蔵人頭清閑寺家俊奉口宣案
応永十九年十一月十二日 / 冊子 267頁
蔵人頭左中弁藤原家俊が奉じ、源忠秀を左衛門少尉に任ずる旨を伝えた口宣案。上卿は花山院大納言。
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応永十九年十一月十二日 / 冊子 267頁
蔵人頭左中弁藤原家俊が奉じ、源忠秀を左衛門少尉に任ずる旨を伝えた口宣案。上卿は花山院大納言。
年月日未詳 / 冊子 267頁
越前島津氏譜中に、島津忠秀を十一代とし、三郎左衛門尉・周防守の官途を記した系譜断片。原目録の分類に従い文書として保持する。
天正八年夏 / 冊子 654頁
若年から新納忠元に従って各地で軍功を挙げた新納忠秀が、天正八年夏の肥後国葦北郡宝川内城攻めに先立ち、何度も現地へ忍び入って地勢を偵察し、詳しく報告した。攻略後も諸戦で敵首を得て、その中に合志玄宅がいたと記す。
年月日未詳 / 冊子 320頁
豊後から退陣し、肥後の関城を経て八代へ向かう途中、豊臣方の軍勢が近くまで迫った際の新納忠秀の動きを記す短い譜記事。追撃を受ける撤退路での忠秀の対応を伝えるが、本文量が少なく細部は限定的である。
年月日未詳 / 冊子 62頁
桂氏部少輔忠秀の系譜と名乗りを示し、島津義弘への奉公、知行、没年・年齢などを記した系図記事。
年月日未詳 / 冊子 434頁
長禄三年七月三日の日向三俣小山での合戦について、島津忠国が和田・高木勢を討った際、新納忠臣・大崎忠秀・大島有久らが戦死したことを記す『殉国名藪』の記事。
天正五年十二月三日 / 冊子 524頁
天正五年十二月、日向山東がことごとく島津領となり、義久が大隅正八幡宮へ参詣したことを記す。福永丹波守が内通を申し出た際、新納忠秀入道慶雲が高原から野尻城へ急行したことも載せる。
天正五年十一月五日 / 冊子 524頁
福永丹波守の内通申出を受け、高原から野尻城へ馳せ籠もった従軍者として、新納四郎左衛門忠秀入道慶雲らを記す交名。
「寛永二十年」六月廿六日 / 冊子 242頁
新納忠清が、江戸から帰国した新納忠秀への賀使が出されていないことをたしなめた書状。忠秀が鹿児島へ帰着して日が経つのに、任地の衆中から慣例の見舞い・祝賀使がないのは面目を失うとし、刑部が無事帰国したことにも触れつつ、衆中から一人の使者を立てるよう求める。あわせて係争がまもなく解決する見込みを伝えている。
七月廿七日 / 冊子 172頁
北条泰時が豊後四郎左衛門尉に、薩摩国御家人の揖宿平四郎忠秀と頴娃平太との間で争われた開門神領の件について、豊後三郎左衛門尉とともに双方を召して裁決し、その結果を申告するよう命じた書状。
年月日未詳 / 冊子 533頁
島津氏二代忠時の子忠綱を祖として、忠秀・忠大らの官途と子孫を記した宇宿氏系図抄。
七月廿七日 / 冊子 538頁
薩摩国御家人指宿平四郎忠秀と頴娃平太忠継が争う開聞神領について、双方を召して裁決し、事情を注進するよう命じた北条泰時書状。
年月日未詳 / 冊子 600~603頁
新納実久の庶長子久吉を祖とする大崎流の系図。久吉が父命で大崎城へ入ったこと、忠秀の三俣小山戦死、志布志落城後の北郷氏臣従、久綱の朝鮮渡海中の戦死などを記す。
年月日未詳 / 冊子 776頁
吉満忠興流の系図。久景が滝ケ水で逆風に遭い溺死したこと、忠秀以下の家系、溝辺士竹之下氏や横川士森山氏から経資らを養子に迎えた経緯を記す。
永禄九年二月吉日 / 冊子 144~145頁
大隅国帖佐郷で田中越中守に付与する田地を列挙した島津氏老臣の連署坪付。餅田名・堀町・税所内上門・深見名内門などに所在する各筆について、地名、門名、面積や位置を具体的に記す。
(記事) / 冊子 172頁
頴娃忠永を祖として、その子孫の諸流を示した系図。忠方・忠光らの系統と、頴娃本地頭・指宿本地頭・指宿郡司などの称号・職名、太郎・平四郎・郡司小次郎・彦鶴丸などの通称を系線で結び、頴娃氏の一流と指宿地域の所職との関係を示す。
年月日未詳 / 冊子 606~608頁
新納忠泰の四男孝時を祖とする支流系図。市来城退去後に日新公から日置九十町を提示されても二君に仕えるのは士道に反すると辞退した忠苗の逸話、清水・馬越での戦死、忠成以下の生没年・母方・養子関係を記す。
天正八年五月十三日~十一月 / 冊子 656~657頁
天正八年の肥後進出に際し、事前偵察、宝川内城攻め、熊本番手、矢崎城攻め、合志方面出陣に参加して軍功を挙げた者を日付・戦場別に列挙する交名。鎌田政年ら足軽三百余の派遣、新納忠秀らの偵察、忠元・忠尭らの攻略、佐多久政・伊集院久治らの合志戦を記す。
正保二年十月~十二月 / 冊子 28~29頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0041
島津光久が北郷久加を物奉行として諸役を総督させ、新納忠秀らに郡郷横目の配置・巡察を行わせた記事。十月十五日の措置と十二月の横目任命を記す。
正保三年四月二十六日 / 冊子 41頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0071
加久藤噯所案文。伊地知・川野・西田・白坂の四人が新納刑部へ、菱刈衆が加州様の奉行で出水の大狩に召し集められ、前朝大口を出立したと聞いたが、地元では事情が不明だと伝える。地境の件なので様子を知らせ、地元衆も参加する場合は事前に注進してほしいと頼み、留主不在時の準備を案じる。追而書では商買に行く者一人を送り、新しい情報は次の飛脚で知らせるという。
文暦二年八月廿八日 / 冊子 169頁
揖宿郡司職・薩摩国福富名田畠等をめぐる島津忠秀と忠綱方の相論について、父忠成の譲状、忠綱・忠成の主張、年貢勤仕の実績を審理し、忠秀の領掌を認めた関東下知状。
年月日未詳 / 冊子 925頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2502
求馬久房譜中に、元禄八年二月三日、久房が郭内岩崎へ移居し、綱貴が阿多嘉左衛門忠秀を介して鴈一羽と御樽代二百疋を与えて祝ったと記す。
年月日未詳 / 冊子 161頁/原整理番号 284-1
伊地知季安の記事。この日、伊地知重政が新納二郎四郎忠秀・大口地頭宮原壱岐守景之・高尾野地頭仁礼左近将監景頼・須木地頭村尾源左衛門重候を有馬の陣屋で饗応した。季安は、新納忠秀が大口地頭新納加賀守忠清の嫡男で、重政の婿養子・伊地知主膳重頼の実兄であるため饗応したのだろうと考証する。
建久3年 / 冊子 175~176頁/原整理番号 55
鮫島宗家流の系図。工藤四郎家光の子・宗家(鮫島四郎)が駿河国鮫島郷を領し、源頼朝に属して石橋山合戦で功を挙げ、建久三年に薩州阿多地頭職を与えられたことを起点とする。宗家・長家と女子・山門郡司秀忠の婚姻関係を図示し、その系譜説には宗家と秀忠が同時代人であることから誤りであろうとの考証注を付す。二代家高は刑部允・入道行願、三代家景(景家とも)は弥二郎で、妻を山門郡司忠秀の女とする。兼家の九代孫宗喬は日新公に仕え、彦次郎・入道蓮道は貞久公に仕えて加世田・知覧・指宿を領した。蓮性は師久公に仕え、民部忠宗は伊作家のため阿多へ落ち久豊公に仕えたと記す。後半は宗吉―宗満、宗遊―宗秀(実は弟)、宗秋―宗昌の系線を掲げ、宗秋を日新公に仕えた備後守・泊地頭、宗昌を『人物志』所載とする。
7月27日(年未詳) / 冊子 452頁/原整理番号 14-1
北条泰時が豊後四郎左衛門尉へ、薩摩国御家人・指宿平四郎忠秀と頴娃平太忠継が争っている開門神領について、豊後三郎左衛門尉と共同で両当事者を召して裁決し、双方の主張と処置を注進するよう命じた七月二十七日付書状。本文後には指宿氏系譜を続け、忠成が郡司・小次郎を称し、法名を了心としたことを記す。
文暦2年8月28日(1235) / 冊子 452~453頁/原整理番号 14-2
鎌倉幕府が、指宿平四郎忠秀とその親類・所従らの殺害事件および遺領争いを審理し、忠秀の弟・小次郎忠成と養子・平次郎重秀に、指宿郡司職、蕨野、九所大明神宮、秋富名の田畠・名主職等を各半分ずつ領知させた文暦二年八月二十八日付関東下知状。指宿郡地頭・豊後四郎左衛門尉忠綱は、殺害は自分の下知ではなく、下手人を六波羅へ差し出すか斬首したと弁明したが、忠綱が忠秀らの名田畠を取り上げて代官高四郎行重の子へ宛行ったとの申状が提出され、幕府は忠綱の陳詞を矯飾として所職を改補した。忠成は忠秀への奉公を理由に遺職を求め、重秀は養父忠秀の譲状を根拠に単独領有を主張したが、譲状の事情が不明で忠成の訴えも棄却できないとして二人へ折半し、忠秀の先例どおり地頭の所務に従うよう命じる。北条泰時・時房が連署し、本文後には忠連(初宗忠・郡司又次郎・法名賢成)の系線を続ける。
正保二年五月廿七日 / 冊子 453~454頁/原整理番号 566
町人千介が求麻で聞いた、長崎にキリシタン宗の者が一町いて人々が離散したとの風説について、窪田新兵衛の話とは少し違うと断りながら新納刑部忠秀へ報告する。求麻・求広からも飛脚を長崎へ遣わして実否を確かめるといい、境目の事なので続報するとする。本文は正保二年五月五日付だが、目録年月日は正保二年五月二十七日である。
年月日未詳 / 冊子 454頁/原整理番号 567
殿の下向について田舎では確かな情報がなく、伊地知杢右衛門尉重政の四月二十六日付書状以後も続報がないと報告する。異国船の雑説も確証がなく、求麻へ一人を遣わして聞き取ったが新情報はない一方、行先不明ながら鉄砲衆三百人を召し置き玉薬を調え、大畑町にも鉄砲衆二人ずつを置いたとの情報を伝える。本文は正保二年五月二十七日付で新納刑部忠秀宛だが、目録年月日は空欄である。
慶安三年春~五月八日 / 冊子 167~168頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0312
新納忠秀が琉球国で奉行を務めていた際、病客を殺害した事件をめぐり、関係者の取調べと処罰が行われ、忠秀もその責任を負って死に至った経過を記す記事。
慶安三年五月八日 / 冊子 169頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0317
慶安三年五月八日、新納刑部大輔忠秀に殉死した田代諸右衛門、源兵衛、西田亀右衛門を挙げる。田代は大口衆、源兵衛は忠秀の小者、亀右衛門は家臣で同じく殉死した旨の注が付く。
(寛永9年)7月12日 / 冊子 16~17頁/原整理番号 17
新納忠清が、肥後・球磨の情勢を油断なく聞き合わせて報告するよう有村隼人佐へ命じる。肥後では百石までの馬乗が上洛するとの風聞があるため宮原景之・新納忠秀にも伝えるよう求め、他言を禁じて即時焼却を指示する密書である。
平安末~近世の記事(承久兵乱・寛元4年12月4日等) / 冊子 445~452頁/原整理番号 14
桓武天皇・葛原親王・高望王から国香・貞盛らを経て指宿氏へ至る平姓の長大系図。良時(伊佐平次)が武蔵国から薩摩へ下向し、阿多郡領を与えられた由緒を記し、三浦平大夫為通、鎌倉・三浦諸流との系譜を介して薩摩の諸家へ展開する。各系線には鎮守府将軍、伊予守・駿河守・隠岐守などの官途とともに、指宿本地頭、頴娃本地頭、薩摩郡本地頭、河辺本地頭、谷山郡司、水方名主、祁答院郡司等の職名を付す。承久の兵乱で京方に属したため河辺を没収された久道、兵乱時に戦死した者、市来や和泉で討死した者、鎌倉より薩摩守富澄討伐に下向して戦死した者など、中世の軍歴・所領喪失を系譜に織り込む。指宿・頴娃・薩摩郡・河辺・谷山・加治木・肥後菊池・阿多等へ枝分かれした多数の子孫について、通称・地頭職・郡司職・養子・婚姻・戦死を記し、近世の指宿郡司忠秀、加治木新六實平妻らまで系線を延ばす。
天文3年4月3日(系中の久礼橋討死記事) / 冊子 528~529頁/原整理番号 28
惟宗氏の宗大納言・紀中納言から忠方(若狭守)・知国へ続き、友兼・国光(筑前介)・成光(山城介)・国広(筑前介)の諸流へ分かれる執印家の古系図。国広系は忠友(民部大夫)―忠康(橋口右衛門尉)―忠久(豊後守)―忠時(大隅前司)へ続き、忠広(上総前司)・忠秀(兵衛尉)も掲げる。友兼系からは友広・友家・友久・康弘・康郷・重兼・友成・師久・光久らを出し、国分家元祖や佐包・新田宮執印などの注記を伴う。別に忠継―忠実、小嶋右衛門入道、久時―宗忠―貞久―宗久―氏久―元久―久豊―忠国―立久―武久―忠昌へ至る系線、重友(宮内允)から友郷・友雄・友弟・友令・康令・康秀・康貴らへ続く系統、政家・友氏から友繁・友豊・友俊・友孝へ分かれる市来・国分系の関係を図示する。末尾には興国寺殿玄鑑が天文3年4月3日に久礼橋で29歳にて討死した記事や、政家を市来政家とし、執印家が惟宗姓を名乗る由緒を記す。
年月日未詳 / 冊子 352頁/原整理番号 54
貴久の代の宴席で忠元を居頭とした役配を記す書上。嗣の又八郎、初献の八郎四郎忠秀、二献の藤四郎忠明、三献の次郎五郎、相伴の民部左衛門尉を列挙し、それぞれの父子関係や後の官途を注記する。
正保三年四月二十七日 / 冊子 42頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0073
加久藤噯所案文。二人が飯野御噯衆中へ、江戸で今月七日に犬追物が行われ、無事だったとの消息を伝える。別件として、出水の大狩に伴い加州様が菱刈の人数を召し集めて前日に出立し、伊主膳正も大口に逗留しているという。様子が不明なため鹿児島の新納刑部へ内証の飛脚を出し、その帰還は明日か明後日の見込みで、新情報があれば後で注進すると述べる。
年月日未詳 / 冊子 161頁/原整理番号 284-2
伊地知杢右衛門付衆・小原織部の取払留。二月二十一日の振舞として、新納二郎四郎・三原大蔵介・宮原壱岐守・仁礼左近将監・村尾源左衛門の五人へ白米二升五合を用意した。買物方には糸六尋の代、小さな縫物のため与右衛門へ渡した金員、わらび・牛蒡・鮑・豆腐・魚・九年母・酒などの代価を記す。
系図全体は無年次(天正7年の飫肥移住・同14年7月27日の戦死を記載) / 冊子 598~599頁/原整理番号 102
加世田士前田茂右衛門家の系図。祖先の前田兵部左衛門尉兼政が加世田に住み、天正七年に日州飫肥へ召し移され、同十四年七月二十七日に飫肥で戦死したと伝える。家伝では三代前まで肝付を称したが、家が盛んでなかったため前田を名乗ったといい、兼政の弟兼定は谷山へ移り、弟兼長は加世田に住んだと分けて記す。後続の兼昌・兼逸・兼通・兼明・兼治らの系線には、日向から母と姉妹が加世田へ移った話、幼くして知行を受けた記事、宮原・若松・河野・相徳武などへの女子の婚姻と早世も添える。
正月廿日 / 冊子 333頁/原整理番号 13
家蔵の覚として、新納武蔵・加賀・次郎右衛門・弥兵衛らの誕生日、幼名、元服後の名を列記する。安萬・熊千代・市二郎・市三郎などの幼名と、次郎四郎や主膳などの元服名を記す。
文書日付:永和三年十月廿八日 日付留保:日付字面は永和三年十月廿八日を保持。年号前記号・年数細画・正文年紀と補注の区分は未確定。 / 冊子 254~256頁/原整理番号 三一四/整理ID TMP-P02-NENE2-D0314
将軍家御方として同心し忠節を尽くす。島津伊久・氏久の降参が治定した場合、今後の両人退治には改めて公方御意を請うとする。 両人が御方に参っていても、一揆人の知行への競望・合戦時には、公方御意を待たず現地に馳せて防戦する。 所領相論などは合議し、多分の議と理運によって扱う。契約違背者への対応と、本領再住・恩地入部に公方御意・衆議を要することを定める。 「一揆衆中お憑楚忽沙汰候時者」には合力しないとし、公方への訴訟は理運により共同で申し立てる。違反には神罰を受けると誓う。
本文日付:暦應四年後四月 日 / 冊子 319頁/原整理番号 四六〇/整理ID TMP-P02-NENE4-D0460
重種が薩摩国の凶徒対治の発向に先駆けて参じ、前年八月の伊集院一宇治城・市来城等の軍忠を記す。 島津三郎左衛門尉師忠に属し、十二月十二日の東福寺城、去月十六日・廿八日および今月一日・十六日の合戦を列記する。 十二月六日の夜戦で敵に大刀打を加え、重種自身が疵を受けたと申告する。 前年八月から今月までの軍忠につき一見状を求め、後証に備える旨を述べる。
本文日付:暦應四年後四月 日 / 冊子 319~320頁/原整理番号 四六一/整理ID TMP-P02-NENE4-D0461
清増が薩摩国の凶徒対治に先駆けて参じ、前年八月の伊集院一宇治城・市来城等で軍忠を致したと申告する。 島津三郎左衛門尉師忠に属し、十二月十二日の東福寺城、四月十六日・廿八日、今月一日・十六日の合戦を列記する。 前年八月から今月まで各所で軍忠を致したとして、一見状を求めて後証に備える。
建保五年五月廿九日 / 冊子 326頁/原整理番号 82
正六位上平秀忠が嶋津左衛門尉への志を述べ、名簿を奉進する建保五年五月二十九日付の文書。末尾に平秀忠の署判を伴い、主従関係の成立を示す。
正和元年九月日 / 冊子 436頁
将軍家御祈祷所大隅国臺明寺雑掌が、同国税所介篤胤代忠秀を訴えた申状。被棄置濫訴活田物由事について、先進の一通押書状を提出し、忠秀を訴人として参決させるよう求める。
(寛永十五年)正月十四日 / 冊子 733頁
新納次郎四郎を急使として島原へ派遣したことを知らせ、今回の軍勢と現地での飯米支給について申し送る。前段には新納忠秀が島原出陣に従ったことを記す系譜記事が付される。
年月日未詳 / 冊子 779頁
島津道鑑が弟の島津師久らに命じ、肝付兼重・中村弾正忠秀純らの拠る東福寺城・濱崎城を攻め、両城を陥落させた経過を記す。熊野水軍の来襲、海陸での激戦、渋谷氏・河西氏らの戦功も掲げる和泉実忠譜の記事。
永禄十年 / 冊子 166頁
藤野正円の出生と経歴を記す系図記事。永禄十年に日向国広原で生まれ、大乗院住持盛秀僧正の弟子として出家した後、龍伯義久の命で還俗して久右衛門尉を称し、藤野・忠恒・忠秀・秀久などの名を用いたことを載せる。
年月日未詳 / 冊子 768~771頁
島津忠国の四男勝久を祖とする桂氏系図。忠利が永禄二年に桂を称したこと、忠防の高山病死と家臣吉冨大蔵の殉死、忠次が父と朝鮮へ渡り帰朝時に明船との海戦で戦死したこと、忠秀が島津義弘の小姓として朝鮮へ従軍したことを記す。