伊勢貞成掟書
天正14年11月11日 / 冊子 265頁
平佐城普請に従事する人夫への兵糧支給を定めた掟書。二日につき三度、各人へ七合五勺ずつ渡し、御蔵入から支出すること、普請用物は触れに従うことを命じる。北郷作左衛門・相良新右衛門が取り仕切り、滞りなく調えるよう求めた、築城現場の給食・物資管理を示す文書である。
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天正14年11月11日 / 冊子 265頁
平佐城普請に従事する人夫への兵糧支給を定めた掟書。二日につき三度、各人へ七合五勺ずつ渡し、御蔵入から支出すること、普請用物は触れに従うことを命じる。北郷作左衛門・相良新右衛門が取り仕切り、滞りなく調えるよう求めた、築城現場の給食・物資管理を示す文書である。
(慶長元年)十一月廿四日 / 冊子 54頁
島津忠恒が本田六右衛門尉・相良新右衛門尉へ、鎌田出雲守(鎌雲)の談合所への出席を控えさせつつ、支配・配当の件は内談を尽くすよう命じた。支配は奉公の実績に基づき衆人のためとなるよう行い、配当衆・使者・筆者を分別して任命し、公儀を軽んじる者が出ないよう両人から各人へ申し聞かせることを求めた書状。
天正14年11月11日 / 冊子 266頁
No.210と同文のため本文を省略したもの。平佐城普請の人夫へ二日三度、一人七合五勺ずつ兵糧を支給し、御蔵入から費用を出すことなどを定めた掟書が、別の文書群にも収められていたことを示す。
(慶長八年)七月十四日 / 冊子 900-901頁
本田助允の書状案。忠恒の上洛に際し、軍役を勤めていない自身の知行が公儀に召し上げられるか、改めて宛行われるかについて取成しを依頼する。伊勢兵部少輔への書状取次も求めた。
十一月廿四日 / 冊子 164~165頁
奥入りに伴う知行支配について国書頭・鎌田出雲守と熟談し、長年忠勤した者や衆人の利益となるよう配分することを求めた。公儀を軽んずる者には後日申し開きできないと配当担当者へ厳告し、鎌田との内談を重ねるよう命じた書状。
(慶長二年)五月十一日 / 冊子 101頁
島津忠恒が、赤国方面の軍役と朱印による人数割当てを受け、家中の人員・馬・兵糧・船を点検して渡海準備を整えるよう三名に命じた書状。海上での遅滞を避け、現地の必要に応じて配分することも指示する。
萬暦廿五(慶長二)年五月廿七日 / 冊子 103頁
中山王尚寧が三名に、これまで音信がなかったものの、朝鮮在番から無事帰朝したと聞いて喜び、今後は親しく交誼を結びたいと伝えた書状。琉球の産物を別紙のとおり贈る。
五月廿三日 / 冊子 164頁
奥入りが決定したため兵員・馬を早く渡海させるよう八木民部左衛門尉らに命じ、伊集院忠棟が上洛した場合は三人で事情を聞いて尽力するよう求めた。少しでも油断すれば国家滅亡に至ると強く警告した書状。
五月十一日 / 冊子 164頁
朝鮮在陣の大名へ秀吉朱印状が出され、島津勢の軍役を千人とする命令を受けたため増員を求めた。浜市・帖佐・鹿児島から兵員と馬を集め、七月中に必ず参陣させ、軍勢を整えても遅参すれば無意味なので直ちに出船させるよう三人へ厳命した書状。
(慶長元年)三月十九日 / 冊子 14頁
龍伯が島津又八郎へ、相良新右衛門尉・三原右衛門尉から伝えられた条々を承知し、とりわけ替衆を手配して送るつもりであると返答した。京都からの大事な命令のため少し遅れたが、油断せず間もなく渡海させること、細かな事情は両使者が説明すると伝えた書状。
(慶長三年)九月十六日 / 冊子 237~238頁
島津義久(竜伯)が島津忠恒に、大峯先達から島津義弘は護摩の効験で間もなく平癒すると聞いたこと、石田三成から義弘・忠恒父子は国元へ直ちに帰朝してよいとの意向を得たので相談して好機を選ぶことを伝えた書状。宰相の暇は伊集院幸侃を通じて交渉すること、買い入れた八木七千石のうち七百石しか上っていないため甚五郎の怠慢を責めること、相良新右衛門の奉公任命、在番三交替の調整についても述べる。
(慶長四年)二月七日 / 冊子 351頁
島津義久が又八郎に、先の書状で帰朝を祝った後、相良新右衛門の着船により又八郎が間もなく上洛して会えないと聞き、伊地知甚左衛門尉の肝煎で認めた書状を京都へ送ったと伝える。その後、まだ渡海していないとの風聞を得て飛脚を立て、長く在陣したのち直ちに上京する苦労をねぎらう。
(慶長四年)閏三月十四日 / 冊子 368~369頁
竜伯が、平田太郎左衛門尉を通じて届いた書状を読み、幸侃成敗に関する指示を承知したと答える。比志島紀伊守・相良新右衛門尉の二使を上せて詳細を口上で伝え、当地に異変はないと報告する。また上方の人手不足に応じて上洛衆を手配し、必ず今月十七日に出立させるよう急がせていると又八郎へ知らせる。
(慶長四年)四月十四日 / 冊子 374頁
島津義弘が忠恒に、秀頼から拝領した馬が見事であると祝う。相良新右衛門尉から龍伯の意向と国元の様子を聞き、庄内問題が未解決で忠真の弟らもなお兄に加担していると伝える。また本田六右衛門尉の大坂派遣に際し、秀頼が忠恒へ特に念を入れて月毛の馬を与えたため、追って送ると知らせる。
(慶長五年)二月六日 / 冊子 508頁
島津忠長が、寄合中の詫びに関する件について、先日相良新右衛門へ伝えたとおりであるとし、一同で相談して穏当な判断をするよう求める。詳細は使者に申し含めたと伝える。
(慶長五年)六月廿五日 / 冊子 549頁
島津義久(龍伯)が又八郎殿に、奥方の奉公人が不足しているため申し入れたところ、相良新右衛門尉が任命されたと知らせ、早急に上洛して奉公するよう求める。
慶長六年 / 冊子 763頁
宇喜多秀家が備前での中納言家断絶後に薩摩山川へ逃れ、島津義弘が伊勢平左衛門・相良新右衛門のもとへ匿ったとの伝承を記す。ただし記事末尾は、通説と異なり真偽不明としている。
(慶長六年)六月六日 / 冊子 763頁
島津義弘が島津忠恒に、山川へ着船した京都方面の者を龍伯の意向に従って伊勢平左衛門・相良新右衛門に尋問させ、急ぎ報告するよう求めた書状。
(慶長六年)六月六日 / 冊子 763-764頁
島津忠恒が島津義弘に、京都方面から来た者について伊勢平左衛門・相良新右衛門を派遣して尋問させる案を了承し、その者を義久(龍伯)へ移すことも認めた書状。
(慶長十三年)四月八日 / 冊子 165~166頁
慶長十三年四月八日、島津惟新が島津家久に、琉球からの使僧への返答を今回確定すべきであり、龍伯とも相談するよう求め、詳細を町田勝兵衛尉・相良新右衛門尉へ申し渡した書状。
(慶長七年)十月五日 / 冊子 849頁
新納忠増の覚書。前年と当春の普請に動員された人数を、奉行・組数・日数別に計算し、合計十万五千人に達するのに成果が見えないと指摘する。今後の普請人数と日程を明確に定めるよう求めた。
十一月十一日 / 冊子 45頁
伊勢貞成が、平佐城普請に従事する人夫への兵糧支給について鬼塚主税助・宮路三之允へ達した文書。一日三度、一人につき七合五勺ずつ支給すること、蔵入から用米を出し、普請衆は触れに従うことを命じる。
十一月十一日 / 冊子 113(本文はNo.124・冊子頁45参照)頁
伊勢貞成が、平佐城普請に従事する人夫への兵糧支給について鬼塚主税助・宮路三之允へ達した文書。一日三度、一人につき七合五勺ずつ支給すること、蔵入から用米を出し、普請衆は触れに従うことを命じる。No.124と同文。
(貞享三年)七月十八日 / 冊子 736頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1941
島津久輝が相良新右衛門へ、武士間の争いなどは偏りなく調査して処置すること、男女の奉公人や衣類・帯などを盗む者を吟味して摘発すること等を命じた条書。
三月十九日 / 冊子 380頁
相良新右衛門・三原重種を介して伝えられた諸件、とりわけ替衆の件を承知して準備したが、京都から重大な指示が相次いだため少し遅れていると説明し、近く渡海すると伝えた島津龍伯書状。
六月廿日 / 冊子 90頁
朝鮮情勢が固まる前に龍伯が速やかに渡海すべきと促し、後発兵の乗馬準備が不足していることを叱責し、毛利家では五、六十石の家臣も騎乗すると例示して、供衆の馬と指物を整えるよう命じた書状。
(慶長2年)5月11日 / 冊子 78~79頁/原整理番号 63の18
忠恒が桂・本田・相良へ、朱印による当年軍役一万人に応じ軍勢を増し、特に鹿児島の乗馬衆を整えて七月中に必ず参陣させるよう命じる。市方・帖佐方・鹿児島方に触れ、人数が揃っても遅陣は許されないとして早い出船を求め、事延べする者への処分を指示する。幸侃への連絡と三原諸右衛門との相談にも触れる。
(慶長6年か)11月11日 / 冊子 70頁/原整理番号 61
伊勢貞成が平佐城普請について二か条を定め、兵糧は一日三度・一人七合五勺ずつとする。御蔵から出す用物と普請関係の扱いは北郷作左衛門・相良新右衛門の指示に従い、怠りなく納めるよう鬼塚主税介・宮路三之丞へ命じる。行間朱書には年代や城修築の背景に関する推測がある。
(慶長7年か)10月5日 / 冊子 70~71頁/原整理番号 62
新納忠増が拙斎へ普請人数を報告する。前年の相良新右衛門奉行時は北郷作左衛門内衆と合わせ一日三千人・25日で六万五千人、当春の竹内織部助奉行時は千人・30日で三万人と記す。両口合計は十万五千人とするが、証拠が見当たらず不審な旨を述べ、今回の普請人数も未定と伝える。記載小計と総計には不一致がある。
正徳五年四月十七日 / 冊子 220頁/整理ID 507
四月十七日、東照宮家康の百年忌法会が日光山で営まれ、吉貴の使者相良新右衛門長賢が参列した。継豊も使者を出し、太刀・馬代金などを献じた。
二月十五日 / 冊子 141~142頁/原整理番号 239
川上久国・三原重庸が渋谷四郎左衛門尉へ、薩州様の帰国行程に伴う宿泊・昼休・供奉を指示する。十四日ごろ有馬へ着船し松平伊豆守への礼後に川内筋を通る見込みとして、西方では仁礼主計助、向田では鎌田源左衛門尉・相良新右衛門尉、市来湊では新納右衛門佐らに手配させ、昼夜を問わず後報するよう求める。
(明暦三年)三月朔日 / 冊子 329~330頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0709
鎌田政有が国元の役人らへ、江戸城内に異常がないこと、奏者番衆の任命、火災後の長屋・屋敷再建に用いる瓦・板・道具の手配、関係者への書状取次ぎについて報告・指示した書状。
正徳五年四月十七日 / 冊子 221頁/整理ID 510
四月十七日、継豊が東照宮家康の百年忌に、日光山へ使者を遣わし、太刀・馬代金十両などを献じたことを継豊公御譜中に記す。
慶長年間十一月十一日 / 冊子 99頁/原整理番号 4
伊勢平左衛門尉が平佐御城普請の兵粮支給について、普請衆一人に一日三度、七合五勺ずつを渡すこと、蔵入から出す費用と普請衆の手配を北郷・相良両名の指図どおりに整えることを命じる十一月十一日付達書。
年月日未詳 / 冊子 557頁
薩州家忠清の弟忠栄の後裔である久矩について、承応元年四月十日生まれ、初名久明、幼名・官途、母を相良新右衛門長貞の娘とし、元禄八年二月十六日に没したことを記した譜。