島津忠平起請文
永禄五年五月吉日 / 冊子 106頁
忠平が川上経久に対し、島津家への奉公について互いに覚悟を固め、隔意なく相談することを望み、取り決めを長く他言しないと誓った起請文。
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永禄五年五月吉日 / 冊子 106頁
忠平が川上経久に対し、島津家への奉公について互いに覚悟を固め、隔意なく相談することを望み、取り決めを長く他言しないと誓った起請文。
元亀二年九月吉日 / 冊子 256頁
島津義弘が川上経久から神裁をもって伝授された弓馬一流について、子孫だけでなく志のある者にも時宜に応じて伝える一方、無関係の者へ漏らさないと誓った起請文。違反すれば天帝・四大天王・堅牢地神、日本国中の神祇、白鳥・霧島六所権現、諏訪上下大明神の神罰・冥罰を受けるとする。
天正二年六月十三日 / 冊子 341頁
島津義久が河上経久から当家一流の射御秘説を余すところなく伝授されたことを神名にかけて承知し、今後も疎略にしないと返答する書状案。
永禄九年八月六日 / 冊子 147頁
弓射の一流相伝の内容を他言しないことを誓った島津義久の起請文。本文では同文のNo.339により省略されており、違反すれば天帝・四大天王・日本国中の神祇などの罰を受けるとする。
永禄九年八月六日 / 冊子 149頁
島津義久が弓射の一流相伝の内容を他言しないと誓った起請文。偽りがあれば天帝・四大天王・堅牢地神・日本国中の大小神祇冥道、当地の諸神の罰を受けるとする。
天正二年六月十二日 / 冊子 340~341頁
河上経久が島津家一流の犬追物の秘説を残らず義久へ伝授したと誓い、失念は偽りと見なさないよう求める一方、違反した場合は梵天帝釈以下の諸神の罰を受けると記す起請文。
天正二年六月十二日 / 冊子 341頁
本文はNo.743と同文につき省略されている。島津家一流の犬追物秘説を義久へ伝授したことを誓う河上経久起請文の重出である。
年月日未詳 / 冊子 499~500頁
川上経久が正月二日に八十四歳で没し、法号を祥翁芳麟居士としたことを記す譜の記事。本文は年号を天正十九年壬辰と記す一方、「即文禄元年也」と注記しており、年次表記に注意を要する。
天正19年2月16日 / 冊子 500頁
川上芳麟経久が、弓馬の技について尋ねられた事柄を心底から残らず申し上げ、将来その者が親類や他家から推挙された際にも力量に応じて取り立てるよう願った起請文。申し立てに偽りがあれば多数の神仏の罰を受けると誓い、人材評価を神前の誓約で裏付けている。
年月日未詳 / 冊子 354頁
阿多氏について、久清から忠清・経久へ続く系譜と、家久・亀徳丸・飛騨守の名乗りを簡略に示した系図記事。
九月吉日 / 冊子 386頁
阿多郷上宮熊野権現社の御鏡について、縦横九寸の方形一面で、本尊阿弥陀・花立・獅子口を伴うことを記した鏡銘。大願主は七郎介藤原経久、諏方座主は律師慶任房。
永禄十一年二月廿一日~十二月十九日 / 冊子 185~186頁
永禄十一年二月二十一日の飫肥方面の合戦を中心に、同年各月の戦死者を日付別に列挙する交名抄。北郷忠俊・久周、本田親豊、土持頼綱、和田匡郷ら多数のほか、三月九日の寺山直久、同月二十三日の佐多経久、八月・十二月の戦死者を記す。
天正三年三月十五日 / 冊子 430~431頁
天正三年三月十五日の代始犬追物の手組で、義久が二十九疋を射たのをはじめ、各射手を角ごとに配し、射犬数と検見・喚次を記録する。終了後は桟敷で三献を行い、川上経久に馬・太刀を与え、射手を手組順に召して酒を賜った。
天正三年三月十五日 / 冊子 431頁
三月十五日の犬追物で定数の犬を射終えた後、義久が桟敷で三献を行い、川上久隅・歳久・喜入季久・川上経久が同席した。川上経久へ馬・太刀を与え、射手を手組の順に召して盃酒を賜った儀礼を記す。
(天正19年)2月16日 / 冊子 502頁
本文はNo.737の川上芳麟経久起請文と同文のため省略されている。弓馬の力量についての申し立てと人材推挙を神前の誓約で保証した文書が、伊地知氏所蔵資料にも伝わったことを示す。
年月日未詳 / 冊子 726~727頁
川上義久の三男受久を祖とする支流系図。受久が昌孫と号して伊集院妙円寺で出家した後、島津勝久没落後に還俗し島津貴久へ仕え、弓馬の書を相伝したこと、経久も弓馬の達人で、高江から永吉・市来へ移り火災で重器文書を失ったことを記す。
二月廿八日 / 冊子 398頁
島津龍伯が、島津家の弓馬の儀は父貴久から伝授されたもの以外は極意を残さず、今回神載の誓約によって伝えるので、軽々しく他言してはならないと戒めた書状。
二月十八日 / 冊子 398頁
島津義久が川上武蔵入道へ、河上十郎左衛門尉が所持する日記、当家御代々の手組の日記、犬追物の日記などの所在を列挙し、必要時に参照できるよう大切に所持するよう命じた覚書。
永禄十年十一月廿四日ほか / 冊子 170~171頁
永禄十年十一月二十四日の馬越城攻めを中心に、同月二十五日・二十九日などの戦闘で戦死・負傷した将兵を列挙する交名抄。辻大蔵左衛門尉、有馬軍弥左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、市来家利、伊集院久慶らの名と戦死・負傷等の注記を載せる。
永禄十一年三月廿三日 / 冊子 196~197頁
永禄十一年三月二十三日、相良・菱刈・入来院・東郷・祁答院勢が曽木城を攻めた際、宮原景種・越中守と佐多山城守らが防戦したことを記す。敵は攻めあぐねて市山城へ転じたが、手傷を負っていた新納忠元が白坂口へ出て迎撃し、永福寺口でも本田掃部兵衛・河野玄蕃允らが戦ったため退いた。
文政元年12月16日 / 冊子 541頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1636
旧御番所御文書三番箱中。左近衛権少将源朝臣斉興について、正二位行権大納言藤原朝臣経久が宣し、敕としてこの者を左近衛権中将へ転任させるよう命じる。文政元年十二月十六日、大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師徳奉。右一通と記す。斉興の従前官名、転任後の官名、宣者と奉者の役割・官職をそれぞれ示す。本文は任官の敕であり、従四位上の叙位を直接記す文書とは区別する。
文政元年12月16日 / 冊子 541~543頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1640
従四位下源朝臣斉興を従四位上に叙する位記。兵欄・羽衛に勤め、精誠に懈りなく昼夜公に奉じたことを称え、位階を進め寵章を用いるとして、担当者に施行を命じる。文政元年十二月十六日、朱印の表示を伴う。三品行中務卿紹仁親王宣、正四位下行中務大輔藤原朝臣師光奉、従四位下行中務少輔藤原朝臣維長行。公修以下、権大納言・権中納言などの官職と名を列記し、制書の内容を奉じて外へ施行する旨が続く。従五位上行大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師徳、右中辨光成を掲げ、関白・左大臣・右大臣・内大臣は名の空欄を残し、太政大臣は闕とする。二品行兵部卿貞敬親王、兵部大輔兼淡路守良久、右大辨在経、兵部少輔兼遠江守利根の官職・名を記し、斉興に制書を告げて符の到来後に奉行する書式へ続く。末尾にも同日付、朱印の枠図表示、大録・少録・少録の欄、右一通を採録する。「月日辰時」という未記入欄や空白の官職名欄を補わず、転写された印の表示と現物の押印を区別する。
〔大永6年〕11月25日 / 冊子 340頁/原整理番号 130-26
〔大永六年〕十一月二十五日、島津忠兼が曽於郡衆へ送った書状。雪花の件を承知して早急に命じて合力すると約し、澄真から詳しく聞いた曽於郡衆の比類ない懇意を喜ぶ。とりわけ地頭不在の時にも忠兼方へ一味の心で余儀なく奉公したことは永く忘れないと述べ、河上十郎左衛門尉・河上山城守・否笠佐渡守・伊地知七郎三郎・有屋田治部少輔・鹿嶋中務少輔が親密に結束しているとの報告を頼もしいと評価し、番の用心を堅固にして油断しないよう命じる。詳細は使僧に口頭で伝えさせるとする。
年月日未詳 / 冊子 334頁/原整理番号 16
忠元の年譜が、天文七年に忠勝の敗落で家臣が離散し、安萬も父祐久に従って田布施へ移ったと記す。十四年、大中公が伊集院にいた時に入来院重朝が背き、八月七日頃に神殿から兵を出して郡山城を夜襲した。忠元は諸将とともに城へ迫り、先に柵を登って山口某と刀で戦い首を取った。初めての従軍で槍傷を負い、その時は十九歳だったという。
年月日未詳 / 冊子 396頁/原整理番号 123
天正三年十一月三・四日の出仕と酒宴を記す。三日は稲荷祭礼に供をし、御幣を取る川上源三郎へ衣服を渡した。御膳・幕の役人、宮仕の役と、寶持院の酒宴の座次を挙げる。四日には入来院・樺山らも参会し、對面所での点心・酒、三献の進行と贈物を記す。