管理表題:重永譜中記事:○寛永十四年…恒吉地頭職
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):寛永十四年丁丑 補記(正文と別層):月日不傳 / 冊子 153頁/整理ID KW1-G000133
隅州恒吉の地頭職に補任されたと記す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):寛永十四年丁丑 補記(正文と別層):月日不傳 / 冊子 153頁/整理ID KW1-G000133
隅州恒吉の地頭職に補任されたと記す。
(寛永十四年)二月廿九日 / 冊子 640頁
「光久公御譜中」の記事。前年冬に父・島津家久が病臥した際、光久は江戸にいて見舞えなかった。寛永十四年二月、家久は平田盛右衛門純正を介し、島津家伝来の愛染明王像・摩利支天像・鷹之巣の御刀・鳥利作の太刀・光忠作の腰刀を光久へ譲った。愛染明王像は弘法大師作で「谷渡愛染」と呼ばれ、源頼朝が所持したのち信濃深草山の光忍を経て家久へ伝来したと記す。本文は宛所・署名のない譜記事であり、索引の「文書・島津光久書状」と形式が相違する。
(寛永十四年)十一月十七日 / 冊子 693~694頁
「覚」として『家久公御譜中』に収められた島原・天草の戦況記事。島原城から一里ほどの米蔵へ侍十二人・鉄砲二百挺を遣わしたところ、千本村の一揆勢に襲われ、鉄砲頭の高橋弥次右衛門・入江与右衛門・高畠次郎太夫とほか四、五人が討死し、城へ退いたこと、城近辺の村々も焼かれたことを記す。唐津勢は十一月十日に天草本戸へ着き、先手四、五百人が島子村で約三千人の一揆勢に攻められて本戸へ退却、本戸の在家を焼かれ、三宅藤兵衛のいる富岡へ移ったという。これらは天草からの未確定情報であり、上使の下向・隣国加勢の続報はなく、御横目衆が高瀬へ来たとも記す。本文日付は寛永十四年十一月十七日。差出人・宛所のない覚書・譜記事で、索引の「文書・某書状」と形式が相違する。
寛永十四年刊行図・寛永十五年正月記事 / 冊子 241頁/原整理番号 28
寛永十四年刊行の諸大名の旗馬印図にある松平薩摩守の番指物を引く。続いて寛永十五年の島原一揆の際、光久が朝鮮以来の吉例である御馬印を持参したいと申し出た記事を載せる。
年月日未詳 / 冊子 677頁
島津光久の家族関係として忠朗・久直・女子を掲げ、女子は元和四年九月十三日に忠朗と同腹の母から生まれ、寛永十四年三月二十四日に二十歳で早世したと記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 642頁
島津忠朗が寛永十四年三月に人質として江戸へ赴き、同十五年冬に帰国を許され、その後も三度江戸へ人質として赴いたことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 739~740頁
北郷久直が寛永十四年七月に帰国する前、江戸で酒井忠利・忠吉から受けた訪問・餞別祝儀関係の書状を収める譜。
年月日未詳 / 冊子 559頁/原整理番号 566
寛永十四年十月下旬に島原一揆が起こり、松倉勝家から急報が届いた経緯を記す。幕府方の命により山田民部有栄・北郷佐渡久加ら薩摩勢が有馬へ向かい、軍務の指揮を受けたことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 596頁/原整理番号 653
寛永十四年冬から十五年正月にかけ、肥前島原郷の百姓が有馬城へ籠ったこと、松平伊豆守らの催人・出陣、京都での籠城報知と田布施衆の動員を記す。
(寛永14年12月より同15年2月まで) / 冊子 608~610頁/原整理番号 669
寛永十四年十二月から同十五年二月まで、有馬出陣に関わる諸衆について、人数、従軍日数、給付額を個人・地域別に記録し、総人数二万五千二百十七人、給付銀四貫四百五十五銭と集計した賦渡帳。
年月日未詳 / 冊子 668~669頁/原整理番号 676
寛永十四年冬、キリシタンが肥前島原に籠城したため、島津光久が隣国の事情として出兵を願い出たことを記す。翌年正月十三日、阿部豊後守を介して許可が伝えられ、追討に向かう松平伊豆守への協力と、病気の島津家久の見舞いを命じられ、早々に発足した経緯を述べる。
元禄十三年三月十三日 / 冊子 342~343頁/原整理番号 381-3
有馬山の戦いと名を残す心構えを詠む歌・教訓に続き、島原・有馬出陣の経過を記す奥書。寛永十四年冬に邪宗の土民が有馬城へ籠城し、薩隅日三州の士が翌十五年正月十一日に出陣した。田布施の地頭鎌田左京政高が京都勤務中だったため、田布施諸士は同心して敷根筑前守の手に属した。諸所の衆は有馬で高名を挙げた一方、鹿児島衆・外城衆は天草高津浦の番を命じられて高名がなく、船留が厳重で落城前後の事情も知らなかったという。三月下旬に帰陣。坂元安右衛門尉清長が寛永十五年三月十一日に記し、破損したため孫の坂元七郎左衛門清愛が元禄十三年三月十三日に改めた。
年月日未詳 / 冊子 350頁/原整理番号 386
島津家が公儀へ差し出した御厚恩記の一条。寛永十四年冬、肥前島原で切支丹宗門の賊徒が籠城したため、家臣の島津豊後久賀・島津下野久元に人数を添えて出張させ、上使の下知を受けて攻撃するよう命じた。正月朔日の城攻めと二月二十八日の落城時、分捕をした者が多く、戦死者も少々あったと報告する。
八月廿五日 / 冊子 383~384頁/原整理番号 485-2
伊達遠江守秀宗は、寛永十四年霜月から十五年四月まで、肥前国島原一揆に際して上使の船御用に船五十艘・水主千二百十四人を出し、飯米は公儀から支給されたと記す。ほか二か条は編者が省略する。
年月日未詳 / 冊子 385~392頁/原整理番号 491
寛永十四年冬の島原籠城を受け、三原左衛門を大将として人数を差し遣わし、のち島津豊後守久賀・下野守久元が人数を率いた経過、正月元日の大合戦や島原城攻撃・帰陣を記す。続いて寛永十五年正月十四日に召し立て、三月末に帰宅した130人を名と知行高別に列挙する。末尾には一向宗改めで仏踏みを命じられた者や、屋敷・高の召上げ、追放、切腹・討死等に至った関係者の事例を付記する。
年月日未詳 / 冊子 394頁/原整理番号 498
『天草覚書』は、寛永十四年十一月のキリシタン蜂起と翌寅年春の原城落城を受け、正月から富岡に上使松平主税二万石、伊東大和守五万石、目付杉原四郎兵衛千二百石を城番として置いたと記す。松平・伊東は二之丸、杉原は出丸を守り、三人とも寅年六月まで富岡に滞在した。
寛永14年2月29日(目録) / 冊子 358~359頁/原整理番号 28
「花尾社傳記 下」の題紙と、寛永十四年二月十九日付の島津光久書状を収める。平田豊右衛門尉への指示に続き、花尾社に関する島津家の後代の記録をたどる。
寛永十四年五月日 / 冊子 657頁
元和五年十二月二十六日に大橋へ人身売買を禁ずる制札を立てたことを前提に、それ以前の売買に関する争いは裁定せず、以後の争いは命令どおり処理する旨を定めた覚書。
年月日未詳 / 冊子 641頁
島津忠朗譜に収められた、前号No.1006と同文の島津光久書状。本文は重複のため省略され、同じ日付・差出人・宛所のみを掲げる。
年月日未詳 / 冊子 655頁
家久の病気により久志本式部少輔が鹿児島へ下向したこと、その時北郷忠直は江戸に在府しており、家久から忠直へ書状が与えられたことを記す記事。続けてNo.1040の書状を掲げる。
寛永十四年十二月五日 / 冊子 704~706頁
「覚」として、幕府が十一月二十六日付の奉書により肥後・薩摩勢へ天草一揆の鎮圧を命じたことを受け、有馬方面で一揆が起きた際の即応、一万人のうち動員できる兵数、川尻に進出した肥後勢との歩調、薩摩勢用の船の準備を問い合わせる。天草平定後の早急な報告、一揆勢の首級を目付衆に見せるため捨てないことも指示する。さらに松平隠岐守の条書、松平伊豆守らへの兵粮・音信、渋谷知兵衛尉の派遣、天草一揆が長引き上洛延期となる場合の報告に言及する。吉利織部祐が署名し、使者を川越三右衛門尉とする。寛永十四年十二月五日付。
(寛永十四年)十二月十六日 / 冊子 710~713頁
家久の年寄衆からの返書と二通の御状を受け、黄門へ進上した書状や幕府側の命令内容を照合し、長島・獅子島への兵配置と天草への即時渡海を協議する。肥後勢が十二月三日に三角瀬戸へ到着し、翌日天草へ押し寄せるとの注進を踏まえ、薩摩勢が遅れないよう準備を急がせた。薩摩から首取千人・鉄炮衆千人・馬乗三騎を天草へ遣わすとの取沙汰、山田民部少輔・新納賀州・仁礼左将を獅子島番手とすること、船の手当、本文を流布しないことを記す。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十六日付。
(寛永十四年)十二月十七日 / 冊子 713~714頁
上使衆の早打に託された先月二十三日付の御状が今月十一日夜に酒井讃岐守から兵部少へ届いたことを述べる。上使は十二日夜半に到着し、翌朝御奥で対面して雑煮の寄合と七五三の振舞を受け、黄門様の胸や手の様子を見た。北郷式部大輔と孫庵が相伴し、上使は引き留められたが十三日夜に出立した。先行して注進した者は海道で上使に追い越され、船で進んだ黒葛原周右衛門・松田七左衛門は五日前に到着したとし、一連の順調な到着を神仏の加護として祝う。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十七日付。
慶長五年、慶長七年、寛永十四年~延宝七年(後続系譜記事) / 冊子 487~489頁/原整理番号 20-1
慶長五年・七年の諏訪大明神祭会について、御頭屋・御頭人、左右の居頭、初献・二献・三献、相伴、御幣、敷皮などの勤役者を列挙した書上。高城・寺山・国分・新納・平田・加治木・本田・猿渡らの人名と、嫡子・二男・内衆などの続柄や立場を具体的に記す。後半は平田氏の後続系図で、伊東肥後守祐辰女を妻とした人物の没年・葬地に続き、内田才右衛門正重の嫡子・宗宣が宗敏の婿となって家を継いだことを記す。宗宣は寛永十四年の肥前有馬におけるキリシタン一揆で軍使を務め、翌年二月二十八日の原城攻めでは自ら枝書右衛門を召し取り、分捕りの証状を得たとし、その後の宗模・宗貞・宗明・宗喜らについて妻の出自、出生・没年、幼名・通称を延宝年間まで載せる。
寛永十四年十月廿九日 / 冊子 329頁/原整理番号 50
徳川家光の御内書。相手の長患いを気遣い、寒気の折の保養を勧める。寛永十四年十月二十九日付。
寛永十四年八月三日 / 冊子 329~330頁/原整理番号 51
土井利勝が家久に宛てた書状。相国の病状が快方に向かったことを伝え、見舞いのための参上は不要との意向を示し、詳しくは伊勢兵部少輔に伝えさせる。寛永十四年八月三日付。
寛永十四年十一月朔日 / 冊子 330頁/原整理番号 52
酒井忠勝の書状。松平大隅守への上使として新庄右近が任命され、御内書と鷹を携えて出発したことを報じ、薩摩守への伝達を頼む。寛永十四年十一月朔日付。
年月日未詳 / 冊子 359頁
島津久雄譜の記事。忠興流系図として、久雄が寛永十年三月二十一日に佐土原で生まれ、幼名・官途と母を記し、寛永十四年に将軍家光の命で父忠興の遺跡を相続したことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 630頁
寛永十四年の家久の療養経過を記す。久志本式部少輔が江戸へ帰った後、将軍家から外科の祐慶法印が遣わされ、伊東仁右衛門祐昌らが受け入れに当たり、児玉利昌や東郷重位らが昼夜近侍して治療を支えた。
年月日未詳 / 冊子 651頁
前年冬から病床にあった家久が江戸へ使者を送り、寛永十四年四月の参勤延期を願い出たこと、将軍徳川家光が病状を承知しており、無理をせずゆっくり養生するよう命じたことを記す記事。老中五名の連署奉書を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 662頁
島津忠興が寛永十四年六月十一日に江戸で没し、享年三十九、法名を青蓮院宗誉原隆居士といい、新知恩寺に葬られたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 677頁
寛永十四年七月に北郷忠直が帰国し、家久が忠直宅へ移って養生するため造営・修補が行われたことを記す。家久は見舞いを喜び、仮屋を新築して近日移る予定であり、北郷次右衛門を庄内へ遣わして普請を相談させると忠直へ伝えた。
年月日未詳 / 冊子 686頁
寛永十四年十月下旬、島原・天草で切支丹門徒らが蜂起し、松倉・寺沢両家の家老が近国へ援兵を求めた。病床の家久は国中の兵を催し、北郷久加ら諸将に領内兵を率いて国境に待機するよう命じた。翌年、上使の指揮下で残党を討ち、島原城落城後に富岡で松平信綱へ謁見して帰国したと記す。
年月日未詳 / 冊子 688頁
寛永十四年十一月下旬、島原・天草で切支丹門徒らが蜂起し、松倉・寺沢両家の家老が近国へ援兵を求めた。病床の家久も国中の兵を催し、板倉重昌・石谷十蔵、のち松平信綱・戸田氏鉄らの指揮下で薩摩勢が天草・有馬へ出兵し、翌年二月の落城まで戦死傷者を出した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 689頁
讃良善助貞資の自譜により、寛永十四年の島原一揆に際し、六十六歳の貞資が御使者竹内備前守に同行し、多数の足軽を添えて派遣されたことを記す。老練な人物として事情聴取のため遣わされたとみられる。
年月日未詳 / 冊子 703頁
寛永十四年十一月、切支丹一揆が肥前有馬城に籠り、幕府上使と近国の兵が集まったこと、薩摩から島津下野久元が先勢として出陣したことを記す。北郷久直も兵器を整えて出陣命令を待ち、十二月三日に松平定行から書状を受けた。
年月日未詳 / 冊子 247頁/原整理番号 195
長崎古川町の次兵衛が寛永十二年以来出奔していたところ、寛永十四年六月十五日、片淵助右衛門の訴えによって召し捕らえられ斬罪となった記事。次兵衛が戸町御番所西方の大岩の裂け目に金鋲を隠し、後世その場所を金鋲谷と呼んだとの伝承を記す。
年月日未詳 / 冊子 260~261頁/原整理番号 212
寛永十四年頃の西肥で天主教者が多かった背景を、大友宗麟・有馬晴信・小西行長らとの関係から説く伊地知季安の記事。島原・天草の百姓蜂起、会津宗意軒の策謀、天草四郎・田島刑部らの伝承を記す。
年月日未詳 / 冊子 261頁/原整理番号 213
『元寛日記』の記事。寛永十四年三月二十三日、鎮西肥前島原の郷民が一揆を企て騒乱となり、吉利支丹の拠点原城を松倉長門守重政が支配していたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 262頁/原整理番号 216
『天草征伐説書』の記事。寛永十四年八、九月頃から島原で吉利支丹の風説が広まり、世間が一変して多くの者が切支丹宗門となったと記す。
年月日未詳 / 冊子 272頁/原整理番号 224
『寛明日記』巻十八の記事。寛永十四年十月十九日から二十三日にかけ、肥前島原の松倉勝家領で農民が集まり宗門を唱えたとの報告、代官の偵察、城中の人数や吉利支丹宗門の動きを記す。
寛永14年10月26日 / 冊子 284~285頁/原整理番号 241の2
悪党・盗賊・不審者を五人組で相互監視し、宿貸し・商売・移動・申告を厳格にする幕府法度。悪人の召捕り、親類縁者・火事見舞の範囲、代官への届出を定める。寛永十四年十月二十六日付。
年月日未詳 / 冊子 299頁/原整理番号 261
『薩本島原軍記』。寛永十四年十月、肥後天草・肥前有馬で吉利支丹が蜂起し、二十八日に出水から急報が届いた経緯を記す。十一月三日、豊後の御目付衆へ飛札を送り、松倉領の一揆への加勢と国境警固について指示を仰いだ。
寛永14年 / 冊子 335頁/原整理番号 309
島津家久が先便への返答として、松倉方の内情や今後の処置を尋ねた仮名書状である。詳しい事情は口頭で申し含めるよう求め、寛永十四年十一月十四日己卯の日付で結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 347頁/原整理番号 315
寛永十四年十一月十四日の天草郡大嶋子村での合戦を記し、味方の敗北、三宅藤兵衛らの討死と富岡城への退却を述べる。十五・十六日は一揆勢が志岐に滞留したとし、十七日条へ続く。
年月日未詳 / 冊子 351~352頁/原整理番号 322
寛永十四年十一月十六日付『天草一乱ニ付案文留帳』と関連帳簿の外表題・目録を列記する。帳簿が平田宗直の子孫貞陣を経て御船手に伝来し、現在まで保管された経緯も記す。
寛永14年11月17日 / 冊子 356~357頁/原整理番号 330
島原の籠城状況を伝え、城から一里ほど離れた村の米蔵や周辺の軍勢動静を記した覚書である。末尾に寛永十四年十一月十七日の日付を掲げ、翌十八日付の同文書へ連続する。
寛永14年11月 / 冊子 373~376頁/原整理番号 347
寛永十四年十一月の島原派遣二番立について、各差出人ごとに主従人数、乗馬、具足、槍・弓・鉄砲などの装備を列挙した人数差出帳である。末尾に具足七領、槍二十六本、弓十一張、矢二百九十八、鉄砲四十七挺などを集計し、享保・明和・文政期の写本伝来を奥書する。
年月日未詳 / 冊子 380~383頁/原整理番号 351
天草へ出陣する薩摩方の軍衆を、鉄砲・弓・槍・談合衆などの役割別に多数列挙した交名である。清水郷士浜田早太所蔵本を正文とし、寛永十四年十一月二十一日から二十四日にかけた軍勢動員を示す。
寛永14年11月23日 / 冊子 408頁/原整理番号 372
寛永十四年十一月二十三日、阿部忠秋・松平信綱・酒井忠勝・土井利勝が薩摩中納言島津家久へ送った連署書状。松倉長門守領内の島原で百姓がきりしたんの宗門により蜂起した件について、家久からの知らせを了承し、入念な報告を上聞に達したと伝える。現地の処置については先に書状で申し入れたので、詳しくは後報すると述べる。