島津久矩譜
年月日未詳 / 冊子 557頁
薩州家忠清の弟忠栄の後裔である久矩について、承応元年四月十日生まれ、初名久明、幼名・官途、母を相良新右衛門長貞の娘とし、元禄八年二月十六日に没したことを記した譜。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
41 件 (全巻)/ 1–41件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 557頁
薩州家忠清の弟忠栄の後裔である久矩について、承応元年四月十日生まれ、初名久明、幼名・官途、母を相良新右衛門長貞の娘とし、元禄八年二月十六日に没したことを記した譜。
年月日未詳 / 冊子 361頁
薩州家系図の記事で、島津用久が永享年間に島津忠国の命を奉じ、守護代として三年間政務を預かったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 828~829頁
島津家久の正室を中心に、その出生・母方、家久との間に生まれた島津光久・北郷久直・島津忠記・女子らを示し、さらに家臣家へ嫁した女子や子孫の出生、死亡、法名、養子関係を系図形式で記録した薩州家譜。
年月日未詳 / 冊子 555頁
薩州家の久意・忠兼・実久らについて、実名・幼名・官途・法名、婚姻や寺院との関係を記した系図抄。
年月日未詳 / 冊子 556~557頁
島津実久の子女と婚姻、将軍から偏諱を受けて陽久・義利から義虎へ改名した経緯、忠継が大田忠綱の養子となったことなどを記した薩州家系図抄。
宝永六年九月九日~正徳元年十一月廿二日〈系譜前歴を含む〉 / 冊子 875–876頁/整理ID 2868
薩州家備前守忠清後嗣久基の記事。久基は新納市正久珍の二男として生まれ、元禄十四年に元服した。宝永六年九月九日、吉貴に側小姓比志島範房から伝えられて出仕する。忠清家が無後断絶した事情とその先祖・家格を述べ、忠清の玄孫久基に三男家ではなく二男家の格で継承させ、家老直触とする。十月十六日家紋衣服拝領、十一月十三日六郎次郎命名、十五日太刀・馬代銀一枚・二種両樽献上を記す。正徳元年十一月二十二日には二男以下の称号を改め栗川とする証帖を賜った。
永禄十二年三月十三日・元亀二年 / 冊子 242頁
薩州島津家の略系図。忠辰を島津歳久の猶子とし、永禄十二年三月十三日生、天正十五年四月十七日に十九歳で死去したと注記する。元亀二年に出水で生まれた忠清は義久長女を母とし、兄忠辰の罪により母・母堂・弟忠富・忠豊とともに小西行長へ預けられ、長年肥後に在住したとする。
天正十二年七月六日 / 冊子 921頁
島津忠清の一流系図として、女子千鶴が天正十二年七月六日に誕生し、母は島津家久の子であること、初め伊集院忠員の妻となって一女を産み、忠員死後に島津久元へ再嫁したことを記す。
文禄3年正月19日 / 冊子 762頁
島津忠清が、上井神五郎を通じて銀の瓢箪、香箱などを受け取ったことを喜び、秘蔵すると礼を述べる。あわせて種子島方から送られた銀製品についても、祝着の意を伝えてほしいと頼む。 朝鮮在陣期の島津家中で交わされた銀工芸品の贈答と取次関係を示す礼状。
文禄4年5月24日 / 冊子 884頁
忠清は、義弘が帰朝して直ちに上洛したと聞いて喜び、長い旅と渡海の苦労をねぎらう。 自身も暇を得て五月十日に国元へ戻り、前年以来の体調不良を竜伯の薬と養生でかなり回復したと報告し、詳細を使者に託す。
文禄4年5月24日 / 冊子 884頁
忠清は、帰国して上洛した一行の労苦をねぎらい、島津忠恒がなお在番しているため気遣われると伝える。 漢国と日本の和睦をめぐる使節が目前に来ているとの風聞に触れ、自身の病状は竜伯の薬と養生で快方に向かったと報告する。
年月日未詳 / 冊子 386頁
薩州島津氏の系譜を図示し、忠辰・忠隣・忠清・忠栄らの系統と、久基、久弘、久近らへの分岐を示す。各人の通称・官途として又太郎、三郎次郎、備前守、越前守、民部少輔、弥市郎などを付記する。
年月日未詳 / 冊子 245~246頁
新納忠元勲功記。忠元が十六歳から島津氏に仕え、多くの合戦で先陣・一騎討ち・首級獲得などの武功を重ね、身体に十九か所の傷を負ったこと、子孫も軍功を立てたことを列挙する。
年月日未詳 / 冊子 247~248頁
島津忠清譜の記事。関ヶ原後に肥後熊本へ移った忠清が島津義久の招きで慶長十四年十二月三日に子女を伴って阿久根へ帰国し、娘が島津家久の室となって光久を生み、忠清が厚遇されたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 378頁
島津忠清一流の系図。忠清の弟忠栄の子孫として久基・鎌菊・弥市郎・美作守・民部少輔らの名と出生・母・養子関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 389頁
島津家久の長女が慶長十八年二月十五日に生まれ、母は家臣島津備前忠清の娘で、元和元年三月十五日に三歳で死去したことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 628頁
元和二年六月二日に鹿児島で島津光久が誕生し、母が島津忠清の娘であったこと、幼名・官位などを記す島津光久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 723頁
島津忠清が、子の忠影による新納家相続を支えたこと、元和六年正月五日に病没し、島津家久夫妻が弔問して葬送・法要が営まれたことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 725頁
島津備前守忠清が家臣であると同時に一族で、光久の母・慶安大姉の父でもあったため、家久がその死を深く哀しみ和歌を詠んだことを記す系譜記事。続く追悼和歌は譜中で全文を欠くと注記する。
(元和六年) / 冊子 725頁
元和六年春に死去した前備前守島津忠清を悼み、老少不定の世を嘆きつつ、春夏秋冬に寄せた八首を手向けた追薦和歌。
年月日未詳 / 冊子 782~783頁
島津忠清の一流について、忠清・久近らの系統を図示し、元和八年六月十一日に生まれた久近の父を島津久元、母を島津義弘の第七女とすること、寛永十三年に十五歳で没したこと、後に島津光久の命で忠清の後嗣とされたことなどを記す系図。
年月日未詳 / 冊子 202頁
忠紀は元和八年、島津忠清の娘を母として生まれ、早世して継子のなかった又四郎久敏の猶子となった家久の実子である。寛永八年四月一日、光久の任官時に玄蕃頭・諸大夫従五位下となり、秀忠・家光から刀剣を拝領し、太刀・銀・衣服を献上した。
年月日未詳 / 冊子 214~215頁
島津忠栄の譜記事。天正二年に忠清の弟として生まれ、豊臣秀吉の西征時に人質となって細川幽斎に預けられ、小倉に滞在した。忠辰改易後は佐土原で島津豊久を頼り、その姉を妻としたが、関ヶ原後の家臣一揆を逃れて国府へ移り、龍伯公から母の領地を与えられた。高原・飯野・牛根などの地頭を務め、寛永十九年九月晦日に牛根で六十九歳で没した。
年月日未詳 / 冊子 225頁
島津久基の譜記事。久基は忠清の弟・忠栄の子で、初名を久盛、幼名を鎌菊、通称を弥市郎、官途を美作守・民部少輔といい、実父は入来院伯耆守重国であったと記す。伊集院源助久朝とともに六番組の与頭を務め、隅州牛根・薩州高尾野などの地頭を歴任し、延宝八年正月十二日に没した。
五月廿四日 / 冊子 145頁
帰国許可を得て五月十日に国元へ着き安堵したこと、忠恒は合戦場で在番中だが、中国・日本の講和使節が朝鮮へ出されたとの風聞から勝利と早い帰国を期待すると報告した。前年以来の病も龍伯から薬を与えられて半ば回復し、在国療養で全快する見込みだと伝えた書状。
五月廿四日 / 冊子 146頁
義弘の帰朝と直後の上洛を祝い、自身も暇を得て五月十日に国元へ着いたと報告した。前年以来の体調不良は龍伯の薬と養生により半ば回復し、在国中に全快する見込みだと伝え、詳細を久保右衛門尉に託した書状。
三月四日 / 冊子 169~170頁
忠恒の書状を拝読し、武庫義弘からの書状も取り次いでもらって頂戴した礼を述べ、高麗で引き続き心配事がないとの知らせを忠恒と同じく喜んだ島津忠清書状。
延享四年十一一月 / 冊子 305~307頁/原整理番号 1
「諸旧記文書」の冒頭で喜入家の来歴を述べる家譜記事。喜入家六代式部太輔久道に男子がなく、義弘の子万千代丸を養子に迎えたことや、久道・久亮らの系譜と改名、島津家への奉公を記す。
永享十一年六月十五日 / 冊子 391頁
樺山教久の段銭等差出控として目録に掲げられた文書。本文頁には樺山家所蔵で薩州家用久譜中にも載るとの注記だけがあり、本文は再録されていないため、具体的な差出内容は補わない。
年月日未詳 / 冊子 70頁
薩州家の島津義虎が天正十三年七月二十五日に没したことと、子女・妻の系統を簡潔に示す譜記事。 法号や妻が母川上上野守忠克の娘であることなどを掲げ、薩州島津家の親族構成と後継関係を確認できる。
十二月十八日 / 冊子 145頁
島津久雄が下野守へ、将軍徳川家光が諸大名家の元祖を尋ねた際に薩州家から差し出した系図・文書の写しを受領したことへの謝意を述べた書状。拝領した系図を秘蔵し、子孫へ代々譲り渡す意向を示し、宇宿傳左衛門らの尽力にも礼を述べている。幼少のため萬寿丸忠次の印判を用いたとの注記がある。
正保四年十一月十三日 / 冊子 93頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0175
薩州家島津久弘の出生・系統を掲げ、武州王子村の犬追物で射手に列して将軍家光へ奉仕したことを記す系譜抄。
寛文七年後二月朔日 / 冊子 530頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1195
牧野正秀が薩州家中へ、将軍が今朝疱瘡を発したものの容体は良好であり、詳報とその後の吉報を追って知らせると伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 553~555頁
薩州家二代国久を起点に、延久・成久・実久らの実名、幼名、官途、法名、婚姻、各支流の祖を記した島津国久一流系図。
年月日未詳 / 冊子 563頁
薩州家支流大田氏の忠角以後、忠正・用好・用信・久知らの生没年、幼名・官途、母方、婚姻を記した系図抄。
年月日未詳 / 冊子 566~568頁
薩州家四代忠興の後裔から西川を称した久興・忠則らを起点に、忠陽・久吉・久首・用磨へ続く生没年、幼名・官途、婚姻を記す薩州庶子西川氏系図。忠陽が天正九年の水俣合戦で戦死したことも載せる。
年月日未詳 / 冊子 557頁
島津久矩の子久近を起点に、経東・久昌・用鎌らの生年月日、母方、幼名・官途を記した一流系図。経東が村田経武の養子となったことも載せる。
年月日未詳 / 冊子 361頁
薩州家用久一流の系図記事で、用久は初め好久、中頃に持久と称し、薩摩守で、母は伊東氏の女、九代太守島津久豊の二男であることを記す。
永享十一年二月十八日 / 冊子 391頁
福昌寺に正文があり、薩州家用久の袖判を伴って用久譜中にも載る島津持久袖判証状。本文はNo.1216と同文のため省略されており、慧燈院の寄進状・寺領関係文書を列挙して持久が証明した文書に当たる。
年月日未詳 / 冊子 574頁
島津国久が明応七年七月二十九日に二十八歳で没し、法号を桂林国久、菩提寺を保泉寺としたことを記す薩州家譜の記事。
「寛永十八年」十二月十八日 / 冊子 177(本文省略、注記はNo.275、実質参照先No.175=145)頁
本文注記は「No.275の文書と同文のため省略」とするが、No.275は寛永十九年八月十三日付の南蛮人捕獲・尋問に関する島津久通外二名連署書状であり、本書状とは一致しない。標題・日付・発給者が一致する実質的な参照先はNo.175である。No.175の本文によれば、島津久雄が下野守へ、将軍徳川家光の命により薩州家から提出された系図・由緒文書の写しを受領したことへの謝意を述べ、拝領した系図を秘蔵して子孫へ相伝する意向と、宇宿傳左衛門らへの礼を伝えた書状である。