桂忠次譜
年月日未詳 / 冊子 282~283頁
『桂忠次譜』の記事。桂兵吉忠次が父忠防とともに朝鮮へ渡り、慶長三年の帰朝準備中、海路を遮る明の艨艟と戦って二十一歳で戦死したとする。法号を傑心良英とし、家臣の深川加賀・海老原市十郎も同時に戦死したことを記す。
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年月日未詳 / 冊子 282~283頁
『桂忠次譜』の記事。桂兵吉忠次が父忠防とともに朝鮮へ渡り、慶長三年の帰朝準備中、海路を遮る明の艨艟と戦って二十一歳で戦死したとする。法号を傑心良英とし、家臣の深川加賀・海老原市十郎も同時に戦死したことを記す。
慶長十一年七月廿三日 / 冊子 84~85頁
伊奈忠次ら三名が、下総国佐倉より東の地域における銭の取引について、従来どおり銭や割銭を選別して用いるよう命じ、違反者を厳罰に処すと定めた連署掟書。
年月日未詳 / 冊子 698頁
大島忠明の子忠次が十六歳で戦死したことや、菱刈方との戦いで敵を討ち、忠次の首を取り返した家臣の働きを記す。
年月日未詳 / 冊子 709頁
大島忠福・忠明父子と次郎四郎忠次らの系譜、忠次が大口城で捕らえられた後の経緯や子孫関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 751頁
天文六年、伊集院又七郎忠次らが城攻めで戦死した記事をはじめ、松崎蔵之助、北郷氏家臣、向井友茂、平田宗清らの戦死を月日順に記す。
年月日未詳 / 冊子 89~90頁
島津貴久の命で島津忠将の家老となった町田忠林が、永禄四年七月十二日に廻の竹原山で戦死したことを記す。二男の軍四郎忠次も十九歳で父とともに戦死し、両人の法名を載せる。
天正四年八月十九日・十月朔日 / 冊子 489~490頁
高原城合戦で天正四年八月十九日に戦死した三原重房・入佐郷久震・野村良綱・四本半忠次・宮原越中守らを列記する。続いて十月朔日の南郷合戦で戦死した新納忠氏・忠盈、安楽兼治・兼清らも収める。
年月日未詳 / 冊子 671~674頁
樺山氏二代音久の二男興久を祖とする庶流系図。穆佐高城で伊東氏と戦い父子・被官が戦死したこと、忠次の山東戦死、出家後に還俗して家を継いだ資春、久清の小浜城戦死、久明・久宗以下の分流を記す。
年月日未詳 / 冊子 755頁
島津忠明の子忠次の後嗣忠泰を祖とする大島氏系図。大口内の大島を領して大島を称し、断絶した忠次家を妹の子忠泰が継いだこと、馬越・山野地頭、肥後・豊後征伐と朝鮮出兵、忠盈による再興を記す。
年月日未詳 / 冊子 768~771頁
島津忠国の四男勝久を祖とする桂氏系図。忠利が永禄二年に桂を称したこと、忠防の高山病死と家臣吉冨大蔵の殉死、忠次が父と朝鮮へ渡り帰朝時に明船との海戦で戦死したこと、忠秀が島津義弘の小姓として朝鮮へ従軍したことを記す。
文政5年10月11日事前連絡/10月13日観遊記録(一件の年による) / 冊子 627~628頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0115
No.1875一件の附書二。十月十一日に御小人目付春日井忠次郎から留守居へ、服紗包持・杖持を別に召し連れてよいこと、曇天時の傘、替草履の受渡しについて連絡した記録に続く。十三日は朝六時に供を揃え、羽織で広敷玄関から出宅し、坂下・冠木門で下乗する。御徒目付一人・御小人目付二人が先立ち、城内の供は刀番三人・留守居一人とし、他は戻す。紅葉山下門番所で休息後、矢来門で籠から上がり、須田與左衛門の出迎え、吹上奉行の案内、小納戸頭取中野・鳥居や御医師らの迎接を受ける。花段・馬見所から見物し、瀧見の茶屋で料理と「おるて」の品々を拝領する。広芝で鷹が鷺を捕らえ、献上したところ直に拝領したと記す。鷹に関する雑司ヶ谷以下の語句は分節を留保する。その後も見物し、御構茶屋で拝領物、吸物・鉢肴・さし味、後段、夜食を受ける。小納戸頭取に礼を述べ、暮時に半蔵口を出て、門外から提灯を用い夜五時に帰宅する。刀番の控所は半蔵門番所と吹上役所、惣供は半蔵門枡形の幕内。退出途中には留守居使者を水野出羽守へ遣わし、見物・料理・拝領・鷹羽合への謝意を伝え、御礼は別に御勝手向へ勤めるとする。末尾は道順・飾付・献立・拝領物等の書付の写しへ続くと記す。
年月日未詳 / 冊子 559頁
慶長五年八月朔日の伏見城攻撃で、有馬藤七兵衛純房が戦死し、その従者・小者やともに討死した者を列挙する記事。善七・善六・白坂助六篤次・井尻甚六・福永助十郎・四本人兵衛忠次・東郷源四郎重信・和田仲蔵義音・松元市右衛門・小川平左衛門・牧喜助らの名と一部の戦死事情を記す。
年月日未詳 / 冊子 167頁
島津朝久を祖とする豊州家の系譜を示し、久賀・忠次・藤次郎・久守・久邦・久元らの続柄を図示する。注記では、書状中の藤次郎を久賀の長男とする。
年月日未詳 / 冊子 300頁
応永二十四年九月十一日の松尾城・鹿児島方面の戦闘で死亡・負傷した家臣を列挙する記事。山本孫五郎らの戦死、和泉氏・蒲生氏・田代氏らの討死・負傷と、従軍者の人数を記す。
年月日未詳 / 冊子 91頁
永禄四年五月から七月十二日にかけての廻・竹原山合戦における島津忠将以下の戦死者を列挙する。町田氏・川上氏・酒勾氏などの武士に加え、中間・従者・人足まで多数の名を伝える。
十二月十八日 / 冊子 145頁
島津久雄が下野守へ、将軍徳川家光が諸大名家の元祖を尋ねた際に薩州家から差し出した系図・文書の写しを受領したことへの謝意を述べた書状。拝領した系図を秘蔵し、子孫へ代々譲り渡す意向を示し、宇宿傳左衛門らの尽力にも礼を述べている。幼少のため萬寿丸忠次の印判を用いたとの注記がある。
延享二年十一月十五日 / 冊子 844頁/整理ID 2252
家重の将軍宣下後、上使の三浦志摩守忠次が継豊のもとに到来して賜物を伝えた。病中の継豊に代わる受取や、吉貴・宗信にも及ぶ品の授与が記される。継豊は返礼の使者を出し、賜物への謝意を述べさせた。
延享二年十二月十五日 / 冊子 877頁/整理ID 2350
徳川家重の将軍宣下を祝う賀儀に際し、上使の三浦志摩守忠次が継豊と宗信へそれぞれ巻物を下賜し、吉貴にも巻物十箇を下賜した。吉貴は比志島孫左衛門国泰を使者として謝礼の書状を呈し、執政所へ奉書を出した。その後に関連書状が続くことを記す記事。
延享二年乙丑十一月十五日 / 冊子 880~881頁/整理ID 2361
将軍宣下の賀儀に際し、上使三浦志摩守忠次が来て、継豊・吉貴・宗信らへ巻物が下賜されたことを記す。宗信は家老を使者として謝意を表し、執政所へ奉書を差し出した。続く三通の書状は、宗信の謝礼に対する返書として収められる。原文の日付は「延享二年乙丑十一月十五日」。
「寛永十八年」十二月十八日 / 冊子 177(本文省略、注記はNo.275、実質参照先No.175=145)頁
本文注記は「No.275の文書と同文のため省略」とするが、No.275は寛永十九年八月十三日付の南蛮人捕獲・尋問に関する島津久通外二名連署書状であり、本書状とは一致しない。標題・日付・発給者が一致する実質的な参照先はNo.175である。No.175の本文によれば、島津久雄が下野守へ、将軍徳川家光の命により薩州家から提出された系図・由緒文書の写しを受領したことへの謝意を述べ、拝領した系図を秘蔵して子孫へ相伝する意向と、宇宿傳左衛門らへの礼を伝えた書状である。
安永八年(本文今茲・目録)、八月十三日起工・十月二十六日竣工 / 冊子 587頁/原整理番号 1652/整理ID 1652
重豪公御譜中の記事。今茲有司に命じて明時館を創建したとし、その来歴として、鎌倉の源頼朝が太祖得佛公、島津忠久を薩隅日三州の守護とした際、頒朔授時の令が国へ届かず農桑が時候を失うことがあったため、暦官を特に賜り、歳暦を自作して境内へ頒つことを許された、その術は宣明暦法を伝えたと述べる。四百余年後、常憲廟の時に渋川春海へ改暦を命じ、貞享元年に貞享暦が完成すると、七代の祖寛陽公、島津光久は暦官本田市右衛門親貞を遣わしてその法を受けさせた。延享四年に江府が暦正渋川氏、六蔵と、西川氏、忠次郎に改暦を命じ、薩摩から暦官を助員として召したため、慈徳公、島津宗信は本田武兵衛親茂、親貞との注と、磯永孫四郎周英を遣わしたという。三年を経た寛延二年に親茂は鹿児島へ帰ることを請い、周英が独り二氏の助員として数年残り、宝暦四年に新暦が完成して宝暦暦と名づけられたとする。さらに明和二年、江府が暦正佐佐木氏、文次郎に暦の修訂を命じ、宝暦の例によって暦官を召したので、重豪は水間喜八良實を遣わし、佐佐木氏の助員となって八年で帰った。県官は帰国後も良實に毎年計算した気朔・交食・日躔・月離・五星・四餘等を提出させたと述べる。藩の暦官は六百年にわたり置かれ、当日まで国の私用だけに従事したものではないとするが、なお官署を設けておらず、各家で仕事をし、推歩測候の器具にも備わらないものがあった。重豪は良實に簡天儀・測午表・子午針・望遠鏡等を作らせ、旧有の渾天儀・樞星鏡・正方案とともに付した。城南に地を選んで治暦の館を建て、秋八月十三日に始め、冬十月二十六日に完成させ、良實に管領させ、明時館と名づけたと結ぶ。先祖の授職・暦官の賜与や六百年という期間は当記事の歴史叙述として示し、現代の確定史実へ置き換えない。
寛政3年5月16日(書付。包紙注は亥11月8日) / 冊子 27~28頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0087
桑山甚助が、長谷川丹後守組の同心佐野善次郎の養女嘉代の実父母・素性を内々に問い合わせた結果を報告する書付。初めは手寄を通じても判然としなかったが、善次郎本人の説明が得られたとする。善次郎は牧野嘉平次の子で、16歳で佐野勘助の養子となった。勘助の実子は病身で家督を継げず町医となって佐野養伯と称し、甲府へ移って17年前に没したという。嘉代は養伯の実娘で、3歳の時に父が死去し、介抱する者がないため善次郎が引き取って養育したと説明する。実母は甲府の町医龜山宗因の娘で、嘉代出産の際から病み、その年に亡くなったとし、牧野・養伯・宗因の家跡は当時絶えているという。善次郎の養父勘助には約40年前に西川忠次郎の役所で御用手伝をし、その後御書院組同心になった経歴がある。署名は桑山甚助、日付は5月16日、宛表示は御中臈やを。後続包紙は男子誕生に伴う母名書一通と問合書一通を掲げ、大炊殿の内分の指示、面高善右衛門の取次と本田孫九郎の納置、11月8日の書写・本書返却を記す。
寛政元年己酉二月二十九日(出発)、六月二十日・二十一日(記事) / 冊子 1030頁/原整理番号 2789/整理ID 2789
二月二十九日、大家の使いとして御使番小笠原主膳、御書院与土屋忠次郎、西丸御書院番竹田吉十郎が江戸を発って西国へ向かったと記す。六月二十日に城下へ到着し、二十一日に喜入へ赴いた。小笠原主膳は喜入で没したという。
〈宝暦五年〉正月五日(目録・原本主書末尾) / 冊子 511~512頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1552
平田靱負が正月五日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、御手伝普請の工程・検分と人員引取の首尾を報告する。一~四之手の追加目論見により工事が進み、二・三之手は旧臘二十三・二十四日に幕府役人立会いの検分を受け、完成した工事の小屋返却と人員引取を求める。油嶋から松之木村まで百九十間の水分切は指示がなく、油嶋側五百五十間・松之木側百五十間の築留には見積変更で約五十間を加え、大榑川二百六十五間の切り・洗堰も未決とし、石田・八神の石寄せを急ぐが難場では三月までかかり得ると述べる。江戸の御馬廻・新番・御歩行・足軽からの派遣について、現場では足軽約四十人が不足すると伝え、太田新田の小屋は返却して人員を元木屋へ引き取り、早春の小屋返却・人員引取を年内に申し渡したこと、引取人数の不要分を吟味して追って差し下す旨を報告する。
年月日未詳 / 冊子 440~442頁/原整理番号 416
熊本勢の接近を受け、一揆勢が天草上津浦を退き、島原側と合流して原城へ籠る経緯を記す。伊勢貞昌の本月十五日の江戸状も引用し、薩摩への出兵指示や肥後勢の進出を伝える。続いて天草四郎を本丸大将とする各郭の大将・番頭・鉄砲大将、武者・旗・鑓・使武者・夜廻・普請などの担当者と配置人数を詳記する。兵糧・兵器の取り込み、夜回り、防火、布製小旗、石積み・堀裏の穴など籠城防御の実施状況を述べ、総人数や一部の人物・日付には他史料の異説を併記する。
年月日未詳 / 冊子 445~447頁/原整理番号 423
原城一揆籠城の記録。寛永十四年十二月朔日から原古城を修築し春か城と称したとして、各郭の大将・軍人衆・奉行・使番・防火担当などの名と配置人数を列記する。兵勢二万三千余に童女一万余が加わったとし、防壁・銃眼・石や武器の配置、交替警備、矢文と火矢の警戒、四郎の巡回と法度伝達を詳述する。巻尾には高来郡などの村名を付し、一揆衆が在村の名を名字として名乗ったと説明する。
平安末~近世の記事(承久兵乱・寛元4年12月4日等) / 冊子 445~452頁/原整理番号 14
桓武天皇・葛原親王・高望王から国香・貞盛らを経て指宿氏へ至る平姓の長大系図。良時(伊佐平次)が武蔵国から薩摩へ下向し、阿多郡領を与えられた由緒を記し、三浦平大夫為通、鎌倉・三浦諸流との系譜を介して薩摩の諸家へ展開する。各系線には鎮守府将軍、伊予守・駿河守・隠岐守などの官途とともに、指宿本地頭、頴娃本地頭、薩摩郡本地頭、河辺本地頭、谷山郡司、水方名主、祁答院郡司等の職名を付す。承久の兵乱で京方に属したため河辺を没収された久道、兵乱時に戦死した者、市来や和泉で討死した者、鎌倉より薩摩守富澄討伐に下向して戦死した者など、中世の軍歴・所領喪失を系譜に織り込む。指宿・頴娃・薩摩郡・河辺・谷山・加治木・肥後菊池・阿多等へ枝分かれした多数の子孫について、通称・地頭職・郡司職・養子・婚姻・戦死を記し、近世の指宿郡司忠秀、加治木新六實平妻らまで系線を延ばす。
応永16年2月18日(1409) / 冊子 457~458頁/原整理番号 14-16
指宿近江守忠合が子息・平頼忠へ、薩摩国指宿郡五ヶ名を重代相伝の所領として譲った応永十六年二月十八日付譲状。父・能登守忠勝の公方御教書や代々の本証文を根拠に、指宿郡一円の知行と正忠・忠合へ至る相続経緯を述べ、父祖代々の証文が明白であるとして頼忠への譲与を定める。後続系譜には、永吉城・新納院高城・日州庄内での戦死、島津尚久・本田氏・市来家・松下家との婚姻、忠政の関ヶ原合戦従軍と感状・知行百石、福山居住・没年法名など、指宿氏後裔の軍歴と家系を記す。
年月日未詳 / 冊子 692~693頁
新納忠勝と伊東氏の抗争を記す『庄内平治記』記事。伊東勢が冷水・小鷹原方面に伏兵を置いたのに対し、新納方の要請を受けた北郷忠相が援軍を派遣して合流し、黒坂・横尾を経て梅北城戸口まで追撃した。津介忠次・池袋肥後らの戦死や両軍の損害、北郷方の戦功を具体的に伝える。