁
伊那令成の書状について、本文巻六のNo.790と同文であるため本文を省略した旨を記す。内容は、縮百端・帷子百・矢根二千の音信を受け、伊集院源次郎が下城しなければ成敗すること、必要に応じて軍勢を出すことを伝えた書状である。
(慶長七年)正月十五日 / 冊子 801頁
山口直友が新春を祝い、天下は静謐で内府は正月十三日に江戸から上洛する予定だと伝える。龍伯もこの機に上洛するのがよいと勧め、前年冬に上る予定だった図書頭の到着を伏見で待つとした。
(慶長七年)二月四日 / 冊子 806頁
山口直友が前年十一月二十六日付の書状を受領したと報じ、図書頭に先方の書状を渡したこと、忠長の上洛後に面談して協議する意向を伝える。使者の帰国を急がせたことも詫びた。
五月一日 / 冊子 814-815頁
山口直友が島津忠恒へ、図書頭忠長が上洛し本多正純と協議していることを伝える。内府が関東へ下向すれば対談が難しくなるため、在洛中に急ぎ上洛して懇談するよう促し、太刀・馬・硫黄・砂糖の進上披露も報じた。
(慶長七年)五月一日 / 冊子 815頁
山口直友が、図書頭忠長の上洛時に島津両殿の意向を内府へ申し上げ、直書を得て懸案が解決したと報じる。内府が八月に関東へ下向するため、龍伯は六月二十日以前に出船し急ぎ上洛すべきだと促した。
(慶長七年)五月廿二日 / 冊子 817-818頁
福島正則が島津忠恒を迎える書状を送り、上洛があまりに遅いため心配していること、山口直友とも度々話していることを述べ、急いで上洛するよう促した。
(慶長七年)五月七日 / 冊子 818頁
徳川家康が島津忠恒から年頭の祝儀として太刀一腰と馬一疋を受け取り、喜悦の意を示した御内書。
(慶長七年)十一月九日 / 冊子 860頁
徳川家康が忠恒へ、大坂へ到着したとの報告を了承し、自身も近く上洛するので、その時に会うと伝えた御内書。詳細は本多正信から伝えるとした。
(慶長八年)正月廿二日 / 冊子 878頁
山口直友が忠恒へ、これまで心静かに相談できたことを喜び、出船の時期を尋ねる。前日に福島正則を訪ねて終日酒宴となったのかと問い、朝倉山神と称する進物を送り、詳細を甚兵衛に託した。
(慶長八年)五月四日 / 冊子 892頁
徳川秀忠が忠恒から端午の祝儀として帷子・単物十領を贈られたことを喜び、詳しい返答は本多佐渡守正信から申し伝えるとした御内書。