東郷重位弟子太刀合書
年月日未詳 / 冊子 927頁
東郷重位の弟子児玉筑後守の兵法を述べた太刀合書。燕飛などの型に頼らず、木刀を取れば正面から打つ実戦的な剣風で、形より誠の心を重んじたと記し、重位の歌も引く。
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年月日未詳 / 冊子 927頁
東郷重位の弟子児玉筑後守の兵法を述べた太刀合書。燕飛などの型に頼らず、木刀を取れば正面から打つ実戦的な剣風で、形より誠の心を重んじたと記し、重位の歌も引く。
「天文五年」六月三日 / 冊子 754頁
島津勝久が入来院・東郷両名に、石州での用件と船員不足、入国者の処遇、報恩のための進言を伝えた書状。
天正18年12月28日 / 冊子 487頁
入来院家の所蔵文書として、市比野名のうち納拾八谷津殿先に関する知行方を東郷助左衛門尉へ示した目録。入来院領内における土地の所在と給付先を短い記載から確認できる。
天正21年正月23日 / 冊子 666~667頁
白下・赤下・上之原・田島山畑などに散在する田畠・屋敷を、地目ごとの面積とともに列挙して東郷助左衛門尉へ与える。 合計は二町一反二畝一分、米高二十石二斗五升三合三夕二才と算定されており、入来院重時家中の知行を面積と収穫高の両面から確認できる目録。
文禄4年9月28日 / 冊子 915頁
薩摩国菱刈本城内の南浦村・荒田原内町屋敷などについて、各地の石高を示して東郷源七郎へ給与する。 新知分の数量を列挙し、加増時は両名の判断で配分するとした、検地後の知行宛行を具体的に示す連署証状。
(慶長十年)四月三日 / 冊子 12頁
島津義弘(惟新)が東郷藤兵衛尉へ、島津忠恒に供奉して辛労したことをねぎらい、龍伯の意向により肩衝茶入の蓋二つを作らせるので調達を頼むと伝えた書状。茶湯への参加や河野伊右衛門尉の辛労にも触れている。
五月廿七日 / 冊子 146頁
入来院重高が入来院尾張守・東郷吉兵衛に、江戸から赤子を殺す行為を禁じる命令が下されたことを伝えた書状。分国全体で同様に徹底し、家中の歴々から百姓以下、男女・子供を問わずよく申し付けるよう命じ、詳細は口上で伝えるとする。
十一月十五日 / 冊子 151頁
入来院重時が東郷兵部少輔に、宮里のうち西の薗門一町二反が空き所領となったため、これを確保して知行するよう宛行った文書。所領の所在と面積を簡潔に示す。
年月日未詳 / 冊子 196頁
入来院重時が東郷兵部少輔に、宮里のうち西の薗門一町二反が空き所領となったため、これを確保して知行するよう宛行った文書案。本文はNo.382と同文のため省略され、目録の日付欄は空欄である。
(寛永十一年)七月十一日 / 冊子 435頁
入来院重高が、支配未決着のため使者を下し、公儀への多額の出銀に伴う領内配当、借銀増加と諸士知行の上地を遅滞なく調えるよう家臣へ命じた書状。
六月三日 / 冊子 274頁
島津勝久が、石州からの丁重な申し入れを喜び、石州と船者の知行不足や七島内の所領配分について報告し、今後の進展を両名へ伝えた書状。
正月十日 / 冊子 383頁
今度は供を務めたことに満足し、先に依頼した書物がすでに調ったかを尋ね、詳しくは使者に述べさせるとした島津忠恒書状。
三月十七日 / 冊子 384頁
兵法について以前伝えたとおり厳重に秘密を守り、親しい者や稽古衆すべてに教えるべきではないと戒め、この兵法以外に頼るものはないとの覚悟を一層深めるよう求めた島津忠恒自筆書状。
二月廿八日 / 冊子 384頁
丸目一流の兵法を見物した結果、かえって示現流の頼もしさを確認したと述べる。示現流はなお秘すべきであり、丸目流にも深い鍛錬があるので心得て、早く来て話し合うよう求めた島津忠恒書状。
六月廿二日 / 冊子 384頁
小さな刀を拵えたいので、適切な寸法を考えて尺を書き付けてほしいと依頼した島津忠恒書状。
大永九年三月廿四日 / 冊子 699頁
岩出輔共・東郷重随が牧田吉右衛門尉に、篠原口合戦で一階堂大和守を射た忠功を認め、子孫まで相違なく扱うと証した連署状。
二月九日 / 冊子 710頁
東郷重朗が肝付方に、久しく無音であった事情と通路の確保、今後の進退・協力について申し入れた書状。
年月日未詳 / 冊子 752頁
朝鮮の唐島で、東郷重虎が島津義弘の命により東郷姓を離れ、旧来の鳴津氏へ復したうえで忠直と改名したことを記す。 在陣中に行われた家名復帰と改名の経緯を示し、主君の命令が家臣の姓・名に及んだことが分かる譜記事。
年月日未詳 / 冊子 765~766頁
東郷軍広の知行分について、田方の各所を石高・斗升・面積とともに列記した検地帳。東郷助左衛門尉の名を掲げ、黒尾迫・牟田・藤渡・橋口・小長山など各地の田を一筆ごとに記録する。 文禄検地後の知行構成と村落内の耕地配分を数量から追える基礎史料で、松本武辰の署判を伴う。
九月廿六日 / 冊子 67頁
東郷重盛と川上忠位が、新納忠左衛門尉に百目掛銀の配分変更を頼んだ連署書状。当月と翌三月に受け取る二回分のうち一回分を、借銀で困窮する相良土佐へ譲るよう求め、詳細は使者から説明するとする。
十月廿三日 / 冊子 135~136頁
東郷重位が児玉筑州に、長らく音信がなく会う機会もないことを案じ、山陰での暮らしを迷惑に感じている心情を和歌に託して送った書状。末尾で歌を一笑して火中に投じるよう述べる。
寛永三年七月八日 / 冊子 13~14頁
国政上の協議事項を列挙した覚書。唐船の来航・積荷・銀子・商取引、異国人や船員への対応、国内の諸役、城・寺社・屋敷・港湾の管理、役人の配置や掃除・警備などについて、関係者が相談して処理し、独断や先例に反する措置を避けるよう定める。
十月五日 / 冊子 8頁
島津師久が牛深左近将監に、加治木へ出陣しようとした際、渋谷一族が島山直顕への合力を口実に郡司・一族を誘い、九月晦日に城へ入って合戦となったことを伝え、援軍を求めた書状。東郷にも連絡済みと記す。
年月日未詳 / 冊子 60頁
今川了俊が島津親忠・忠房、渋谷重門らに峰城攻撃を命じた戦役を記す。島津・渋谷勢と高城・東郷勢の交戦、定山公方の築城と籠城、相良氏らの救援・進退を追い、城の争奪を通じて九州探題方と在地諸氏の軍事関係が変化した経過を示す。
八月廿七日 / 冊子 367頁
宗奇が永享六年八月、ある人物・所領に関する件について、すみやう殿へ渡す畠の沙汰を東郷内の乙名と定め、案文を添えて後日のため記録した手日記。目録年月日は年を欠く。
年月日未詳 / 冊子 512頁
三か国の騒動が続くなか、島津忠昌の病を機に祁答院・北原らが出仕を停止した経過を記す。入来院・東郷・吉田・菱刈と同盟して守護方に背き、修理亮忠廉にも加勢を求めたが拒絶された。忠昌の統率力低下から反守護同盟が形成された過程を示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 519頁
文明十七年二月一日、祁答院勢が水引城と東郷・高城方面を攻め、守護方が籠城して反撃し、攻城側を川内宮内へ退却させた経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 519頁
同日、東郷右馬允が祁答院へ軍勢を発し、一木での合戦で双方に討死・負傷者を出したのち、祁答院方の援軍を受けて引き退いた経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 520頁
文明十七年二月廿六日、東郷勢が高尾野で勝利し、穂北合人佐父子を討ち取ったことを記す短い譜記事。
年月日未詳 / 冊子 520~521頁
二月一日以降、祁答院・東郷方が鹿児島へ進攻した戦況を記す。水引城、市来、伊集院周辺で島津忠昌方と攻防を重ね、村田肥前守・吉田治部少輔らが援軍を送った。城の奪還と再占領、部隊の退却を繰り返し、薩摩中央部の戦線が拡大した経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 522頁
同月二十一日、祁答院方の計略により東郷右馬允が帖佐から退き、その子松法師丸が立てられたことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 537頁
同月二十二日、東郷方が山田に軍勢を集め、翌二十三日に祢答院河向の伏兵を追い払った。鶴田勢三百と帖佐勢らが交戦し、敵を退散させ、敵騎約十人を討ち多くを負傷させた。
年月日未詳 / 冊子 540頁
文明十八年十一月、忠昌が隈之城に陣し、二十六日に東郷へ兵を遣わした。翌日の合戦で忠昌方が勝利し、東郷右馬允の弟刑部太輔らを討ち、忠昌が帖佐へ向かおうとした経過を記す。
閏十一月一日 / 冊子 540頁
島津忠昌が、東郷へ派遣した軍が合戦に勝ち、東郷右馬允の弟刑部太輔らを討ち取ったことを喜んだ。東郷を城のみの状態に追い込み、帖佐方面への進出や今後の処置を本田兼親に伝える書状。
年月日未詳 / 冊子 711頁
享禄四年四月・六月の合戦で、入来院上総介、東郷重貞、寺尾重次らが戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 4頁
天文二十四年三月二十七日の帖佐麓合戦と高尾への進出、四月二日夜の帖佐・山田からの敵方退去、七月二十五日の渋谷・蒲生勢との戦いを記す。東郷将監・白濱をはじめ東郷勢に多数の戦死者が出た。
年月日未詳 / 冊子 16頁
弘治元年七月の日記として、吉田方面への火事・出兵、新梓勢との戦闘を記す。七月二十五日には渋谷・蒲生勢が帖佐へ侵入し、東郷将監・白濱らが戦死した。
年月日未詳 / 冊子 16頁
弘治元年七月二十五日、渋谷・蒲生勢が帖佐へ侵入し、島津方が迎撃したが東郷勢が敗れ、東郷将監・白濱ら多数が戦死した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 48頁
弘治三年四月十五日に北村の菱刈陣を攻め崩し、菱刈・祁答院・真幸・東郷・蒲生方に多数の戦死者が出たこと、同月十九日に蒲生城が明け渡されたことを記す。
永禄十二年十二月廿八日~永禄十三年正月五日 / 冊子 222頁
川内方面を島津方へ入れるため、鎌田政年・宮原景種・猿渡大炊入道が密談し、東郷重尚を通じて入来院・祁答院を味方へ誘った経過を記す。永禄十二年十二月二十八日に訴願させ、翌永禄十三年正月五日の帰順につなげた。
永禄十二年十二月廿八日~永禄十三年正月五日 / 冊子 224頁
真幸・菱刈が征服され、相良氏も多くの兵を失って退いたため、渋谷一党は孤立を悟った。鎌田政年・宮原景種・猿渡大炊入道が東郷重尚を説得し、祁答院能重・入来院重豊も同心して忠節を申し入れた。永禄十二年十二月二十八日の訴願を受け、前科を許して各氏には居城だけを残し、その他の領地を差し出させた。
元亀元年正月五日 / 冊子 231頁
永禄十三年正月五日、新納伊勢守が隈城を受け取り、入来院氏が百次・平佐・高江・宮里・天辰・碇山を、東郷氏が水引・中郷・湯田・西方・高城を差し出した。清敷と東郷を両家に残し、宮里を平田狩野介、川向こうの諸地と山野城を義虎へ与えた。評定後、貴久は加世田へ、義久は鹿児島へ帰還した。
元亀元年正月五日 / 冊子 231頁
元亀元年正月五日、新納伊勢守が隈城を受け取り、入来院・東郷両氏が百次・平佐・高江・宮里・天辰・碇山・水引・中郷・湯田・西方・高城などを差し出した。清敷と東郷は両家に残し、高城・中郷・西方・京泊・川向こうと牛尿院山野を義虎へ与え、各地の給分・地頭職を定めた。貴久は加世田、義久は鹿児島へ戻った。
元亀元年正月 / 冊子 232頁
元亀元年、渋谷党が押領地を差し出して降参したため、義久が罪を許し領地を再編した。隈城を新納伊勢守に受け取らせ、入来院・東郷両氏には清敷・東郷を残した。宮里を平田狩野介、高城・水引・中郷・西方・京泊を義虎へ与え、家久を隈城地頭に任じた。
(天正二年)三月四日 / 冊子 337~338頁
島津義虎が鹿児島へ伺候できなかった事情を述べ、義久に敵意はなく、以前から神名に誓って忠節を約していると弁明する。出水・高城・水引・山野・東郷・中郷をめぐる風説を否定し、疑義があればまず照会してほしいと喜入季久に取り成しを頼み、詳しくは伊地知勘解由助へ口達したとする。
天正二年八月一日 / 冊子 342頁
天正二年八月一日、入来院重豊の使者村尾蔵人が祝詞と太刀を東郷氏に次いで献上しようとしたところ、島津家老衆が東郷・祁答院・入来院は同姓で序列に上下を付けるべきでなく、東郷氏の次は禰寝氏とすべきだとしたため、使者が承服せず帰った経緯を記す。
天正二年八月八日 / 冊子 342頁
入来院重豊の陰謀が露見したが、義久は直ちに討伐せず、先非を改め忠節を尽くせば赦免すると諭した。重豊は八月八日、家臣山口筑前守・東郷美作守を遣わして降伏と所領献上を申し出る。義久は所領を欲するのではなく旧領のままでは衆人の疑いが残るとして、所領替えと誓紙提出を求めた。
年月日未詳 / 冊子 598頁
袈裟菊丸らが宮之城へ籠城した際、義久が東郷藤兵衛尉重位へ密命を与え、船木口から宮之城近辺へ赴かせた経緯を記す。重位は野伏の兵を避けつつ鍋倉将監を呼び出し、義久の命を伝えた。 その後、籠城側へ義久と細川幽斎の誓紙が与えられたことを記し、武力衝突を避けて幼主常久の家を存続させる交渉の舞台裏を示す。
年月日未詳 / 冊子 559頁
慶長五年八月朔日の伏見城攻撃で、有馬藤七兵衛純房が戦死し、その従者・小者やともに討死した者を列挙する記事。善七・善六・白坂助六篤次・井尻甚六・福永助十郎・四本人兵衛忠次・東郷源四郎重信・和田仲蔵義音・松元市右衛門・小川平左衛門・牧喜助らの名と一部の戦死事情を記す。
年月日未詳 / 冊子 927頁
児玉筑後守伝は、慶長九年二月、慈眼公島津忠恒が東郷重位と東新丞に試合を命じ、重位が勝利したためその剣技を学んだと記す。重位の門弟東出実相も忠恒に知られて恩遇を受け、重位とともに親衛の臣となった。