島津以久朱印知行方目録
文禄4年6月29日 / 冊子 897頁
島津以久に対し、諸給人の知行所、三殿の蔵入、上方兵粮分三万石などを含む領地配分を示す。 所付を割り替えるか据え置くかは裁量に委ね、無役の蔵入として扶助し領知させることを定めた朱印知行方目録。
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文禄4年6月29日 / 冊子 897頁
島津以久に対し、諸給人の知行所、三殿の蔵入、上方兵粮分三万石などを含む領地配分を示す。 所付を割り替えるか据え置くかは裁量に委ね、無役の蔵入として扶助し領知させることを定めた朱印知行方目録。
年月日未詳 / 冊子 912-913頁
島津以久譜は、以久が徳川家康に拝謁して秘蔵の肩衝茶入「奈良柴」を献上し、その返礼として日向国那珂郡佐土原三万石を与えられ、佐土原へ移住したと記す。
年月日未詳 / 冊子 913頁
島津以久譜は、島津氏の三州旧領と佐土原の沿革を詳述する。伊東氏の占領、豊臣政権下での島津豊久領有、関ヶ原での豊久戦死後の請願を経て、徳川家康が以久へ佐土原三万石を与えた経緯を記す。
天正六年十一月十一日~十二日 / 冊子 557頁
大友宗麟・義統が高城を包囲したため、十一月十一日に島津義久が根白坂へ進み軍容を示した。決戦で本田親治・北郷久盛が戦死し大友軍が追撃に出たが、義弘が自ら矛を執って立ちはだかり、島津以久と忠長が敵軍を横撃して崩した。その二人の大功を称える。
年月日未詳 / 冊子 897頁
秀吉の薩摩・大隅・日向三州検地に際し、島津以久が大隅国熊毛郡の種子島・永良部島・屋久島三島一万石を領知する朱印を受けたことを記す。 島嶼部支配が太閤検地後の知行として確定した経緯を示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 131頁
『島津以久譜』から、慶長二年八月、義弘・忠恒ら日本諸将が南原城を攻撃して守備軍を破り、同城を占領したことを簡潔に記す。
慶長三年三月七日 / 冊子 197頁
島津以久が、龍伯・義弘・忠恒の三殿へ二心なく奉公し、その忠節を子孫にも守らせると誓った天罰起請文。親子兄弟であっても三殿へ逆心する者には同心せず、三殿から聞いた隠密を他言せず、世上の動きで注意すべきことは残らず報告するとする。また御家へ悪心を抱く者との誓紙交換をせず、進退について疑いを受けた場合は胸中を残さず糺明してもらうと約し、違反すれば諸神の罰を受けると誓う。
慶長三年三月七日 / 冊子 197頁
本文はNo.383と同文であるため本冊では省略されている。No.383は、島津以久が龍伯・義弘・忠恒の三殿へ忠節を尽くし、逆心者への不同心、隠密の他言禁止、注意すべき世上情報の報告、悪心ある者との誓紙交換禁止などを子孫に至るまで守ると誓った起請文。
(慶長三年)十一月二日 / 冊子 271~272頁
島津以久(右馬頭)が(慶長三年)十一月二日付で島津図書頭忠長へ出した書状。江南の軍勢数万騎が襲来したとの報に心配して加勢を命じたが、島津勢の大勝と忠長の手柄を聞いて祝う。自身は病気のため出仕できず、早く祝意を述べられないことを惜しみ、代わりに少人数を派遣して軽微ながら銀子二枚を贈る。
年月日未詳 / 冊子 355~356頁
慶長四年三月五日、島津以久が種子島から大隅垂水へ移され、島津忠恒から一万一千六百八十七石の知行に関する判物を与えられたことを記す。続く文面では、合計一万一千石のうち千石を無役、残る一万石を役儀負担とし、図書頭に勤務を命じる。
年月日未詳 / 冊子 359頁
慶長四年春、島津忠恒が伏見の邸で家老伊集院忠棟を手討ちにした後、その子忠真が主命に従わず都城に籠って十二の砦を構えたため、忠恒が大軍を率いて進発し、島津以久も従軍して庄内各所で戦ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 498頁
慶長五年正月十六日、志和池城の岩之上を守る敵兵が出城して戦った記事。島津以久の家臣たちは敵と槍を合わせ、強敵の首級を得るなど奮戦して敵軍を撃破し、城内へ追い込んだが、味方にも多数の負傷者・戦死者が出た。
(慶長五年)二月五日 / 冊子 507頁
島津以久が伊勢貞昌の書状と使者を受けた礼を述べ、人数に関する談合へ出席したことを伝える。志和地が当日下城したことを千秋万歳の吉事として祝い、趣旨を披露するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 62頁
慶長十一年三月、島津以久が参勤のため上洛して徳川家康に拝謁し、その後東国へ赴いて徳川秀忠にも拝謁したことを記す記事。江戸城普請に際して栗石を献上し、帰国の暇と脇指・小袖・白銀などを賜った。
年月日未詳 / 冊子 162頁
慶長十三年、島津以久が徳川家康の命を受け、駿府城の石垣を築いたことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 272~273頁
島津以久譜の記事。慶長十五年、丹波篠山城普請のため上洛して伏見に滞在中、病により四月九日に六十一歳で死去したことを記す。法名・葬地、忠興の哀悼、諸僧・文人による多数の追悼詩歌も収める。
年月日未詳 / 冊子 273頁
島津以久譜の記事。慶長十五年四月九日、以久が伏見で病死し、享年六十一、法名を高月院仁雄宗恕居士とし、洛陽四条寺町の大雲院に葬ったことを簡潔に記す。
永禄八年八月廿四日 / 冊子 141頁
永禄八年八月二十四日、島津義久が大隅国帖佐郷を文四郎幸久へ与えたことを記す。幸久が後に以久・征久とも称したことを注記する譜中記事。
天正元年三月十八日 / 冊子 302~303頁
天正元年三月、島津軍が肝付兼続方を攻めた際に以久も従軍した。十八日の西俣合戦では先頭に立ち、兼続が亡父の仇であり今日の戦いこそ望むところだと士卒を励まし、疾風迅雷の勢いで諸将とともに敵軍を撃破して首級を得たとする。
年月日未詳 / 冊子 415頁
天正十六年、以久が大隅国清水の所領を嫡子・彰久へ譲り、自身は上井城へ移ったことを記す。 この年に秀吉から判物を受けたことも添え、豊臣政権下での島津一族の家督・所領再編を伝える譜記事。
永禄十年 / 冊子 161頁
島津忠将一流の系譜として、島津以久の子彰久が永禄十年に生まれ、母は北郷左衛門尉時久の長女であったことを記す。彰久の通称を又四郎、官途を右衛門尉とする。
(天正元年)十一月廿六日 / 冊子 321頁
近衛信輔が島津以久に初めて書状を送り、京都の不慮の錯乱で諸事に頼る先がないため、使者を通じて依頼した匠作への支援を求める。詳しい事情は進藤筑後守が説明するとする。本文の日付は十一月二十六日と読め、確定版年月日と一月の差がある。
天正三年三月十六日 / 冊子 431頁
天正三年三月十六日の犬追物手組として、島津以久・新納忠実・頴娃久虎らの射手、各人の射犬数、検見・喚次を列挙する。
(天正七年)七月十日 / 冊子 638頁
田原鎮忠が町田忠房へ、土持氏旧領の処置や門川に滞在する土持次郎九郎、同地へ送った女中親子について尋ねる。高城で大友方の将兵が戦死し再戦を求める声が強いため豊薩両家の永代静謐が難しくなるとして、島津以久とも相談し和談を調達するよう求めた。
慶長三年二月 / 冊子 195頁
島津忠恒が島津以久へ、以久が御家の家督に関し、龍伯・武庫と同様に忠恒へ末永く別心なく忠節を尽くすと神前に誓ったことを喜び、今後も相談して家の相続を図ると約した起請文。以久側に違背がない限り、忠恒も少しも処遇を変えないと誓い、偽りがあれば梵天・帝釈、薩州新田八幡、諏訪上下、開聞正一位、霧島、春日、稲荷など諸神の罰を受けるとする。
年月日未詳 / 冊子 913-914頁
島津忠輿譜は、祖父島津忠興の家系と佐土原領有の由緒を記す。島津以久が慶長六年に佐土原城番を命じられ、同八年に徳川家康から佐土原三万石を拝領したのち、嫡子彰久の没後に忠興へ家督を譲った経緯を述べる。
(慶長八年)十月廿日 / 冊子 914頁
島津以久が島津忠恒の書状を拝見し、比志島紀伊守と山口勘兵衛への働きかけによって佐土原の件が解決したことを喜ぶ。近日中の帰国を予告し、忠恒が当年の上洛を見合わせたことも祝している。
(慶長八年)十月晦日 / 冊子 915頁
山口直友が島津忠恒へ、佐土原城を島津以久へ引き渡す決定と、そのため使者を以久に同行させたことを報じる。また又四郎を伏見へ在府させる方針を伝え、早々に上洛させるよう求めた。
年月日未詳 / 冊子 69頁
四月二十二日、島津以久が伏見へ登って徳川家康に拝謁した際、島津忠恒が供奉し、山口直友が装束などを整えたことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 264頁
島津忠興の譜。慶長十五年、十二歳で父島津以久を失った忠興が家を継ぎ、駿府城で徳川家康、続いて江戸城で徳川秀忠に拝謁して礼を述べたのち帰国したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 266頁
殉国名薮の記事。慶長十五年四月九日の久保権兵衛重次をはじめ、島津以久に仕えた猿渡左近、肝付治部左衛門兼家、日高大炊左衛門重勝ら、主君に従って殉死した家臣を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 273頁
島津忠興一流系図。忠興・忠仍らの出自、母が島津義久の第二女であること、祖父島津以久から佐土原領を譲られた経緯など、一流の系譜と所領継承を記す。
年月日未詳 / 冊子 273頁
島津忠興譜の記事。父島津以久が伏見で死去した際、将軍家は嫡孫忠仍に佐土原を与えようとしたが忠仍が固辞したため、忠興が父の遺領を継いで佐土原城主となったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 299頁
島津久信譜の記事。慶長十五年四月に祖父島津以久が伏見で没し、将軍家から忠仍へ遺領が与えられたが、龍伯の病気と忠仍の母の高齢を理由に辞退し、本宗家への帰属を願ったこと、以久の三男尭舜房忠興が佐土原へ置かれたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 887頁
島津忠将の子・以久について、初名、官途・入道名、天文十九年の出生と母方を記した系図記事。
年月日未詳 / 冊子 912頁
島津忠将の一流系図として、右馬頭以久の出生、母が佐多上野守忠成の娘であることなどを記す。
永禄八年八月廿四日 / 冊子 140~141頁
島津義久が大隅国帖佐郷について、文四郎幸久(のち以久・征久)が堅固に知行するよう命じた書下。
天正元年九月廿七日~十一月中旬 / 冊子 317頁
天正元年九月二十七日の早崎・咲花平着陣と小浜城攻略を詳述する。島津方は激戦の末に城柵を破り、伊地知美作守を退去させたが、伊集院久春が重傷、肥後平三郎らが戦死した。牛根城包囲中の野戦では白胴服の武者が単騎で敵首を挙げ、周囲を叱咤した逸話を載せる。肝付領の通路を遮断するため、十一月中旬に歳久・以久を大将として平床へ陣を進めた。
天正元年十一月中旬 / 冊子 320頁
十一月中旬、島津軍が肝付領内の通路を遮断する要地平床に陣所を設け、歳久・以久を大将とした。牛根城より奥の難所である平床を後巻するため伊地知・肝付勢が来援し、茶園尾へ陣を取ろうとしたと記す。記事年次は元亀三年・天正元年の双方に重出し、編者は前後関係から天正元年に置く。
天正16年9月10日 / 冊子 415頁
秀吉が島津右馬頭(以久)に対し、従来の本知・領地を以前どおり相違なく領有することを認めた判物。 以久が清水を彰久へ譲って上井城へ移った後も、その所領権を豊臣政権が正式に安堵した文書である。
慶長四年三月五日 / 冊子 356頁
島津忠恒が右馬頭以久に、種子島の繰替えに対する返地として所領を宛行い、そのうち一千六百八十七石を加増分とする。以後も先例に従い、一千七百石を無役、残る九千九百八十七石を役儀負担として勤めるよう命じる。正文は向島衆萩原右京に伝来したと注記する。
(慶長四年)三月廿五日 / 冊子 362~363頁
竜伯が又八郎に、大坂出船後の帰着、当所へ移す衆と屋敷配分、馬術に優れた入来院又六を当地に置く希望を伝える。荒地が多く当年の耕作が進まないこと、種子島左近大夫の知行を検地高五千二百余石と内検高八千五百石の中間である七千石(うち三百石加増)とする案、右馬頭の返地後に種子島を与える段取りを述べ、京都の息女の件を石田治部少輔や小西へ働きかけるよう依頼する。
年月日未詳 / 冊子 387頁
島津忠将の一流を記す系図で、右馬頭以久の三男である忠興について、字を堯舜房、官途を右馬頭とする。忠興は慶長四年五月廿九日に種子島で生まれ、母は松木貞右衛門尉の姉であったと記す。
二月廿日 / 冊子 514頁
山口直友が濱市で進む交渉は一両日中におおむね決着する見込みだと報じ、その間は軍事行動を控えるよう要請する。竜伯父子にも同様に伝え、濱市へ戻って現地の状況を追って知らせるとする。
慶長七年八月九日 / 冊子 834頁
島津宗恕以久が、協議内容を一切漏らさないこと、肥後方面からの書状を隠さず提出し今後は計策に同心しないこと、前年の佐土原交渉で三殿に不利な言上をしていないことを神仏に誓った起請文。
十二月六日 / 冊子 274~275頁
家久の使札と太刀・馬代・鉄砲一挺・緞子十巻の贈物に感謝し、上洛を祝うとともに、兵部少輔との関係についても今後変わらず知らせてほしいと述べた井伊直継書状。
二月廿日 / 冊子 743頁
加運老との閑談を機に初めて書状を送り、遠方の親族が島津家中で扶助され島津を称しているかを尋ね、今後も一族への許容を願った元吉書状。詳細は加運老が説明するとする。
年月日未詳 / 冊子 743~744頁
庄内との親密さ、庄内から鹿屋への度々の使者、又四郎が恒吉で碇地を打ったことなどの風聞を列挙し、伊集院幸侃と石田氏をめぐる件では油断せず即答しないよう内密に忠告する。世評を案じ、読後焼却を命じた島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 744~745頁
島津忠勝一流の系図。右馬頭以久の子彰久・久信・久敏以下、島津家久の娘を母とする忠清、島津光久の諸子忠顕・久侶・久雄・久治らが北郷家などへ養子相続した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 897~898頁
種子島・屋久島・永良部島など島嶼部の役米・出米と石高を抜き出し、合計一万石となる内訳を示した目録抄。 島津以久へ与えられた三島知行について、島ごとの負担と算定根拠を数量で確認できる。