豊臣秀吉朱印状抄
天正15年10月13日 / 冊子 355頁
前文書の「同」を受け、文言・月日付・御朱印はNo.381と同じで、八木千石を「こいてはりまのかミ」(小出播磨守)に与える朱印状抄。 島津義久への給付ではなく、同日に八木の知行が複数の給付先へ配分されたことを示す短い記録である。
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天正15年10月13日 / 冊子 355頁
前文書の「同」を受け、文言・月日付・御朱印はNo.381と同じで、八木千石を「こいてはりまのかミ」(小出播磨守)に与える朱印状抄。 島津義久への給付ではなく、同日に八木の知行が複数の給付先へ配分されたことを示す短い記録である。
元禄十二年九月二日 / 冊子 154–155頁/整理ID 540
綱貴が鳥居播磨守へ、愛寿丸を島津図書の養子、徳慈丸を禰寝丹波の跡目養子に命じたことへの祝いの言葉と心遣いを謝した書状。八朔祝儀として目録どおり進物し、豊松殿・熊次郎殿・御息女へも同様に進めたと述べる。
年月日未詳 / 冊子 164頁
恕翁公譜の記事として、今川播磨守が山東曽井に陣を構え、新納実久が島津方の軍勢を率いて対陣したが、上使の仲介で合戦を停止し、志布志で元久と対面して和議が成立し、双方が陣を解いたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 3頁
弘治元年正月、屋形様父子が吉田まで出陣したが、北村勢の偽計により味方が敗軍した。弟子丸播磨守が退かずに討死し、指宿丹後守・敷根源八兵衛らも戦死したことを記す。
(慶長八年)二月廿一日 / 冊子 884頁
河上助七久林が島津家久へ、書状を拝見した礼を述べる。家久の上京によって内府への申入れが速やかに整い、懇切な言葉を受けたことは播磨守にとって生前の本懐であり、改めて御礼を申し上げると伝えた。
寛永五年十二月十五日 / 冊子 75~76頁
島津久元・喜入忠続が、市来備前守への加増知行百石、鎌田播磨守の本高三百九十石、恵灯院五十石、月江院三十石、新納刑部太輔の大口方面の替地二百五十石余について支配を命じる連署書下。
十二月二日 / 冊子 147頁
入来院重次が入来院尾州の人々に、本名字の回復について祁答院播磨守を頼み、一書を得て本意を遂げたことへの謝意を述べた書状。源左衛門尉の一門となったことを老齢の身の満足とし、礼が遅れたことを詫びる。
(慶長八年)正月廿三日 / 冊子 879頁
小出秀政が義弘へ、白糸二十の贈物に礼を述べ、過年の軍功と無事の帰国が天下に知られていると称える。忠恒の上洛も首尾よく進むと見込み、小袖二領と綾二巻を贈った。
(慶長八年)三月廿七日 / 冊子 886-887頁
小出秀政が忠恒へ、家康の将軍就任と三月二十五日の参内、秀頼の成長を祝い、忠恒が来秋に再上洛すると聞いたことを喜ぶ。上方で用向きがあれば支援するとし、龍伯・惟新への伝言も頼んだ。
(慶長八年)九月十二日 / 冊子 909頁
小出秀政と片桐且元が連署し、忠恒が比志島国貞を通じて秀頼の婚礼祝いとして太刀・馬代銀・伽羅・豹皮を進上したことを披露し、遠路からの厚意を秀頼が喜んだと伝える。
(慶長八年)十月廿八日 / 冊子 915頁
小出秀政が島津忠恒へ、豊臣秀頼の祝言を祝うため比志島紀伊守が上洛したことを喜び、祝意を秀頼へ取り次ぐと伝える。徳川家康が十八日に関東へ下向したこと、当地に異変がないことを報じ、子息への銀子五枚の贈答にも謝意を述べる。
元禄十二年三月十九日 / 冊子 106頁/整理ID 375
綱貴が鳥居播磨守様人々へ、禰寝丹波(清雄傍注)が病気で養生のかいなく死去した件について、懇ろな知らせと心遣いを受けたことに謝意を述べる三月十九日付書状。
元禄十二年六月二日 / 冊子 124頁/整理ID 438
島津綱貴が鳥居播磨守方へ、将軍の健勝と相手の参勤御礼・勤仕を喜び、自身は無事で緩々と在国していること、この節の用事のため使者を遣わすことを伝えた書状。追而書では自身の賀に目録どおりの品を寄せられた心遣いを謝し、こちらからも祝いとして目録記載品を進める。
年月日未詳 / 冊子 2頁
蒲生北村の敵が帰順を装って島津軍を誘い出し、弘治元年正月二十二日に貴久・義久が吉田から出陣したところ伏兵に遭った。弟子丸播磨守・指宿丹後守以下十八人が戦死し、十九歳の歳久も負傷したと記す。
元亀三年五月四日 / 冊子 279~280頁
伊東方の大軍が加久藤を攻めた際、島津義弘が木崎原へ横撃して伊東文次郎・落合源左衛門らを破った戦いを記す。島津方は鎌田大炊助・野田越中坊・曽木播磨守らを失ったが、義弘自ら敵中へ斬り込み、古陣原・本知原の敵陣を次々に崩して小林方面まで追撃した。多数の戦死者を弔うため戦場に六地蔵を建てたことと、義弘の信心・武運を讃える。
十一月五日 / 冊子 814頁/整理ID 2730
別所播磨守が島津吉貴へ、薩摩領水引の者三人が前年長崎で悪事を働き、吉貴の指示に従って処罰された件についての書状を受けたと返答する。永井讃岐守は参府したため、今回の返書には連署しないと付記する。
年月日未詳 / 冊子 1~2頁
島津貴久が嫡男義久、弟忠将、子の歳久・家久を率いて北村を攻めた際、敵の伏兵に遭って歳久が負傷。翌日、北原氏の軍勢が溝辺に出たため大隅衆が迎撃し、鉄砲で敵六人を射殺、太刀で一人を討ち取った。
年月日未詳 / 冊子 2~3頁
弘治元年正月、範清・良重らが北村勢と謀って降参を装い、島津貴久・貴明を誘い出した。敗退時に貴明が危難に陥ると新納忠元が駆けつけ、敵を退けて無事に退却させ、感賞を受けたと記す。
年月日未詳 / 冊子 3頁
弘治元年正月、蒲生範清・祁答院良重らが北村勢に偽降させ、島津貴久父子を誘い出した。敗退時に新納忠元が御太刀を持って貴久に従い、さらに危急の世子を救うため殿軍を務めて奮戦し、感賞を受けたと記す。
年月日未詳 / 冊子 3~4頁
島津貴久勢が北村で北原氏の偽装退却と伏兵に遭い包囲される。指宿右馬允と竹若丸が殿を務めて戦死し、弟子丸らも討死する一方、北原忠辰が追撃勢を攻め、貴久は退却した。翌日、北原勢が加治木・溝辺へ進出すると大隅衆が迎撃し、敵およそ二十人を討ち取る・生け捕るなどしたが、味方の足軽にも戦死者が出た。
年月日未詳 / 冊子 95頁
永禄四年七月、肝付勢が島津方の陣を崩して総大将の島津忠将以下多数を討ち、廻城の守備を救ったことを記す。さらに飫肥方との和議交渉、人質交換、先宮城の一部引渡しなど日向方面の動向を続けて記録する。
永禄六年七月七日 / 冊子 124頁
島津家の重宝・文書類を列挙した目録。御幡、十文字立物、銀、兵書十六巻、鳳凰の羽、鎧・甲・太刀・鞍鐙、諸大名目録、神仏画像、論旨・御内書・足利尊氏判形などと、櫛間院給分坪付の関係者を記す。
寛永九年六月十六日 / 冊子 285~286頁
細川忠利が島津家久に、加藤忠広旧領への入国命令を受けて江戸を発つ予定、城の受取り・掃除・上使到着・国境警備等の手配を報じた。また加藤忠広が出羽庄内で酒井宮内大輔預け、その子豊後守が飛騨で金森出雲守預けとなったこと、幕府上使・目付衆の出立予定や肥後国内の引継ぎ要員を詳報した書状。
寛永九年六月廿一日 / 冊子 286頁
加藤忠広父子の改易・配謫と肥後引継ぎに関する覚書。加藤右馬頭の早打、忠広父子への処分申渡し、忠広の出羽庄内・豊後守の飛騨への移送、幕府上使・目付衆の江戸出立、熊本・八代等の城番や案内役の配置を列記し、細川忠利が署判して喜入摂津守・樺山美濃守へ送ったもの。
(寛永十年)四月四日 / 冊子 364~365頁
島津家久が仮名書きで、上方での近況、秘説の稽古、体調、帰国・上洛の見通し、複数の使者を介した伝言の行き違いなどについて述べ、近日中の暇と連絡を伝えた書状。
二月廿四日 / 冊子 103頁
出銀負担を一石につき三分から五分へ変更し翌月二十日までに集めるよう求め、人別日記を受領したこと、豊後からの捕虜を月末に集める際の責任者は一人でよいかを相談した書状。
年月日未詳 / 冊子 372~373頁
京都で将軍をはじめ本多上野守・山口勘兵衛尉・片桐市正・福島左衛門太夫らへ贈る馬・太刀・生紙・銀子・緞子・袷・生絹帷子などの品目と数量、馬代を受取人別に記した島津氏の進物注文。
元禄六年二月二日 / 冊子 888頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2401
島津吉貴が中城王子へ、御勝方と鳥居播磨守との婚礼が滞りなく整ったことについて、使者と目録品を贈られたことに謝意を述べた返書。
元禄六年二月二日 / 冊子 888頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2402
島津吉貴が琉球国司へ、御勝方と鳥居播磨守との婚礼が滞りなく整ったことについて、北谷按司を使者として目録品を贈られたことに謝意を述べた返書。
元禄十二年閏九月三日 / 冊子 162頁/整理ID 571
細井勝郷が松平薩摩守へ、芝の抱屋敷の町境を留守居へ申し聞かせ差図したことを承知したとの丁重な書面を受け、その趣旨を了承した書状。今後も用命を遠慮なく伝えてほしいとする。鳥居播磨守との縁で以前から出入り・見舞いを望んだが機会がなく、今回用を命じられたことを喜ぶ。
元禄十六年正月二十日 / 冊子 411頁/整理ID 1392
別所播磨守常治が松平薩摩守へ、十一日付書状を拝見し、将軍の機嫌と相手の健達を喜ぶ。石尾阿波守氏信が当地へ下着したため使者を遣わされたことを承知し、見舞いとして贈られた琉球八重山嶋産海鼠一箱に謝意を述べる。正月二十日付。
元禄十六年正月二十五日 / 冊子 412頁/整理ID 1397
鳥居播磨守忠救が薩摩中将へ、相手の勇健と在国を喜び、去年十一月十八日に田町屋敷と添屋敷が類焼した際に見舞いを申し上げたところ、丁寧な書面を受けたことに謝す。
元禄十六年十一月二十五日 / 冊子 447頁/整理ID 1533
鳥居播磨守忠救が松平薩摩守の取次へ、十八日の大火で芝屋敷が危険となり退避したが夜中に無事帰ったと伝え、自身の下屋敷も類焼したと述べる。二十二日夜の大地震については芝・高輪の屋敷に異変はなく安心するよう伝え、自身の屋敷は大破したが手が入り修復を始めたと知らせる。十八日・二十二日に先月とは記さない。
九月十八日 / 冊子 798–799頁/整理ID 2704
長崎奉行の別所播磨守・永井讃岐守が島津久明ら四名へ、屋久島の異国人を長崎へ移す手順を返答する。異国人は日本語・文字が通じないため、薩摩側の船で警固人を添えて送り、所持品と書付も引き渡すよう求める。
十月九日 / 冊子 807–809頁/整理ID 2717
駒木根肥後守・別所播磨守が十月九日、薩摩家老五名へ、屋久島異国人の発見・拘置の詳報に答える。八月十八・十九日の沖船と藤兵衛らとの接触、飲水要求、刀・金属器の一時返却と所持品確認、食事給付、囲内拘置と監視、他出や刃物への注意を報告内容に即して確認する。島内探索に不審物や船が見つからなかったことを承知し、今後の到来船や異変は知らせるよう求める。
十月九日 / 冊子 810頁/整理ID 2719
駒木根肥後守・別所播磨守が十月九日、薩摩家老五名へ、追啓を受けたと伝える。屋久島異国人の絵図のようなもの二枚と文字とも判別しがたいもの一枚を屋久島から送ったこと、さらに本人の口上の言葉を記した詳しい別紙書付を添えて送られ、それらが到来したことを知らせる。
十月廿五日 / 冊子 812頁/整理ID 2725
駒木根肥後守政方・別所播磨守常治が十月二十五日、薩摩守吉貴へ、六日付書状を受け、屋久島の異国人一人の発見を家来から承知したと答える。城下へ到着次第長崎へ送るよう指示した件は、既に今月六日井上河内守へ申し上げてあり、今後の取扱いは追って相談すると伝える。永井讃岐守は今月三日に参府したため連名から除いたと注記する。
十月廿七日 / 冊子 812–813頁/整理ID 2726
駒木根肥後守政方・別所播磨守常治が十月二十七日、薩摩家老五名へ、屋久島異国人に阿波国から漁猟に来た船頭市兵衛・水主六人、発見した藤兵衛と携行者らも同行させ長崎へ送るという報告を承知したと答える。異国人は悪風でまだ地方へ到着せず渡海が遅延しているが、着船次第早速送るという連絡を受領したと伝える。
十月廿九日 / 冊子 813–814頁/整理ID 2729
駒木根肥後守・別所播磨守が十月二十九日、薩摩家老五名へ、二十日付連状を受けたと伝える。異国人が警固付きで十九日坊津へ無事到着し、百姓藤兵衛・携行者と阿波国漁人も同じく着津したこと、追って長崎へ送ることを承知したと答える。
十一月九日 / 冊子 815頁/整理ID 2732
駒木根肥後守・別所播磨守が島津大藏ら五名へ、相良權大夫が屋久島から差し越した異国人一人と所持品・警固人が長崎へ無事到着したと伝える。異国人と所持品を別条なく請け取った旨を相良にも申し付け、五名へ報告する。
十一月二十九日 / 冊子 816–817頁/整理ID 2737
駒木根肥後守・別所播磨守が十一月二十九日、薩摩家老五名へ、屋久島異国人を見つけた百姓藤兵衛・携行者と阿波国船頭市兵衛・水主らが、別紙名書のとおり五代助大夫の警固で無事到着したと伝える。吟味に疑義がなく拘束の必要もないため全員を差し返したと知らせ、詳細は助大夫へ伝えたとする。
十二月三日 / 冊子 817頁/整理ID 2738
駒木根肥後守・別所播磨守が島津大藏ら五名へ、十一月二十六日付の返書を受けたと答える。屋久島から来た異国人一人と所持品を十一月九日に相良權大夫から別条なく請け取り、その旨を相良にも伝えたと再確認する。
十二月七日 / 冊子 817頁/整理ID 2739
駒木根肥後守・別所播磨守が十二月七日、薩摩家老五名へ、百姓藤兵衛・携行者と阿波国船頭市兵衛・水主らを吟味したところ疑義がなく全員に暇を与えたと知らせる。五代助大夫を召し出して伝え、昨日帰った旨を承知したと述べ、江戸の薩摩守吉貴へ詳細を知らせるよう依頼する。昨日を一行全員への帰郷命令の日付としない。
十二月十八日 / 冊子 817–818頁/整理ID 2740
駒木根肥後守・別所播磨守が十二月十八日、薩摩家老五名へ、屋久島異国人発見者の藤兵衛・携行者と阿波国船頭市兵衛・水主らを吟味して疑義がなく全員差し返し、五代助大夫に詳細を伝えた件について、薩摩側の承知した書状を受領したと答える。
正月廿九日(包紙に年なし) / 冊子 51頁/原整理番号 161/整理ID 161
大田播磨守の役替えにより、跡の御目付御用を松平庄九郎に依頼したところ、引き受ける旨の返答が来たので、此面に伝えるよう山城が指示した。また、大田三郎兵衛が播磨守へ改名したことを知らせる。仁礼仲右衛門が、右のとおり申し渡されたので通達すると正月廿九日付で記す。仁礼には勘定奉行・仲古の注、大田には正房、松平庄九郎には忠郷の人物注がある。包紙は年記なしで、山城から仁礼仲右衛門へ取次を通じて渡された書付一通と記す。白木御文書五番箱中の写。
元禄十七年三月十日 / 冊子 469頁/整理ID 1626
島津綱貴が別所播磨守常治へ、家来の野村源助を当地の用件を承るため派遣したので、万事適切に指図してほしいと依頼した書状。
元禄十七年三月十日 / 冊子 469–470頁/整理ID 1629
島津綱貴が別所播磨守常治へ、将軍の健勝を喜び、自身が参勤のため当日国元を発って九州筋を通ると知らせた書状。琉球太平布十疋を贈る。
元禄十七年四月十二日 / 冊子 478頁/整理ID 1662
綱貴公御譜中に、於榮殿がにわかに病気となり、さまざまに養生してもかなわず、去る七日に死去したと知らせ、相手の悲しみを推察する四月十二日付の鳥居播磨守宛書状を載せる。
十一月二十六日 / 冊子 816頁/整理ID 2735
種子島久時ら五名が駒木根肥後守・別所播磨守へ、屋久島から送った異国人一人と所持品が十一月九日に長崎で無事受領されたとの知らせに答える。相良權大夫が奉行から指示を受けたことも承知し、その内容を江戸の薩摩守へ申し伝えると述べる。
元禄十三年五月二十九日 / 冊子 217頁/整理ID 745
鳥居忠救が松平修理大夫へ、旅行中の健勝と去る六日の大坂到着を聞いて喜んだ書状。自身の領内を通った際、途中へ使者を遣わした件につき丁寧に取り上げられたことに謝す。