天正十七年・十八年覚書
年月日未詳 / 冊子 427頁
天正十七年の十七か条誓紙連判、八月の実明公上洛、同年秋の松齢公下向、天正十八年の久保公関東出陣を列記した覚書。 二年間の島津家中の主要行事を見出し形式でまとめたもので、誓約・上洛・帰国・軍事動員の時系列を簡潔に確認できる。
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年月日未詳 / 冊子 427頁
天正十七年の十七か条誓紙連判、八月の実明公上洛、同年秋の松齢公下向、天正十八年の久保公関東出陣を列記した覚書。 二年間の島津家中の主要行事を見出し形式でまとめたもので、誓約・上洛・帰国・軍事動員の時系列を簡潔に確認できる。
年月日未詳 / 冊子 457頁
天正十八年の小田原陣に続き、天正十九年正月の貴明公の下向、同年九月の松齢公の伏見からの帰国と人質番組を列挙する。 さらに同年冬の高麗渡海命令、十二月に貞明公が名護屋へ加わったことを記し、豊臣政権下で島津家が相次いで軍事動員を受けた経過を簡潔にまとめた覚書である。
年月日未詳 / 冊子 127頁
慶長十二年、島津義久が帖佐で病んだため、国分にいた島津家久が心配し、療治を促すとともに実相を見舞いに遣わした記事。使者は犬追物の件も伝え、八月一日に復命した。
寛政8年2月(記事)。永禄12年出生・天正4年11月22日卒を記す / 冊子 116頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0352
幻生君について、十代の祖松齢公(島津義弘の注)の長男で、永禄12年に生まれ幼名鶴寿丸、天正4年11月22日に亡くなり法号涼山幻生とする御譜記事。遺骨の蔵所が不詳であったが、寛政8年2月、寺社奉行から日向加久藤郷不動寺の仏壇下へ納められているのではないかと報告があり、その修理を以下の通り命じたと述べる。骨の所在は疑われるという記載で、ここだけで発掘確認済みとしない。続く印刷353の具体的な石棺・位牌取扱命令へつながる。
文政元年7月7日(年は目録。法事は7月9~11日) / 冊子 538頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1628
重豪公御譜中、斉興公御譜にもあるとする。この年秋七月七日、松齢公の二百年忌法事を伊集院妙圓寺で三日間、七月九日から十一日まで修したと記す。松齢公には島津義弘の傍注を伴う。重豪は大目附畠山式部義矩を遣わし、この日は仮に家老として、香奠金二百疋を献じ拝させた。記事の日付七月七日と法事期間九~十一日を区別する。香奠の単位は疋であり、二百両ではない。家老の注記は当日の仮任で、恒常的な家老職への任命とまでは記さない。
年月日記載なし(斉興公御譜の記事) / 冊子 106頁/原整理番号 152/整理ID 152
斉興が藩内に軍法を設けた理由を述べる記事。大中公・貫明公・松齢公の旧制を専ら模範とし、古い制度の良い点を棄てずに取り、当世の士にも忠厚な風法を用いさせたいとする。その意向を家老へ告げるため、詳しい書付を以下に示すと記す。具体的な命令はNo.153に収める。
同年春三月二十一日(安永四年の文脈) / 冊子 453頁/原整理番号 1253/整理ID 1253
同年春三月二十一日、薩摩郡隈之城の稱名寺で、定山公の四百年忌の法事を修したと記す。定山公には島津師久の注があり、使番頭鎌田蔵人正方を遣わし、香奠銀三枚を献じて拝させたという。仝上は重豪公御譜中の出典を受ける。小字の注は、これまで祖先の遠忌法事では寺へ香奠銀五枚を納めていたが、ここで初めて減額し、銀三枚を香資として献じ、以後はこれに倣うと記す。その上で大中公・貫明公・松齢公・慈眼公のような場合はまた同じではないと付すため、すべての祖先法事を一律三枚へ改めたとしない。三枚はこの法事への献納額で、従前五枚と加算しない。四百年忌の原表記を保持し、師久の没年を逆算して補ったり、三月二十一日を死亡日として扱ったりしない。
弘化四年九月廿一日(戦死者法会)。慶長三年の戦を回顧 / 冊子 82~83頁/原整理番号 128/整理ID 128
慶長三年十月の泗川の役と同年十一月の戦から二百五十年に当たり、斉興がその年の戦死者の霊を弔った記事。九月二十一日、福昌寺住持独山を導師として薩府妙谷寺で施餓鬼会を行い、敵兵数万の亡魂にも施したと記す。貫明公・松齢公・一唯公の霊牌を置き、家老調所広郷が代わって礼拝し、戦死者の子孫も法筵に礼拝して食を賜り、僧俗に粥を施した。松齢公は征韓の役で伊集院妙円寺を菩提所としたが、場所が不便なため妙谷寺で法会を行ったと説明する。貫明公の肥前名護屋出陣と征韓事の指揮にも言及し、戦死者子孫の名録を作ったと記す。斉興譜に戦死者四十八名の列記があるという編者注があるが、本記事に各名は掲載されない。
明治2年十一月(日不記)知政所 / 冊子 714~716頁/原整理番号 939/整理ID 939
諸所に安置した先代等の画像・肖像・木像・遺骸を、指定の社へ合祀する対応を列記する。浄光明寺内得佛公社、日新寺内梅岳公社、妙圓寺内松齢公社、福昌寺内英嶽殿、妙谷寺内貫明公社、諏方社宗源殿が合祀先となり、各旧寺名・対象・媒体は台帳へ個別転記した。阿多上宮寺・高山日新院・川邊玉泉寺は旧寺地の由緒から小社を建て、誕生日を神祭として従来通り敬い、所中士族から社守を選び寺地をその者へ支配させ、神社奉行が吟味して申し出る。画像は箱入保護し祭日に懸ける扱いと当分鹿籠転院の注も保持する。寺院を廃し、合祀または一社建立を行い本社と同日に祭祀する旨を神社奉行等と諸郷へ通知する。明治二巳十一月知政所。実廃寺数・移送完了・現代社名地図対応は補わない。
明治2年十二月(日不記)知政所 / 冊子 720頁/原整理番号 946の1/整理ID 946-1
通達留。旧浄光明寺の御高祖霊社を龍尾神社、旧日新寺内梅岳公霊社を竹田神社、旧南林寺内大中公霊社を松原神社、旧妙谷寺龍伯公霊社を大平神社、旧妙圓寺内松齢公霊社を徳重神社、旧福昌寺跡慈眼公霊社を長谷神社と掲げる。今般の社建立に伴い、社号をこの通り称する旨を神社奉行と関係先へ伝える。明治二巳十二月、知政所。六組の社号・旧地・霊社対象、義久家久注と竹田の本々注を区分し、御高祖の具体名や社殿完成・祭祀開始実績、現在の住所は補わない。
年月日未詳 / 冊子 50頁/原整理番号 49の4
伊地知季安が御母呂伝受について、寛永九年の条書、山田聖栄自記、松齢公(島津義弘)が大翁公(島津勝久)の子・修理大夫忠良入道休庵老に返した御書にも見えることを挙げ、古くから伝えられた事柄であろうと考証する。
年月日未詳 / 冊子 51頁/原整理番号 49の6
伊地知季安が、式部常陸守友久による応永六年三月二十一日の寄進文を挙げる。二親道慶禅門・通長禅尼の菩提料として、鹿児島給分小牧の中牟田二段を福昌寺に寄進したもので、友久は元久公の時代の人物を氏久の時代と誤伝したのではないかと考える。松齢公(島津義弘)の御書は後に載せるとし、永和三年二月二十五日の氏久公簑原合戦について聖栄自記の記事を続掲する。
天保十二年十一月九日(出典脇注)。慶長五年以後の来歴を記す / 冊子 49~50頁/原整理番号 74/整理ID 74
斉興が義弘の肖像を京都から鹿児島の大乗院へ移した記事。慶長五年、関原の役から泉州へ退いた義弘は、知己の今井道興の家へ潜み、懇厚な待遇を受けて危急を免れた。後に道興の願いに応じて肖像を与え、義弘没後、道興は庵を築いて像を安置し松齢院と称した。曾孫某が僧となり京都相国寺内林光院の住持となって像を移し、大玄公(綱貴)の時に仏餉料を年々白銀十枚寄附した経緯を記す。斉興が肖像の所在を聞き、京都から取り戻して大乗院へ安置し、住持に祭祀を怠らないよう命じたことを述べる。安置命令はNo.73に収められる。
慶長二年三月廿二日 / 冊子 355頁/原整理番号 1
西藩の給地と田租について古い書付を引く。太閤検地後の石高、諸給地への配分、松齢公からの給地の由来を挙げ、知行と領地高の関係を考証する。