木脇祐昌辞世
年月日未詳 / 冊子 57頁
肥後の花之山で鎌田左京亮らとともに戦死した木脇祐昌が、敵も味方も同じく現世の夢を見終えるという趣旨を詠んだ辞世。 激戦の最期を背景に、討つ者と討たれる者を等しく無常の中に置く武将の死生観が表れた、印象的な一首である。
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年月日未詳 / 冊子 57頁
肥後の花之山で鎌田左京亮らとともに戦死した木脇祐昌が、敵も味方も同じく現世の夢を見終えるという趣旨を詠んだ辞世。 激戦の最期を背景に、討つ者と討たれる者を等しく無常の中に置く武将の死生観が表れた、印象的な一首である。
寛永八年二月十日 / 冊子 188~189頁
命じられた意向を誠実に守り秘密を漏らさないこと、主家・領国に逆心する者が親子親類であっても同心せず報告することを誓った伊東祐昌の起請文。天罰霊社起請事として多数の仏神を勧請し、違背すれば子孫まで神罰を受けるとする。
年月日未詳 / 冊子 75頁
天正十三年八月の肥後戦線における島津方の戦没者を、日付・戦場・戦死状況とともに列挙した「殉国名薮」。花山城を守って戦死した鎌田政虎、堅志田城攻めで倒れた木脇祐昌・西俣七郎・村山源太らを記し、矢部兵部左衛門尉が三人に囲まれて戦死したことなど、個別の譜では見えにくい損害の広がりを伝える。
年月日未詳 / 冊子 94~96頁
肥後花山城を阿蘇方の大軍が攻めた際の籠城戦を、勝部兵右衛門が詳細に回想した聞書。三艘の船で入城した島津方は少人数ながら城門から打って出て敵を斬り、城妻子を福島へ退避させつつ、鉄砲・太刀・弓で抗戦した。城内の兵糧不足、味方の負傷と戦死、敵の攻城、退却後の再合流までを生々しく記し、木脇祐昌・鎌田政虎らの最期や、阿蘇方との兵力差が分かる合戦記録である。
年月日未詳 / 冊子 98頁
木脇刑部左衛門尉祐昌と鎌田左京亮政虎が肥後国花之山で戦死し、祐昌が辞世を残したことを記す島津義久譜の記事。 No.47の辞世本文と対応し、二人の戦死を島津家の公式的な譜記事から確認できる点に史料的価値がある。
元和八年五月廿五日 / 冊子 780~782頁
『山何』を賦題として、島津家久をはじめ重長・重種・宗可・喜庵・貞守・紹嘉・宗繁・祐昌・忠通・重商らが、春秋の景、月、花、旅、山里、海などを詠み継いだ長編の連歌。
年月日未詳 / 冊子 793~794頁
元和九年七月、島津家久が将軍に従って再び京都へ赴き、児玉利昌も随行したことを記す。本多正純処分を契機に諸大名の国替風説が盛んになるなか、国元留守居の島津久慶・川上久国らと、随行家老の島津久元・伊勢貞昌らが、児玉利昌・伊東祐昌を介して秘密の情報を交わし、八月に家久とともに帰国したとする児玉氏譜の記事。
七月廿八日 / 冊子 794~795頁
島津久元・伊勢貞昌が伊東祐昌・児玉利昌へ、近隣国の軍勢催促や諸大名国替の風説について内密に情報収集し、必要なら兵三千人ほどを出せるよう兵糧等を準備する一方、正式な人数割はしないよう命じた。将軍在京中のため諸国から注視されているとして警戒を促し、出雲・筑前・越前などの動静や軍馬購入の情報を挙げ、異変があれば注進するよう求めた連署状。
年月日未詳 / 冊子 96~97頁
天正十三年春、八代から北川海道を山越えして花山へ根陣を構えた島津方に対し、阿蘇方が八月十日から攻撃した経過を記す「日向記」。木脇刑部左衛門らが防戦するなか、隈庄へ向かった軍勢が呼び戻され、同十三日には甲佐・堅志田両城の陥落へ戦局が進む。花山籠城と周辺の城攻めが連動していたことを示す。
(元和九年)七月廿八日 / 冊子 794頁
児玉氏所蔵写の島津久元・伊勢貞昌連署状。本文は次号No.1808の連署状と同文であるため、本冊では省略したと注記されている。
年月日未詳 / 冊子 97~100頁
寛永六年六月二十二日、島津家久らが催した懐旧連歌。涼しさ、露、月、雪、松、旅、別れ、無常、四季の景物などを詠み継ぎ、各句に作者名を付して長い連歌一巻を構成する。
承応四年一月六日 / 冊子 252頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0538
伊東祐昌が嶋津筑前守へ、寛永二十年十月の後光明天皇即位時に上京使者を務めた際、光久の意向により、嶋津の名字と諱の字を永く名乗ることを赦免された事情を回答した書状。
寛永七年十一月廿七日 / 冊子 175~178頁
寛永七年十一月二十七日に催された和漢聯句。懐旧を発端に、月・雪・梅・春秋・旅・仏法・忠孝など多様な題を和句と漢句で連ね、家久・貞昌・久元ら多数が参加した。末尾に各参加者の句数を記す。
元禄十三年十二月十四日 / 冊子 251–252頁/整理ID 851
伊東祐秋・川崎祐昌・山田宗成・伊東祐周が肝付主殿久兼へ、日向国絵図調製に伴い、大和守領分の下絵図を照合するため在地の絵図役人を派遣し、江戸から来た二使者とも相談させると答えた連署請書。薩摩側の本図担当者や調製方法を教示し、完成図を早く提出できるよう指図してほしいと求める。
元禄十三年十二月二十五日 / 冊子 254–255頁/整理ID 860
伊東祐秋・川崎祐昌・山田宗成・伊東祐周が島津久輝ら五名へ、大和守領内の二か村は旧来伊東主膳の分地だったため正保国絵図では自家の図に入れたが、近年幕府領となり代官今井九右衛門の支配所になったと説明した連署書状。今井の転任と後任への引継ぎを控え、二か村を今回の絵図から除くには後任代官との相談と境界合意が必要で調製が遅れるため、双方の絵図役人を呼んで処理するか指図を求める。
元禄十四年二月九日 / 冊子 269–270頁/整理ID 896
伊東祐秋・山田宗春・川崎祐昌が島津中務ら六名へ、先に相談した大和守領分の絵図を調製し、松浦助右衛門に持参させると伝えた連署書状。薩摩側の絵図方役人が諸事を指図するよう求め、詳細は松浦に申し含めたとする。
元禄十四年三月二十一日 / 冊子 284–285頁/整理ID 951
伊東祐秋・川崎祐昌・山田宗武が嶋津助之丞・喜入安房・種子嶋蔵人・肝付主殿へ、国絵図用務で先に派遣した松浦助右衛門への馳走と人馬の手配に重ねて謝した連署書状。再び絵図相談のため松浦と木脇小三郎を派遣するので、相手方絵図役人に遠慮なく指導するよう頼む。
元禄十四年三月二十一日 / 冊子 285頁/整理ID 952
伊東祐秋・川崎祐昌・山田宗武が嶋津主計へ、国絵図本図の調製を労い、先に派遣した松浦助右衛門への懇切な指示に謝した連署書状。再び絵図相談のため松浦と木脇小三郎を派遣するので、遠慮なく指導するよう頼む。
元禄十四年五月十七日 / 冊子 302–303頁/整理ID 997
伊東祐秋・川崎祐昌・山田宗武が嶋津主計へ、先の絵図担当者派遣時の指図に謝す。提出した大和守領分図の松永村・南方村・福嶋村は代官側との協議が整わず、除外する張紙を置いていたが、その後山木與惣左衛門の手代と絵図写しを照合し、村高等の書入れに相違はなかったとする。手代側が相手方へ断り、当方絵図への書入れを相談したい由なので、適切に相談し、判断を飛札で知らせてほしいと依頼する。
年月日未詳 / 冊子 139頁/原整理番号 231
吉田与三右衛門の覚書。島原一揆の際、病中の島津家久を見舞うため初めて江戸から帰国した光久が、そのまま島原へ加勢しようとし、家久から御召の鎧二領を託された伊東祐昌が光久の陣で待ったが、加勢に及ばず帰国したと語る。宝永六年八月二十四日、八十一歳の吉田の話を家来坂元武右衛門が書き留めたもの。
元禄十四年二月十五日 / 冊子 272頁/整理ID 903
島津忠守・種子島久時・肝付久兼が伊東祐秋・山田宗春・川崎祐昌へ、大和守領分の絵図を調製し、使者松浦助右衛門に持参させるとの書状を受け、その趣旨を承知したと答えた連署書状。薩摩側の絵図方担当者から松浦へ指示を伝えるため、詳しい説明は不要とする。
七月二日 / 冊子 468頁/原整理番号 596
差出人不詳の書状で、長崎へ立つ衆の飯米と、随行する夫丸の出所を記した書物2通を調えて送る。地頭は翌三日に当地を出立する予定で、詳細は直接指示されているため省略すると伝える。
七月日 / 冊子 473頁/原整理番号 607
弟子丸宗方は、瀬之浦に到着し、長崎への南蛮船来航のため急行していると伝える。翌晩に会って相談する意向を述べ、奉行所から届いた条書を閲覧後に返送するよう山田主計助・伊藤壱岐入道へ求める。目録年月日は『七月日』を維持し、本文の七月三日とは区別する。
七月三日 / 冊子 474頁/原整理番号 610
大口の宮原乗泰ら3人は、今朝寅刻に長崎行きを命じられたと伝え、帰宅していると思われる山田民部少輔へ諸事を伺うよう廻文で指示されたため使者を下し、詳細な返答を求める。追而書で、新納加賀守が鹿児島へ参上して当地を留守にしていることも知らせる。
七月廿九日 / 冊子 488~489頁/原整理番号 622
山田有真が、鹿児島の家老衆から長岡式部少輔へ文箱を送るため遠竹大炊頭・鈴木主馬首が派遣されたことを知らせる。こちらには賦銀がないので受取側で用意し、往来五日分の賦銀を渡すこと、使者が鹿児島へ戻る時に渡す案もあるが急用のため即刻渡すよう相談してほしいと求める。
寛永十五年二月朔日 / 冊子 47~50頁/原整理番号 69-2
寛永十五年二月朔日の島原出陣に際する人員賦帳。乗馬衆13人と御陸衆49人を石高付きで列記し、定衆6人、御中間8人、諸役人32人、大工5人、茶湯坊主3人を合わせて惣計116人とする。別に詰夫丸21人を記す。日高十兵衛は御陸衆に含まれる。
元禄十四年三月二十八日 / 冊子 286頁/整理ID 956
喜入久亮・種子島久時・肝付久兼が伊東権左衛門・川崎大膳・山田次郎左衛門へ、絵図相談のため松浦助右衛門・木脇小三郎を派遣し、当方役人と遠慮なく相談させるとの通知を了承する。先の松浦派遣時には十分な馳走ができなかったという謙辞を述べ、謝礼を受けたことに恐縮する。嶋津助之丞はその場にいないため連署できないと付記する。
七月二日 / 冊子 471頁/原整理番号 603
山田有栄は、長崎への黒船来航により出水衆138人を選び、4人ごとに夫丸1人を御蔵入から出すよう命じる。飯米は福之江の蔵衆から渡し、物主は山田主計助とする。五日・六日の間に出立し、かせだうで乗船できるよう遅滞なく準備させる。
年月日未詳 / 冊子 630頁
寛永十四年の家久の療養経過を記す。久志本式部少輔が江戸へ帰った後、将軍家から外科の祐慶法印が遣わされ、伊東仁右衛門祐昌らが受け入れに当たり、児玉利昌や東郷重位らが昼夜近侍して治療を支えた。
年月日未詳 / 冊子 47~48頁
天正十三年、忠平(島津義弘)を守護代として花山に置いた後、甲斐宗運の次子相模守ら阿蘇勢が花山を攻め、政虎・祐昌らが戦死した。報を受けた島津義久は数万を率いて八代へ進み、隈庄で二百余の首級を挙げ、甲佐・堅志田方面を攻略する。さらに甲斐親乗・満永宗甫らの離反、伊集院久春の不在を突いた津守城の失陥、新納忠元らによる翌年の奪還までを記す。肥後制圧が一進一退の城郭戦と在地勢力の去就によって進んだことを示す戦況記事。