寛明日記
年月日未詳 / 冊子 293頁/原整理番号 254
『寛明日記』の記事。二十八日、島原一揆衆が天草四郎方へ使者を送り、近郷の徒党を企てたとの報を記す。四郎の年齢・才覚、矢野村色津、島原一揆の連署と大江所在に関する伝承を挙げる。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 293頁/原整理番号 254
『寛明日記』の記事。二十八日、島原一揆衆が天草四郎方へ使者を送り、近郷の徒党を企てたとの報を記す。四郎の年齢・才覚、矢野村色津、島原一揆の連署と大江所在に関する伝承を挙げる。
年月日未詳 / 冊子 689頁
讃良善助貞資の自譜により、寛永十四年の島原一揆に際し、六十六歳の貞資が御使者竹内備前守に同行し、多数の足軽を添えて派遣されたことを記す。老練な人物として事情聴取のため遣わされたとみられる。
(寛永十四年)十二月十九日 / 冊子 718頁
病中の家久を気遣い、書状と道服二着に礼を述べる。島原一揆のため急ぎ下向したこと、長崎には異変がなく、現地の詳しい様子は三原左衛門佐から報告すると伝えた。
年月日未詳 / 冊子 727~728頁
家久の病気見舞いと島原一揆鎮圧への協力のため、江戸にいた光久が帰国を命じられた経緯を記す。光久は有馬で松平信綱に幕命を伝えたが、父家久の重病を理由に帰国を勧められ、二月十六日夜に鹿児島へ到着した。
年月日未詳 / 冊子 727~728頁
江戸にいた光久が、父家久の病気見舞いと島原一揆鎮圧への協力を命じられて帰国した経緯を記す。大雨による川止めを経て有馬へ赴き松平信綱に幕命を伝えたが、家久の重病を理由に帰国を勧められ、鹿児島へ戻った。
(寛永十五年)正月十三日 / 冊子 732頁
家久の書状を受け、島原一揆のため前年冬から島原表へ下向し滞在していると報告する。病中にも心遣いを受けたことに礼を述べ、改めて連絡するとした書状。
年月日未詳 / 冊子 829~831頁
寛永十五年の肥前島原一揆に際し、国分に割り当てられた出陣者を列記した交名・人数書留写。各人名に主従人数、鉄炮・鑓・弓・馬・持道具、自身または代人などの軍役構成を注記する。掲載者は合計八十五人で、そのうち自身衆十八人、被官まで含めた総勢は百三十四人と集計する。
寛永14年11月7日 / 冊子 313~314頁/原整理番号 282の2
島原一揆に際し、山民少出水の者が召し連れられ、働き次第では役立つ旨を述べる三原重庸書状。江戸から人数が派遣された場合の対応と取合を頼み、十一月七日付で児玉筑州宛に結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 317頁/原整理番号 286の1
京都所司代板倉重宗・大坂城代阿部正次らが島原一揆の飛報を受けた伊地知季安の記事。四国・中国・九州の守相への廻状、街道・港の警戒と巡回、上使下向時の備えを記す。
年月日未詳 / 冊子 356頁/原整理番号 328
川上久国が肥前島原一揆へ赴く際、病中の島津家久から医師同行を命じられたとの旧伝を載せる。伊地知季安は久国を川上忠通と同一人とする旧説を誤りとし、当時の官途名を根拠に訂正する。
年月日未詳 / 冊子 474~475頁/原整理番号 469
野元為綱の奉公状。寛永十四年十二月の島原一揆に際し、御使者として派遣された三原左衛門佐に御相談人として付き、騎馬与力二人を率いて赴き、同十九日に着船したと記す。
寛永14年12月19日 / 冊子 493頁/原整理番号 497
榊原職直が島津家久へ送った書状。病中ながら印判を下付され、気色が回復したことを報告し、遠路の使札と道服二領に謝す。島原一揆対応の状況は三原左衛門佐から申し上げるとして十九日付で結ぶ。
6月5日 / 冊子 513頁/原整理番号 525
酒匂家伝覚のうち、肥州島原一揆の際に甲斐右京・右馬助へ御使が命じられ、十二月二十七日に島原へ参着したことを記す。野元源左衛門を三原左衛門佐のもとへ遣わし、翌日早く江戸へ参るため両名を島原出船に付したこと、正月元日に平戸へ入ったことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 513頁/原整理番号 526
酒匂氏日帳の記事。その暮れ十二月に島原一揆が起こり、御使を命じられて同二十七日に島原へ参着したことを記す。野元源左衛門を三原左衛門佐のもとへ遣わし、翌日の江戸行きに備え、前十九日に島原を出船して正月元日に平戸へ入った経過を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 559頁/原整理番号 566
寛永十四年十月下旬に島原一揆が起こり、松倉勝家から急報が届いた経緯を記す。幕府方の命により山田民部有栄・北郷佐渡久加ら薩摩勢が有馬へ向かい、軍務の指揮を受けたことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 560頁/原整理番号 569
『白石随筆』の記事。島原一揆に対し薩摩から人数を差し出した事情と、幕府方の書付・手前人数の差出しに関する伝承を記し、薩州から奉書が出た経緯を述べる。
年月日未詳 / 冊子 584頁/原整理番号 621
有馬左近将監純実の系伝。寛永十五年の肥前島原一揆で島津豊州久賀が多数の兵を率いて出陣した際、純実が使節として従軍したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 102頁/原整理番号 163-2
山口直重の元禄十一年十一月二十六日付訴状に見える由緒。寛永十五年の島原一揆で山口内蔵助が外城衆二百四十七人を付けられて島原へ向かったが、到着前に落城して戦闘に遭わず帰還し、その際の覚書を所持すると述べる。目録年月日欄は空欄。
年月日未詳 / 冊子 139頁/原整理番号 231
吉田与三右衛門の覚書。島原一揆の際、病中の島津家久を見舞うため初めて江戸から帰国した光久が、そのまま島原へ加勢しようとし、家久から御召の鎧二領を託された伊東祐昌が光久の陣で待ったが、加勢に及ばず帰国したと語る。宝永六年八月二十四日、八十一歳の吉田の話を家来坂元武右衛門が書き留めたもの。
正月十一日 / 冊子 147~148頁/原整理番号 258
伊作の国分戸左衛門が、山川地頭十右衛門のもとで島原一揆出兵に伴う兵站と帰国供奉を務めた経緯を述べた訴状。上之川伝左衛門と山川勢百五十人を率い、米之津で兵糧米百五十人分を受け取ったが、島津光久の帰国により返納し、山田松巌の書付で収納を実現した。その後、川内から鹿児島へ急行する一行のため兵部殿の乗物を調達・運搬し、日高安右衛門・内田権兵衛らの自力騎馬参陣も披露したことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 178~179頁/原整理番号 304
伊勢貞昌が、前黄門・花心琴月大居士こと島津家久を追悼した漢文。家久を薩摩・大隅・日向三州の賢君で文武に優れた名将と称え、約三年の病と治療、貞昌が島津光久に従って江戸にいたこと、島原一揆への出陣で鹿児島へ赴いた経緯を述べる。家久の死を悼みながら軍務に就く心情を記し、末尾に漢詩二首を添える。
寛永十五年二月廿八日 / 冊子 337~342頁/原整理番号 381-1
田布施士二宮太郎兵衛蔵本の、寛永十五年二月二十八日付『肥前有馬原之城高名究帳』。外題はこの名で、別本は『島原一揆ニ付高名帳』と題したという。新納加賀守・伊地知杢右衛門尉らの鑓合、敵の討取り、弓・鉄砲による射撃、本丸の屏・石垣への取付き、手負、戦死などを、各人の証跡者とともに列記する。出水・高尾野・蒲生・加久藤・大口など各衆を含み、証跡なしとする項目もある。末尾の原記載総計は百五十六人、うち戦死五人。
年月日未詳 / 冊子 354頁/原整理番号 399
旧伝集は、島原一揆の城攻めで討死した者は、鉄砲・弓・槍の三種の武器による傷で大方が死亡し、それ以外の深手や、手などを突然切り落とされる例はなかったという伝承を記す。大口衆の黒木三右衛門が若年に島原へ出陣し、長命して語った話だという。
年月日未詳 / 冊子 361頁/原整理番号 417
島原一揆の落人に備えて浦々の番を厳重にするよう諸国へ命じられたため、堀興延は三十三歳で久志浦地頭甚左衛門の名代として、寅年三月二日に久志浦へ赴き勤番した。四月十三日に帰宅し、落人はいなかったと記す。
年月日未詳 / 冊子 370頁/原整理番号 451
『藤掛集書』は、原城落去・破却後、諸将が三月中旬に帰陣し、松平伊豆守信綱・戸田左門氏鉄が天草・長崎を仕置して肥前・筑前・豊前を巡見し、小倉へ九州諸将を召集したと記す。島原一揆を招いた領国統治の責任から松倉家を改易し父子・兄弟を諸家預けとし、寺沢兵庫頭から天草四万石を召し上げた。さらに軍法に背いた城乗込みをめぐり鍋島信州と梶原父子らを江戸で吟味し、閉門後に赦免した経過を記す。
八月廿五日 / 冊子 383~384頁/原整理番号 485-2
伊達遠江守秀宗は、寛永十四年霜月から十五年四月まで、肥前国島原一揆に際して上使の船御用に船五十艘・水主千二百十四人を出し、飯米は公儀から支給されたと記す。ほか二か条は編者が省略する。
寛永十四年刊行図・寛永十五年正月記事 / 冊子 241頁/原整理番号 28
寛永十四年刊行の諸大名の旗馬印図にある松平薩摩守の番指物を引く。続いて寛永十五年の島原一揆の際、光久が朝鮮以来の吉例である御馬印を持参したいと申し出た記事を載せる。
(寛永十五年)正月十三日 / 冊子 731頁
家久の病状を気遣い、新年を賀す。天草へ赴いたところ一揆勢が島原へ移っていたため自身も島原へ渡り、元日の攻城で板倉内膳が戦死し、石谷十蔵と自身も負傷して撤兵したこと、松平伊豆守・戸田左門が到着して指揮を執ったことを報告する。
(寛永十五年)正月廿一日 / 冊子 741頁
当地にはなお別条がなく、松平伊豆守・戸田左門が万事を指揮しているため近日中に一揆を退治できる見込みと報告し、委細は両人から伝えるとした書状。
(寛永十五年)正月廿一日 / 冊子 742頁
使札への礼を述べ、去る朔日の戦況はすでに報告したとおりで、その後は別条がないと伝える。島津下野守・三原左衛門佐が派遣され、今後変事があれば両人を通じて連絡するとした書状。
(寛永十五年)正月廿五日 / 冊子 743頁
両名が当城の番を命じられて二、三日前に着船したことを知らせる。城外に潜む一揆勢を山狩するよう松平伊豆守・戸田左門から指示があり、薩摩勢を差し越すとの意向を承知し、家久の病状も案じた連署書状。
(寛永十五年)二月十三日 / 冊子 755頁
一揆追討のための出陣を慰労し、遠隔地のため戦況を承知していないが諸将が出陣した以上は間もなく決着すると見込む。自身は雲州松江城番を命じられ、正月二十八日に到着して城と各受持口を油断なく管理していると報告した書状。
年月日未詳 / 冊子 261頁/原整理番号 213
『元寛日記』の記事。寛永十四年三月二十三日、鎮西肥前島原の郷民が一揆を企て騒乱となり、吉利支丹の拠点原城を松倉長門守重政が支配していたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 262頁/原整理番号 217
『藤掛島原軍記』の記事。肥前島原の吉利支丹一揆の発端について、森宗意軒ら浪人の活動、河内国石川郡水分の社司系譜、長崎へ渡海する小西行長の船が難破した話を挙げる。
年月日未詳 / 冊子 270~271頁/原整理番号 222
伊地知季安の記事。島原地方での宗門流布と郷民蜂起、代官・藩士への襲撃、島原城側の急報と軍備を記す。松倉氏不在中の混乱、村々の蜂起、一揆勢による殺害・放火、原城方面への展開までを詳述する。
年月日未詳 / 冊子 272頁/原整理番号 224
『寛明日記』巻十八の記事。寛永十四年十月十九日から二十三日にかけ、肥前島原の松倉勝家領で農民が集まり宗門を唱えたとの報告、代官の偵察、城中の人数や吉利支丹宗門の動きを記す。
寛永14年10月27日 / 冊子 288頁/原整理番号 244の4
切支丹一揆が立ち上がって村々を焼き、城下町まで及んだため、隣国熊本へ加勢を求める連署書状。人数五、六千の派遣を願い、十月二十七日付で松倉長門守家老の田中宗夫・岡本新兵衛・多賀主水が署名する。
年月日未詳 / 冊子 330頁/原整理番号 301
十三日、大矢野四郎らが島原の一揆勢約千五百人を率いて天草へ渡海し、島原城を攻め落として長崎・九州へ勢力を広げる企てを進めたと記す。寺沢方は上津浦へ人数を集め、唐津勢を分配して迎撃する準備を整えた。
年月日未詳 / 冊子 332頁/原整理番号 305
牧野傳蔵・林丹後守に代わって豊後府内へ置かれた御目付衆に対し、十一月十三日付の飛札で一揆討伐の状況を通報した記事である。併せて島津家久側から、薩摩勢の加勢が必要か否かを問い合わせた。
年月日未詳 / 冊子 475頁/原整理番号 471
『旧伝集』の記事。市来亀ノ川へ放生会参詣の途中だった伊集院衆が、肥前島原で一揆が起きたと聞いて島原へ赴いた経過を記す。帰国後に無断出陣を咎められたが、三原左衛門佐らへの相談を経て赦免され、諸国の家老衆も含む処置が示されたとする。
年月日未詳 / 冊子 476頁/原整理番号 473の1
薩摩藩家老伊勢兵部少輔貞昌と、人吉城主相良頼寛の家老相良清兵衛頼兄との旧交を記す。江戸で島津光久に仕えていた貞昌に対し、球磨にいた頼兄が一揆の状況を書き送り、貞昌がこの日返書して壮心を励ましたとする編者記事。
年月日未詳 / 冊子 596頁/原整理番号 653
寛永十四年冬から十五年正月にかけ、肥前島原郷の百姓が有馬城へ籠ったこと、松平伊豆守らの催人・出陣、京都での籠城報知と田布施衆の動員を記す。
年月日未詳 / 冊子 668~669頁/原整理番号 676
寛永十四年冬、キリシタンが肥前島原に籠城したため、島津光久が隣国の事情として出兵を願い出たことを記す。翌年正月十三日、阿部豊後守を介して許可が伝えられ、追討に向かう松平伊豆守への協力と、病気の島津家久の見舞いを命じられ、早々に発足した経緯を述べる。
年月日未詳 / 冊子 669頁/原整理番号 677
寛永十五年正月十三日、阿部豊後守を通じ、父島津家久の重病を看護するため帰国し、あわせて松平伊豆守に力を添えて肥前島原の賊徒を討つよう上意が伝えられ、島津光久が発足した経緯を記す。
明応7年~宝暦年間(系中) / 冊子 518~528頁/原整理番号 27-4
大隅国郡智尾権現の社家・丸氏について、明応7年の智尾権現上棟文に見える建部弟子丸宗弘(治部左衛門尉)を起点とし、宗元・源次・宗益・宗辰・宗重・宗武・弘之・弘中・弘充・宗方・宗時・宗意・宗茂・宗信・宗祐・宗門・宗安・盈隆らへ続く系譜。備前守らが島津忠隆・貴久期の志布志城・蒲生城などの戦いで討死したこと、宗益が日向福島警衛、河辺野間名三百斛など合計六百斛余の領知と地頭職を得たこと、宗辰が朝鮮出兵で軍功を挙げたことを記す。宗重以後は綱久・綱貴らへの奉公、京都御蔵奉行、琉球在番、江戸供奉・茶屋勤、智尾権現社殿の修造、各村の地頭職・御目付役・小姓役などを詳細に列挙する。宝暦年間には琉球在番からの帰帆が暴風で損傷しながら帰着して賞された記事があり、別系には肥前島原の一揆時の動員、日向国真幸院吉田地頭職六百斛、家久看病、朝鮮軍功感状などが見える。鹿児島の大火で宗茂宅と家伝・武具が焼失した際、宗茂が官庫へ納めていた模写を根拠に証判・感状を再下付された経緯も記す。各人の生没年・年齢・法名、母・妻の出自、女子の婚姻、養子、分家、無嗣断絶を併記し、盈隆と養子・後裔までを収める。
(寛永十四年)十二月三日 / 冊子 700頁
島原一揆鎮圧の上使として肥前島原領内の神代へ到着したことを知らせる。薩摩勢が天草近くに配置されたと聞き、牧野伝蔵・林丹波守の指図に従って早急に天草へ加勢するよう要請した。
(寛永十五年)正月十七日 / 冊子 735~736頁
島原一揆対応のため九州諸大名が暇を与えられて江戸を出立したこと、自身も正月十四日未明に出発し、阿部川増水のため駿河府中に滞留したことを報告する。少人数で大坂へ急ぎ、薩摩勢が未着なら率いて有馬へ向かい、御馬印も携行したいと願った書状。
年月日未詳 / 冊子 287頁/原整理番号 244の1
『平塞録』の記事。細川忠利らの江戸勤めと、十月二十七日に米田監物宅で島原急変を相談した経緯を記す。肥後郡代方からの飛脚が島原一揆を告げ、井上孫兵衛らへ急報したことを述べる。
寛永14年10月28日 / 冊子 291~292頁/原整理番号 250
松倉長門守居城で火事と鉄砲音が起こり、国境から急報が届いたため、島原一揆の情勢を確かめるよう求める連署書状。切支丹宗門の者が蜂起したとの注進を伝え、十月二十八日付で結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 306~307頁/原整理番号 269
『平塞録』。天草の急変が熊本へ伝わり、三渕内匠が家老中へ敵情を報告した経緯を記す。島原一揆の初発、鉄砲・人員の支配、富岡城代三宅藤兵衛の出陣、唐津への注進と加勢の難航、島中の宗門勢力を詳述する。